第3・4(1)イ(ウ) 座間味村の公式見解と原告梅澤の対応
a (沖縄タイムス社の照会)*
原告梅澤から「鉄の暴風」の記述の訂正と謝罪を求められた沖縄タイムス社は,座間味村村長に対し,昭和63年11月3日付けの文書(乙20)により,座間味島の集団自決についての座間味村の公式見解について照会した。
これに対し,座間味村村長は,原告梅澤による自決命令はあった,宮村盛永など多くの証言者が自決命令があったと述ぺている,集団自決が村の助役の命令で行われた事実はない,宮村幸延は酩酊状態で原告梅澤に強要されて「証言」(甲B8)に押印した,援護法の適用のために自決命令を作為した事実はない旨回答をした。この回答には,座間味村の沖縄県援護課宛ての文書(乙21の2)が添付されており,座間味村は,沖縄県援護課に対しても。同趣旨の回答をしていた。
その後,沖縄タイムス社が,原告梅澤に対し,座間味村の上記公式見解を得たことを示したところ,原告梅澤は,
「日本軍がやらんでもいい戦争をして,あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない。」
と述ぺ,沖縄タイムス社に対して「鉄の暴風」の記述の訂正・謝罪要求はしないことを明言した(乙22)。
このように,原告梅澤は,座間味村の上記公式見解を受け入れたのである。
b (宮村盛永の「自叙伝」について)*
原告らは,宮村盛永の「自叙伝」(乙28)に原告梅澤の自決命令の存在をうかがわせる記述は一切ないと主張する。
しかし,「自叙伝」(乙28)には,
「その時,今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった。」
との記述がある(71頁)。また,「自叙伝」には,
「3月26日座間味島に米軍が上陸以後の詳細については,沖縄市町村長會編地方自治七周年記念誌に登載されてあるので省著する。」
との記述もあるところ(67頁),その「地方自治七周年記念誌」(乙29)には,
「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い,また老人子供は全員村の忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった。」
との記述がある。