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第3 座間味島における隊長命令の不在(5)

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第3 座間味島における隊長命令の不在(5)

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)


6 座間味島住民の証言について


(1)はじめに

 新証拠として被告から提出された住民の証言に比して、これまで『沖縄県史第10巻』(乙9)、『座間味村史』下巻(乙10)、「潮」の『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)、『潮だまりの魚たち』(甲B59)等で取り上げられてきた住民の証言の内容
は、まずなによりも中立的であるし、その内容も圧倒的なものがある。通読すれば、座間味島の集団自決が、《梅澤命令説》が虚構であることは一目瞭然であり、それが広義の軍命令によるものだとする主張も事実に即したものではないことが分かる。いうまでもないが、新証拠なるものの証拠としての価値は、原告らが各証拠毎に指摘した前記諸点に加え、そうした圧倒的な証言群との対比において吟味されなければならないものであることを指摘しておきたい。

(2)『沖縄県史第10巻』(乙9)

宮里トメら9名の座間味島住民の詳細な手記が掲載されているが(p732~762)、集団自決についての軍命令、隊長命令を証言する内容のものは全くない。

 個々の証言内容については、原告最終準備書面(その2)-住民証言篇-の第2に譲る。

(3)『沖縄県史第10巻』(乙9)

26名の座間味村住民の詳細な戦争体験記が掲載されており、その大半が座間味島の住民の体験記であるが、集団自決についての軍命令、隊長命令を証言する内容のものはやはり全くない。

 個々の証言内容については、最終準備書面その2-住民証言篇-の第2に譲る。

(4)『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)

座間味島関係者としては、田中登(p121)、松本光子(p123)、宮城初枝(p123)、宮里正太郎(p125)の証言が紹介されている。また「猫いらず」で家族全員を死なせ、自分だけが生き残ってしまったという当間正夫の証言(p124)内容は、『母の遺したもの』の「A家の隆三」のエピソード(甲B5 p109~)と同一なので、当間も座間味島の住民であると思われる(なお、『母の遺したもの』は住民の氏名の一部を仮名にしている。甲B5 p10)。

 「沖縄は日本兵に何をされたか」というタイトルの特別企画であるにもかかわらず、この5名の証言にも、集団自決についての軍命令、隊長命令は出てこない。

 個々の証言内容については、最終準備書面その2-住民証言篇-の第2に譲る。

(5)『潮だまりの魚たち』(甲B59)

 著者宮城恒彦が自身含め10名ほどの座間味島の若者たちの戦争体験を非常に丁寧にまとめているが、集団自決についての軍命令、隊長命令は一切記されていない。

 個々の証言内容については、最終準備書面その2-住民証言篇-の第2に譲る。

(6)まとめ

 以上のとおり、多くの文献に多数の座間味島住民の証言が記されているが、《梅澤命令説》を証言するものは一つとしてないのである(宮城晴美も証言でそれを認めている。宮城調書p51)。

 上記の文献に加え、『母の遺したもの』(甲B5)にも多数の住民が証言者として登場し、その多くについて宮城晴美は直接取材を行ったものと思われるが、それらを含めると、少なくとも数十人単位の集団自決事件の体験者が直接間接に事件を証言しているにもかかわらず、軍命令あるいは隊長命令は報告されないのである。

 《梅澤命令説》が真実ではなかったことの何よりのあらわれではなかろうか。

7 梅澤部隊の行為の総体


(1)住民証言にみる梅澤部隊の行為

 宮城初枝は、神戸新聞の取材に対し、「梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」とコメントしており(甲B9)、原告梅澤が盛秀ら村幹部に、自決せずに生きよとの旨伝えていたことは明らかである(梅澤調書p5も同旨)。

 それだけではなく、梅澤部隊の兵士が集団自決の起こった前後、すなわち米軍上陸という危機的な段階に至っても、住民に「できる限り生きよ」との趣旨の指示をしたという証言も少なくない。

 例えば、『潮だまりの魚たち』(甲B59)には、米軍上陸後のこととして、宮里育江が、死期をさとった日本兵(少尉)にも遭遇した際の場面について以下のように証言している。「しばらくして、死の近いことを悟ったのか、傍にいた藤田上等兵と山下伍長に手元の刀を手渡し『自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい。』」(p167)。軍が自決命令を出していたとすれば、少尉が部下に対し、一緒にいた住民の安全を気遣って「親元へ届けてやってほしい」と命令することはありえない。

また、古田春子の手記には、水谷少尉から「玉砕しよう」と言われたと記載があるが(乙9p758)、壕の中に兵や住民が避難していたところに米兵がやってきたという進退窮まった緊急場面でのことであり、水谷少尉も当然一緒に死ぬことが想定されているし、水谷少尉はすぐに「自分が命令をくだすまでは絶対に自決をしてはいけない」と言を改めている。そして、その後古田春子は現実に生き残ることができたのである。

 宮里トメの手記にも、米軍から逃げるため阿佐部落に向かう途中に会った兵隊に「そこは米兵がたくさん上陸しているので下の方に逃げなさい」と言われた(乙9p735)との記載がある。

 さらに、小説新潮1988年1月号『第一戦隊長の証言』(甲B26)においては、筆者の本田靖春は、次のような宮城初枝の証言を紹介する。

「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、家が下谷さんたちをお世話していた関係から、気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だから-と励まされました」(p305)

そして本田は、次のようにいうのである。

「この初枝さんの証言から、住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず、死ぬ覚悟でいたことが明らかである。そして梅沢少佐以下の軍関係者が、住民たちに自決を思いとどまらせようとしていたことも認めてよいであろう。」(p305)

(2)住民に手榴弾を渡したり万一の場面の自決を示唆したりした兵士の言動


 被告らは、梅澤部隊の兵士が住民に手榴弾を渡したり、万一の場面での自決を示唆したりしたことが、《梅澤命令説》を裏づけるものであるとする。

 確かに、「万一のときには自決を」などと兵士が住民に対して述べたとの証言は、前記のとおり複数あり(宮平春子コメント〈乙53〉、上洲幸子陳述書〈乙52〉、宮里育江陳述書〈乙62〉)、宮城初枝も、昭和20年3月26日夜に弾薬箱を運ぶよう内藤中尉に指示された際、木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と言われて手榴弾1個を渡されている(乙50p17等)。

 前記のとおり、梅澤部隊は住民に対し「できる限り生きよ」と指示したのであるが、自決を示唆したり手榴弾を渡したりする行為は、一見、それと相反するように見える。

 しかし、そうではない。「いざとなったら自決できる手榴弾があるから、あるいは自決という方法で自分の尊厳や貞操を守ることができるから、安心して最後まで生き延びる努力を続けられるということ」なのではないか。

 その意味で、「最後まで生き延びろ」ということと、「いざとなったら手榴弾で自決せよ」ということは全く矛盾しない。そして、かかるメッセージは、逆に「自決命令」とは全く両立しないのである。

この点、曽野は、沖縄本島のエピソードを引き、下記のように述べるが、近い趣旨の理解であろう。

「これによると、もはやあちこちで銃や手榴弾での自決の音が花火のように鳴り響いていた中で、兵隊は、女学生に逃げろといいながら自決用の銃を手渡しています。」

「兵隊は、非戦闘員の娘には『逃げろ』と言ったのです。それが極く普通の反応だったのでしょう。しかし、そう言いながらも、それも不可能な状況の中では、娘たちが敵の手にかかって拷問に遭ったり凌辱されたするよりは、自決させた方がいいのだ、という疲れ切った温情もあったのでしょう。」(甲B94p68)

 また、慶良間列島で兵士が手榴弾を住民に渡したとされる行為に関し、小林よしのりは下記のように述べる(甲B87p71)。想定している場面やニュアンスは多少違えど、「住民を思えばこその手榴弾交付」という点は同じである。

「ひょっとして沖縄出身の兵隊が『敵に惨殺されるよりはいっそこれで』と、手榴弾を渡したかもしれない。だがこれは、あくまでも『善意から出た関与』である。」

(3)小括


座間味島での出来事に関する証拠をトータルに検討し、上記(1)及び(2)のような検討をしたときに浮かび上がってくる「梅澤部隊の行為の総体」は、自身らは命を捨てる覚悟で米軍と戦いつつ、民間人であり世話にもなってきた住民たちについては、守ってやる戦力も戦術もないものの、「何とかできる限り生き延びてもらいたい」と考え、場面により、隊員らがそれぞれそのために住民に働きかけたという姿ではないだろうか。

8 まとめ


以上、これまでの原告及び被告から出された各資料、本人尋問や証人尋問の結果を子細に検討したとき、座間味島における隊長命令の不在は、完全に明らかになっているのである。

 これだけの根拠が積み上げられているにもかかわらず、社会や報道場面においては、「軍命令の存否についてはいまださまざまな議論がある」などと語られることも多い。強い政治的色合いを帯びた問題ゆえに、真実がストレートに認められない、語られないということなのであろうが、デマの流布や誤報の被害を受けてきた原告梅澤にとっては、永年の汚名を晴らしたいという切実さは、このテーマの政治問題化とは全く無関係の、人生の悲願である。

 政治や社会的圧力を完全に排して、多くの証拠の緻密な評価検討と当然の経験則にのみ基づき、公正に事実を認定するのは、司法の役割であり、使命である。座間味島における隊長命令の不在が公的に認定され、原告梅澤の毀損されてきた名誉が回復されることを、改めて強く求めたい。


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