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第2・2(2) 第二次世界大戦における沖縄戦と座間味島及び渡嘉敷島における集団自決

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
第2 事案の概要
第2・2 前提となる事実

第2・2(2) 第二次世界大戦における沖縄戦と座間味島及び渡嘉敷島における集団自決



昭和16年12月に始まった太平洋戦争は,昭和17年のミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられ,昭和19年7月にはサイパン島が陥落し,昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し,次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。

昭和19年3月,南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され,同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し,この沖縄守備軍・第三二軍は「球部隊」と呼ばれていた。

昭和20年3月23日から,沖縄は米軍の激しい空襲に見舞われ,同月24日からは艦砲射撃も加わった。慶良間海峡は島々によって各方向の風を防ぎ,補給をする船舶にとっては最適の投錨地であったことから,米軍の最初の目標は,沖縄本島の西55キロメートルに位置する慶良聞列島の確保であった。米軍の慶良間列島攻撃部隊は,アンドリュー・D・ブルース少将の率いる第77歩兵旅団であり,空母の護衛のもと,上陸作戦に臨んだ。

慶良間列島には,座間味島,渡嘉敷島,阿嘉島などがあるところ,昭和19年9月,座間味島には原告梅澤が指揮する海上挺進隊第一戦隊(以下「第一戦隊」ともいう。)が,渡嘉敷島には赤松大尉が指揮する海上挺進隊第三戦隊(以下「第三戦隊」ともいう。)が配備された。海上挺進隊は,当初、小型船艇に爆雷を装着し,敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが,結局出撃の機会はなく,前記船艇を自沈させた後は,海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。

原告梅澤の守備する座間味島と,赤松大尉の守備する渡嘉敷島では,米軍の攻撃を受けた昭和20年3月25日から同月28日にかけて,それぞれ島民の多くが集団自決による凄惨な最期を遂げた(なお,以下では,原告梅澤が座間味島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「梅澤命令説」といい,赤松大尉が渡嘉敷島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「赤松命令説」という。)。



<語彙>集団自決,太平洋戦争,ミッドウェー沖海戦,サイパン島,硫黄島,南西諸島,西部軍,第三二軍,球部隊,アンドリュー・D・ブルース少将,第77歩兵旅団,阿嘉島,海上挺進隊第一戦隊,海上挺進隊第三戦隊,守備隊,梅澤命令説,赤松命令説
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