15年戦争資料 @wiki

第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについて

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン
通025 | 戻る | 次へ

沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
第3・4 争点4(真実性の有無)について
第3・4(1) 被告らの主張
第3・4(1)ウ 渡嘉敷島について

第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについて




a (古波蔵村長の供述について)*


原告らは。古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上,古波蔵村長の供述から自決命令を認定することは不可能である旨主張する。

しかし,古波蔵村長は,「沖縄県史 第10巻」において,赤松大尉の命令によって軍陣地の裏側の盆地に集合させられたこと,陣地から飛ぴ出レてきた防衛隊員と合流したこと,米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に撃ち込まれている状況であったこと,防衛隊員の持ってきた手榴弾で集団自決が行われたこと,古波蔵村長自身防衛隊員から手榴弾を渡されたことなどを具体的に供述しており,古波蔵村長が,赤松大尉が自決命令を出したことを明確にしていることは明らかである。


b (富山兵事主任の供述について)*


また,原告らは,昭和63年になって突然,手榴弾の配布を自決命令であると語り始めた富山兵事主任の供述も信用できない旨主張する。

しかし,富山兵事主任には供述を捏造する理由も必要性もなく,また,富山兵事主任の供述は,前記のとおり,詳細である上,実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど,非常に具体的である。また,「潮」1971年11月号(甲B21)の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね…」とある。),にわかに手榴弾を配布したことが自決命令であると言い出したということでは全くない。富山兵事主任は,朝日新聞の記事(乙12)において,「43年後の今になってなって初めてこの証言を?」との問いに対し,
「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし,あの玉砕が,軍の命令でも強制でもなかったなどと,今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは,もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが,あらためて証言しておこうと思った」
と供述し,供述をした理由を明確にしている。そして,このことは原告が赤松大尉の命令がなかったことの根拠としている星雅彦「集団自決を追って」(甲B17)当資料庫所収 においても,
「防衛隊の過半数は,何週間も前に日本軍から一人あて2個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら,それで戦うか自決するかにせよということであった。」
と記載されているところである。


目安箱バナー