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「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(1)」

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「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(1)


この原稿を書いている今、私の体は痣(あざ)だらけである。私はつい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである。

私の心の中には、エチオピアがマスコミのハイライトを浴びているような時に行くのは避けたい、という思いが強かった。しかし、私の遠慮とは別に、そういう時ほどわたしがそういう場所へ行くような機運が不思議と向いてくるのである。

痣はのみいと南京虫に食われた後の引っかき傷、ラバに十時間も乗って被災状況も分からぬ村に行った時に蹴られたり、岩で擦りむいた傷跡などで、実に薄汚い。

エチオピアへ行くことを決意したのは、人道主義の立場から出たことではないのである。私は作家ではあるが、作家が特に人道主義的であらねばならない、などと思ったことの一度もない人間である。ただ、私はここ数年、不思議な偶然から、韓国のハンセン病の村と、マダガスカルの小さな産院とに送る善意のお金、年間約一千万円を集めてそれを確実に送金する事務局の任務を果たす巡り合わせになってしまった。これも、私の家ですませば、印刷代もプリント代も電気代も、一切がいらないから、やっているだけのことである。

しかし、そういう経緯を知っている友人たちは、私にエチオピアの実情も知っておくように配慮してくれたのではないか、と思う。もちろんすべて自費で行ったのだが、そういう友情がなければ、とても個人が入れない土地だったのである。

エチオピアで私が入ったのは、首都のアジス・アベバから五百キロほど北に行ったスリンカというキャンプだが、そこは日本テレビの「愛は地球を救う・二十四時間テレビ」の企画によって集められたお金の一部で運営され、日本人のドクター一人と看護婦さん五人で運営されていた。

何しろ水のない土地である。野っぱらにテントが幾張りかあるだけで、水は土地の女性たちが、大きな水甕(みずがめ)でアルバイトとしてくんで来るのを、買い上げているだけである。ひところのような骨と皮ばかりの、餓死寸前にあるような子供はかなり減ったが、それでも私が夜寝袋で寝ているところから、三十メートルと離れない隔離病棟ならぬ隔離テントの中は、アメーバ赤痢とチフスと思われる重症の下痢患者ばかりである。その中の数人は血まみれの排便をし続けている。

貧しさと苦しみは人間から人間らしさを奪う。被災民たちの一つの特徴は、こうしたドクターや看護婦さんたちにも、大して感謝をしない、ということだ。それどころか、なぜもっと援助をしないか、と文句を言う人までいる。

しかしそれでもなんでもいいのである。もし、私たちの中に、戦争に対する心からの拒否の感情があれば、迷うことはない。テレビ局にお金を寄せた人々も、そこで働いている医療関係者も、ともに言葉ではなく行為でそのことを示したのである。

年月とともに戦争体験が古びて、戦争の恐ろしさがなくなる、としたら、それは戦争というものを受け止める人の心がいいかげんなのだ。私は終戦の年に十三歳にもなっていたから、戦争のことをよく知っているが、私あてにいつもお金を送って下さる人たちのほとんどは、私より若い、従って戦争体験も全くない人たちである。その人たちが、自分が不自由しても不遇な人々に尽くしたい、という素朴な善意を確実に実行してくれているのである。

第二次世界大戦が終わってから四十年が経った。ということは、あの終戦の日に、私たちが日露戦争を思い返すのと、ほぼ同じ長さの年月が経ったということである。いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない。大切なのは、そのことによって、私たちの生き方がいささかでも死者たちによって高められ、たとえほんのわずかでも現在生きている人々の生に役立つことだと思う。私自身は、エチオピアでもある日一日、疥癬(かいせん)だらけの子供たちの爪(つめ)を切ったり、トラコーマや結膜炎の患者に目薬をさす(こういう土地は野戦病院と同じで、だれでも働けるものができることをするのだ)くらいのことしかできない無能力者だが、たった一つ私にできることは、死にかけている人々に命を与えるために働いている人々のことを、世間に知らせることだ。

そういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。


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