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第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」

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第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)



1 はじめに


 前述の通り、本件名誉毀損は沖縄タイムス社が発刊した『鉄の暴風』に端を発している。同社は、かような端緒を作り出しているにも拘らず、今現在に至っても尚「新証拠」なるものを摘示して《梅澤命令説》及び《赤松命令説》に固執する一方、自らにとって不都合な事実についてはそれを歪曲したり、あるいは頬かむりをしたりするなど、報道機関としての真摯な姿勢が見られない。そして、未だに被告らはそれら沖縄タイムスにより歪曲された事実を鵜呑みにし、本件訴訟の書証として提出している。

また、沖縄タイムス社以外にも、未だに自らの都合の良いように事実を捻じ曲げ、論理をすり替え、事の真相を曖昧にしてしまう動きがあり、被告らはそれらもまた本件訴訟の書証として提出している。

それら沖縄タイムス社等の動きは、既に数々の証拠によって《赤松命令説》の背後にある真相が明らかになっているにも拘らず、自らの主義主張に固執してその真相から敢えて目を背け、真相を覆い隠そうとするものであり、正に被告大江が『沖縄ノート』で用いている「自己欺瞞と他者への瞞着の試み」に他ならない。

以下、沖縄タイムス社等によるそれら「欺瞞と瞞着」の数々を明らかにし、被告らの提出する書証の信用性を弾劾する。


2 『鉄の暴風』の出版経過と内容の杜撰さ


(1) 曽野綾子の指摘


『鉄の暴風』は、昭和23年に設立された沖縄タイムス社によって昭和24年5月に編纂が開始され、直ちに翌昭和25年8月に発行されている(甲B97・3枚目最後から6~5行目、5枚目)。

    曽野綾子は、『鉄の暴風』の執筆者の1人である太田良博(「まえがき」にある「伊佐良博」と同一人物)から『鉄の暴風』の出版経過を取材し、『ある神話の背景』に、①太田が直接渡嘉敷島へ取材に行ったわけではないこと、②太田が2人の証言者(当時の座間味村の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治)から事情を聴取したこと、③宮平は事件当時南方にあり、山城は同じような集団自決の目撃者ではあったが渡嘉敷島で起こった事件ではなく、座間味島での体験であり、結局両者共に渡嘉敷島での集団自決の直接の体験者ではなかったこと、④太田が僅か3人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を3ヶ月で調べ、3ヶ月で『鉄の暴風』を執筆したこと、⑤宮平は取材を受けた記憶はないと言っていること、を著している(甲B18p50~51)。---『ある神話の背景』から

    結局、『鉄の暴風』は直接体験者ではない2人(しかも、そのうちの1人についてはそもそも取材を行っているかどうかも疑わしい)からの単なる伝聞証拠を基にしただけで、僅か4名の手によって、極めて短い時間で出版されたものであり、その一事をもってしてもその内容を信用することは到底出来ないものである。---『ある神話の背景』から

    沖縄タイムス社は「まえがき」で「苛烈な戦争の実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感」したと謳っているが(甲B97・3枚目最後から6行目)、「戦争の実相」を報告するというのであれば、当然、当の赤松隊長を始めとして軍の関係者にも事実を確認すべきである。しかしながら、軍の関係者で何らかの取材を受けた者は、当の赤松隊長はもとより、「悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を悲嘆した」と内面にまで立ち入って書かれている証人知念朝睦自身も含めて、一人もいない(知念調書p7)。

    結局、『鉄の暴風』の編集方針が当初より政治的に偏っていたことを端的に表すもので、そのことは同書の「まえがき」に「この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。」などと、無批判に米国の振舞いを「ヒューマニズム」と賞賛していることからも明らかである(以上、原告準備書面(2)p30~33)。

    因みに、被告大江もまた、自らは沖縄本島を訪れただけで、慶良間列島(座間味島及び渡嘉敷島)には訪れていないことを認めている。


(2)『鉄の暴風』の内容の杜撰さ


以上のような『鉄の暴風』の出版経過の杜撰さは、その内容の杜撰さとなって表れている。

   ア 『鉄の暴風』には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いた」と書かれているが、証人知念は西山A高地に地下壕などなかったことや、27日に将校会議など開かれていないことを明確に述べている(知念調書p6)。

   イ また、『鉄の暴風』の初版本には原告梅澤のことについて、「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」と書かれているが(甲B6p41最後から2行目~)、その梅澤少佐は現に生存しており、本件訴訟を提起している当の本人である。

     沖縄タイムス社役員室長の牧志伸宏は、神戸新聞の取材に対し、「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経過があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅沢さんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の筆者らと十分に協議、誠意を持って梅沢さんの理解が得られるようにしたい。」と、自ら出版経過と内容の杜撰さを認めていたものである(甲B10・昭和61年6月6日付神戸新聞)。


(3)結 論


以上の通り、慶良間列島に関する『鉄の暴風』の出版経過と内容は極めて杜撰なものであり、沖縄タイムス社自らそのことを認めていたにも拘らず、同社は未だに同書の出版を継続している(被告準備書面(3)p2「イ」)。

そのような態度は「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。



3 神戸新聞報道に対する沖縄タイムス社の対応の矛盾


(1)昭和61年6月6日付神戸新聞(甲B10)


    同日付神戸新聞は、《梅澤命令説》に関して、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の『玉砕命令』なかった」という大見出しの下、「沖縄県座間味島(島尻郡座間味村)島民の集団自決について、『駐留していた日本軍幹部の命によって行われた』との通史が昨年夏、関係者の証言で覆されたが、沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始めた」ことを報じ、大城将保・沖縄県史料編集所主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ。…新沖縄県史の編集がこれから始まるが、この中で梅沢命令説については訂正することになるだろう。」というコメントを掲載した。

    併せて、同紙は、沖縄タイムス社役員室長・牧志伸宏のコメント(「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経緯があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅沢さんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の筆者らと十分に協議、誠意を持って梅沢さんの理解が得られるようにしたい。」とのコメント)を掲載した。

(2)沖縄タイムス社の対応

以上のように、神戸新聞は《梅澤命令説》が虚偽であることを報じ、沖縄タイムス社役員室長である牧志のコメントまで掲載しているにも拘らず、同社は神戸新聞社に対し、今日に至るまで、当該記事の内容について一切抗議や異議申立等を行っていない(甲B102の1及び2)。これはそれらの記事内容が真実であったため、沖縄タイムス社としても反論の余地がなかったからに他ならない。

しかるに、同社は未だに原告梅澤に対し何らの「善後策」も施さず、未だに漫然と『鉄の暴風』を発刊し続けている。このような手の平を返したような対応とそこに見られる矛盾は、「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。

尚、被告らは「神戸新聞記載のとおり牧志氏が述べたか疑わしい」などと述べているが(準備書面(3)p2「イ」)、「役員室長」の地位にある者のコメント、それも社として最も拘り続けている「沖縄戦」に関するコメントに誤りがあったならば、その程度の軽重を問わず、即座に厳しい反論と訂正要求が為される筈である。被告らの上記反論は根拠のない苦し紛れの弁解と言わざるを得ない。


4 原告梅澤との交渉における沖縄タイムス社の不誠実


(1)交渉の経緯


   ア 原告梅澤は沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日付の手紙で『鉄の暴風』等の訂正と謝罪文掲載の要求を行った(甲B27)。

     これに対し、同社役員室長の牧志から原告梅澤に、昭和61年2月12日付で「再度、事の是非を究明し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答が来た(甲B15の1及び2)。

     原告梅澤は、昭和63年11月1日、陸軍士官学校時代の同級生岩崎禮三に付き添って貰い沖縄タイムス社大阪支社に赴き、宮村幸延から得ていた『証言』(甲B8)を提示して、『鉄の暴風』の訂正と謝罪文掲載を再度要求したところ、明らかに同社が動揺し、遂には同社の新川明が謝罪の内容を求めて来たため、原告梅澤において口述し、その内容を新川が書き取った(甲B28)。

   イ その後、原告梅澤は、昭和63年12月22日、上記要求に対する回答ということで沖縄タイムス社大阪支社において新川ら3名と再度会談した(前回と同様、岩崎に立ち会って貰った。)。

     そうしたところ、沖縄タイムス社は態度を一変させ、「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」との主張に固執して譲らないばかりか、「以後梅澤が沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしない」とする内容の書面(甲B29)を示し、それに押印するよう求めて来た(因みに、その書面には既に沖縄タイムス社々長の印鑑まで押してあった。)。

     そのような不誠実なやり方に対し原告梅澤が強く非難したところ、結局、具体的な材料を何も持たない沖縄タイムス社としては対応の術がなく、それ以上の説明は何も出来なかった(但し、謝罪文の掲載については即答を避けた。)。

     原告梅澤は気持ちが治まらなかったが、同席した岩崎の諌めもあって、その日はそれ以上追及せずに帰った。

   ウ その後間もなく、沖縄タイムス社から原告梅澤に「『謝罪』要求について(回答)」と題する書面が送られて来たものの(甲B30)、結局謝罪を拒否する内容のであったばかりか、当該書類の日付が上記2回目の会談の2日前である「1988年12月20日」となっていた。

     しかしながら、会談の時には原告梅澤には一切提示されていなかった。

(2)「座間味村公式見解」なるもの(乙21の1及び2)


以上に見られる沖縄タイムス社の対応の乱れと慌てぶりは、事の真相を知った同社内部の動揺を端的に示すものである。当時沖縄タイムス社は、既に宮城初枝に続く宮村幸延の証言により《梅澤命令説》の真実性に多大な疑問を抱いていた。だからこそ、前述の通りわざわざ同社の新川明は原告梅澤に対し謝罪の内容を求め、原告梅澤の口述する内容を書き取ったのである(甲B28)。

しかるに、その後同社は手の平を返し、座間味村公式見解なるもの(乙21の1及び2)を楯に取って謝罪を拒否するに至った。そもそもこの座間味村の見解は、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用を受けるために村として維持せざるを得ない窮余のものであった。沖縄タイムス社はそのような特殊事情の下で維持されているに過ぎない村の見解に藉口して、自らの正当性を糊塗しようと試みているものである。

《梅澤命令説》の真相に直面したにも拘らず、以上のような硬直した対応を試みる同社の振舞いは、正に同社の政治性を表しているものであり、真実を追究すべき報道機関の良心に悖るものと言わざるを得ない。そして、そのような態度は「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。


5 林博史報告記事の恣意性


(1)『慶良間列島作戦報告書』なるもの(乙35の1)


    平成18年10月3日付沖縄タイムスは、「米公文書に『軍命』」「慶良間・集団自決 1945年米軍記録」、「発生直後の住民証言」という大見出しの下、「沖縄戦時下の慶良間諸島の『集団自決』をめぐり、米軍が上陸直後にまとめた資料に、日本兵が住民に『集団自決』を命令したことを示す記録(『慶良間列島作戦報告書』)があることが、二日までに分かった。関東学院大学の林博史教授が米国立公文書館で発見した。」と報じた(乙35の1)。

    しかしながら、当該記事については次のア~オに述べるような不可解かつ不合理な点がある(原告準備書面(7)p5「2」~p18)。

ア そもそも林が発見したという『慶良間列島作戦報告書』なる記録(英文)は乙35の1及び2の沖縄タイムスの記事にその一部分が掲載されているだけで(以下、この掲載されている部分を「掲載部分」という。)、全文が掲載されているわけではなく、一体どのような文脈の中で書かれた文書なのか不明である。

イ 掲載部分は本件とは無関係な座間味村「慶留間(げるま)島」のものであり、座間味村「座間味島」のものではない。

ウ 林は「tell 人 to ~」を殊更に「命令した」と誤訳している。

エ 「Japanese soldiers」という主語は、特定されない一般的な「日本の兵隊達」を意味するだけのものであるにも拘らず、林はわざわざ「『軍命令』が存在した」と同じ意味であると解説している。

オ 林は「tell 人 to ~」に「命令した」の意味を持たせたいが故に、掲載部分の「to hide in the hills and commit suicide」の直後に続く「when the Americans landed」の部分を意図的に単に「commit suicide」にのみ係るものとして訳している。

このように、沖縄タイムス社の林報告記事には幾多の不可解かつ不合理な点がある。全ては《梅澤命令説》に何とかこじつけようとしていることの端的な証左であり、「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。

(2)「座間味島」に関する記載(乙35の2)


    他方、平成18年10月11日付沖縄タイムス(乙35の2)に掲載されている記事を仔細に見ると、林自身、「座間味島」では「軍命令」がなかったことを自認する意見を述べている。即ち、林は、「座間味島」での自決に関しては一貫して「自決するよう指導されていた」と翻訳している(乙35の2・2段目最後から4行目~3段目、3段目最後から7行目~)。

    これらの翻訳部分に対応する原文はどこにも掲載されていないが、恐らく「座間味島」の原文は「tell 人 to ~」よりも更に弱いニュアンスの言葉を使っていると推測される。そうであるが故に、沖縄タイムス社は原文の当該箇所を明示することが出来ないのである。

    以上述べた幾多の点から明らかなように、沖縄タイムス社の採る報道姿勢は、証拠内容を仔細に吟味することなく、全てを強引に《梅澤命令説》にこじつけようとする余りに大雑把なものに過ぎない。それは同時に、沖縄県民から正確な事実に接する機会を奪うことを意味するものである。

(3) 林の矛盾


因みに、林は2001年12月発行の自著『沖縄戦と民衆』(甲B37)において「赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる。これが一体どこからでてきたのかわからない」(p161)、「慶留間島に上陸した米兵が、保護した住民になぜ『自決』したのか聞いたところ、一五歳の少年は『日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ』と答えた。さらに別の住民も『彼らは脅えていた』と答えたという。」(p166)と述べて、《赤松命令説》が虚偽であることをはっきりと認め、《梅澤命令説》についてもそれを認める発言はしていなかった。

    しかしながら、林は本件訴訟が提起された後、何故か突然《梅澤命令説》について前述の通り強弁するに至っている。余りに不可解と言わざるを得ない。


6 援護法適用に関する記事の欺瞞(乙47の1)


   平成19年1月15日付沖縄タイムスは「『集団自決』早期認定」「国、当初から実態把握」という大見出しの下、遺族補償の申請から厚生省が「該当」すると認定した日までの日数が平均3ヶ月であったことをもって、「補償申請が認定されにくいため『軍命が捏造された』という主張の根拠がないことを示している」ものと報じた(乙47の1)。

   しかしながら、当該記事を仔細に吟味すると、「第1次」の申請に関するデータが「該当日が判明しないため」という理由で省略されている(乙47の1左上の表)。補償申請から認定までの時間を最も要するのは正にこの「第1次」の申請の時であり(宮村幸延が原告梅澤に語った厚生省との折衝の苦労もその時のものである)、一旦認定されるようになれば後は円滑に認定手続が行われるというのが通常である。従って、この「第1次」の申請に関するデータを示さないままで「『集団自決』早期認定」と結論付けることは余りに早計であり、意図的な事実の歪曲と言わざるを得ない。

   ここにも沖縄タイムス社の「欺瞞と瞞着」が存在する。


7 沖縄タイムスに掲載されたその他の杜撰な記事


(1)平成19年6月8日付沖縄タイムス(甲B78)


    同日付沖縄タイムスは、金城重明の「私は渡嘉敷島の赤松嘉次守備隊長から直接聞かされたことをはっきり覚えている。『われわれ軍隊は、戦況を報告するため最後まで生き延びなければならないが、住民はそうではない』」との証言を掲載した(甲B78最下段11行目~)。

    しかしながら、当の金城は、法廷では、上記「住民はそうではない」との証言について、「最後の言葉はね、私がふと言った言葉で…これは私のうっかりした。それは集団自決の後。後ですね。」などと曖昧な証言に転化させている(金城調書p43)。

    仮に法廷での証言の方が正しいとの前提に立つとすれば、沖縄タイムスの記事が誤りということになり、それは取りも直さず沖縄タイムス社の取材の杜撰さを裏付けるものである。《赤松命令説》が問題となっている裁判の最中に、証言者の意図を正確に反映しない記事を載せること自体、極めて奇異なことと言わざるを得ない。

(2)平成19年6月14日付沖縄タイムス(乙70の1)


    同日付沖縄タイムスは、吉川勇助の「米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。」という証言を掲載した(乙70の1)。この証言は、家永教科書検定裁判の際に突然出て来た富山真順証言と何故か内容を同じくするものである。

    しかしながら、当の吉川は、同年7月12日に作成した陳述書(乙67)においては、「私が持っていた手榴弾のうち、1個は、3月23日の空襲のあとに。敵に捕まったときの自決用としてもらったものです。もう1個の手榴弾は、伝令が軍の陣地から古波蔵村長のところへ来たあと、古波蔵村長が号令をかける前に、古波蔵村長からもらいました。」と述べている。つまり、手榴弾は同時に2発が交付されたのではなく別の機会に1発ずつ交付されたことを述べ、しかも、「役場を通して17歳未満の少年に交付された」という前記内容には何ら言及していない。

    このような矛盾の存在は、正に沖縄タイムス社の杜撰な取材過程と、自らの都合の良いように事実を歪曲する同社の体質を表すものである。

(3)平成19年7月7日付沖縄タイムス(甲B82の1)


同日付沖縄タイムスは、「隊長『死になさい』」「軍名ない限り悲劇起こらぬ」「座間味体験者、切々」という大見出しの下、上洲幸子の「梅沢部隊長は村民を集め『米軍は上陸して、どこにでも入り込んでいるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい』と話した」という証言を掲載している(甲B82の1)。

しかしながら、その後同社は同年7月21日付及び同月24日付沖縄タイムスにおいて、上洲からの聞き取りに誤りがあり上記証言の内容が間違っていたことを認めた上で、その内容を「日本軍の中尉が村民を集め『米軍は上陸して、どこにでも入り込んでいるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい』と話した」という内容に訂正し、関係者に深くおわびする旨の記事を掲載している(甲B82の1及び2)。

本件訴訟が提起され、《梅澤命令説》の虚偽性と原告梅澤の名誉毀損が厳しく問われているその真っ只中の時期に、杜撰な取材によって尚も《梅澤命令説》を振り回そうとする姿勢は、正に沖縄タイムス社の体質を表すものである。

(4)平成19年9月28日付沖縄タイムス(乙100)


    同日付沖縄タイムスは、「沖縄の『真実』次代へ」(1面)、「歪曲される沖縄戦」(3面)という大見出しの下、「沖縄戦の『集団自決』で亡くなったとみられる住民たち。場所は特定されていない。米軍撮影によるもの」とのコメントを付した死体の写真を掲載している(3面)。

    しかしながら、当該写真は「集団自決」によるものではなく、「米第7師団第32連隊の第一線攻撃で逃げ惑い、火砲、銃弾攻撃で見るも無残な死体となった沖縄の住民たち(昭和20年6月21日)」である(甲B103・4枚目下の写真)。

    悲惨な写真を掲載して県民の感情に訴え、歪曲した事実を定着させようとするやり方は、正に「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。

    因みに、写真を使って感情に訴えるやり方は、平成19年9月29日に開催された「教科書検定意見撤回を求める県民退会(ママ) 」の報道の際にも他の報道機関によって為されている(乙99)。それによると、「11万6000人結集」との大見出しの下、会場全体を写した写真が1面及び36面の両方を用いて大々的に掲載されているが、実際には19000~20000人に過ぎなかったことが明らかになっている(甲B99)。


8 結論


   以上の通り、沖縄タイムス等による報道の内容は、政治的意図に基づき事実を歪曲したものであり、到底信用することが出来ない。

   沖縄において未だにこのような歪んだ報道が為されている背景には、沖縄問題に関する言論空間の特殊性がある。曽野綾子が述べる次の言葉は、正に正鵠を射たものである。

       「このあたりで、私はそろそろ沖縄のあらゆる問題を取り上げる場合の一つの根源的な不幸に出くわす筈である。

        それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだ、というまことに単純な論理である。沖縄をいためつけた赤松隊の人々に。一分でも論理を見出そうとする行為自体が裏切りであり、ファッショだという考え方である。

        或る人間には一分の理由も見つけられないとする思考形態こそ、私はファシズムの一つの特色だと考えている。」(甲B18p256)。---『ある神話の背景』からの引用


沖縄タイムス等による報道の内容を鵜呑みにし、それらを証拠とした上で為されている被告らの主張が信用性に欠け、事実に悖るものであることは、けだし当然のことである。


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