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我部政男山梨学院大学教授(つづき)

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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』
平成19年12月25日
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html


資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)

大城将保沖縄県史編集委員

我部政男山梨学院大学教授



我部政男山梨学院大学教授(つづき)



五 沖縄守備軍第32軍と軍備配置


1944年(昭和19)3月、奄美大島、沖縄本島、宮古・八重山、沖大東島を含む南西諸島方面の国防・防衛を強化するために、大本営直轄の沖縄守備軍第32軍が創設され大本営の直轄となった(19)。新設軍の作戦準備は、航空を主とし、地上を従とする方針であった。米軍沖縄上陸の約1年前のできごとである。創設後、参謀本部の現地調査の完了後、直ちに軍隊の配備が開始され、9月までに、迅速な対応のもとにほぼ移動を完了している。それ以前は、地上兵力皆無の静かでのどかな牧歌的な地方であった。

軍の具体的な任務は、南西諸島全域にわたり多数の飛行場を急ぎ完成することであった。中部太平洋のマリアナ諸島との中継基地として沖縄の飛行場は必要であった。また南方資源地域との連絡も、将来海上交通が困難になることがあっても、島々の飛行場を連結利用すれば十分に活用できるとの考えもあった(20)。しかし、その作戦は予想した通りには展開しなかった。堅固を誇ったマリアナ線も激闘が始まり、アメリカ軍の手中に墜ちてしまう。軍命をかけた戦いは、東条ラインを通り越してサイパン島へと徐々に北上してきた。大本営は、サイパン島奪還作戦のため中国東北部の満州から第9師団戦車第27連隊を抜き取り沖縄地域に派遣した。

沖縄に配備された寄せ集めの軍部の名称は、次の通りである。

第32軍司令部 軍司令官牛島満中将、参謀長長勇、高級参謀八原博通
第9師団 師団長原守中将金沢師団(配備、沖縄本島後に台湾移動)、
第62師団 師団長藤岡武雄中将石部隊(配備、沖縄本島)、
第24師団 師団長雨宮巽中将、山部隊(配備、沖縄本島)、
第28師団 能見敏郎中将(配備、宮古島)、
独立混成第21連隊、井上大佐(徳之島)
独立混成第44旅団 旅団長鈴木繁二少将(配備、沖縄本島)、
独立混成第45旅団(配備、石垣島)、
独立混成第59旅団 旅団長多賀哲四少将郎(配備、宮古島)、
独立混成第60旅団 旅団長安藤忠一郎少将(配備、宮古島)、
海軍陸戦隊 大田実海軍少将

総勢約6万7000名の編成となっている。後に、第9師団の台湾移駐の変更、その穴埋めとして第84師団の派遣が決まっていたが、それも中止となる。再編成の末、戦力補充のため沖縄現地の召集が行われ、最終的には、10万以上に達している。

第32軍の初代軍司令官には、かつて第56師団長としてビルマ戦に参加の後、陸大教官になった渡辺正夫中将が任命される。3月に着任し、各地の講演会で、全県民、軍と運命を共にし、玉砕の覚悟を説いた。この玉砕志向の悲壮感に満ちた言説は、結果として戦争の恐怖と敗戦への諦観を抱かせることになり、県民の必勝不敗の信念に動揺を与えるものだとして厳しく非難される。渡辺正夫中将は過労も重なり病床に伏す身となり、沖縄を去るはめになった(21)。渡辺正夫中将の言説に言う玉砕は、必勝不敗の信念と矛盾拮抗する概念ではなく、純粋に結合する概念として捉えられていた。しかしそれを受けとめる県民の発想のなかには、玉砕は敗北であり、必勝不敗はあくまでも勝利で、本来両者は交わることのない両極端の位置にあると即時的に認識されていた。多分に玉砕の捉え方にも軍人と民間人との間では、大きな相違があった。玉砕は占領した各地で無数に起こりうる現象なのか、それとも日本国内で一度だけ起こり得ることなのかをめぐっては、軍人と民間人とでは認識に差異があっても不思議ではなかった。しかし、戦時が長期化してくる時期になると県民の意識も変容し、徐々に渡辺正夫中将のかつて発想した方向に旋廻を遂げていく。次の島田叡知事の着任の頃には、県民も島田も共に渡辺の説いたかつての玉砕意識を受け入れる方向に大きく傾斜しつつあった。

後任には陸軍士官学校長の牛島満中将が着任する。シベリア出兵にも参加したことのある牛島は、沖縄決戦をどう位置づけていたであろうか。大本営の方針でもあろうが、その沖縄認識は、ある程度終戦の状況を予想させ彷彿させるであろう。

牛島「軍ノ屯スル南西ノ地タル正ニ其ノ運命ヲ決スベキ決戦会場タルノ公算極メテ大ニシテ実ニ皇国ノ興廃ヲ雙肩ニ負荷シアル」(22)との沖縄決戦を位置づけ深く自覚していた。少なくとも牛島は、皇国日本の運命は沖縄決戦の在り方で決定づけられるという認識を強く持っていた。そのために採り得るあらゆる手段が考え出されたのであろう。

牛島は着任挨拶で全軍の将兵に対し次のように訓辞した(23)。

第一「森厳ナル軍紀ノ下鉄石ノ団結ヲ固成スヘシ」、
第二「敢闘精神ヲ発揚スヘシ」、
第三「速カニ戦備ヲ整ヘ且訓練ニ徹底シ断シテ不覚ヲ取ルヘカラス」、
第四「海軍航空及船舶ト緊密ナル共同連繋ヲ保持スヘシ」、
第五「現地自活ニ徹スヘシ」「現地物資ヲ活用シ、一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スベシ」
第六「地方官民ヲシテ喜ンテ軍ノ作戦ニ寄与シ進テ郷土ヲ防衛スル如ク指導スヘシ」、之カ為懇ニ地方官民ヲ指導シ喜ンデ軍ノ作戦準備ニ協力セシムルト共ニ敵ノ来攻ニ方リテハ軍ノ作戦ヲ阻碍セサルノミナラス進ンテ戦力増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指導スヘシ
第七「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」(「沖縄方面陸軍作戦」)

1944年(昭和19)、軍の大部隊の配備は、沖縄社会に大きな影響を与えることになる。沖縄住民は、これまで軍隊との直接の接触や交流を持った経験がほとんどなかっただけに、さまざまな波紋や反響を引きおこしている。これは戦後に編集された防衛庁の史料であるが、「日本兵は住民の住宅に雑居するに至り、結局島民の生活に割り込む結果となって、物資不足に悩む未亡人や若い娘たちの間に忌まわしい問題を惹起し、道義の頽廃が目立って増え、軍横暴の声となり島民の反感を買った例が散見される」(24)と述べて、沖縄作戦史観と異なる見解が示されている(「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」陸上自衛隊幹部学校編)。しかし軍官民一体化史観を放棄したわけではない。

戦時の迷彩色一つに塗りつぶされた世相には、本音を押し殺したようにどれも同じ「建て前論」だけが横行した。その傾向は、社会全体に確実に加速された。しかし、現実の状況をそのままリアルに観ている人いた。以下に紹介するのは、志気昂揚の戦争協力だけを謳歌しているだけではない。その逆の場合もありえたのである(25)。

細川護貞著『情報天皇に達せず』の1944年12月の箇所に同様な意味の記述が見られる。

「昨十五日高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前七時より四時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃機銃掃射を受けたり。而して人口六十万、軍隊十五万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十五里先の山中に避難を命じられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に至るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるる等、恰も占領地に在るが如き振舞にて、軍紀は全く乱れ居り、指揮官は長某にて張鼓峯の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦ひをするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと暴言し居る由。島南に入口集り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて、自活不可能なりと。しかも着のみ着のままにて、未だに内地よりも補給すること能はず、舟と云ふ舟は全部撃沈せられ居れりと。来襲鉄器は一千機、島民は極度の恐怖に襲はれ居り、未だ山中穴居を為すもの等ありと。又最近の軍の動向は、レイテに於ても全く自信なく、又内地を各軍管区に分け、夫夫の司令官が知事を兼ねるが如き方法をとらんとしつつあり。又海岸線には防備なく、全部山岳地帯に立てこもる積りの如しと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり竹の戦車等作りありたりと」(26)

細川レポートは、東京にいても必要に応じ沖縄に関するほぼ正確な情報収集は可能であることを物語っている。適当な関係者を探り当てさえできれば、ごく一部の限られた人たちではあったが、より正確度の高い情報にアクセスできた。日記の記述が指摘するように軍隊と島民=住民は雑居し、婦女子を凌辱するなどの行為もあり、「恰も占領地に在るが如き振舞」で、統制がとれず軍紀は乱れていた。軍隊は占領地や植民地を駐屯し移動してきただけに、沖縄においても同様な行動をとったことは、十分に頷ける。

軍部と住民との関係を出来るだけ公平に客観的に見ていくには、民間人の発言や記録のみならず軍内部の公式の記録も参考史料として見て行かなくてはならない。この件に関し比較的まとまりのある軍部の記録は、「石兵団会報」(27)であろう。

石兵団とは、第62師団のことで、通称石部隊と称されている。史料の内容は、軍の内務班の日常生活が活写されている。すなわち、軍隊内部での教育、訓練、兵士の日常の実態、上層部からの注意事項、命令、伝達が判るようになっている。「石兵団会報」には、若い兵士の性を管理する「慰安婦」に関する詳細な史料も含まれている(28)。

①「憲兵隊ヨリ通報ニヨレバ空襲後、盗難事件頻発シアリ。軍人ニシテ空家ニ立入リ、物品ヲ持出ス者アリト注意ヲ要ス。又避難民ニシテ食糧、衣類等盗ム者アリト各集積所、倉庫等ハ監視ヲ厳ナラシムルコト。」

②「空襲後那覇宿営部隊ハ各空家ニ宿営シアルモ、無断借用シ、或ハ釘付セル戸ヲ引脱シ、使用アリ。又家中ノ物品ヲ勝手ニ持出シ使用シアル部隊アリ。民間ニオイテハ「占領地ニ非ズ無断立入リ禁ズ」等ノ立札ヲ掲ゲアリ。注意ヲ要ス」「混雑ニ紛レ、鶏、豚等ヲ無断捕獲シ、食用ニ供シアル部隊アリ。民間ヨリ苦情アリタルヲ以テ注意ノコト。」「性的犯行ノ発生ニ鑑ミ各部隊此種犯行ハ厳ニ取締ラレ度。」

③「某隊ニ於テ、家畜ヲ調査シ、将来全部軍ニ於テ徴発スベキ旨ヲ漏シ為ニ、民間ニ於テハ子豚迄殺シ、食用ニ供シアリト各隊ハ注意シ、地方人ニ不用意ナル言動ヲナサザルコト。」

④「地方住民ト混在同居シテ居ル部隊アルモ、之ハ厳禁ス。衛生上、防諜上、風紀上非違誘発ノ算大ナリ。」

⑤「官品ノ盗難、糧秣ノ窃盗頻発シアルモ、犯行者ハ地方人ニ非ズシテ、軍人軍属ニ多キヲ以テ各隊ハ注意ノコト。右ハ刑法触ルルモニナリ。」

⑥「農作物ヲ荒ス者多シ、地方側ヨリ苦情申出デアルヲ以テ注意ノコト。暴風雨ニヨリ農作物ニ相当ノ被害アリテ、農民ハ非常ニ困却シアルヲ以テ注意ノコト。」

⑦「防諜ニ就テハ各隊厳ニ注意セラレ度部外関係ハ憲兵隊ニ於テ対策ヲ講ズルヲ以テ部内関係ハ特ニ厳ニシ、通信検問ハ厳重ニ実施ノコト。」

⑧「地方人ノ通信ニハ軍ニ対スル不満ヲ述ベアル向アリ。一例左ノ如シ。「私ノ家ヲ軍隊ニ貸シタル所、戸板、不要ノ柱等ヲ薪ニ使用シ錠ヲカケタル場所ヲ開キ物品ヲ勝手ニ使用シ、アチラコチラ勝手ニ壊シタリシタ上移動ニ当リテハ家賃モ支払ハズニ行キマシタ」等民間ノ軍ニ対スル不満ノ一端ヲ知ルベク各隊ハヨク注意ノコト」(29)

現地の「石兵団会報」の記録は、細川レポートの記述内容を完全に裏付ける。軍と民は、非対称的な権力関係にあることはいうまでもないが、軍の独断的な振る舞いは、民の軍に対する信頼をますます減少させる結果となっている。戦争における国家の側の説く「軍民一体論」の真相が、ここにも実像として描き出されている。

1945年6月12日、第八十七回帝国議会貴族院の「戦時緊急措置法案」の必要の説明に立った国務大臣(陸軍大臣)阿南惟幾は(30)、アメリカを主力とする連合軍が急テンポで日本本土に押し寄せる緊迫した状況を述べている。軍の最高責任者の国会での発言であるので注目しておく。阿南の意図は、非常時に際してすべての権力を軍が掌握したいとのことである。ここに長々と引用してある理由は、沖縄戦の正確な情報が陸軍大臣である阿南の下に届いていたという事実である。実際のところ、沖縄の戦闘は、終わりを告げようとしていた。その翌日、14日には、海軍の大田実少将の率いる地上部隊は、敵アメリカ軍への突撃を敢行し自滅した。大田と幕僚らは地下の陣地で、自決した。その10日後に、牛島中将も割腹自決をし、沖縄戦は終わっている。阿南の胸中には、その次は本土決戦だという情報を暗示する必要があったのかもしれない。

「沖縄作戦ノ状況ハ現在既ニ首里、那覇ノ線ヲ撤シマシテ、後方糸満ノ大体東西ノ要地ヲ占領シ、茲ニ戦線ヲ整理シマシテ、飽ク迄組織アル所ノ抵抗ヲ続行中デゴザイマス、而シテ昨今陸軍トシマシテハ、出来ルダケノ努力ヲ致シマシテ、物量ヲ陸上友軍ノ輸送ヲシテ居ル訳デゴザイマスガ、敵ノ妨害、地形ノ困難、地形ノ困難トハ飛行場ガ既ニ大部分敵ニ取ラレテ居リマスノデ、是等ノ関係上、物量ノ輸入ハ非常ニ困難ヲ極メテ居リマスガ、万難ヲ排シテ実行中デアリマス、従ッテ此ノ戦況ノ推移如何ニ拘ラズ、今後敵ハ決戦ヲ急グ余リニ、沖縄ノ戦局ニ拘泥スルコトナク、或ハ本土ニ対シ上陸ヲ企図シ来リ、一挙決戦ヲ求メテ、戦争ヲ終局ニ導カムトスルノ企図ガアルノデハナイカト予想セラルルノデアリマス、而シテ其ノ侵寇方面ハ何処カ、斯ウ申シマスト、是ハ今日言明ヲ致スコトヲ避ケタイト思フノデゴザイマスガ、大体御想像ニ難クナイト思フノデゴザイマシテ、敵ト致シマシテハ我ガ本土ノ一角ニ兎モ角モ足ヲ掛ケルコトヲ急グト云フ状況デアルコトガ、戦況ノ急迫ヲ証明シテ居ルト思フノデアリマス、第二ニ其ノ時期ハ何時カ、斯ウ云フコトニナリマスガ、其ノ時期モ只今申述ベマシタ如ク、沖縄ノ戦況ノ如何ニ拘ラズ、決戦ヲ急グト云フ判断カラ申シマスト、其ノ時期ハ必ズシモ遠クナイ、或ハ非常ニ早ク来ルノデハナイカト云フ判断モ為シ得ルノデアリマス、従ッテ軍ト致シマシテハ、極メテ早期ニ来テモ、之ニ応ズルノ準備ヲシナケレバナラヌノデゴザイマス(31)

鈴木内閣の陸軍大臣阿南惟幾は、遠からず沖縄決戦も終盤を迎える。そうなれば本土上陸は必死である。本土決戦となれば、いつ、どこでというのが国民の最大の関心事である。この関心の核心を慎重に回避しつつ、もしもそうなれば状況は深刻である。とても議会を開いてものごとを決めるということは時間的にも余裕がない。その最悪の事態に備えるべく、全国家権力を軍が掌握したというのが阿南の意図であった。しかし、時期の全体の流れは、国体護持を含む和平工作の路線であった。
(以下略)

  • (1)細谷千博他編『太平洋戦争』(東京大学出版会、1993年7月)収録の中村隆英「太平洋戦争と日本社会の変貌」、マリウス・B・ジャンセン「二〇世紀における太平洋戦争の意味」は、沖縄戦を考える上でも示唆に富む論文と言えよう。

以下の件は注(1)とは関係なく、単なる思い付きであるが、論文作成の過程で、本文記述と注の表記をどのようにするか大いに迷うことがしばしばある。叙述のなかでも本文に残すべきかそれとも注の個所にまわして記述すべきか、これまでも判断に苦慮してきた事実がある。論旨にある明快を持たせるために、煩雑になりそうな部分を避けるために、注のところに移動するのだとよく言われる。しかし本論文の作成では、従来の伝統的な判断に縛られず、ある程度、自由にしかも気楽に判断した。

注は単なる出典の明示にとどまらず、問題の裾野を広げる荒野のような領域であろうと解している。本文と注の領域には明確な境界は存在しないのかもしれない。しかし、実際には両者は厳然と存在する。その境界線を自由に往来することが可能なのか。関心を誘う魅力的なテーマである。古典研究の注釈論とは異なった、学術論文の注記の仕方をどのように行うのか、またどう解釈するのかを、改めて検討してみる必要があるように感じる。

  • (2)『沖縄作戦』陸幹校(旧陸大)戦史室教官執筆陸戦史集九原書房はしがき6ページ。
  • (3)沖縄戦に関する文献は相当な量に達するはずである。その関係史料は、現に発掘進行中であり増えることは確実である。これまでの蓄積を見るには、吉浜忍「沖縄戦後史にみる沖縄戦関係刊行物の傾向」(『史料編集室紀要』第25号)が参考になる。また研究動向を知るには、『沖縄戦研究』Ⅰ(沖縄県教育委員会、1987年10月)、『沖縄戦研究』Ⅱ(1999年2月5日)、『沖縄県公文書館研究紀要』等が参考になろう。最近の紀要のなかで、仲本和彦「米国の沖縄統治に関する米国政府公文書の紹介」(2001)仲本和彦「米国の沖縄統治に関する米国政府公文書の紹介Ⅱ-沖縄戦関連文書を中心に-」(2002)大いに参考になるであろう。
    沖縄戦に関する多くの出版物のなかで、例としてここでは、以下の文献を紹介しておく。沖縄タイムス社編『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』朝日新聞社(1950)、仲宗根政善『沖縄の悲劇―姫百合の塔をめぐる人々の手記』華頂書房(1951)大田昌秀『沖縄のこころ』岩波書店(1971)、大田昌秀『総史沖縄戦』岩波書店(1982)、安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』晩聲社(1989)、『沖縄県史』「沖縄戦記録1」(1971)、『沖縄県史』「沖縄戦記録2」(1974)、嶋津与志『沖縄戦を考える』ひるぎ社(1983)、石原昌家『虐殺の島―皇軍と臣民の末路』晩聲社(1978)、藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき―』青木書店(2001)、大城将保『沖縄戦―民衆の眼でとらえる戦争―』高文研(1985)等をあげておくに留める。戦時記録として、少し先の編纂では、伊江村教育委員会編『証言資料集成、伊江島の戦中・戦後体験記録―イーハッチャー魂で苦難を超えて―』(1999)、最近のでは、沖縄県読谷村役場『読谷村史第5巻資料編4 戦時記録上下』(2004)等がある。『沖縄県公文書館研究紀要』(2002)に発表された源河葉子「沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真:米国側資料に見る撮影・利用の概要」も参考になる。

  • (4)玉木真哲「沖縄戦史研究序説―沖縄戦防衛庁文書陣中日誌―」(『沖縄史料編集所紀要』第九号、1984年)。玉木真哲「戦時沖縄の防衛隊に関する一考察―基礎資料の紹介と本島南部についてー」(『琉球の歴史と文化―山本弘文博士還暦記念論集―』本邦書籍、1985年)。玉木真哲「スパイ防止法」とその土壌―沖縄戦における防諜からみてー(『新沖縄文学』69号1986年)、玉木真哲「沖縄戦像再構成の一課題―若干の資料紹介を混じえてー(『球陽論叢』島尻勝太郎他古希記念論集1986年)。玉木真哲「スパイ防止法とその土壌」(『新沖縄文学』69号沖縄タイムス1986年)。玉木真哲「戦時防諜のかなたー太平洋戦争下の沖縄-」(『琉球・沖縄-その歴史と日本史像-』地方史研究協議会編、雄山閣)
  • (5)松岡ひとみ「秘密戦における軍民間の相互作用の接点―沖縄戦における情報の一考察―(『沖縄関係学論集』第4号1998)。
  • (6)藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき―』(青木書店2001)纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』(筑摩書房1999)。林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店2001)。
  • (7)纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』のなかの「沖縄戦と秘密戦」のところは、正確ですぐれた分析で傾聴に値する。
  • (8)『本部町史、資料編1』(本部町教育委員会編、1979・9)に収録された「秘密戦ニ関スル書類」。この収録にとって、ほぼ完全な形で刊行される。
  • (9)「第八十九回帝国議会貴族院衆議院議員選挙法改正法律案特別委員会議事速記録第2号」(『沖縄県議会史』第8巻・資料編5、沖縄県議会、1986年、収録)。敗戦直後で、沖縄人スパイ説の提起する問題の深さについて、十分な理解を深めるには至らなかった。
  • (10)元陸軍中尉森脇弘二の稿本「沖縄脱出記」(全3巻、請求番号、沖台、沖縄一54~156)が、防衛研究所図書館に所蔵されている。
  • (11)石川準吉『国家総動員史』資料編(第5巻、第8、防諜関係資料、国家総動員史刊行会、1977)1391~1450ページの、1、国防秘密保護に関する各国の法令、2、出版及著作関係法令集、3、防諜講演資料、4、国防保安法解説等に詳しい。特務機関の解明もあわせて重要な課題となろう。
  • (12)「社説具体的実践に俟つ」(『沖縄新聞』1941年5月5日)。
  • (13)『防衛庁沖縄戦関係文書』の文書と目録の詳細については、我部政男『近代日本と沖縄』(一三書房、1981年)収録の「沖縄戦関係文書について」参照。文書に関しては、宮里政玄・我部政男監修『CD-ROM版写真|記録・沖縄戦全資料』(日本図書センター、1999年)参照。目録には、我部政男「日本・沖縄近代史関係史料マイクロフイルム目録」(『社会科学研究』21号、山梨学院大学社会科学研究所、1996年)、『CD-ROM版写真|記録・沖縄戦全資料』の目録(日本図書センター、1999年)参照。
  • (14)『秘密戦ニ関スル書類』(国立公文書館蔵)は、沖縄戦の言論・思想統制の実態解明には不可欠な史料である。原本の存在は、『北の丸―国立公文書館報―』第2号(昭和49年3月)で「被接収公文書=返還文書」として公開されたことで明らかになった。しかし、その存在は1996年に鹿野政直「アメリカ国会図書館収蔵の日本関係文書について」(『史観』第73冊)の指摘もあり、それ以前に遡る。日本国への返還される以前は、米国議会図書館に所蔵されていた。マイクロフイルム化された時は「内務省警察局発禁の新聞、小冊子、ビラの類」の中に整理分類されている。フイルムは、一般にも販売され京都大学人文研究所、早稲田大学図書館、東京空襲を記録する会等をはじめ国内の機関でも購入しており、広く普及している。『秘密戦ニ関スル書類』は、1975年11月4日から9日まで『沖縄タイムス』に初めて紹介された。ただし、一部人名が個人情報との関わりで削除されるなど不完全で、全文の完全な印刷翻刻は、『(沖縄県)本部町史』資料編一で1979年に実現する。また、大城将保編解説で『秘密戦に関する書類』(15年戦争極秘資料集③)として、不二出版社から影印判で復刻される。『秘密戦ニ関スル書類』は、先に返還され防衛庁の戦史室に保管されている沖縄戦関係文書群と同じ系列の史料である。
  • (15)『防衛庁沖縄戦関係文書』。「球日命第104号、球軍日日命令」「天ノ巌戸戦闘指令所取り締ニ関スル規定」。
  • (16)『秘密戦ニ関スル書類』(国立公文書館蔵)参照。
  • (17)『防衛庁沖縄戦関係文書』独立混成第15連隊「陣中日誌」参照。
  • (18)「石兵団会報綴」、球15576部隊『防衛庁沖縄戦関係文書』。『石兵団会報』この史料を私は、「沖縄戦における軍隊と住民―防衛庁戦史室蔵沖縄戦史料―」沖縄タイムスの1977年6月25日から7月12日まで13回連載する。(我部政男『沖縄史料学の方法』新泉社、1988年1月、参照)。『浦添市史』戦争体験記録、第五巻資料編、1984年にも同史料が、収録されている。前掲書の吉見義明「沖縄、敗戦前後」でもこの史料は取り上げている。会報の揃いは、今のところ未確認である。
  • (19)『沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研究所戦史室朝雲新聞社昭和48年参照。
  • (20)『沖縄方面陸軍作戦』。秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1991・10・15)参照。秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会(1981・11・30)参照。
  • (21)浦崎純『消えた沖縄県』沖縄遺族連合会青年部、沖縄時事出版社、(1965年)。
  • (22)『沖縄方面陸軍作戦』84ページ。
  • (23)『沖縄方面陸軍作戦』85ページ。
  • (24)(『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』陸上自衛隊幹部学校)。
  • (25)戦時中弾圧の対象になった戦争反対勢力についても明らかにする必要がある。本論文とは、別の課題として考えている。
  • (26)細川護貞『情報天皇に達せず』下巻、磯部書房、1953年、327ページ。吉見義明「沖縄、敗戦前後」(岩波講座『日本通史』第19巻近代4、岩波書店、1995年3月9)でもこの史料は取り上げられている。
  • (27)『石兵団会報』注(18)参照。
  • (28)沖縄の慰安婦関係の資料群である。注(18)を参照。沖縄の慰安婦については、高里鈴代「強制従軍「慰安婦」」(『なは・女のあしあと那覇女性史(近代編)』那覇市総務部女性室1998)がある。高里鈴代も『石兵団会報』、山部隊の「内務規定」を資料として分析の対象としている。
  • (29)『石兵団会報』参照。
  • (30)『沖縄方面陸軍作戦』。秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1991・10・15)参照。秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会(1981・11・30)参照。
  • (31)「第八十七回帝国議会貴族院戦時緊急措置法案特別委員会議事速記録第一号」(『沖縄県議会史』第8巻・資料編5、沖縄県議会、1986年、収録)908ページ。『帝国議会衆議院秘密会議事録集』(2000)参照。




高良倉吉琉球大学教授

秦郁彦現代史家

林博史関東学院大学教授

原剛防衛研究所戦史部客員研究員

外間守善沖縄学研究所所長

山室建德帝京大学講師



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