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我部政男山梨学院大学教授

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pipopipo555jp

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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』
平成19年12月25日
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html


資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)

大城将保沖縄県史編集委員


我部政男山梨学院大学教授



平成19年12月1日

沖縄戦に関する私見

山梨学院大学我部政男

平成19年11月14日付けの私への書簡について、以下のようにご返事をします。

この問題への解答は、私の場合、正直なところ心の中に両面が存在するように思います。一面はすごく簡単で、これまでに沖縄戦に関して書いた二の論文の内容を参考に繰り返し自説を述べればいいという面であります。他のもう一方の側面は、心理的に不明確な苦渋の選択を強いるようなものであります。

私の沖縄戦についての研究状況は、今なお不十分さ未熟さの段階にとどまっており、自らを沖縄戦研究者であると詐称するつもりもありません。これらのことをあえて承知し、自己認識した上で、しかし、意見を求められるというせっかく与えられた機会ですので、私なりの返事を認めるつもりで、以下論じることにします。

沖縄戦についての私の今の見解は、過去に私が書いた二の論文にほぼ完全に表明されていると考えております。したがって、基本的に新しい意見や見解を付け加えることはありません。二の論文を正確に精読していただければ、素直に理解できるはずであります。

はじめに、二の論文の所在を明らかにしておくことにします。不思議とこの二の論文とも、科学研究費補助金の交付を受けた研究成果の報告であります。

① 「沖縄:戦中・戦後の政治社会の変容-戦後地方政治の連続と非連続」(天川晃・増田弘編『地域から見直す占領改革』山川出版、2001)

②「戦時体制化の沖縄戦-軍官民一体化論と秘密戦を中心にー」(『沖縄戦と米国の沖縄占領に関する総合的研究』基盤研究A、課題番号14202010 研究成果報告書)

二の論文を書き終えた今、考えることが一つあります。

沖縄戦研究には、多様な側面が存在します。それらを総合的に把握し、判断することが要求されます。

沖縄戦の研究は、確かに大きな進展を遂げてきています。沖縄の住民の戦争体験の収録は、研究者や地域自治体の精力的な活動によって沖縄の戦後の歴史に残る大きな成果をあげています。これらは、オーラルヒストリーの手法による戦争の体験や記憶を記録化する事業で、戦争の実態の側面を鋭く抉り出す役割を果たすことになるであろうと考えます。住民の戦争体験の正確な継承は、沖縄戦における最も重要な側面であることには、かわりはないと思います。同時に戦争の実態を解明するには、より多方面の関係資料の調査・収集が実施されなくてはならないと考えております。しかし、そのことは、十分になされているとは、言いがたい。このことは、今後の大きな課題であろうと私は思います。

文部科学省より、例えば、沖縄戦における「集団自決」、太平洋戦争における沖縄戦の位置づけ等に関しての私の見解を問われたが、それら依頼のすべての項目に関して、学術的に答えることは、今の私にはとうてい不可能であります。しかし、明確なことは、以下に明示するように「集団自決」の起こった歴史的な事実の背景に「軍官民一体化」論理が存在していたことであります。戦時におけるこの国民意識の存在の意義から「集団自決」の発生を考えることが、私には、ごく自然なように思われます。

研究の成果の質量ともに多様な側面の最先端の良質の部分が教科書の叙述に採用されることは、理想的なことだと思います。しかし、教科書の叙述のように僅か数行の幅に収めることは、大きな緊張の伴う精神作業のように思います。幅広い見識が要求されましょう。

沖縄戦末期にいわゆる集団自決が、事実として起こっております。その歴史的な事実を因果関係において説明する方法として提示されているのが、「軍命令」であります。

私の考えでは「軍命令」は、先に提示した「軍官民一体化」論理の範疇に入るものだと考えます。

多くの人が承認するように、歴史は、資料に基づいて考察し解明され、そして叙述される行為でありましょう。

比較的多くの人の同意を得るためにも、沖縄戦に関しても同様に広く関係資料を調査・収集しなくてはなりません。改めて、沖縄戦に関する資料の調査・収集を、私は強く希望しておきたいと思います。以下の叙述は、先の論文②から、該当個所を引用しておきました。参考にしていただきたいと思います。



四 沖縄戦時の政軍関係


1 総力戦体制と防諜・間諜指導

この第4章から第6章までの第2部では、比較的に沖縄戦に焦点を絞り分析を深めることにする。もちろん第1部の戦時体制化で取り上げた治安対策のスパイ問題が沖縄の地域でどのように展開したかが中心的な課題である。

これまで、戦後60年の間に沖縄戦に関する見解は、どのように示され解釈されてきたであろうか。沖縄戦も地域としては沖縄に限られているが、広くは、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争の一部であることは、断わるまでもないことである(1)。この第2部で沖縄戦の全体像を総体として、提示することはできないが、その1つとしてすでに提起されている見解から切り口を見つけることにする。およそその典型的で代表的な見方の一が、防衛庁戦史の戦史等で表明している、「沖縄作戦」と称する見解であろう。すべての日本人、研究者が、同様に沖縄作戦史観の立場をとっているというわけではないが、おそらく、日本国家の見方もほぼそれに近いのではなかろうかと思われる。因みに、その一つをここに引いておく。

「沖縄作戦は、大東亜戦争の末期、沖縄本島を中心に日米両軍が文字どおり死闘を繰り返した、最後はあの国土防衛作戦である。日本軍は、米軍が沖縄諸島に進攻基地を推進しようと来攻する戦機をとらえ、その戦力を撃破して戦意を挫き、もって戦争目的の達成をはかろうとした。一方、米軍にとって本作戦は、沖縄本島に日本本土進攻の拠点を設け、その直後に予定する本土攻略戦の試金石ともなるものであって、日米両軍にとり重大な意義を有する作戦であった。圧倒的な物量を誇る米軍に対し、日本軍は、沖縄県民と真に一体となり、死力を尽くして長期持久作戦を遂行した。遂に敗れたとはいえ、この軍官民一体の敢闘は、米軍に多大の出血を強要してその心胆を寒からしめ、もってその本土攻撃を慎重にさせ、わが本土決戦作戦準備に貴重な日時を与えた。特に可憐な男女中学生を含む県民の敢闘は、当時国民に深い感銘を与えたのであり、長く戦史にとどめらるべきものであろう」(2)

この見方に関して、今日の時点での評価や見解は、大きく別れることはともかくとして、過去の歴史のある側面、たとえば、戦争を指導した人々に焦点を当てて考え、歴史の文脈のなかで大掴みにいえば、この見解にも肯定すべき面のあることも認めないわけにはいかない。

先の第1章から第3章までの第1部のところで詳細に分析したように、「軍官民一体化」論の立場からすれば、この考えは戦時の国民意識の指導原理がそのまま戦後に引き継がれた見方であることが判明するはずである。批判的な見方をすれば、戦時中の「軍官民一体化」論の亡霊が、戦後もその負傷したまま生き延びているようなものである。

しかし、戦争に動員された人々の立場からすれば、明らかにすべきは、「日本軍は、沖縄県民と真に一体となり、死力を尽くして長期持久作戦を遂行した」という文言のところをどのようなレヴェルで肯定するかということに関ってくるようにも思われる。言葉の「真の一体化」を単に歴史的な事実の側面のみならず、この場合、一体化に向けて作用した国家権力(天皇、政府、軍部)の意思をも明らかにする必要があるように思われる。その点で先の沖縄作戦史観からの見解だけが、支配的で正当性を持つともかぎらないことは言うまでのない(3)。本論文では、国家の側からの行政的な同一化・戦力化政策に焦点を定めながら、戦時行政で重視される治安維持の側面を防諜・間諜の視点から住民の戦力化のテーマに接近し、問題点を捉え直してみることにする。この点は、第1部のところで明らかにした論点を踏まえ、その論理が地域としての沖縄にどのように作用したかということに関心が集中してくるのである。

すでに前章でも検討してきたように、沖縄も日本国の一部を形成しているので、大きな流れの態勢はほぼ固まっているように思われる。少し遅れた出発ではあったが、治安立法の法体系は、沖縄地域にも網の目をかぶせていた。機密保護法やスパイ問題が、どう展開したのか少し細部に立ち入って見ることにする。

ところで、前章(第1章から第3章まで)で論じ分析した件とも関連するが、スパイ問題は、もっとも直裁に沖縄戦に切り込める糸口のように思える。

これまでは、沖縄戦中に隠微で多様に繰り広げられる防諜・間諜についての視点で書かれた論文は予想よりもはるかに少なく、わずかに玉木真哲「戦時沖縄の防諜について-沖縄守備第32軍の防諜策を中心に-」(『沖縄文化研究』13号1987年)(4)と松岡ひとみ「秘密戦における軍民間の相互作用と接点-沖縄戦の情報に関する一考察」(『沖縄関係学研究論集』第4号1998年)等の研究がある(5)。防諜・間諜に関して重要な史料として注目されてきた「秘密戦ニ関スル書類」を活用している。

最近は、藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき―』(青木書店2001)纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』(筑摩書房1999)、林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店2001)等すぐれた研究書が発刊されつつある(6)。

殊に、纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』(7)のなかの「沖縄戦と秘密戦」の個所は、正確ですぐれた分析で傾聴に値する。もちろん、『本部町史、資料編1』(本部町教育委員会編、1979・9)(8)に収録された「秘密戦ニ関スル書類」も丹念に検討している。これらの成果も部分的に取り入れ参考にしつつ、叙述を進めることにしよう。

沖縄戦は日米戦争の色彩が濃厚であることには変わりはないが、その特質としてあげられている防諜、間諜、謀略がいかに展開されたかについても関心を示すことが重要であろう。関心事の集中する「沖縄人スパイ」説から入ることにする。あくまでも説であり、噂や風聞に過ぎないが、研究のスタートもこのレヴェルから出発するしかない。

戦後の第八十九回帝国議会貴族院に、最後の沖縄出身の男爵伊江朝助議員が残っていた。伊江の発言として次のことが貴族院の速記録に残されている(9)。

「沖縄終戦ノ三日前ニ、盛脇(森脇カ)ト云フ陸軍ノ中尉ガ牛島司令官ノ命ヲ受ケテ沖縄カラ脱出シタ、其ノ道案内ヲシタ者ガ海軍ノ二等兵曹ノ上地ト云フ男、此ノ男ハ沖縄出身デ、大学ノ学生デアリマシタケレドモ、召集サレマシテ海軍ニ入ッタ男デアリマス。是ガ万難ヲ冒シテ盛脇ト云フ中尉ヲ連レテ脱出シテ、奄美大島ノ徳之島迄行ッタ、盛脇中尉ハ非常ニ感謝シテ居ッタノデアリマスガ、徳之島ニ上陸スルト盛脇中尉ハ、今回ノ沖縄戦線ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行為ニ因ルト云フコトヲ放送シタ、其ノ上地二等兵曹ハ非常ニ憤慨シマシテ、刺違ヘテ、ヤラウト云フ考ヲ起シタ、然ルニ考ヘテ見ルト、司令官ノ命令デ脱出シテ大使命ヲ持ッテ居ルカラト云フノデ其ノ儘ニシテ居ッタ、サウシテ此ノ人ガ九州地方ヲ廻ッテ、九州ノ疎開地ニ、今回ノ沖縄戦ハ沖縄県人ノ「スパイ」ニ因ッテ負ケタノダト云フヤウナコトガ流行ッテ、沖縄五万ノ疎開民ガ受入地カラ非常ニ脅迫サレタト云フ事情モアルノデアリマス、我々カラ考ヘマスト、非常ニ残念ニ思フノデアリマス」(衆議院議員選挙法改正法律案特別委員会議事速記録第2号)

日本の敗戦という社会の虚脱状況の中で沖縄人の裏切り行為が、戦争に負けた理由だとする軍人の沖縄県人スパイ観の情報に接し、伊江は非常に残念であり、帝国臣民の名誉にかけても憤慨にたえない。この件につき、国務大臣をはじめ、国民に問いただす発言になっている。この速記録によれば、沖縄人スパイ説は戦時から戦後に引き継がれ、その情報の流れは戦時に九州各地に疎開しそのまま置き去りにされた人々の上にも重くのしかかっていた。その沖縄人スパイ観の起源は、意識や感情に作用していて歴史をさかのぼれば、容易に発見できようが、やはり直接的には戦時に必要に応じ再生産されたと見るのが、適切であろう。遠因はさかのぼれば、際限なくきりがない。しかし、ここでは、明治期までさかのぼり、意識のあり方として、先に明治の山県有朋らの考えを検討してみた。しかし、その考えが直接的に戦時期に連動するわけではない。そこには多くの媒介項や留保事項がなければならないはずである。

ところで、不思議なことに、この伊江の発言の内容と次に示した森脇の証言は基本的な行動の点では一致している。伊江発言を裏付ける文書の存在がいささか興味を引く史料である。

元陸軍中尉森脇弘二の稿本「沖縄脱出記」が、防衛研究所図書館に所蔵されている(10)。その稿本の扉にこう説明してある。「本人は陸軍歩兵学校教官として該地巡回教育の途上沖縄において戦闘の渦中に投じて、32軍司令部付きに命課され、独立混成第44旅団司令部において勤務して作成に従事した。本記事は司令部より戦訓報告のため大本営へ派遣され脱出記事である」と。その第一巻のなかの6月8日の条に次のような箇所がある。少し長い引用になるがいとわず引いておく。

「洞窟の中を歩いて見ると、以前の顔ぶれが揃っていた。変に思って聞いて見ると、昨日2組出発したが敵のスパイらしいが崖の上で発火信号したため、敵の掃海艇に攻撃せられ、陸軍切込隊は全員行方不明、海軍の組は一名を失っただけで舟をやられて辛うじて流れて帰って来たとのことであった。海軍の兵曹長が今晩スパイを斬って来ると張り切っているそうだ。夕刻になって伊良波が帰ってきた。軍命令は貰って来ていた。「軍命令なくして戦線離脱すべからず軍占領地区内にあるくり舟は軍命令なくしては一艘たりとも使用すべからず、所在部隊は軍命令により森脇中尉に能う限りの協力をせよ」という趣旨のものであった。既に軍の秩序は麻の如く乱れ、その統制は全く行われていない。人は軍律よりも自己の生命の危険に戦いている。この時期に一片の軍命令が何程の効果を発揮し得るだろうか。私は迷ったまま、黙っていた。日暮時兵曹長が「今からスパイを斬って来ます」と言って来た。私は「御苦労さん、拳銃を貸そうか」と言ったが、「何、これさえあれば沢山ですよ」と軍刀を見せ乍ながら出て行った暫くたつと「やはり借りて行った方がよかったですな。手負ひだけど一人逃がしてしまったよ」と残念そうに行って来た。スパイはハイカラな服装をした男一人と女二人で先ず男に一太刀あびせ次に女二人を斬ったが女を斬っている隙に男が拳銃を撃ち乍ら逃げてしなったのだということであった。然し、もう妨害は出来ないだろうと思って安心した。」

スパイ殺害事件に関する当事者による貴重な証言で、信頼にたる資料である。戦時期の沖縄の治安状況を明らかにすることは、現在でもなお困難な状況にある。事実関係を明らかにする研究史料が圧倒的に少ないという障害が横たわっている。それを補完する意味で、国家の側から出てくる言論統制の目的をもって配布された文書に注目する必要があるのかもしれない。しかし、その手法を採ると沖縄の状況を特化させる。この方法が、全体的な状況のなかに沖縄を溶解してしまう可能性もある。そこで、中間的な手法を試みる。前者のごく基本的な方法は、すでに第1部の第2章で示しておいた。

戦時においては、国民的なレヴェルにおいてすでに昭和16年にスパイ活動を防止する目的で国防保安法が施行されており、国民の間に防諜思想の普及をはかる立場から防諜週間を設けるなどのキャンペーンも行われている。防諜対策という国の政策は、国民のなかに相互監視の体制を作り出していくことであり、また、国民のなかに敵国に対する敵愾心を奮い立たせつつ、必然的に猜疑心を醸成させていく心理作戦である(11)。この防諜思想の普及は実態として、多様な展開をとりながら、沖縄社会の治安状況とも絡みつつ深く広く浸透していく。

治安立法である軍事機密保護法、国防保安法の制定後、沖縄社会はどのような変化が見られたのか。その反応は、防諜週間の実施という行事として早く現れている。防諜思想の普及とその徹底が目的であるが、行動の主体は、やはり沖縄県特高課であった。その他に市町村、警察署、学校、警防団、連隊区、憲兵等が参加している。

軍の情報の強力な協力宣伝機関の一翼を担っていた新聞の社説も
「国家総力戦に於て最も緊切なるものは思想戦である。国民の精神思想が脆弱であれば、敵国又は第三国の宣伝謀略に乗せられて敗戦の憂目をみる外はない。国民が国策の針路を十分に理解体得し毅然たる決意強固なる信念の下に翼賛の実を挙げるべく努力する」(12)
と、このことが大切だと思想戦の重要性を説く。政府の意図した言論統制が功を奏しつつあった。

沖縄守備隊第32軍の沖縄戦時のスパイ観については「沖縄戦防衛庁文書」(13)の中に多く散見できる。その軍部の住民に対する基本的な見方は、「秘密戦ニ関スル書類」(「返還文書」返青13-12)(14)で提示したのと内容的にほとんど同じであり、共通している。すなわち、沖縄住民に対するスパイ視する意識や考えは、常時社会の雰囲気の中に重く顕在していたと考えられる。例えば「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ、沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」(球軍会報)(15)などは、異常な緊張関係の中での軍の自信の喪失と住民への猜疑心を露呈したものであった。沖縄社会で日常的に話されていた琉球沖縄方言が、「スパイ言語」とみなされ使用禁止されたのである。東京語をモデルにした標準語を日常的にコミュニケーションの手段として使用することが、国民国家の形成に他ならなかった。その間隙にあって、その余波を受けずに生活を送ることの可能であった閉鎖的な地域社会のいわゆる老世代にとっては、自己のことば生活手段としての地方的な文化すなわち、琉球沖縄方言による表現手段の剥奪であり、内容とはかかわらないいわば言論の弾圧であったに等しい状況であったといえよう。軍の説く国家の側からの軍民一体論の幻想が、現実の地域社会に直面する時、例えば敵国アメリカの軍隊が上陸を敢行した時点で、日本軍がどのような行動に出るかは、十分に予想できたと思われる。国家の側のとりわけ軍部の創り出した自己同一の信念が揺さぶられる時、軍は信頼すべき者とみなされていた県民への仕打ちが、何でありえたのかについて次に見ることになろう。

想起してみるに、この緊張状況は、植民地支配地域では日常的に作りだされていた。同一化策による言語の使用、治安立法等を見れば明らかである。植民地支配を強権的な政治手段で見るならば、戦時における人民支配のあり方と共通する側面が多い。植民地を所有する国家は、戦時において国内もまた植民地的な政治状況に変容する必然性を有していたことになるであろう。そのことの持つ論理の思想史的な意味を解明しなくてはならない。

2 「秘密戦ニ関スル書類」と住民対策

この文書史料はアメリカ政府からのいわゆる返還文書の一部で、原本は、現在国立公文書館に所蔵されている。史料の系列の流れから言えば、防衛庁戦史室の沖縄戦関係文書の一部であるように推察される(16)。これらの史料を分析することは、謀略を任務とする特務機関の事例研究にもなるであろう。

この史料は、1944年(昭和19)11月から翌年3月の5ヶ月間にわたる独立混成第44旅団(旅団長鈴木繁二少将)の下にある球7071部隊(第2歩兵隊、宇土武彦大佐)の書類で、主に球1616部隊(第32軍司令部)との往復書簡、書類と第2歩兵隊の書類が中心で、鉛筆書、ペン書、ガリ版刷の公私文書等を含んでいる。したがって、それらの書簡は、軍司令部情報主任薬丸兼少佐と第二歩兵隊防諜謀略主任熊田正行中尉、同諜報宣伝主任山本緑中尉、第三遊撃隊の遊撃秘密戦主任村上治夫大尉との間で交わされた連絡事項が多い。もちろん書類には宇土武彦大佐も目を通して署名を残している。大掴みにいえば、この史料は、三つの内容に分類できる。①陸軍、海軍、政府(特に内務省)関係、②第32軍司令部と第2歩兵隊、③第2歩兵隊と秘密戦機関=国士隊、の3つの側面で構成されている。

ところで、軍は防諜、間諜、謀略についてどのような具体策を持っていたであろうか。以下において「秘密戦ニ関スル書類」の内容を検討することにする。

1944年(昭和19)11月18日、極秘「報道宣伝防諜等ニ関スル県民指導要綱」が、球第1616部隊(第32軍司令部)作成されている。そのもとの骨子は、同年の10月6日の、「決戦輿論指導方策要綱」に基づいている。「決戦輿論指導方策要綱」は先に第2章第2節の「機密保護対策の強化」ところで触れておいた。この例からも判るように政府の意思は通達として沖縄にも伝えられていた。全く同じ文章ではないが、現地の状況に適合するように改められている。

「第1方針」のところにその目的が明確に示されている。

「皇国ノ使命及ビ大東亜戦争ノ目的ヲ深刻ニ銘肝セシメ我カ国ノ存亡ハ東亜諸民族ノ生死興亡ノ岐ルル所以ヲ認識セシメ真ニ六十万県民ノ総蹶起ヲ促シ以テ総力戦態勢ヘノ移行ヲ急速ニ推進シ軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現シ如何ナル難局ニ遭遇スルモ毅然トシテ必勝道ニ邁進シルニ至ラシム」

方針は、あくまでも原則的なことを述べている。「60万県民」と記述するあたりが地域的な適合性であろう。内容はすなわち、精神主義的な一体感の醸成であり、常に意識として幻想的な「軍官民共生共死」という運命共同体を感知させることにある。すなわち玉砕意識の共有化をめざしたのであろう。国家による上からの一体感を創り出すべく努力している。いわゆる非常時に国家権力側の創出する同一化意識、すなわち指導上のアイデンティティー形成による同化策であった。その方針を広く住民の中に浸透させ、機能させていくには、関係機関の縦横の協力が必要になってくる。実行と取締りは、沖縄憲兵隊の役目で「本要綱ニ基ク実行ノ指導取締ニ任ズ」と規定されていた。頂点にあって全体の統轄は、当然のことながら第32軍の任務であるが、各兵団、各守備隊、憲兵隊、在郷軍人会、県当局等が、それぞれに担当して実行にあたることになっていた。

特に、軍の側から沖縄県当局の実行すべき項目として

「二、軍ハ本件ノ特性特ニ内地防衛ノ最前線ナルニ鑑ミ森厳ナル軍紀ヲ確立シ皇軍タルノ実ヲ現示シ以テ県民ヲシテ積極的ニ軍ニ協力スルト共ニ絶対ニ軍ニ信頼シ如何ナル事態ニ遭遇スルモ動揺混乱スル事ナク冷静沈着事ヲ処シ各職域奉公ニ邁進セシム。

三、県当局ノ治政ヲ極力援助シ県民ヲシテ尊厳ニシテ悠久ナル国体観念ノ下神州不ヲ確信シ必勝ノ信念ヲ堅持セシムルト共ニ克ク時局ヲ認識シ個人生活ハ国家ト共ニ在スルコトヲ知ラシメ総テヲ戦争完遂ノ一途ニ集中シ以テ敵愾心ヲ旺盛ナラシメ奉公心ヲ昂揚セシム。

四、常ニ民側ノ真相特ニ其ノ思想動向ヲ判断シ我ガ報道宣伝ノ効果、敵側諜報宣伝、謀略ノ企図及内容ノ探査等敵策動ノ関スル情報収集ニ努メ敵ノ謀略並ニ宣伝行為ノ封殺ニ遺憾ナカラシム。

時に報道機関、マスコミに対しては、
(一)戦時執務要領ニ準拠スル外軍防衛ニ基キ軍ノ行動ニ即応セシムルヲ第一トス。
(二)報道宣伝ハ自主的計画的ニシテ全機関ハ軍ノ完全ナル統制ノ下ニ実施ス。
(四)常ニ戦局ノ推移民心ノ動向ヲ察シ機先ヲ制シ好機ニ投ジ重要事項ハ反復宣伝ヲ実施ス。

この会員には、軍、警察特高関係者の他に沖縄新報社社長、同盟通信那覇支局長、毎日新聞那覇支局長、朝日新聞那覇支局長、放送局長の名が連ねている。

ところで、秘密戦とは何を意味していたか。先ずはその規定を探ることにする。

「国頭支隊秘密戦大綱」なかでは、
①「本綱中ノ宣伝、防謀、遊撃秘密戦ハ謀報謀略ト共ニ之ヲ秘密戦ト呼称ス」、
②「秘密戦ハ国家総力戦タル今日武力戦ニ即応不可欠ノ勤務トナリ作戦ヨリ戦闘ヘト全面的乃至終期的役割ヲ要請サレアリ」と。

防諜は、敵との交戦前(対内諜報)と攻撃開始前後とに区別される。交戦前は、「住民ノ思想動向特ニ敵性分子ノ有無」に向けられるが、開戦後の宣伝戦は、「軍官民ノ戦意ヲ昂揚シ戦力ノ培養維持ヲ策ス」となっている。さらに続けて「作戦準備期間ハ報道宣伝ニ努メ戦闘中ハ謀略宣伝ヲ併用ス」となっており、場合によっては、状況を転換させる目的のために作為的に新状況を創作することも考えていた。

ところで、(三)国士隊はいかなる隊なのか。国士隊は宣伝、諜報、防諜、謀略を任務とする秘密機関で、北部地区の国頭地方で1945年(昭和20)の3月に各町村の有力者、実力者、学校長、翼賛会員等を集めて結成された。その国士隊に関する軍側の評価を見てみよう。

「当日会同セル会員一六名ハ悉ク感激シ一死報国ノ念ニ燃ユル決意看取セラルルモ仲宗根源和ヲ除ク全員ハ当地区ニ於ケル所謂人格者知名士型ノ士ニシテ斯種任務ニ嘗テ服務シタル体験ナク且ツ組織的ニ斯種教育ヲ受ケタル者ナク機密保持並服従精神薄弱ナル脆弱面アリト思料セラルル点アルモ任務ノ重大性ヲ鼓吹、感激心ヲ昂揚持続セシムレバ或程度ノ活動ハ期待セラルルモノト思料ス」

軍当局の所見も地域の情報に熟知しており、なかなか冷静で観察も細かい。仲宗根源和を除くとした理由について、こう続けて述べる「仲宗根源和ハ元日本共産党ニ関連シ相当深刻ナル左翼的イデオロギーノ抱持者ナルモ現在ハ斯種運動ヨリ遠ザカレル者ニシテムシロ本人ノ感激心ヲ唆リタラバ予期以上ノ成果ヲ収ムルニ非ズヤト思料セラルル」と。個人の内面に関わる情報も的確に把握している軍部の情報量の豊富さに改めて感嘆する。

国士隊の勤務に関して、「防諜ハ本来敵ノ謀報宣伝謀略ノ防止破摧ニアルモ本島ノ如ク民度低ク且島嶼ナルニ於テハ寧ロ消極的即チ軍事始メ国内諸策ノ漏洩防止ニ重点ヲ指向シ戦局ノ推移ニ呼応シ積極謀略ニ転換スルヲ要ス」とあるように、住民が軍に忠誠を尽くすことを期待しての戦略であったことが理解できよう。当初より防諜(スパイ取り締り)が最大の目的であり、その方針であることがこれらの史料からも窺える。

一 謀略ハ大掛リ而モ綿密周到ナル準備ニ依リ確実ナル基礎ヲ作リタル後実施スルニ非ザレバ顕著ナル成果ヲ期待シ得ザルヲ以テ専ラ軍ノ行フ謀略ニ追随スルノ準備ニ止メ要スレバ局部的現実的謀略ヲ策ス。
二 謀略実施ハ宣伝機関トノ関係不可分ナルヲ考慮シ平素之ガ素地ノ培養ニ務ム。

となっている。正確な情報収集の重要性の認識、住民の内面のコントロールすなわち、心の中まで支配・統制し、軍の目指す方向に指導することであり、住民が軍を信頼し信じ切ることを強要し、必要に応じ時に脅迫もした。

国士隊の「国頭支隊秘密戦大綱」には、次のように記されている。

部隊の中では、特に謀報を担当する隊員が配置されていた。その隊員は、次に掲げるような担当地区の一般住民の民心の動向に特に細心な注意をすべきであると。

すなわち

①「反軍、反官分子ノ有無」、
②「外国帰朝者特ニ第二世、第三世ニシテ反軍反官的言動ヲ為ス者ナキヤ」、
③「反戦厭戦気運醸成ノ有無、若シ有ラバ其ノ由因」、
④「敵侵攻ニ対スル部民(民衆)ノ決意ノ程度」、
⑤「一般部民(民衆)ノ不平不満言動ノ有無、若シ有ラバ其ノ有因」
⑥「一般部民(民衆)ノ衣食住需給ノ状態」等「ヲ隠密裡ニ調査シ報告スルコト」、

この取り締まることのみならず、防諜については①「一般部民ノ防諜観念ノ昂揚ニ努ムルコト」②「徒ニ民心ヲ不安動揺セシムル言動(流言蜚語)ノ未然防止ニ努メルト共ニ流言発生ノ際ハ之ガ根拠ヲ探索スルコト」を指導すべき点も強調している。

しかし、これら「秘密戦ニ関スル書類」①、②、③の各資料は、国家総動員法で方向づけられた総力戦体制、国内のあらゆる力を戦争に動員するという戦争を指導した日本の支配体制の政策の展開という一本の太い線で貫かれている。戦争遂行政策すなわち国民の戦力化への道は、この史料で見る限りにおいても、沖縄地域ではきわめて、典型的に機能し、浸透していったことを示している。

防衛庁戦史室の「陣中日誌―輜重兵第24連隊第5中隊の記録-」(17)によって、軍の住民対策をみておこう。国内の中で軍隊の駐屯する地域と駐屯しない地域とでは、状況は大きく異なる。沖縄地方のように表面的ではあるが、軍民一体の態なしているところでは、全国的に見て防諜・間諜の在り方もそれなりに差異が存在したはずである。

きわめて重要な視点であるが、第32軍の住民対策には、当初から矛盾した二つの課題を抱え込んでいた。最初の一つは、県民・住民の協力をいかに調達するかということであり、他の一つは軍事機密をいかに保持するかということである。この二つは戦争遂行にとって軍部が最も気を配り、重視し意を注いだ点であった。

しかし、軍部は住民の「皇民意識ノ徹底セザル」ことを理由に不信を投げかけていた。信用できない住民を戦力化して活用しなければならない軍部は、軍事機密のもれることを極力警戒しつつ、住民の協力を引きだそうとした。そのために起きた軍と住民との摩擦が「スパイ嫌疑」であった。いかに住民が皇民(国民意識、公民意識)意識に徹底し、戦時の戦争体制に全面的に協力したとしても、政治権力の構造的側面から見れば,民と軍との間には越えがたい一線が深い渓谷のように連なっていた。実際に軍部の体質はそのことを隠そうとはしていない。軍部が、軍事機密を守るために、はりめぐらした防諜,間諜の網の目はそれを示している。例えばその一つに軍人に対し「兵ノ一般民ニ接触シ紊リニ談話スルコトヲ禁ズ、指導ヲ誤リ軍ノ威信ヲ損ジ、又防諜上適当ナラズ」と訓令していることから頷ける。

軍にとって、軍事機密の洩れるのを防ぐために、地方民すなわち住民との接触や交渉を可能なかぎり避けるように努力しながら、その対象である住民の自発的な努力なしには、戦争推進体制の確立もできないというジレンマに立たされていた。軍がその解決策として考案したのが、南方諸島で実施した「兵補制度」にならった「防衛隊」の構想であった。「地方民力ノ強力ナル戦力強化ニ就テ」では軍の本音と内心が図らずも顔を出してしまっている。

すなわち、沖縄での日米の対決に際して、

「最大ノ難事ハ作業力ノ供給ナリ、防諜上許シ得ル範囲内ニ於テ、此地方民力ヲ活用スルコトニ関シテハ、上司ニ於テモ夙ニ著目サレ、既ニ実施中ノ所ナルモ、一刻ヲ争フ現戦局化、皇民意識ノ徹底セザル本島人ヲ思フトキ更ニ其ノ民力ノ供給ヲ強力ニ一元的ナラシムルト共ニ、ソノ指導ニ於テハ軍隊的ナラシメ強力ナル精神指導機関ヲ特設シ以テ旺盛ナル皇民意識ノ下、積極溌剌タル御奉公ヲ感激ノ中ニナス如ク指導スル」

と述べている。精神指導機関を特設するというのは、特務機関を作ることを意味している。

指令官牛島満も訓辞の中で、地方官民の自発的な協力を期待した(独立混成第15連隊、陣中日誌)。自発的な協力は、適当な指導によって引き出される協力のことである。

しかし、軍部は基本的な立場としては沖縄住民すなわち民間人を十分には信頼してはいなかった。沖縄地域すなわち「管下ハ所謂〈デマ〉多キ土地柄ニシテ又管下全般ニ亘リ軍旗保護法ニ依ル特殊地域ト指定セラレアル等防諜上極メテ警戒ヲ要スル地域ナル)(「石兵団会報綴」、球15576部隊)(18)ことも忘れなかった。この地域と住民に対する認識は、軍部の民間人への伝統的な見解であることが理解できよう。







我部政男山梨学院大学教授(つづき)

高良倉吉琉球大学教授

秦郁彦現代史家

林博史関東学院大学教授

原剛防衛研究所戦史部客員研究員

外間守善沖縄学研究所所長

山室建德帝京大学講師



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