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第2・2(3) 本件各書籍の記述

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
第2 事案の概要
第2・2 前提となる事実

第2・2(3) 本件各書籍の記述



ア 本件書籍(1)の記述 (本件記述(1))*


「太平洋戦争」は昭和43年2月14日に発行され,その改訂版である「太平洋戦争 第二版」は昭和61年11月7日に発行された。本件書籍(1)は,「太平洋戦争 第二版」を文庫化し,発行されたが,現在まで合計1万1000部が発行された(本件書籍(1)が「太平洋戦争 第二版」を文庫化したものであることは争いがなく,その余は甲A1,B7及ぴ弁論の全趣旨)。

本件書籍(1)には、その300頁8行目から,
「座間味島の梅沢隊長は,老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し,生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ,そむいたものは絶食か銃殺かということになり,このため三〇名が生命を失った。」
との記述(以下「本件記述(1)」という。)がある。

イ 本件書籍(2)の記述


(ア)(本件記述(2))*

沖縄ノートは昭和45年9月21日に発行され,平成19年11月15日の第53刷まで増刷を重ね,現在まで,合計30万2500部が発行された(弁論の全趣旨)。

本件書籍(2)には,その69頁10行目から,
「慶良間列島においておこなわれた,七百人を数える老幼者の集団自決は,上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば,生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は,これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は,部隊の行動をさまたげないために,また食糧を部隊に提供するため,いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生,という命題は,この血なまぐさい座聞味村,渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり,それが核戦略体制のもとの今買に,そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している,この事件の責任者はいまなお,沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが,この個人の行動の全体は,いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから,かれが本土の日本人にむかって,なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば,たちまちわれわれは,かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。」
との記述(以下「本件記述(2)」という。)がある。

(イ)(本件記述(3))*

本件書籍(2)には,その208頁1行目から,
「このような報道とかさねあわすようにして新聞は,慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男,どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し,投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり,そのような状況下に,『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が,戦友(!)ともども,渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを,息もつまるほどのカでわしづかみにされるような気分をあじわうのは,この旧守備隊長が,かつて《おりがきたら,一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を恩い出す時である。」「おりがきたら,この壮年の日本人はいまこそ,おりがきたと判断したのだ,そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。」
との記述(以下「本件記述(3)」という。)がある。

(ウ)(本件記述(4))*

本件書籍(2)には,その210頁4行目から,
「慶良間の集団自決の責任者も,そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには,あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで,かれはなんとか正気で生き伸ぴたいとねがう。かれは,しだいに稀薄化する記憶,歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために,過去の事実の改変に力をつくす。いや,それはそのようではなかったと,一九四五年の事実に立って反論する声は,実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での,市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情,倫理感に立とうとする声は,沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが,一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで,かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」「本土においてすでに,おりはきたのだ。かれは沖縄において,いつ,そのおりがくるかと虎視眈々,狙いをつけている。かれは沖縄に,それも渡嘉敷島に乗りこんで,一九四五年の事実を,かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて,かれの永年の企ては莞結するのである。かれにむかって,いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守傭隊は血を流すかわりに容易に投降し,そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き,善良な市民となったのだ,という声は,すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき,かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に,廿い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと,渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては,およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりがきたら,かれはそのような時を待ちうけ,そしていまこそ,そのおりがきたとみなしたのだ。」
「日本本土の政治家が,民衆が,沖縄とそこに住む人々をねじふせて,その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた,かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること,事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは,若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく,穏やかな無抵抗の者だったではないか,とひとりの日本人が考えるにいたる時,まさにわれわれは,一九四五年の渡嘉敷島で,どのような意識構造の日本人が,どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの,およそ人間のなしうるものと恩えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。」
との記述(以下「本件記述(4)」という。)がある。

(エ)(本件記述(5))*

本件書籍(2)には,その213頁3行目から,
「おりがきたとみなして那覇空港に降りたった,旧守備隊長は,沖縄の青年たちに難詰されたし,渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では,沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ,イスラエル法廷におけるアイヒマンのように,沖縄法廷で裁かれてしかるぺきであったであろうが,永年にわたって怒りを持続しながらも,穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は,かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは,架空の沖縄法廷に,一日本人をして立たしめ,右に引いたアイヒマンの言葉が,ドイツを日本におきかえて,かれの口から発せられる光景を恩い描く,想像カの自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したいと,『或る昂揚感』とともに語る法廷の光景を,へどをもよおしつつ詳細に恩い描く,想像カのにがい自由をもつ。」
との記述(以下「本件記述(5)」といい,本件記述(1)ないし本件記述(4)と併せて「本件各記述」という。また,本件記述(2)ないし本件記述(5〕を併せて「沖縄ノートの各記述」という。)がある。


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