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第6 集団自決の実相

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第6 集団自決の実相

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)


1 はじめに


 住民集団自決に関する《梅澤命令説》及び《赤松命令説》には真実性はないと原告らは主張するものであるが、それでは、実際にはどういう原因、理由により座間味島、渡嘉敷島の集団自決が生じたのか、すなわち集団自決の実相がいかなるものであったのかということは、避けては通れない問題である。

 この点については、原告は準備書面(2)p18以下(座間味島における集団自決の実相)、p50以下(当時の沖縄県民の意識について)でも取り上げ、また、他でも必要に応じて論及はしてきたところであるが、訴訟の経過に伴い、資料の検討も進み、また社会でもこの問題に関する鋭い考察などが提出されているので、改めて論じることとする。

2 隊長命令説、軍命令説の根本的疑問


 座間味島及び渡嘉敷島の集団自決に関する隊長命令説あるいは軍命令説を、素朴に見つめ直し、想像力を働かせたときに当然ゆきあたるのは、「軍の命令、部隊の隊長の命令で、果たして人は、愛する家族を殺し、自殺をなすことができるのか」という根本的疑問である。

 この点について、徹底的な調査と真摯な人間洞察をもって『ある神話の背景』(甲B18)』を著した曽野綾子は、同書の中で次のように書く。

 「私は、赤松隊長が正しかったというわけでもなく、三〇〇余人の人々が死んだ事実を軽視するものではない。しかし、三〇〇人はタダでは死なない。かりに一人の隊長が自決を命じても、その背後にある心理がなければ、人々は殺されるまで死なないことを、私は肌で感じて知っているように思う。それが人間の本性である」(p259、260) ---『ある神話の背景』からの引用

また近時、沖縄での県民大会開催について、琉球新報に論考を発表した宮平修はこう書いている(甲B83)。

「軍命があったとする方々に言いたいのは『死者を冒涜するな』の一言に尽きる」

「仮に軍命により自決したとすると、『肉親の命より軍命が大事』という結論に達しはしないか。皇民化教育下でもそんなことはあるはずもなく、断じて認めるわけにはいかない。彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族愛以外の何物でもなかったのだろうと考える」

 さらに、小林よしのりもこう指摘している(甲B69)。

「そもそも『軍命』があったからこそ親が子を殺したとか、家族が殺し合ったなどという話は、死者に対する冒涜である。

 そんな『軍命』が非道だと思うなら、親は子を抱いて逃げればいいではないか!

 自ら子供を殺すよりは、『軍命』に背いて軍に殺される方がましではないか!

 家族への愛情よりも『軍命』が大事だと壕に集まっていた住民たちは考えていたというのか?

 軍は住民にといって絶対神だったのか?

 馬鹿馬鹿しいことを言ってはいけない。集団自決した住民たちを冒涜している。

 逆なのだ。家族への愛情が強すぎるから、いっそみんなで死にたいと願ってしまったのだ」

これらの論者が強く指摘する点は、「軍に命令されても、人は愛する肉親を殺すことはできない」という点である。現代の我々にも深く首肯できる感覚ではなかろうか。いかに戦時下であっても、「軍や国に命じられたので家族を殺しました」とか「隊長からの命令が届いたので死にました」とかというような人間像は、リアルなものとして、とても想像できないではないか。

 皇民化教育と戦時下の「軍官民共生共死」のメッセージのもとでは、軍はそれこそ「絶対神」のようなものであったと被告らは反論するかもしれないが、それは、図式と観念にのみのっとった空論である。住民の手記等にあらわれる日本軍は、もっと人間臭く、思うように住民の協力も得られない場面もあった。

   例えば、『ある神話の背景』(甲B18)には、昭和20年3月26日夜、大町大佐が、渡嘉敷島から脱出して那覇に帰隊するにしようとするあたり住民の協力を得られない場面が出てくる。

 「その時になっても大町大佐の那覇帰隊問題は解決されていなかった。夕刻迄の間に、大佐の一行は、村民にくり舟を出して貰えないか、という交渉をしに行ったが、拒否されて帰って来た。こんな危険な時に、軍人ででもなければ、《よし行きましょう》という物好きはする筈がなかった」(p102)---『ある神話の背景』からの引用

 ※ 「くり舟」とは、木製の手漕ぎの小舟のことである。

{  大町大佐は、ただの一将校ではなく「船舶団長」という沖縄軍司令部の高官である。その大町大佐の一行が必死に頼んでも、住民に協力してもらえなかったのである。当時、慶良間列島では、軍が命じれば何にでも住民は素直に従ったなどという状況はなかったことは、このエピソード一つとってもよく分かる。}

  「軍命で家族を殺せるか」という疑問の延長として、住民が軍からの自決命令に、村幹部が抵抗しなかったのかという重大な疑問もある。この点、曽野は下記のように指摘しているが、もっともである。

 「村民全体が自決せよ、という重大な命令がでた、ときいたとしたら、村の指導者の中に、それは軍の越権である、と思う人がいてもよかったのではないか。女子供や、若い人だけならば別として、少くとも、大陸で戦争を体験してきた人が一人でもいたなら、そこにいささかの疑念も持たないというのはおかしいことである。

  赤松大尉が抜刀して、今にも切りつけんばかりであっても、村の指導者は、それに抗議を申し込む責任がある。

  もし古波蔵元村長が言うように『間接的に強制された』のであれば、その間接的などというあやふやな状態を。なぜ確かめに行こうとしなかったのであろう。村の指導者としては、たとえ、途中で弾に当たって倒れようが、隊長に斬り殺されようか、数百人の命のかかっていることであり、しかもその命令が不当と思うなら、自らそれを調査し、越権行為に対して身を挺して抗議することは可能だった筈である」(甲B18 p254)。---『ある神話の背景』からの引用

3 米軍に対する恐怖


慶良間の集団自決が起こった要因として最大のものは、間違いなく、米軍に対する恐怖であった。

 『座間味村史』でも、自決の直接の動機として強調されているのが、米軍への恐怖である。宮城晴美が村民から聞き取りと執筆等をした戦争体験記が多く収録されている下巻(乙50)の「はじめに」では、下記のように総括されている。

「共通していえることは、『鬼畜米英』の“アメリカー”に捕まることを恐れたということだ。」(p3)

「たしかに、『玉砕』のその瞬間は、国家も天皇陛下もなく、愛する自分の肉親を、“アメリカー”の残酷な手に渡すまいと手をかけたのがほとんどであった。」(p4)

 宮城晴美も、親族の体験や永年の調査により知ったこととして『母の遺したもの』(甲B5)に、下記のように、住民にあった米軍への恐怖が、自身の祖父らの集団自決の原因になったことを記録している。

「太平洋戦争末期の昭和二〇(一九四五)年三月二六日、突然の米兵の出現をきっかけに、祖父は妻子の首を切り、心中をはかった。

 当時は座間味村民のみならず沖縄中の人々が、『鬼畜米英』に捕まれば女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺されると、米軍の恐ろしさについて徹底的に教え込まれていた。その“アメリカー”が目の前に現れたとき、祖父は恐ろしさのあまり、米兵の手にかかるよりはと、やはりアメリカーを持て騒ぎ立てる妻と子どもたちの首を次々にカミソリで切りつけた。そして最後に自分自身を」(p89、90)

 この点については、同書の第1部の宮城初枝の手記に、米軍に投降した初枝が取調べを受けたときのやりとりが、下記のように再現されており、「米軍への恐怖」についての直接証言の一つと評価できる。

「米兵『両親の自殺行為はなぜ?』

 私 『米軍上陸の恐怖の為です。』」(p77)

 また、逐一引用はしないが、同書のp101以下には宮平重信・ウタの一家が、同様に、避難中の壕に米兵がやってきたのを契機に「恐ろしさのあまり」自決行為を始めたことが、p107以下には宮里ナエが避難させてもらったC家の壕でも「アメリカーがくる」という外の住民の騒ぎをきっかけに「猫いらず」(殺鼠剤)や棍棒での自決が始まったことが、それぞれ紹介されており、晴美は、「重信のように、妻子を連れて壕に避難した男性のほとんどが、米軍の上陸さわぎのなかで妻子に手をかけていた」(p103)としている。

この「米軍への恐怖」については、曽野綾子は、『ある神話の背景』(甲B18)の中で、金城重明の

「渡嘉敷島での最後の生き残りであると信じた私共は、敵の惨殺に会う時がいよいよ決定的に刻一刻と迫ってくるのを重く感じた。それはまさに末期的死の意識なのである。この様な状況で生き延びることはなお恐ろしい絶望でしかなかった。残された道は死のみである事を、以前よりもひしひしと直感した」

「人間は死の危険性が来たら生を考える。生きるより恐ろしい状態が来た時には死を願う。私たちの場合は異常の状況ですから、生きることが、生き残ることが怖かった」(p161)

等々の言葉を紹介し、さらに、下記のようにまとめる。

「なぜ人々は自決したのか、そこにこの問題の一つの大きな鍵がある。金城重明氏は、それは戦争という異常心理に歪められた『愛』だと言った。敵に捕らえられれば、男はなぶり殺しにされ、女ははずかしめられて海中に捨てられる。そのような恐怖は沖縄本島にもあった」(p161)

「そのような運命に会わされるくらいなら、自分の手で家族を安らかに眠らせてやった方がいい。そこで、父や、年のいった息子たちはその役目を買って出たのであった」(p162)---『ある神話の背景』からの引用

{また、曽野は同書のp143以下で、集団自決事件を体験した村の4人の女性たちが口々に語る事件までの模様を、録音したテープから忠実に再現して(甲B94p61参照)いるが、その中にも、米軍による数日間の爆弾の雨あられの攻撃を経て西山陣地に移動する住民が恐怖や惨めさから「気狂い」「ばか」のような半狂乱状態になり、また、「夢か何かわからん」ような群衆心理に陥っていたことが生々しく語られている。さらに次のようなやりとりもある。}

「曽野『そこで誰かが《死ね》と言ったんですか』
 A『わかりませんね』
 B『自分たちは早く、もう、敵につかまるよりか死のう、死のうで、早く死んだ方がいいと思ってますよ』

 -中略-

A『軍から命令しないうちに、家族、家族のただ殺し合い』」(p146)

集団自決で死ねなかった住民が軍と接触した様子も書かれている。

「庇護を求めて行くのは、再び日本軍のところだった、というわけである。
 D『-中略-私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。』
 B『本部のとこに、突っ込みに行ったから《何であんた方、早まったことしたなあ》』
 C『《誰が命令したねえ》』
 D『《何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい》と言った。-以下略-』」(p148)---『ある神話の背景』からの引用

 村民女性らが口々に話している言葉のそのままの再現のため、発言内容の主旨は必ずしも明瞭ではないが、赤松隊長あるいは赤松部隊員が、住民が始めた自決について「なぜ、そんな早まったことをするのだ」などと述べて、生き残った者に避難を指示した場面があったことを、彼女らは異口同音に語っていることは確かである。そのような場面が実際にあったのであろう。

 話は少しそれたが、こういった住民女性らの話を聞いた曽野が下記のように記している点が、集団自決の実相の一端を言い表している。

「それにしてもその数時間、恐怖から人々は死を何とも思わなかった。死を怖れるあまり、人々は死に到着しようと焦ったのである。それは確かに異常ではあるが、私にはよく分かる心理でもあった」(甲B18p152)---『ある神話の背景』からの引用

 上記のような村民女性らの匿名の座談会は、『沖縄県史第10巻』(乙9)にも『渡嘉敷女子青年団』として収録されている(p785以下)。そこでも同様に、当時村民にあった米軍の恐怖や、それにより生じた避難中のパニック心理が語られている。

「N 私は映画みたようでした。死にに行くってよー、あなたたちは、行かないのー、といっているのを夢みたいに聞いていました。

 H うしろに米兵がいて、それが追っかけて来るような錯覚におち入っていました。

 -中略-

 K 私たちの心の中には、敵に殺られるより、自分で死んだ方がよいという考えがありました。女はさんざんいたずらし、男は男根を切る、といいふくめられていましたね。」(p787)

また、やはり同じく、集団自決で死ねなかった住民が軍のもとに行き、殺してくれるよう求めたが、拒否され、「生きられるだけがんばりなさい」と言われたくだりも証言されている。

「K 私は、西山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私をうって下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされて引きかえしました。

   本部へ行ってみると、西村大尉が軍刀抜いて身がまえして、住民はここへ寄るな、きかないかー、斬るぞー、と叫んでいた」(p788)

自決命令が出ていたら高橋軍曹が「生きられるだけがんばりなさい」と言うはずがない。西村大尉が住民を追い返したのも、軍の陣地内は敵の攻撃目標となり危険であることや、住民が戦闘の邪魔になることなどの理由によるものであり、住民を死なせるために抜刀して「斬るぞ」などと言ったわけではない。住民に自決が命じられていたとしたら、西村大尉が住民らを現実に斬っていても何の不思議もないのである。

4 家族愛


もう一つ、集団自決の大きな要因となっていたのは、住民らの家族に対する愛情である。
 前記でも引用したが、宮平修はこの点について、こう述べる(甲B83)。

「彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族愛以外の何物でもなかったのだろうと考える」

 そして宮平は、集団自決を「家族愛の尊厳死」と表現しているが、これも、本質を突いた指摘といえよう。

 小林よしのりもこう書く(甲B69)。

「集団自決の記録では、壕の中で看護婦が毒薬入りの注射を順番にするのを、住民は逃げもせず粛々と受けていたという。

 楽に死ねるその注射が不足して自分に回ってこないと知るや残念がり、泣いて悲しむという有り様で、それほどまでに住民は死にたがっていたわけだ。

 敵の手にかかって死ぬよりは、愛する家族と共に死にたかったというのが実相なのである。

 集団自決の真相や原因は『軍命』などという単純なものではない」(p68)

「逆なのだ。家族への愛情が強すぎるから、いっそみんなで死にたいと願ってしまったのだ」(p69)

渡嘉敷島に昭和54年に建てられた戦跡碑碑文は、村からの依頼を受けて曽野綾子が書いたものであり(甲B94p64参照)、その文章は、渡嘉敷村教育委員会発行の社会科資料集「わたしたちの渡嘉敷島」(甲B48)にも全文収録されているが、そこには、こう書かれている。

「三月二七日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌二七日敵の手に掛るよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄弱い母や妹の生命を絶った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に三九四人の島民の命が失われた」(p84)

 ここで曽野が言う「愛」とは家族愛、親族愛、あるいは島民間相互の愛情であろう。この碑文が『ある神話の背景』(甲B18)の発表後に村から依頼されたものであること、碑文の内容が現在の村の教科書にも掲載されていることからしても、『ある神話の背景』の内容や、「そこにあるのは愛であった」との曽野の認識が正しいものとして村で受け入れられていることは明らかである。

第三者的立場の者だけが、「集団自決の動機となった愛」を指摘しているわけではない。体験者である金城重明が語らんとする集団自決の悲劇の、最も強く我々の胸を揺さぶるところは、彼の「軍の命令や関与」についての意見や誤った軍国主義的皇民化思想のため云々の後付けの解釈などではなく、下記のような部分である。

「愛情と死の構造が、不離に結びあっていた。最も愛する者を、最も速かにそして最も徹底的に死なせたのである」(甲B18p158)---『ある神話の背景』からの引用

「兄と私も幼い弟妹達の最後を、見届けてやらねばならなかった。愛するが故に彼らを放置することができなかったのである。私の年令は一六歳と一か月だった。私共兄弟二人が、自分達を産んでくれた母親に手をかけねばならなくなった時、私生まれて初めて悲痛の余り号泣した。愛するが故に殺さなければならない、という残酷物語が現実のものとなったのである。父は離れ離れになって死んだ。

 当時の精神状況からして、愛する者を生かして置くということは、彼らを敵の手に委ねて惨殺させることを意味したのである。従って自らの手で愛する者の命を断つ事は、狂った形に於いてではあるが、唯一の残された愛情の表現だったのである」(乙11p341)。

 宮城晴美が詳しい調査を行い『母の遺したもの』にまとめた、宮里盛秀一家が玉砕の決意を固めていく下記の場面からも、敵に追いつめられ悲しくも死を選ばねばならなくなった家族の胸中にあったのが相互の深い愛情であったことが、リアルに伝わり、読み手の心を打つ。

「しばらくしてもどってきた盛秀は深刻な表情で、『今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着替えて集合しなさい』(盛永の父・宮村盛永の「自叙伝」より)と家族に向って言った。

 盛秀の妹の春子(一九才)は、残していたご飯をおにぎりにして、家族一人ひとりに配った。-中略-出発の前、七歳、六歳、三歳の三人の子供の前にひざまずいた盛秀は、三人をひとまとめに抱き抱え、『これからお父さんと一緒に死のうね。みんな一緒だから恐くないよ』と、頬ずりしながら、しばらく子供達を強く抱きしめた。

 涙声はまもなく嗚咽にかわった。それから杯に入れて父親の盛永の前に進み、『お父さん、この世では十分親孝行できませんでしたが、あの世ではきっと孝行します』と水杯を交わした。

 親、兄弟とも涙、涙で、あの世での再会を約束した。

 盛秀の妻は、まだ一才にもならない三女を背負っているため、三歳の次女を義妹の春子に預けた。

 『娘をお願いね。あの世に行ってから必ず会おうね』と涙をぬぐいながら固く春子の手を握った。

 一家は盛秀を先頭に、忠魂碑に向けて出発した。」

5 パニック状態の群集心理、同調圧力


米軍への恐怖と家族愛に加え、集団自決に住民を駆り立ててしまったのは、パニック状態に陥った群集心理や、当時島に強くあったと思われる同調圧力である。

 座間味島にしても渡嘉敷島にしても、集団自決に至るまでに、数日間にわたる徹底的な米軍の空襲や艦砲射撃により、住民の生活基盤は焼き尽くされ小さな島全体が山の形が変わるほどに破壊され、住民の死者も少なからず発生したという時期を経た後、島が敵の艦船に取り囲まれ、さらに米軍が上陸するという前後の段階で、集団自決が発生している。

 そして、ほとんどが米軍の侵攻や攻撃から避難しようとした先の壕や山中で、米軍の攻撃が迫ったり、米兵に会ったりして、どうしようもなく追いつめられた中で悲劇は起こったのであった。

例えば、金城ナヘの手記『集団自決とそのあと』(乙9p775)には、下記のような描写がある。

「大粒の雨が、私たちの行く手をさえぎっていましたが、今、目の前に浮いている山のような黒い軍艦から鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱めると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。

 私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。上空には飛行機が飛び交い、こんな大勢の人なので、それと察知したのか、迫撃砲が、次第次第に、こちらに近づいてくるように、こだまする爆発音が、大きくなってきていました。

 村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって『君が代』をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。」

 このように住民が極限まで追いつめられていった経過や住民らの証言を虚心坦懐に辿り、住民の心理はいかほどのものであったかと考えたとき、「故郷のこの島もいよいよ滅ぶのだ」、「自分たちの命、一族の運命ももはやここまで」などと受け止めて当然の状態であったことが想像できる。

 静かに死を迎え入れる諦観を住民らがもてるような状況はほとんどなく、追いつめられた住民の多くは、極度の緊張と興奮、絶望、疲労などの中で、半狂乱のパニック状態に陥り、さらに場面によっては、そのような住民が多数集まりその群衆心理により、「みんなで自決するしかない」との思いをさらに加速させていったことが、どの資料からも強くうかがえる。

 そこでは、一部の者だけが、「自分はまだ死にたくない。逃げられるだけ逃げて、殺されるまで自分からは死なない」、「自分ら家族だけは自決しない」などと考えて周囲に訴える心理は、無意識に抑圧されていたであろう。

 この点について、小林よしのりはこう表現する。

「明日にも敵が上陸するという状況下では、島の住民に集団ヒステリーを起こさせるに十分な緊張が漲っていた。

 しかも本土よりも沖縄の方が、村の共同体の紐帯ははるかに強い。

 そのように強い共同体の中では『同調圧力』が極限まで高まる。

 だれかが、『全員ここで自決すべきだ!』と叫べば、反対しにくい空気が生まれる。躊躇する住民がいれば、煽動する者は『これは軍命令だ!』と嘘をついてでも後押しする」(甲B87p70)。

そのようにして集団により形成された「自決への熱情」のようなものがあったことを証言するのが、金城重明や大城昌子である。

 金城は「村民の間に、一種の陶酔が充満していた。肉親も殺し、自分も死ぬという異様な雰囲気があった」と言ったというし(甲B5p168)、また自身が曽野に渡した手記にも、下記のように書いている。

「この様に集団自決が終りに近づくに連れて、死の集団の強い連帯を覚えた。すべてが一つの死の家族集団と化したのである。肉親を越えたより大きな死の家族集団が、渡嘉敷の集団事件場で、瞬間的に形成された。この死の連帯感が、私をして他人の死を早める働きへとり動かしめた重要な要因だったのだ」(甲B5p161)

 大城昌子は、その手記『自決から捕虜へ』(乙9p729)で、下記のように、自決しそこない米軍に捕まったときの心理を述べている。

「私は父(兼城三良)と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、中村さんと同様、捕虜となってしまいました。これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未遂のため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の『忠誠』である『死』までうばわれてしまった米軍がにくらしくて、力があるなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。

 米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情けなくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました」

金城重明は、「一種の陶酔」、「死の家族集団」、「死への連帯感」などの言葉を選び、大城昌子は「死者への嫉妬」と表現しているが、彼らそう感じさせるまでの集団的な高揚感が集団自決の悲劇に伴っていたことが、共通して見えてくるのである。


6 軍の命令は無関係との住民証言等


 上記のように住民の中に集団自決をなすさまざまな動機や心理がみられる一方、集団自決の発生に、軍や隊長の命令は無関係であったと明言する住民証言もみられる。

座間味島、渡嘉敷島とは別の、慶留間島の話ではあるが大城昌子は、その手記『自決から捕虜へ』(乙9p729)で、下記のように述べている。

「前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。」

また、先にも引用したが、『ある神話の背景』(甲B18)には、曽野と村民女性らの次のようなやりとりも記されている。

「曽野『そこで誰かが《死ね》と言ったんですか』
 A『わかりませんね』
 B『自分たちは早く、もう、敵につかまるよりか死のう、死のうで、早く死んだ方がいいと思ってますよ』
 -中略-
 A『軍から命令しないうちに、家族、家族のただ殺し合い』」(p146)

 小説新潮1988年1月号『第一戦隊長の証言』(甲B26)においては、筆者の本田靖春は、次のような宮城初枝の証言を紹介する。

「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、-中略- 気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だから-と励まされました」(p305)

そして本田は、次のようにいう。

「この初枝さんの証言から、住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず、死ぬ覚悟でいたことが明らかである。そして梅沢少佐以下の軍関係者が、住民たちに自決を思いとどまらせようとしていたことも認めてよいであろう。」(p305)

 本田は多数の関係者を丹念に取材した結果、「住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず死ぬ覚悟でいた」と指摘するのである。

 大城将保(ペンネーム嶋津与志)も研究成果を発表した『慶良間列島の惨劇』(甲B91)で、ほぼ同様の見解を述べる。

「強いていれば、かりに命令がなかったにしても集団自殺が発生した可能性は十分にあっただろうとしか言えない」(p86上段)

少なからぬ証言者や研究者が、軍命令に関係なく、集団自決が発生したと述べているのである。


7 「心中」としての集団自決


以上、集団自決の実相を明らかにするためにいくつかの主要な要因を指摘したが、もちろん集団自決を生ぜしめた住民心理や環境が、上記の内容に尽くされているものと原告らは考えるものではない。

 「生きて虜囚の辱を受けず」という戦時下の国民道徳が軍官民いずれにも行き渡っていたことや、「国や郷土あるいは天皇に殉じる美徳」などの戦前からの皇民化教育の影響も、集団自決発生の背景のひとつであることを否定するものでもない(しかし、それと《梅澤命令説》、《赤松命令説》の真否とは全く別次元の問題であるし、かかる道徳内容の正否やその道徳を広めた責任、かかる思想の行き渡ったことについての歴史的必然性等についても、深い議論が必要であって、単に「戦前の教育と軍と戦争の全てが誤っていたのであり、その責任は国や軍にある」と片付けるのも正当と思われない)。

 ただ、そういった戦前戦中の教育や言論による住民の意識の規定の問題と同様に重要と思われるのは、集団自決という、共同体が滅亡に追い込まれんとする際になされた行為が、伝統的な日本的美意識や価値観に忠実な振る舞い、すなわち「非常に日本人的な悲劇」とも十分解釈しうることであり、その点もここで指摘しておきたい。

 それにも関連するが、慶良間列島への米軍来襲に先立つ昭和19年7月にはサイパン島が玉砕し、住民の多くが自決したという史実がある(サイパンの住民の多くは、沖縄からの移民であったこともあり、サイパンの住民の自決は、次の米軍の攻撃が予想された沖縄においても、身近な問題として当時の沖縄の人々に捉えられていた。そのことも、直接の影響として重要である)。

 このサイパン島のバンザイクリフやスーサイドクリフからの住民の集団での身投げも、座間味島、渡嘉敷島での集団自決と同じ心理からの行為と原告らは考えるが、サイパン島の自決に際しても軍命令などなかった。

 このサイパン島の例を考え合わせるとき、慶良間での集団自決は、「家族での(無理)心中」と受け止めるのが、最も自然にも思われるのであり、そのような言葉で表現したときに、なおいっそう、同胞に起きた「極めて日本人的な悲劇」として我々も了解でき、悲惨ではありながらも強いメッセージを残す民族的史実として、この事件を心と歴史に刻みつけることが可能になると思われるのである。

 なお、宮城晴美も『母の遺したもの』の中で、祖父のなした家族内の自決行為を「心中をはかった」と表現しており(甲B5p89)、「『心中』としての集団自決」は、住民らの意識にも十分正しく沿う理解のように思われる。


8 補足とまとめ


 以上のように集団自決の実相について丹念に検討すると、集団自決が軍命令や隊長命令で生じたなどとの理解が、具体的証拠に基づく検証に基づかないものというだけでなく、人間心理や戦場の現実への想像力に欠けた、極めて浅薄な思考観念に拠ってしか維持できないものであることが明らかになる。

 曽野は、自身が取材執筆して著した『生け贄の島-沖縄女生徒の記録』のなかのエピソードを多数引いて、下記のように言う(甲B94)。

「軍が命じたから死んだ人もいたかもしれません。しかし軍が死ぬための道具を渡しても、それを使わなかった人は、沖縄のあちこちにいたのです。それはその人々が、狂乱の中にあっても、立派に人間であり、自分のため、生徒を生かすために自分で戦い、自分で生命への道を発見しようと足掻いたからなのです。そういう人々を無視して、大江氏が沖縄の人々は、軍の存在または命令があったから自決した、というのは、あまりに事実に反し、また同郷人に非礼ではないでしょうか」(p68)

「死んだ人たちに向かって、あなたたちの死は軍に強制されたものだ、と言い、決して自らの選択ではなかったと外部が決定することが、人権であり、平和の具現なのでしょうか。もちろん強制されて死んだと感じた人もありましょう。しかし『生け贄の島』の中には、こんなにもたくさんの沖縄の人々が、軍部がいかに指導しようと、死の恐怖の中から自己の運命を選んだ行為がはっきり証言されています。

 犠牲者の中の、死を強いられたと感じた人の中にさえ、それが当時の日本人の生きるべき姿だと感じて自決した人もいた筈です。そうした死者の心理を他人が強制された死だと簡単に言い切っていいものでしょうか。

 -中略-

強制された死ということは、死者たちには自意識がなかった、ということと同義語です。そのような失礼な考えが今になって許されるのでしょうか」(p83、84)


 蛇足となるが、原告らも原告代理人らも、慶良間列島の多数の住民の方々の自決の事実を軽んじるものでも、援護法給付を受けるための方便として隊長命令説が使われたことを非難するものでもない。集団自決の手記を読み、体験者らや現場を訪ねて自決現場を思うとき、愛する我が子、妻、年老いた両親、幼い兄弟らを自らの手にかけねばならなかった住民たちの、心張り裂けんばかりの心情や、その後もいつまでも癒えぬであろう強い心痛を想像し、あまりの悲しく痛ましき出来事の前に、言葉を失うばかりである。この悲劇がもし自分と家族の身に起きたならば、と考えたときには、涙も止めがたい。

 「軍命令による集団自決」などという虚偽からは解き放された立場で、この悲劇のなかの人間のドラマを見たとき、我々は、ただただ厳粛に、犠牲者の方々の冥福を祈る気持ちを抱くのみである。


以 上


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