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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(4)

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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(4)

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)


9 金城重明の証言にみる虚偽と責任転嫁


(1) はじめに


金城重明(78才)は平成19年9月10日所在尋問で証言した。金城重明は集団自決の現場で、兄と2人で母や妹、弟を殺害した体験者とされる(甲B77)。

そして被告側の主尋問には、「米軍上陸前の手榴弾の配布は軍が自決命令を出したことになる」、さらには「村長の万歳は軍の自決命令を意味している」と答えた。西山への集合は最も危険な場所への誘導であり、集団自決を強いるためのものであるという。しかし、いずれも事実に反する。

(2) 手榴弾の交付=自決命令説について


金城重明は、「『潮』の手記で、集団自決の数日前に少年や役場の職員が手榴弾の配布を受けた事実にまったく触れていなかったし(甲B21-118頁)、『ある神話の背景』〈甲B18〉が出た際にも、その頃は情報を得ていなかった〈金城重明調書p22〉」。ところが家永訴訟の時、「はっきり聞いた」という(同調書p22)。

今回の所在尋問では、富山真順を紹介してくれたのは沖縄国際大学の安仁屋政昭教授であることを明らかにした(金城重明調書25頁)。安仁屋教授が、富山真順の情報を既に知っていて、金城重明に教えて、金城重明が富山真順に連絡したことを認めたのである(同調書p25)。

金城重明は阿波連の人は一人も富山真順の手榴弾の配布をうけておらず、呼びだされてもいないという(同調書p26,27)。当然に金城重明は阿波連の部落で自決せよという命令を聞いてもいない。しかし、軍の命令として自決のために手榴弾を配るのにある部落には配り別の部落には配らないということは、まさに不徹底であり信用性がない。

さらに、金城証人は渡嘉敷の同級生である与那嶺次郎、安里広から手榴弾の交付を受けたと話を聞いたことがない。同じく渡嘉敷の小嶺勇夫からも聞いたことがないという(同調書28頁)。だれが貰ったかも何も聞いていない。さらに金城武徳からも手榴弾を受け取ったと聞いたことがないというのである(同調書p29)。

役場に集まった少年と職員は20余人位いたというのであるから(乙12)、これらの少年のうち手榴弾をもらった人が出て来てその話をする者が一人もいないのは不可解であり、金城重明が富山真順から聞いた役場での手榴弾の配布は事実ではないことを強く推測させるのである。

原告側はこれまで、富山真順の手榴弾配布=自決命令説について資料を挙げて手榴弾の配布にふれられないこと、昭和63年2月9日に家永訴訟の尋問の前に安仁屋と富山真順の作業で手榴弾配布=自決命令説が作り上げられた可能性が強いと指摘してきたが(原告準備書面3の第2(p6~11)、以上から、赤松隊長の自決命令説の虚偽が露顕した後で、挽回のために渡嘉敷村史の戦争編の執筆担当者であった安仁屋政昭らが、手榴弾弾配布説を打ち出した疑いが濃厚である。

今回の金城重明証言で原告らの従来の指摘が正鵠を得ていたことが明らかになったというべきである。

(3) 金城重明の万歳三唱=自決命令説の奇妙さについて


金城重明は村長の「万歳三唱が自決命令である」と主張するに至った(金城重明調書p30~32)。しかし、それまでは万歳=自決命令説は全く出たことはなかった。そして尋問の前に天皇陛下万歳が自決命令であるとする珍説を明らかにしたのが平成19年6月8日付沖縄タイムス紙上であった。

そこでは、金城重明は「米軍が上陸する1週間前には、日本軍は役場の職員と青年たち十数人を呼び寄せて、手榴弾を渡していた。〈敵軍に接近したら1発は敵軍に投げ込んで、残り一発で自決しろ〉ということ。これがまず命令だ。その次の命令は3月28日。玉砕場で村長が〈天皇陛下万歳〉を唱えた。〈万歳〉は勝ち戦の時と、死を決意した時に戦場で唱えるものだ。渡嘉敷島の〈強制集団死〉は米軍上陸前の自決命令と、村長を通しての〈万歳〉命令の二段階あった」というのである(甲B78の5段目)。

万歳三唱が自決命令ならば、万歳三唱を唱えた古波藏村長が自決命令の意味を認識しているはずである。しかし、古波藏村長は万歳三唱が自決命令であると認識していた証拠はない(甲B20p22)(甲B18p117~p119)(乙9p767~p769)。また古波藏村長は赤松命令説そのものを語っていない(乙9)。

万歳を三唱する村長が万歳を自決命令との認識をもっていないのに、金城重明が万歳を自決命令と認識するのは荒唐無稽な珍説である。

最早、万歳即自決命令として赤松隊長の自決命令があったと説明することはできない。万歳命令説の破綻も自明である。

(4) 金城重明が赤松部隊で治療を受けた事実について


金城重明は、裁判所から聞かれて「川べりを赤松さんが歩いておられた、その時私は既に負傷していますから、指が全部入るほど、迫撃砲かなにかでえぐりとられていたんで、もう治療を要する、けれども軍の医療班のところに行くと絆創膏だけくっつけている。治療できないんです。薬がないから、渡嘉志久へいけば薬はあるだろうよと、そういっておられたですね。私は確認するために、ああ渡嘉志久へいけば薬はありますかと言ったら、日本刀を抜かんばかりに怒りがかれの言葉として出たことも事実です」答えた(同調書p43,44)。

金城重明は赤松部隊の医療班の赤松隊長もいるところに行き治療を受けようと何度も通った(同調書)。薬はなかったが、赤松隊長は渡嘉志久なら薬があると金城重明に教えたのである。そうであれば、金城重明は村民に無慈悲な自決命令を出した部隊長の医療班のところへ治療を受けに行ったことになる。

仮に自決命令が出たと認識していれば、自決命令を出した部隊に治療を受けに負傷者が行くはずがない。このことから金城重明みずから自決命令が出た認識を持っていなかったことが明らかになる。

赤松隊長が自決に失敗した金城重明に自決命令の完遂を図るのではなく、治療薬のあり場所を教えてくれた事実こそ、赤松隊長が自決命令を出していないことの何よりの証拠である。

(5) 金城重明の自決命令への拘りの背景


手榴弾を3月20日に貰った話を聞いたことはない。その挙げ句、金城重明が出したのが万歳=自決命令説である。なぜこれほど金城重明が軍命令を求め続けるのか。「軍命があった」と主張する人々にとっては、“切り札”的生き証人として発言している金城重明が万歳=自決命命令と強弁するのは何故か。

金城重明は兄と一緒に、母と妹、弟を「家族愛」から手に掛けたと曽野に語っている(甲B18p161末尾2行~p162の5行目迄)。

『潮』昭和46年11月号に掲載された金城重明の手記には、「他人にこんなむごいことができるはずがない」(甲B21p118下段)と他人殺しを否定し、そして愛があるから家族は徹底的にやったと主張していた。

だが、金城重明が手に掛けたのは、家族だけではなかった。渡嘉敷村史資料編にも、集団自決の場所で村人を殺害した 3人の少年の1人山城盛治のインタビューが掲載されている。

「米軍に斬(き)り込みに行く前に、〈心残りがないように〉と、ゴボウ剣〈銃に着ける剣〉で女性や子供たちを殺した」というのである。「ゴボウ剣で子供は背中から刺し殺し、子供は肉がうすいもので、向こうがわまで突きとおるのです。そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです」

「三人一組で行ったが、そのうちの一人は今、大学の先生をしています」と、語っている(甲B39p401下段)。

ここで記載された、3人のうちの1人で今大学の先生をしているのは沖縄キリスト教短期大学教授の自分であると、金城重明は法廷で認めた。さらにもう一人の区長が金城重明の兄である金城重英氏であることも認めた(金城重明調書p36,37,38) 。

金城重明にとっては苦痛な体験であろうが、金城重明が軍命令を殊更に強調する動機と、彼が自決現場でどう行動し、いかなる心理状態にあったかは、その後、今日までの同人の行動に深いかかわりがあると考えて原告代理人は尋問した。

家族を手に掛けたことは、他の村人も同様で、「家族愛」という言葉で説明できる。しかし、金城重明は、さらに他の多くの村人も手に掛けた。当時16才だった金城重明は大人になっても、行動を共にした他の山城盛治のように、開けっぴろげに事実を語れなかった。

やがてクリスチャンとなり、牧師となり、信仰が心の支えにはなったであろうが、心に抱く罪悪感の圧力を払拭することは出来なかったのであろう。その証拠に金城重明は、「一生を神様の前に悔い改めてもやはり重荷として負い続けて生きたいと。」語っている(乙11p311・質問118に対する回答)。そして「軍命令」こそ、その罪の世界から自分自身を救い出す“クモの糸”だったと思われる。ここに金城重明の人知れぬ苦悩を垣間見ることが出来る。ここから万歳三唱が軍の自決命令としてでも軍命があったと結び付ける着想が出て来たと推測できる。

しかし、万歳は所詮万歳であり、万歳を自決命令と呼ぶことは出来ない。

集団自決の現場で、「死ぬのがイヤだ!」と逃げ出した大人も子供もいた。その一方で、家族や村人を手に掛けた人がいた。生き残った各自は戦後、自らの行為を重荷として背負ってきた。しかし、いかに、その荷が重かろうと、金城重明はありもしない「軍命」に責任を転嫁してはならない。

天皇陛下万歳は自決命令でもなんでもない。金城重明が軍の自決命令にこじつけるための後知恵に過ぎない。



10 知念証言について


(1) 《赤松命令説》の虚構性について


知念朝睦は、赤松隊長の側近として常に赤松隊長の側にいた者で(『陳述書』〈甲B67p1〉)、《赤松命令説》の虚構性について、最も証人適格がある人物である。知念は、《赤松命令説》による「自決命令」を、反対尋問も踏まえて完全に否定した(知念調書p2,5)。

(2) 『鉄の暴風』(乙2)の虚構性について


知念は、乙2の《赤松命令説》に係る記載(p33後ろから6行、p34・3段落目)を、一文一文、否定した。「地下壕」はなく(知念調書p6)、「将校会議」はなく(同p)、乙9に記載された赤松隊長の具体的な言葉はなく(同p)、知念の心の中についての描写も事実ではなく(同p7)、具体的なインタビューもなかった(同p)と証言している。知念は『鉄の暴風』(乙9)は、「正しくない」と明確に述べる(同p)。

(3) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月31日原本発行】(乙9)の真実性


知念は、乙9は、インタビューを受けて記載されたもので、その内容は、正しいと明確に証言する(知念調書p1,5)。乙9でも、知念は、《赤松命令説》の虚構性を述べているが、特に、乙9p772・2行~のエピソードを更に具体的に証言し、乙9は極めて信用できるものとなっている。

知念は、「きょうだい」に、「とにかく絶対に死ぬなと、捕虜になってもいいから生きなさいと、死ぬのは兵隊さんだけだ」(知念調書p2)と言い、赤松隊長に報告をしたところ、赤松隊長から「きょうだい」に渡すようにということで「乾麺麭」を貰い、それを渡し(同p2,3)、自らも「おまえら絶対生きなさいよと、生きたらこの金は使えるはずだから、必ずそれを持っていきなさい」と自分の「財布」を渡した(同p3)。

知念は、「兵隊でございますし、死んだらその財布は何も必要なくなる」と思い、かなり大金が入ったままの財布を渡したのである(同p)。

このエピソードは、住民が自決した直後の話である。赤松隊長から「自決命令」が出されているはずならば到底考えられない、「自決命令」とは相反する行動を、赤松隊長、知念はしているのであり、ここからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

(4) 住民の集合「命令」について


知念は、住民の移動については、知らない(知念調書p12)、「(住民の移動に関しての命令は御存じない)はい」(同p)と述べる。

しかし、誤導的な質問でもあり、安里巡査と赤松大尉との住民の移動に関するやり取りは、《赤松命令説》とはそもそも異なるし、赤松を非難対象とするのも誤りである。やり取りは、安里の『沖縄県警察史第二巻(昭和前編)』(甲B16)に、次のように、まとめられている。

「安里巡査は、住民の避難誘導について相談する為に赤松隊長に会い『これから戦争が始まるが、私たちにとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか』と相談した。すると赤松隊長は、『私たちもいまから陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか静かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか』と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、『なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう』と言った。・・・全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。」(p773~774) 「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。」

この具体的なやり取りは、被告代理人が質問で述べた赤松隊長の「命令」とは異なる。赤松隊長としても、知念としても、最も頭にあるのは、今目の前にある敵米軍とその為の陣地構築であることには間違いがない。赤松は、『ある神話の背景』(甲B18)で、次のとおり、述べている(甲B18p103)。

「もっともな質問です。しかし、私も正確には答えられない。」

「住民は-私は前にも申し上げたように、自分自身は今頃は出撃して死んでいる筈だったから、住民対策は誰かがやってくれると思って、実は殆ど考えたことがなかった。弱りました。

  しかし、部隊が西山へ行くんだから、そちらも、近くの谷へ移ったらどうですか、と安里さんに言った。深い意味があった訳じゃありませんが、それが自然のなり行きだったような気がするんです。」

軍人である知念が、このやり取りに記憶がないというのも無理はないのである。

(5) 赤松隊長の人柄について


知念は、赤松の人柄について、「実に慈悲のある隊長だと私は尊敬しております」と証言する(知念調書p8)。『沖縄県史第10巻』(乙9)の上記エピソードでも、赤松の「慈悲」は具体的に現れている。素直な気持が、知念の証言に現れているのである。

(6) 総括


知念証言は、記憶も確かで、《赤松命令説》の虚構性について、『鉄の暴風』(乙2)、『沖縄県史第10巻』(乙9)を踏まえて、具体的に述べており、極めて 信用できる証言である。

知念証言により、《赤松命令説》の虚構性は、より明らかとなったのである。



11 皆本証言について


証人皆本義博の証言によれば、《赤松命令説》が虚偽であることは明らかである。

(1) 皆本の経歴・地位


皆本は赤松大尉とは海上挺進戦隊第三戦隊に着任する以前からの知己で、互いに「赤松さん」「皆本君」と呼び合う懇意な仲であり、赤松大尉の人柄を良く知る人物である(甲B66p3「(3)」)。

また、そのような仲であったことから、皆本は海上挺進戦隊第三戦隊に着任してからも赤松大尉に何かと進言する立場にあった(甲B66p17・7行目)。

かように皆本は赤松大尉の身近に居て同人の性格や行動を良く知る人物であるから、その証言の信用性は極めて高いものである。

(2)皆本証言の内容


皆本は、赤松部隊は昭和20年3月23日の空襲と艦砲射撃が始まるまで、陸上戦を予想していなかったと証言している(皆本調書p2、p15)。

陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を交付することなどあり得ないから、「3月20日に役場の職員から手榴弾の交付を受けた」とする金城重明の証言は虚偽である。

また、皆本は、①集団自決の起こった3月28日は午前1時頃に主力部隊と合流したこと(皆本調書p10)、②同日午前3時頃赤松大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なかったこと(p10)、③翌3月29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けたこと(p12)、④赤松大尉とは親密に連絡を取っていたが、8月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも、赤松大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないこと(p12)、を証言している。

皆本は、「戦隊長はワンマンな隊長ではなく、大事なことは、私たち中隊長らにも相談をするのが常でした。特に私は、赤松戦隊長とは、宇品での18名の研究員の時代から一緒に研究した仲間であり、何かと私が戦隊長に進言する立場でもありました。従って、私に何の相談もなく。住民への自決命令を下す筈がありません。」とも述べる(甲B66p17・5行目~)。

《赤松命令説》が虚偽であることの端的な証左である。

更に、皆本は、赤松大尉の性格・人柄につき、「大変慈悲深い、思いやりのある方でありまして、私は士官学校出身者にこんなに穏やかな紳士がおられるかということをしみじみと感じました」と証言している(皆本調書p3)。

赤松大尉は、被告大江が『沖縄ノート』に書いているような極悪人とは程遠い人格であり、『沖縄ノート』が如何に被告大江の歪んだ空想に基づいて書かれたに過ぎないかを物語る。そして《赤松命令説》が虚偽であることも、赤松大尉の性格・人格に照らして明らかである。

皆本は、戦後も島民と年賀状のやり取りや慰霊祭への参加を通して交流が続いていることを述べている(甲B66p20「5」、皆本調書p14)。仮に赤松大尉が極悪非道な人物であったならば、島民がこのような交流を図ろう筈がない。

12 総括


結局、これらの諸事実からして赤松隊長による自決命令がなかったことは明らかである。沖縄の言論が軍の命令による集団自決があったと主張しても、それは事実に基づくものではない。問題は事実として赤松隊長の自決命令があったか否かであり、自決命令がないにも拘わらず、軍の命令が認められることがあってはならない。

『ある神話の背景』によって破綻した《赤松命令説》を復活させるべく登場した手榴弾交付=命令説、万歳三唱=命令説やこれを支持する新証言の類は、いずれも論評をもって事実とすり替えたり、主観的な想像をもって証明とする詭弁の技であり、無理矢理にでも、軍命によって住民が自決したとの図式を護持するための捏造であって、事実としては全く無意味か信用の置けないものばかりであった。


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