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第3 座間味島における隊長命令の不在(3)

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第3 座間味島における隊長命令の不在(3)



4 宮城晴美証言について

(1)証言の概要

 宮城晴美は、法廷で座間味島での集団自決は「軍命令」によるものだと明確に証言した(宮城調書 p52)。

 しかし、その「軍命令」とは、「梅澤隊長の直接的な自決命令」(隊長命令)とは区別されたものであり(宮城調書 p42、51、52、54等)、「軍官民共生共死の一体化」の方針、皇民化教育や皇祭によりすり込まれた「皇国」への忠誠心、米軍への恐怖の喧伝、軍の隊長の訓示や兵士による手榴弾の交付、投降を指示しなかった不作為、そして軍の存在自体といった、いわば住民を導いた《軍の行為の総体》をいうものであり(宮城調書 p25、56、57)、「隊長命令」については、「あったかなかったかわからない」旨述べ、証言を避けた(宮城調書 p30、34、35、37、58等)。

 しかも、宮城晴美により「あったかなかったわからない」と証言された隊長命令については、これまで宮城晴美は『母の遺言』(甲B92)や『母の遺したもの』(甲B5)の中で完全に否定してきたものであるが、その考えが変わった理由について、宮城晴美は、平成19年7月27日の証言のわずか1か月前の同年6月24月に宮平春子の新証言に接したことを挙げた(宮城調書 p13、43)。

 また、『母の遺したもの』でその内容を公表した『ノート』(それは、梅澤が保持していたノート〈甲B32〉そのものである)の内容は真実であると証言し、それまで《梅沢隊長命令説》の唯一の根拠とされてきた『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(乙6)に収められた宮城初枝手記『血塗られた座間味島』の内容は、「事実でない」ということ(宮城調書 p35)、そして昭和20年3月25日に村の幹部らが原告梅澤に会い「住民が自決するための弾薬等を下さい」などと求めたが、原告梅澤がこれを断ったことも事実であること(宮城調書 p5)が、そこに「その後のことはわからない」としてあることを理由に、梅澤隊長が住民の求めを拒んだ前後に、命令が出された可能性は否定できないとし(宮城調書 p8、35)、更に、『母の遺したもの』で明確にうち出された、助役宮里盛秀こそが住民の「玉砕」を決断し宮平恵達を伝令として走らせたという《盛秀助役命令説》については、「実はそれは間違ってたというふうに今後悔しています」と述べた(宮城調書 p13)。

(2)「軍命令」について

 宮城晴美は、「隊長命令」と区別された「軍命令」の内容につき、「軍官民共生共死の一体化」方針が座間味島にも具体化されていたこと、島の秘密基地化と島民に対する投降やスパイの禁止、日本軍の隊長や兵士らの「玉砕」の訓示や「いざというときの玉砕」の示唆、助役の忠魂碑前集合玉砕伝令などの状況を総合したものとの趣旨で説明する(乙63 p7~9)。

また、証言においては、「軍の論理あるいは国家の論理というものを内面化させた誰かが引き金を引いたら、それは軍の命令である。それが軍による玉砕(自決)命令ということの本質である」との目取真俊の見解(甲B74 p159上段)に賛同するのかとの原告代理人の質問に対し、「ええ」と肯定し、「引き金を引いたのは助役であるが、そう助役を仕向けた軍の駐留と合わせて考えると、助役だけが独走して引き金を引いたものではないと考えられる」との旨証言する(宮城調書p54、55)。

 しかし、それらのように、「状況を総合した結果の評価」としての「軍命令」や、著しく抽象化された「軍命令」は、通常の意味における「軍命令の事実」そのものをいうものではなく、様々な解釈が可能な諸事実に対する宮城晴美の意見論評であり、しかも客観的に正当な論評とはとてもいえないものである。

「軍官民共生共死の一体化」方針等々の状況が総合されると、集団自決についての「軍命令」と評価できるというのは、明らかに飛躍のある解釈である。「玉砕訓示」も、まだ米軍来襲も想定されていない平時に(慶良間列島を米軍が攻撃すると日本軍が予想していなかったことは既に述べてきたとおり)、「軍民ともに死をも恐れず戦い抜こう」という意味の戦意高揚のスローガンに過ぎない。「直ちに自決せよ」との命令とはほど遠い内容である。

 「軍の論理を内在化した誰かが引き金を引いたら軍の命令」という主張も、これもまた一般人が想起する「軍命令」のイメージとは甚だ乖離したものであることは明かであり、事実としての「軍命令」が言われているのではなく、あくまでも目取真俊や宮城晴美の論評としての「軍命令」であることが明かになっている。

 もともと、慶良間列島の集団自決において問題にされてきた「軍命令」は「隊長命令」を内容とするものであり、沖縄においても両者は別個の観念とは捉えられてこなかった。例えば、「隊長は命令を出さなかった」と書かれている『母の遺したもの』(甲B5)が沖縄タイムス出版文化賞を取ったときの記事も、書籍の内容紹介として「実は軍命はなかった、と母は著者に明かす」などとされている(甲B93の1)し、琉球新報が宮城晴美の講演を紹介した平成17年8月28日の記事でも「軍命はなかったが、住民の気持ちはじわりじわりと戦争に向けられていった」と宮城晴美の講演要旨を紹介している。

 これまで通常の記事や報道では、「軍命令」と「隊長命令」とを区別して論じるようなことはなかったのであり、今回の宮城晴美証言や同人の目取真俊との対談(甲B74)でうち出された皇民化教育や祭礼での訓示を含め軍の関与した諸事実をもとに、助役が発した命令を「軍命令」とよぶのは、一定の政治的な意図をもった論評といわざるをえず、歴史家のとる態度ではない。

 いうまでもなく、この裁判で座間味島の集団自決について問題になっているのは、あくまで原告梅澤が「老人・こどもは村の忠魂碑前で自決せよ」(『太平洋戦争』)、あるいは、「住民は、部隊の行動をさまたげないためにまた食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」(『沖縄ノート』)などという無慈悲な自決命令を出したという《隊長命令説》が事実かどうかという一事であり、隊長命令と区別された抽象的な「軍命令」という論評の当否ではない。

 冷静になれば分かるように、法廷で宮城晴美が「軍命令」と呼んだものは、「集団自決の背景には広い意味での軍の関与があった」というものに過ぎない。「軍の論理を内在化したものの命令というところに軍命令の本質がある」という言説は、まさにそのことを裏付けるものである。それを敢えて「軍命令」と論評するのは、事態を曖昧にするばかりか、事実としての「隊長命令」や「軍命令」との混同を誘発し、「じわりじわり追い詰められた」という晴美の認識そのものも裏切ることになる。教科書検定問題が大きく取り上げられている最中での証言であることを考えるとき、その証言が沖縄のマスコミが演出した沖縄世論の圧力によって政治的に偏向したものであることが推認される。

(3)「隊長命令」との評価あるいは原告梅澤の責任論

 宮城晴美は、「状況」だけを材料に、解釈や論評により「軍命令」を認めたうえ、「原告梅澤は部隊長で島に駐留した部隊の最高責任者なのだから」という理屈で、「命令の主体は原告梅澤と解することができる」かのような証言をしたり(宮城調書p58)、「原告梅澤に『責任』がある」との旨の証言をなしたりもした(宮城調書p56)。

しかし、主観的な解釈により無理に認めたためにただでさえ曖昧模糊とした「軍命令」に、またもう一段階「評価」を加えて「隊長命令があったといえる」などと主張するのは、完全に事実から離れてさらに詭弁的である。隊長が現に発した命令が「隊長命令」なのであって(『太平洋戦争』や『沖縄ノート』に書かれているのはまさにそれである)、解釈や論評により「隊長命令」があらわれてくるというようなものではない。

 「責任がある」というのもまた、完全に議論のすり替えである。「責任の有無」が意味するところは、極めて広く多義的なしたものであり、《梅澤命令説》の存否とはほど遠い問題設定である。そもそも原告梅澤にあるという「責任」とは、何らか法的な責任なのか、単に道義的な責任なのか、不明である。また、この「責任」が、救おうと思ったら救えたのに住民を救えなかった「過失」の責任なのか、救えることが分かっていたのに見殺しにした「不作為」の責任なのか、積極的に死を促進した責任なのか、あるいは、住民の死を止めようがなかったとしても関わった以上心情的に感じるべき「責任」なのか、「日本軍が配置されたから島が米軍に攻撃されてしまった」責任なのか、そのあたりを被告らも宮城晴美も明らかにしようともしない。

 「責任」というな極めて茫漠とした言葉を盾に、あたかも「住民多数に自決を命令したと書かれても仕方ないだろう」というかのような主張がされるのは、法的にみて論外というだけでなく、倫理的にも到底容認されるものではない。

(4)「隊長命令」についての住民の証言について

 宮城晴美は、「隊長命令」については、「あったかなかったかわからない」旨証言した(宮城調書 p30、34、35、37、58等)。

 そして、宮城初枝が助役らと一緒に原告梅澤を訪ねた場面では自決命令は原告梅澤から出されなかったが、「その前後」には自決命令が出されたことも「あり得る」かのようにも述べる(宮城調書p8)。しかし、それは結局「ひとつの可能性」の指摘に過ぎず、「その前後」の時期に原告梅澤からの自決命令が現に出たとの住民証言があったとは、晴美も証言することはできなかった。

 反対尋問で確認されたとおり、宮城晴美はこれまで、彼女が自ら取り組んできた住民の聞き取り調査の結果から、そして母初枝の体験談と初枝から託されたノートから、隊長命令が存在しなかったことを明確にしてきたのだった。

 証言にもあるように、隊長命令があることを前提に書かれた『座間味島の集団自決』(乙64『沖縄戦-県民の証言』所収)は、初枝が晴美に告白する5年も前の昭和47(1972)年の著述であり、それを「命令はあったと信じていた」に過ぎない宮平初子らからの聞き取りに基づいて書いたものに過ぎない(宮城調書p2)。

 宮城晴美は、母の告白を受け、『沖縄県史第10巻』(乙9)の住民手記をまとめる作業のなか、住民の証言内容から伝聞や根拠のあやふやなものを削除するなどの歴史家としておこなうべき資料吟味を行なって、中立公正な歴史家、研究者としての立場から、住民証言をまとめたのである(甲B5p258、259)。

 晴美が証言しているように、『沖縄県史第10巻』の座間味村の住民21人分の手記も、『座間味村史』下巻(乙50)の住民21人分の手記も、更には『母の遺したもの』に収められた住民の証言もすべて宮城晴美が直接聞き取りあるいは確認して作成されたものである。そうして収集された住民の証言のなかに、《隊長命令説》を裏付ける内容のものは一切なかったことは、宮城晴美も明確に認めている(調書p51)。

 宮城晴美は、宮平春子についても、過去に綿密な取材を行い、『母が遺したもの』にその体験を記述している。宮城晴美は、盛永の『自叙伝』に書かれている命令の場面のことを、作業中の聞き取りであったことや自らの多忙を理由に聞き忘れたかのごとき証言を行なったが、後述するように俄に措信し難いものである。

 そして本件訴訟において重要な点は、今回の証言において、これまでの主張を曲げ、集団自決が「軍命」によるものであるという、その定義を曖昧にしたまま祭礼の教訓や個々の兵士の諸言動を含めた抽象的な「軍命」を持ち出し、教科書検定問題を意識し、そうした「軍命」が原因であったという立場に立つという政治的な姿勢と偏向を明らかにしたのであるが、その宮城晴美であっても、隊長命令については、「あったかなかったかわからなかった」と証言していることは重要である。

 結局のところ、宮平春子の証言は、それのみをもって隊長命令の存在を立証するまでの証拠価値をもっていないのである。「隊長命令があった」とは言わず、「あったかわかったかわからない」とした宮城晴美の証言は、沖縄の世論と政治に翻弄されつつも苦悩する彼女の歴史家としての良心のあらわれであったということができようか。


(5)宮平春子の証言について

 宮城晴美は、これまで隊長命令については、証拠上も自らの直感においても存在しなかったという立場を明確にしてきたのだったが、平成19年6月に宮平春子の新証言なるものに接した後に「あったかなかったわからない」との認識に変わったと証言した。

 しかし、宮城晴美の証言は、宮平春子の新証言なるものに対する根本的な疑問を提起することになった。

 すなわち、前記のとおり宮城晴美は、過去にも宮平春子から綿密な聞き取りを行い、これに基づいて『母の遺したもの』の白眉ともいうべき場面を記述している。自決の覚悟を固めた助役の盛秀が、幼い子供達を膝間付いて抱擁し、盛永に、十分な親孝行ができなかったことを詫び、水杯を交わして壕の外に出て、忠魂碑前に向うも途中で引き返し、結局、自決を免れたシーン(甲B5 p216~219)は、宮平春子の証言に基づくものである(調書p43~47)。

 これだけの場面を描くのには、相当の聞き取りを要することが推測される。しかも、その場面には、盛永の『自叙伝』から「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着換えて集合しなさい」との盛秀の言葉が挿入されており、そこから宮城晴美が、予め『自叙伝』を読み込み、そこに記載された盛秀の言葉を強く意識していたことが推認できるのであり、宮平春子からの聞き取るにあたっては、このことについて宮城晴美が質問するのを忘れていたなどということはありえない。

晴美は、この点を問う反対尋問に対し、聞き取りが春子の作業中になされたとか、他の仕事に追われて忙しかったと陳弁するが、『母の遺したもの』の白眉ともいうべき感動的場面、しかも《盛秀助役命令説》をうち出すにあたって最も重要な場面を書くにあたってなされた取材が、そうした杜撰なものであったとは到底信用できるものではない。

すなわち、『母の遺したもの』に書かれた盛秀が壕に戻ってきてから盛永と水杯を交わし、壕を出て忠魂碑前に向う場面が、宮平春子に対する取材に基づくものであるという晴美の証言は、相当の時間をかけて綿密になされたはずの取材のなかで宮平春子は、陳述書に記述された「軍の命令がすでにでた」との内容の発言はしなかったことを意味しており、春子の新証言なるものの信用性に対する最大の弾劾である。

 更に、その証拠価値については、盛永の『自叙伝』(乙28)における盛秀の言葉との齟齬のことを吟味しなければならない。『自叙伝』では、「軍」という主体がなく、盛秀の「今晩 -中略- 命令があるから」という予想を語ったにすぎない(結局、その後、出る予定だった命令が、現に出されたという記述はない)。春子の陳述書(乙51)では、「軍から」、既に「命令で -中略- 言われている」とされている。

 そのときの言葉は、盛永は盛秀から直接告げられており、春子はそれを傍観していたに過ぎない。そのときの盛秀の言葉が、春子のいうようなものであったとすれば、そのことを直接聞いていた盛永が書き漏らすはずがないのである。

 軍命令があったとする春子の新証言は、60年もたった後に突如出てきたものであり、しかも盛秀が盛永に語るのを傍観したというものである。しかも、これまで晴美の綿密な取材のなかでも一言も話されたことがなかったのであるから、春子の証言自体、その信用性は甚だ疑わしいといわざるをえない。

 さらに指摘すれば、宮城晴美は、盛秀の言ったという言葉についての盛永の『自叙伝』の記述も、宮平春子の新証言も「同じことが基本的に言われている」との旨証言した(宮城調書p49)。

 そうなのである。宮平春子の新証言に新味はないというべきであろう。

 宮城晴美は、『母の遺したもの』において「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから」という盛永の言葉を引用しており、その言葉を踏まえたうえで、原告梅澤が自決命令を出したことを否定し、かつ、命令を出したのは助役の盛秀だったと判断したのである。

 春子の新証言なるものは、その信用性においてもその証拠価値においても甚だ問題を抱えるものであり、それをもって軍命の証拠だということができないことは明かである。

(6)まとめ

  結局、宮城晴美の証言は、彼女が丹念に積み重ねてきたライフワークともいうべき調査研究の成果や、秘められた真実を世に広く明らかにし社会的にも非常に評価の高い自著『母の遺したもの』の歴史的意義、周囲を敵に回してでも原告梅澤の社会的名誉を回復せねばならないと決意した母初枝の遺志などを、ことごとく否定するものであった。

  種々の政治的圧力に屈しての不本意な証言であったろうとは想像するが、近年までの、宮城晴美の歴史家としての誠実な足跡、業績を顧みるとき、その価値を、今回の証言をもって自ら貶める結果となったことは、強く惜しまれるところである。



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