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大城将保沖縄県史編集委員

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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』
平成19年12月25日
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html


資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)

大城将保沖縄県史編集委員


「沖縄戦における『集団自決』」についての意見書
2007.11.22
大城将保(沖縄県史編集委員)

1.はじめに


私は沖縄県立沖縄史料編集所の専門員(のち主任専門員)として『沖縄県史・沖縄戦記録2』(1974)の編集を担当し、かつ同書「慶良間諸島・座間味村」の部の解説を執筆し、さらに『沖縄史料編集所紀要・第11号』(1986)に掲載された「梅澤裕手記・座間味島集団自決事件に関する隊長手記」の解題を執筆した者として、目下問題になっている平成18年度教科書検定において5社7冊の高等学校日本史教科書の「集団自決」をめぐる記述にたいして修正を求める検定意見が出されたことにたいして、私見を述べたいと思います。

なお、この問題にたいする私の見解は近著『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研・07年10月)に詳述してありますので、以下においては概要を述べるに止めたいと思います。

2.沖縄戦の特徴としての「集団自決」


太平洋戦争の末期(45年3月~)に南西諸島で戦われた沖縄戦は一般に「日米最後の決戦」と称されているが、内実は、日米両軍の地上戦闘というのみならず、〝鉄の暴風〟と形容される激しい砲爆撃にさらされた戦場に、軍民一体化された数十万人(40~50万人)の沖縄県民が沖縄守備軍(第32軍)の要請によって戦場に動員され、友軍(日本軍)・敵軍(米軍)・沖縄住民の集団が三ツ巴になって逃げ場のない孤島の戦場で数ヶ月間もせめぎあった戦闘であった。

沖縄戦は「総動員体制の極限」といわれる。米軍の反攻で絶対国防圏の防備が崩壊寸前となった1944年(昭和19年)夏、日本軍は、それまで軍事的には空白地帯だった南西諸島を不沈空母として利用すべく第32軍を新設・配備して、航空基地の建設を開始、米軍上陸の直前まで老幼婦女子までも根こそぎ動員して飛行場建設や陣地構築作業に従事させた。

しかし、献身的に軍に協力した一般住民は自ずと部隊の内情を見聞することになり、彼らが敵の手に落ちれば軍の機密が敵側に漏洩することになるというジレンマを軍はかかえることになった。これを防止するために、慶良間諸島や伊江島、津堅島、読谷村などの重要な秘密基地や要塞地帯では住民の疎開を禁止して島内に閉じこめ、防諜対策を強化して移民帰りや反軍反官的な言動を行う者はスパイ容疑者として衆人環視のもとで銃剣や軍刀で見せしめに処刑(虐殺)をするという事件も各地で起こった。(前掲書一覧表参照)

いよいよ米軍上陸必至の戦況になると、防衛隊、学徒隊、青年義勇隊、女子挺身隊、従軍看護隊などに編成されて部隊の指揮下にはいって実戦に参加したり、弾薬運搬や野戦病院勤務などの後方活動の任務を与えられて「軍民一体化の戦闘」に参加することになった。これら非正規の戦闘要員に対しても『戦陣訓』に示された防諜対策(住民に対するスパイ取り締まり)と「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍律に基づいて、「敵の捕虜になると女は強姦され、男は股裂きにされる」という宣伝が徹底されて、「捕虜になる前に潔く玉砕(自決)せよ」と訓示された。同様の宣伝と訓示は戦闘部隊が配置されたどの地域でも行われた形跡がみられ、牛島軍司令官の着任時の「訓示」の第十条に明記された「防諜に厳に注意すべし」の具体化であることは明らかである。「戦闘能力のある者は戦闘に参加し、戦闘能力のないものは捕虜になる前に自決(玉砕)せよ」という方針は全軍的な作戦方針に基づくものであって、特定の部隊長がその場になって命令したか否かの次元の問題ではないのである。

「集団自決」に関する命令系統は、一般的には駐屯部隊と村役場や防衛隊、警防団、義勇隊などを通じて事前に協議なり指示なりがなされていて、住民には兵隊や防衛隊員から繰り返し「訓示」が徹底されており、決行のタイミングは軍から支給された手榴弾や爆雷や毒薬などが配付され、口頭で命令が伝達されるのが一般的だった。その役目は村役場職員や防衛隊、警防団などが担当する手はずになっていた。

敵を眼前にして逃げ場のない避難民は、手榴弾や爆薬が支給された時点で「軍の自決命令」と受け止めるように心の準備がなされていた。孤島の場合であれば、その島の最高責任者である部隊長(慶良間の場合は戦隊長)が命令したものと受け止めるのが自然であった。

「敵の捕虜になるまえに潔く自決せよ」という軍の命令は沖縄全域、戦闘部隊の駐屯する島ではいたるところに徹底されていた。軍命に従わずに、「アメリカ軍は民間人には乱暴はしない」などと口にしようものならたちまちスパイ容疑者として衆人環視のもとで見せしめに処刑された。

米軍上陸後は、やむなく敵に捕まって避難民収容所に保護された老幼婦女子までねらわれた。大宜味村渡野喜屋事件の場合は、収容所に保護された避難民約80人を日本兵がスパイ容疑で手榴弾で虐殺したという事例もあった。

したがって、米軍と日本軍の谷間に追い込まれた一般住民は、敵の捕虜になってスパイの汚名をきせられて友軍に殺されるよりはと、恐怖のどん底で集団自決に追い込まれるのが一般的だった。「集団自決」と「住民虐殺」はコインの両面のように表裏一体の関係をなしていた。

3.座間味島の「集団自決」に関する歪曲と矛盾


ここで、慶良間諸島のなかの座間味島の「集団自決」問題にふれておく。

海上特攻艇基地であった座間味島の梅澤元戦隊長が座間味島の百数十名の「集団自決」について「自分は命令してない」と主張するのは無意味である。戦隊長みずからその時その場で自決命令など出す必要はないし、また、「自決はするな」といえる立場でもない。

梅澤氏は、私たちが編集・発行した『沖縄史料編集所紀要』に掲載した「隊長手記」のなかで、米軍上陸の前夜、自決用の弾薬をもらいにきた村役場職員や団体役員5名に向かって、「1.決して自決するでない。(中略)壕や勝手知った山林で生きのびて下さい。共にがんばりましょう。2.弾薬は渡せない」と答えたと自ら書いている。これを「大江健三郎氏、岩波書店『集団自決』訴訟」の証拠資料として裁判に提出してある。ところが、原告側がもう一つの証拠として提出してある宮城晴美著『母が遺したもの』の記述とこの隊長手記とはあきらかな矛盾がある。『母が遺したもの』で当時女子青年団長であった著者の母親初枝さんの遺稿では、「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引き上げてきました」とある。「私たちの申し出」というのは自決用の弾薬をくれ、ということである。弾薬をくれなかった点は両者は一致している。しかし、もっとも肝心な「決して自決するでない」という隊長の決定的な言葉はどこにも見あたらない。もし、敵上陸直前のその場で島の最高責任者である戦隊長から村役場助役はじめ村の代表者たちが「自決をするでない」との明言を聞いていたとしたら、その夜の悲劇は起こらずに済んだはずである。また、私たちが聞き取り調査をした村民の誰ひとりとして梅澤隊長から「自決をするでない」というキーワードが発せられたという証言をしたものはいない。

結論として、『紀要』の梅澤氏の手記は、自己弁護のために後からこの一条をつけ加えたとしか考えられず、手記全体の信憑性をいちじるしく損なうものとなっている。

従って、私はいま現在、私がかつて、『沖縄県史・沖縄戦記録2』の「解説」のなかで、座間味島の集団自決について、「午後十時ごろ、梅澤隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合すべし』というものだった」という記述を訂正する必要はないと考えている。右の文章は座間味村の公的文書から引用した部分であるが、村当局も現時点で訂正する必要はないとの態度である。

原告(梅澤氏)や原告側弁護団や支援団体は、梅澤氏の一方的な主張を利用して、「沖縄県史は隊長命令説を訂正した」とか、「大城主任専門員は『現在宮城初枝氏は真相は梅澤氏の手記の通りである』と言明している」といった文章が一部の雑誌や新聞などで書き立てているが、まったく事実に反することである。『沖縄県史⑩』はその後復刻版が出ているが、私が執筆した箇所で訂正されたところは一行一句もないし、また「現在宮城初枝氏は…」云々の文章は私にはまったく身に覚えのない記事であって、事実無根のデマ宣伝としか言いようがない。私が近著のタイトルにあえて「歪曲」という言葉を使ったのは、それ以外に表現のしようがないからである。

4.「集団自決」の調査・研究の足跡


沖縄戦は、従来の日米両軍の作戦中心に記述された米軍公刊戦史(『沖縄・最後の戦闘』・1947)や日本軍戦史(防衛庁編『沖縄方面陸軍作戦』・1968)ではとらえきれてないもう一つの戦史、〝県民戦史〝とでもいうべき歴史記述がなくてはその全体像とその教訓を客観的にとらえることはできない。ところが、地上戦闘が行われた沖縄本島と周辺小離島で3人に一人という肉親・同胞を失った人々の心の傷はふかく、ながらく戦場体験の実相を語ったり記録に残すことは出来なかった。わずかに沖縄タイムスの記者たちがまとめた『鉄の暴風』(1950年・沖縄タイムス社)が軍民混在の戦場の様相の一端を伝えただけで、沖縄県民の立場から書かれた本格的な沖縄戦記録というものはなかなか現れず、日本復帰のころまでながく沈黙の時代が続いた。

その間に、防衛庁戦史室から『沖縄方面陸軍作戦』(1968年)が刊行されるが、軍隊史観に立った同書では、慶良間諸島の集団自決について、「小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自ら命を絶つ者も生じた」と記述されているだけで、軍の関与についても責任の所在についても、そして「集団自決」の犠牲の実態についてもまったく眼中になく、むしろ「犠牲的精神」を賛美し顕彰せんばかりの筆致である。

しかし、このような軍隊の視点からとらえた「集団自決」の実相は、復帰後、主人公である沖縄県民が重たい口をひらいて語り出したことによって大幅に修正されていった。日本復帰の前後から動き出した沖縄県史や市町村史の戦場体験記録事業によって、県民主体の沖縄戦記録が続々と現れるようになり、多様で広範囲な証言記録の集積によって防衛庁戦史のような美化された「集団自決」のとらえかたは過去のものとなっていった。

沖縄県史が開拓した沖縄戦記録の事業は、30余年たった現在でも、市町村史や字誌などにひきつがれて、体験者の胸の底に封印された戦場の記憶が徐々に発掘・記録されつつある。全県53市町村のうち、独立巻として証言記録集にまとめられたのが16市町村、目下調査・編集中のところが9市町村ある。このほか沖縄戦に関する戦史・戦記類は私が知るかぎりでも700冊にのぼっており、決して調査・研究が進んでないというわけではない。ただ、唯一の地上戦闘という特異の性格から本土の人々にはなかなか食いつきにくいところがあってまだまだ全国的な共通認識には至らない面がある。それだけに、沖縄戦の住民犠牲について国民的共有認識にまで普及させるうえで教科書の役割は大きいといえる。

戦場体験の発掘作業からしだいに浮かび上がってきた沖縄戦の特徴は、「戦場では軍人よりも一般住民の犠牲がはるかに大きい」という事実である。この傾向は、国家総力戦といわれる近現代の戦争の典型的な特徴でもある。太平洋戦争でも、日本は原爆や空襲で多くの民間人が犠牲になった。しかし、上空からの攻撃を受けただけでは、「戦争とは人間が人間でなくなる状態だった」という極限状況までは見えてこない。

国内で唯一住民をまきこんでの地上戦となった沖縄戦の悲劇をもっとも鮮明に象徴するものは「集団自決」と「住民虐殺」である。歴史教科書にこの二つの史実が記述されるようになったのは、1980年以降、体験者が心の底に封印してあった〝地獄の戦場〟の記憶をつらい気持ちをこらえて県史や市町村史に語り出した成果がようやく教科書にも反映され、多少なりとも国民的な共通認識として認められてきた矢先に、事実誤認と歪曲に基づいた一方的な主張の影響をうけて教科書から抹殺するような検定のあり方は沖縄県民の心情としてとうてい許し難い暴挙というしかない。検定意見の「撤回」と記述の「回復」こそが県民の総意であり、私の意見の結論でもある。

5.「集団自決」の全体像を


昨今の「集団自決」をめぐる一部の主張をみていると、「木を見て森を見ず」の見本のような気がしてならない。一部の人々が仕掛けた「梅澤戦隊長と赤松戦隊長の名誉回復」のための民事訴訟が、なぜ「沖縄戦における集団自決」問題全般の判断材料とされるのか、実に疑問である。

いうまでもなく、沖縄戦における集団自決は座間味島や渡嘉敷島だけで起こったことではない。同じ慶良間諸島の中でも、隣り合った慶留間島では野田戦隊長みずからが事前に島民の前で「敵上陸のさいは全員集団自決を決行するように」という主旨の訓示を行った事実は広く知られている話である。なぜ、このような明白な事実を無視するのか。

かりに、慶良間諸島の集団自決については大阪地裁で係争中であるから、これを判断材料から除外するとしても、「集団自決」と「住民虐殺」は伊江島から摩文仁にいたるまで、地上戦闘のあったすべての地域で多発しているのである。私自身が確認しただけでも、沖縄戦における集団自決の事例は33件約1,100人にのぼっている(前掲書一覧表参照)。私が判断するかぎり、そのほとんどは軍が関与しているし、直接命令を下した指揮官名まで判明している事例も少なくない。ただし、以上の数字といえども、まだ氷山の一角でしかないだろう。集団自決は一家全滅に至る場合が多く、死者はもはや証言をすることもできないからである。

最後に申し上げておきたいことがある。現在、沖縄戦をまともに調査・研究している研究者やジャーナリストで、「沖縄戦における集団自決に関して、命令・強制・誘導等の軍の関与はなかった」と断言できる者は私の知るかぎり一人もいない、という事実である。


我部政男山梨学院大学教授

高良倉吉琉球大学教授

秦郁彦現代史家

林博史関東学院大学教授

原剛防衛研究所戦史部客員研究員

外間守善沖縄学研究所所長

山室建德帝京大学講師



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