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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(3)

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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(3)

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)


8 隊長命令不在説の定着

隊長命令不在説は以下のとおり定着した。

(1) 大江志乃夫著『花綵の海辺から』(1990年)(平成2年)

大江志乃夫は「赤松隊長が〈自決命令〉を出さなかったというのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を配ったのは、米軍の上陸前である。艇進隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長が配ることを命じたかどうか、疑問が残る。防衛隊員のリョーヘイさんの語るところでは赤松隊長は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていた」のであり、自決命令を出せるはずがないとする(甲B36p27)。

これは、沖縄の歴史家も赤松隊長の自決命令、手榴弾配布ともに考えにくいことを明確に認めたものである。

(2) 『沖縄県警察史』の安里証言(1993年)(平成5年)

赤松隊長が西山に移動せよという命令を出したと主張し、これを自決のための命令と主張する説がある。

しかし、これは村の駐在巡査安里喜順が「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。―中略― 村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。」と状況を述べていることから、事実ではない(甲B16p774)。

安里喜順は「米軍が上陸したら自分一人で村民をどのようにして何処に避難誘導しようかと考えたが、一人ではどうすることも出来ないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。赤松隊長は〈住民はなるべく部隊の邪魔にならないようにどこか静かで安全な場所に避難し、暫く様子を見ていたらどうか〉と助言してくれた。私は村長ら村の主だった人を集めて相談し〈なるべく今夜中に安全な場所を探してそこに避難しよう〉と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。
― 中略―
私は、住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので部落を出発する時からもう平常心ではない。集まった防衛隊員たちが〈このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだほうがよい〉と言いだして村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようということになった。私は玉砕させるために連れてきたのではない、戦争は今始まったばかりだから、玉砕することを当局として認めるわけにはいかないといった。しかし、言っても聞かなかった。そこで、〈決行するのはまだ早いから、一応部隊の所に連絡をとってその返事を待って、それからでも遅くないのではないか〉といって部隊長のところへ伝令を出した。その伝令がかえって来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて急に撃ち合いが激しくなった。そしたら住民は友軍の総攻撃がはじまったと勘違いして、方々で〈天皇陛下万歳、天皇陛下万歳〉と始まった。防衛隊員のもっている手榴弾を使って玉砕した。手榴弾が不発が多くて玉砕出来ない人たちがいて。友軍の機関銃を借りて自決使用としたが友軍は貸してくれない。友軍から〈危険だから向こうに行け〉と言われて元の場所に帰ってきた。」というものである(甲B16p773~p775)。

自決の報告をきいた赤松大尉は〈早まったことをしてくれた〉と言われた(甲B43p46下段) 。

   村の駐在という立場で公正、客観的に事実が述べられており、安里巡査の証言からは赤松隊長が自決命令を出した事実は全く窺えない、また赤松隊長が自決のために手榴弾を住民に配った事実もないことは明確である。

    『光の泉』で1996年(平成8年)にも同旨を再言している(甲B43)。

(3) 金城重明著『沖縄戦を心に刻んで』(1995)(平成7 年)


     金城重明は『沖縄戦を心に刻んで』で「私どもは、刻々と迫りくる命令を待ちました。軍から命令が出たらしいとの情報が 伝えられました(この事実関係については議論がある) 。また既に米軍は300M近くまで迫っているとの知らせもあったようです。張り詰めた緊張感が破裂しました。村長のもと『天皇陛下バンザイ』が三唱され、いよいよ第一の集団自決が起こったのです)(甲B42p52)。

ここでは、「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました〈この事実関係については議論がある- ママ〉」と甚だ曖昧に表現されており、命令が出たことすら議論があることを金城重明は認めている。

自決の現認を自認したという者が、自決命令を確認出来ないのか不可解という他はない。結局、金城重明は自著『沖縄戦を心に刻んで』において自決命令がないことを認めているのである。

(4) 『沖縄戦ショーダウン』(1995年)(平成7年)


沖縄出身の作家上原正稔は沖縄の新聞琉球新報紙上で連載記事を掲載した。

表題『沖縄ショーダウン』では上原は金城武徳や大城良平を皮切りに安里喜順、知念朝睦を取材した結果、「赤松隊長は命令をだしていないこと」、3月28日ウアーラヌフルーモを埋め尽くした住民と防衛隊は防衛隊から手渡された手榴弾で、天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬとだれも疑問を持たなかった。夕刻、古波藏村長が立ち上がり、〈天皇陛下万歳〉を唱え、皆、両手を上げて斉唱したことを突き止める。さらに安里喜順の「赤松さんは人間の鑑〈かがみ〉です。渡嘉敷の住民のために一人で泥をかぶり一切、弁明することなくこの世を去った。私は本当に気の毒だと思います。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」と要請されたことを明らかにする。

そして上原は、取材の結果、「国の援護法が〈住民の自決者〉に適用されるためには〈軍の自決命令〉が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だから一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認する。上原は、「一人の人間をスケープゴート〈いけにえ〉にして〈集団自決〉の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い。」と自決命令説の核心をついた批判を展開する(甲B44p3,4,5,6)。

(5) 林博史著『沖縄戦と民衆』(2001年)(平成13年)

沖縄戦の研究家林博史は自著『沖縄戦と民衆』で大江志乃夫氏の『花綵の海辺から』の「赤松嘉次隊長が〈自決命令〉をださなかったのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民に配ったのは米軍の上陸前である。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたかどうか、疑問がのこる。―防衛隊員リョーヘイさんは〈赤松隊長は自分の部下さえ指揮できない状態にきてたのです〉と証言している」との部分を引用して(甲B36p27p)「なお、赤松隊長から自決せよという形の命令は出ていないと考えられる」と記載する(甲B37p 161)。

林はこれに対し「これが一体どこからでてきたのかわからないが、自決せよという〈命令〉が語られ、それを受け入れるような精神状態がつくり出されたことが重要であろう」と疑問を提起するが、どこから出たかわからない自決命令はあり得ない。軍命令説が自決を主導した者の精神的負担軽減と、援護給付金の必要から公言されるようになった背景から目をそらしてはならない。

林は座間味島について「軍からの明示の自決命令はなかったが、―中略―〈自決〉を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。村の中の有力者であり、軍に協力して軍と一体化していた層である。」とも主張し、自決命令がないことを認めている(甲B37p162)。

また林は慶留間島の集団自決について、「野田隊長から玉砕の訓示を受けた住民は、いざとなったら〈玉砕〉せよという意味だと受けとめた」(甲B37p165)というが、事実はむしろ反対であることが明らかである。

たとえば、慶良間島に上陸した米兵が、保護した住民になぜ〈自決〉したかと聞いたところ、15才の少年は〈日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ〉と答えた。さらに別の住民も〈かれらは脅えていた〉と答えたという。」のである(甲B37p166)。そうであれば、村民は軍の命令ではなくて、恐怖で自決をはかったことが明らかである。

林は反軍主義者の立場で米軍資料を初めとする資料を駆使して集団自決に軍の責任があると主張し、唯一「told」を命令と訳したものも、意図的な誤訳であることが原告準備書面7 の第1 の4 で既に明らかにされた。

さらに、以下のとおりあまりに恣意的な米軍資料の引用からも命令の存在は怪しいのである。

例えば、ある時は①「自決せよと命じた」とし、ある時は②「自決するように指導されていた」とし、さらには③「米軍が上陸してきたときには、家族を殺せと諭されていた」とし、また④「宣伝に従って自殺を試みた」とし、⑤「民間人たちは捕らわれないために自決するように勧告されていた」と種々の翻訳が見られる(甲B76の4)。

沖縄戦の有力な研究家である林氏をしても隊長命令を否定せざるを得ない事実は重大であり、軍の強制による自決と結び付けようとするあらゆる試みは失敗している。

(6) 曽野綾子の正論の記事(甲B4)

曽野は『ある神話の背景』(昭和48年)から30年経過した平成15年『正論9月号』で「私ができる限りの当事者に当たっても、赤松隊長が自決命令を出したという証拠は何処からも上がってこなかった」。「3百人を越す死体が集まっていたのを見た人はいなかった。しかし、それを敢えて言わなかったのは、玉砕ということで遺族が年金をもらえれば、それでいいのではないかと思ったという。」「赤松隊長を糾弾しようとする多くのマスコミや作家たちは、私が私費で出来た基本的調査さえせずに、事件の日にちさえも取り違えた記録を一つの日本史あるいは日本人の精神史として定着させようとした。その怠慢か欺瞞かが、やっとはっきりしたのである。」

「調査が終わった後、私は生涯沖縄に行くのをやめようと思っていた。この問題に関して、沖縄で発行されている二つの新聞が徹底して私を叩き続けたことを私は忘れたかったのである。沖縄の人たちは、この二つの新聞だけが地域を独占している限り、自由で公正な思想とニュースをうけることはないだろうと感じた」と語っている(甲B4)。

曽野は出版から30年経過した後でも隊長命令をだした証拠がないこと、関係者は遺族が年金をもらえれば、敢えて自決の有無を騒ぎ立てる必要はないと思っていた実情を明らかにすると同時に、現地調査もしない怠慢により虚偽の事実が捏造された経緯を明らかにしてマスコミや作家の姿勢を公正でないと批判する。

(7) 山川泰邦著『秘録 沖縄戦史の改定』(甲B53)(乙7)

沖縄県警出身の山川泰邦は、昭和33年と昭和44年に『秘録沖縄戦記』(各乙4,乙79)を出版していた。それらには具体的に原告梅澤及び赤松大尉による自決命令が記されていた(乙7p156~、p147~)(この乙7を『秘録沖縄戦記』の「元版」という)。

この『秘録 沖縄戦記』は長く絶版になっていたが、平成18年10月に、著者山川泰邦の長男であり那覇市役所助役職にあった山川一郎が発行者となり、復刻された(甲53)。

注目すべきなのは、この復刻版においては、元版に記載されていた原告梅澤及び赤松大尉による自決命令の記述が、完全に削除された(甲B53p187~189)(甲B53p179)。

この重大な改訂の説明として、復刻版(甲B53p172)は「集団自決」の章の冒頭に、「本復刻版では『沖縄県史第10巻』(1974年)並びに『沖縄史料編集所紀要』(1986年)を参考に、慶良間列島における集団自決等に関して、本書元版の記述を一部削除した。なお集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい。」(同p172)と断り書がある。

参考にした『沖縄県史第10巻』(1974年)は、渡嘉敷島において「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」とする『沖縄県史第8巻』(1971年)(乙8p410)を訂正し、「どうして自決するような破目になったか、知る者はいないが、だれも命を惜しいと思ってはいなかった」と述べている(乙9p690)。『秘録 沖縄戦記』の復刻改訂にあたり、これを参考にしたのである。

なお、この『秘録沖縄戦記』復刻版の発行は山川一郎によってなされているが、上記のような重大な内容の改訂については、著者山川泰邦が、その生前から意図していたものと解される。まず、復刻版の著者が依然山川泰邦のみとされていることからもそれは看取することが出来る。

また、山川泰邦の死去は1991(平成3)年であるが、改訂の根拠となった上記の『沖縄県史第10巻』(1974年)及び『沖縄史料編集所紀要』(1986年)の発行は、山川泰邦の生前になされており、山川泰邦が生前にそれらの新資料を入手検討したこと、その内容を受けて山川一郎にも意見(『秘録沖縄戦記』の記述を改める必要があること)を伝えていたことは確実と思われる。

この改訂が示すことは、《梅澤命令説》《赤松命令説》が史実の検証に耐えられず、むしろ、真実でないことが今や完全に明らかになっているということである。

このように、近年著される書籍においては、緻密な調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、隊長命令あるいは軍命令によるものとはされない(あるいは根拠の不確かなものとして記述されない)のが一般なのである。赤松隊長が命令を出したとする隊長命令説、手榴弾交付説いずれも無理があり、執拗に試みる『赤松隊長命令説』は、いずれも失敗に終わっている。

    詳細については原告第8 準備書面第1 の1 ~5 を参照

(8) 産経新聞の照屋証言


赤松隊長の自決命令がなかったことは今や一般に知られることとなった。さらに何故、虚偽の自決命令説が流布したのか、琉球政府社会局援護課元職員照屋昇雄の決定的な証言もあった。

戦後琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄(82才・那覇市)の「遺族たちに戦傷病者遺族等援護法(以下援護法という)を適用するために渡嘉敷島の集団自決を、軍の命令によるとして自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」という記事が平成18年8月27日付産経新聞に掲載された(甲B35)。『正論』にも同旨の記事がある(甲B38)。

照屋は、琉球政府社会局援護課で渡嘉敷島で聴き取りを実施した。玉井村長が赤松隊長が住民に自決を命じたとする書類を作成して、日本政府の厚生省に提出し、集団自決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったというのである(甲B35)。照屋の調査、報告は集団自決に援護法を適用する際に資料として活用された。

詳細は原告準備書面(4)第7参照(p14以下)

被告は、照屋証言が信用できないと被告準備書面(11)で弾劾した。
その根拠として照屋の社会局の援護局在籍期間を上げる。しかしこれは、全く根拠にならない。原告の提出した辞令によれば(甲B63,64,65)、照屋が援護事務業務を遂行していたことが、明らかである。

被告は甲B63~65が提出されても、何らの反応も示さない。
被告は主張にあう人事記録のみを抽出して提出していた疑いが強い。

(9) 吉川勇助の新たな伝令による自決命令説と手榴弾配布説

吉川は「軍の陣地の中から、一人の防衛隊員が村長のところへ来ました。その防衛隊員は、大声で伝令と叫びながら、古波藏村長のとなりまでくると、古波藏村長の耳元で、何事かを伝えていました。伝令の話を聞いた古波藏村長は何度もうなずいていました。伝令の話しを聞き終えた古波藏村長は奥さんの兄であった郵便局長と話しをしていたようでした。伝令が来てからしばらくたったとき古波藏村長は住民に万歳三唱するように呼びかけました。いよいよ自決するのだと思い、古波藏村長のそばを離れて家族のもとに行きました」という(乙67p3の4)。
(ア)
しかし、伝令があったという根拠はどこにもない。そもそも、徳平郵便局長が「統率力を失っていた」(乙9p767下段)と呼ぶ赤松隊長が、住民の自決を命じる余裕があったか否か疑問である。また「かりに、あの時、自決命令を、出したとしても、とても伝令が、あの場所まで辿りつけなかったんじゃないかな。」という戦闘状況からして(甲B18p129)、防衛隊が軍の陣地から伝令で走って古波藏村長のところまでたどり着けたとは考えられない。
(イ)
伝令が来ていることに安里喜順も金城武徳も誰も気付いた形跡がないし、古波藏村長が伝令が自決命令をもって来た事実を全く述べていない(乙9p767~)。

また仮に防衛隊が伝令としてたどり着いたとしても、弾や爆弾の音が激しくて聞き取れなかった伝令の話から、自決命令があったと決めつけるのは吉川の勝手な空想に過ぎない。
(ウ)
吉川が「古波藏村長は奥さんの兄であった郵便局長と伝令が来た後で、話していた」というのであるが(乙67p3の4)、その徳平局長の語る経過は、「どうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名かそれに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで戦おうと主張した人もいました。特に防衛隊は、戦うために妻子を片づけようではないかといっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決と決まると女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、身体を洗っている者もいました。そういう状態でしたので、私には誰かがどこかで操作して、村民をそのような心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」(乙9p765上段・『沖縄県史10巻各論9』)というものであり、自然発生的に自決へ向かったことが強く窺われるのであり、伝令から伝えられた自決命令で自決したという吉川の証言と明らかに矛盾する。

さらに吉川は1個は3月23日の空襲の後に自決用としてもらったもの、もう1個は伝令が軍の陣地から古波藏村長のところへ来た後に古波藏村長からもらったという(乙67p4) 。

吉川は、昭和20年3月20日の手榴弾の配布の事実に全くふれていない。

そうすると役場の職員であり、当時17才未満でもあった吉川が手榴弾の配布を昭和20年3月20日に受けていないということになる。これは富山真順の3月20日の手榴弾配布説が根拠のないことを物語っている。

吉川は新聞では米軍が上陸した(3月27日)直前、役場を通して17才未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を2発ずつ配った。1発は自決用、1発は攻撃用という(乙70の1)。
※これは、記者の「地」の文である。

しかし、これは3月23日の空襲の後に1発、自決の日である3月28日に1発と語っている陳述書とも異なっている(乙67p4)。

米軍が上陸した直前に手榴弾を配ったとしながら、従来議論された富山真順の3月20日を敢えて外した記載であり、新聞が富山真順の3月20日の手榴弾交付説を意識して、それに似せた記載にせんと腐心したものの、遂に吉川に3月20日の手榴弾配布を認めさせる事が出来なかったことを示している。

しかも、新聞で、米軍上陸前に2発ずつ配ったが、使途を言われたのは米軍上陸後というのも(乙70の1)、富山真順が米軍上陸前の3月20日に手榴弾は1発は自決用、1発は攻撃用として配られたというのと異なっており、新聞記事の杜撰さは明らかである。

いずれにしても、吉川のいう手榴弾の交付は富山真順が語った手榴弾の交付とは別のものである。役場の職員であった吉川が昭和20年3月20日の手榴弾の配布を認めていないことは、むしろ富山真順の主張する事実が無かったことを示す有力な証言といえる。

また、富山真順は役場職員の最後の一人の生き残りであるといっていたが、虚偽であり、富山真順の後の生き残りに吉川がいたことになる(乙12) 。


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