15年戦争資料 @wiki

戦斗記録

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン
1986.3 沖縄史料編集所紀要11

座間味島集団自決事件に関する隊長手記

大城将保


一、隊長命令説"について


沖縄戦下、座間味島(座間味村・慶良間諸島)で発生した住民の集団自決については、数多の戦記に記述が見られるが、「鉄の暴風』(沖縄タイムス社・一九五〇年)以来現在に至るまで、集団自決は隊長の命令によるものである、という見解が通説になっていた。

ところが、昭和六〇年七月三〇日付『神戸新聞』は、当時の海上挺進隊第一戦隊長(少佐)・梅澤裕氏はじめ関係者の談話を基に、「日本軍の命令はなかった」というサブタイトルをつけて、いわゆる"隊長命令説"に疑問を提示した。

筆者(大城)は、『沖縄県史』に"隊長命令説"に基づく解説記事を執筆した責任上、この新説を無視するわけにはいかず、直接梅澤氏に書簡および電話で連絡をとり、ご本人の意向を確かめたうえ、より詳細で正確な事実関係を把握すべく手記の執筆を要望したところ、早速同氏から次節に掲載する「戦斗記録」の原稿を寄せていただいた。

まず、同手記を紹介するにあたって、従来の"隊長命令説"の経緯を、筆者の関わる範囲内であらかじめ明らかにしておきたい。

"隊長命令説"には二種類の原資料が考えられる。

最も早いのは沖縄タイムス社『鉄の暴風』(一九五〇年)であるが、同書の記述では、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」(四一ぺージ)とあるのみで、具体的な命令内容はみられない。

ところが、山川泰邦『秘録・沖縄戦史』(一九五八年)には、「艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』」(二二九ぺージ)とあり、はじめて命令内容が明記されている。

『沖縄県史』第8巻・沖縄戦通史(一九七二年)では同書を参考にして命令内容が引用されており、おなじく『沖縄県史』第10巻・沖縄戦記録2では「座間味村」の項で筆者(大城)が次のように「解説」を書いた。

「午後十時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』というものだった/役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた」「ここでは、部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言から確認できるのである」(六九八~六九九ぺージ)。

最新の出版物では『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス杜・一九八三年)が「座間味島集団自決」の項で『沖縄県史』10巻の記述を引用している。

ところで、『沖縄県史』10巻の該記述は、下谷修久『沖縄戦秘録・悲劇の座間味島』(昭和四三年)に収録されている現地在住の宮城初枝氏の手記「血ぬられた座間味島・沖縄緒戦死闘の体験手記」を参考にして書いたものである。「午後十時頃梅沢隊長から次の軍命令がもたらされた/『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』云々」(三八べージ)とある。この原資料には座間味村当局が琉球政府および日本政府に提出した『座間味戦記』(タイプ印刷、八ぺージ)と題する文書がある。「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問はず若き者は全貫軍の戦斗に参加して最後まで闘い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於て玉砕する様にとの事であった」。宮城氏の手記はこの部分の引用である。

山川氏の記述も、おそらく座間味村から琉球政府に提出された援護関係文書に拠ったものと思われるが、要するに、"隊長命令説"は村当局の公式見解になっていたのである。

以上述べた通り、"隊長命令説"には二種の根拠資料が存在するのであるが、後者の場合は、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したとは書いてない。そして、多くの住民証言から、役場の書記が「忠魂碑前に集合して玉砕するよう」伝達してまわった事実は確認されている。そこで、問題になるのは、村当局と軍との間に集団自決について事前の通達、ないし協議がなかったかどうか、ということである。この点について筆者は梅澤氏に電話で質問したのであるが、「そういうことはなかった」と否定した。ただし、軍には他に勤務隊、整備隊等の集団があって、もし、事前協議等があったとすれば他部隊の可能性も否定できないが、集団自決が村当局の自発的な方針によるものか、あるいは何らかの形で軍の意向がはたらいていたのか、村三役以下役場幹部のことごとくが組合壕で自決を遂げた後となっては、その真相を確かめるのは容易でない。

いずれにしても、従来の"隊長命令説"は現地住民の証言記録を資料として記述されてきたのである。これに対し、一方の当事者である梅澤氏から"異議申立て"がある以上、われわれはこれを真撃に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである。以下に同氏の手記を掲載させていただき、筆者の当面の責をはたしたいと思う。

なお、手記は後半に「戦後の苦悩」と題をあらためて、戦後、同問題をめぐって氏の周辺で起きた事柄の経緯を述べているが、紙幅の関係と、また論点を明確にする上でも、「戦斗記録」のみに絞って、後半部は割愛させていただいた。


二、手記「戦斗記録」



(梅澤裕) 私は昭和十四年九月より戦争に参加し、大陸(北支)を転戦したが、最後は沖縄県慶良間の座間味島で死闘を演じた。そして二十一年一月負傷の身を米軍の手厚い取扱により病院船で浦賀に復員したのである。

 元来軍人を志し正規教育を受け、任官後長期間戦陣に明け暮れた次第だが、此の戦争は不可解なりと感じ始めたのは太平洋戦争頃であった。騎兵戦車兵として大陸で行動したが、十九年一月何と船舶兵に転科させられ、宇品の船舶司令部に派遣され、船の運用を練習した。之は破局を迎えつつあった、南方の島伝いに軍需資材を急送する特殊艇の要員であったのだ。それが結局その船も資材難で出来ず、ベニヤのモーターボートを爆装し敵輸送船に体当りする特攻艇要員になった。瀬戸内で夜間の猛訓練の後十九年九月、海上挺進第一戦隊の長となり座間味に進駐したのだ。

 私は既に戦争の前途は大体予見して居た。若し米軍上陸となれば国土内の戦争になり悲惨の極だろう。こんな特攻艇にどれ程の効果を期待出来るのか。その後比島戦が始まりその経過を見乍ら、統帥部はいつも決戦を呼号するが、果して決戦をやるのか、見殺しではないか等、若い将校や村民が案じられてならなかった。大陸で数多くの戦斗を経験して居たので戦争の悲惨は熟知して居た。中央はいつ迄こんな事をさせるのだと先が案じられた。果して大変な事になった。敵は大挙上陸、反撃も一瞬に吹き飛び、そして無残な村民の自決。これは戦争なんてものではない、奴等の言うジャップハンティング、即ち嬲り殺しの様なものだった。弾薬無く食糧なく数日を出ずして、蹌踉と唯山林をさ迷う部隊を見て、正に国敗れんとして、軍の崩壊せんとする地獄のさ中私は負傷し力尽きた。そして戦後になり何たる事、村民の自決は私の命令によるものとされ、爾来三十年間汚名に泣くこととなった。以下座間味進駐以後の経過を記述する。

一、座間味島進駐(19・9)


 九月十日輸送船より上陸した。戦隊は私以下百数名、装備は艇百隻、武器は三十年式軍刀、拳銃(旧式輪動式)自動短銃約十挺、五十㎏爆雷二百五十個位。之を支援する基地隊は○少佐以下約八百名であった。島民は当時沖縄で最も愛国的な村民で誠心誠意の人達であった。皆一致団結して協力して戴いたので大いに感謝し私以下部隊は親睦に留意し非違行為は一件もなかった。

 十九年十月十日沖縄大空襲あり、私は前日より首里の司令部に出頭して居た。空襲は米機のみ乱舞し那覇は壊滅した。

 その後本鳥に配備されていた第九師団を比島に増強する問題が発生、結局台湾に足止めの愚挙があった。之が為基地隊長以下主カがその穴埋めの為本島に移動した。行く者は喜び残置された者はショックであったが運命は彼等が全滅の途を歩んだのだった。

 私は残留約二百八十名を指揮下に入れた。不足労力を補う為朝鮮人軍夫百人が来援した。間もなく比島戦始まる。リンガエン上陸戦にて我等と同種戦隊が出撃したが殆ど不成功でこの秘部隊は米軍の知る処となる。※1 (当時この戦隊は全国に三十あり、ケラマは座間味、阿嘉、渡嘉敷に各一、本島に三ケその他は此島、内地にあつた)。私は比島の事で米軍は沖縄の戦隊を調査する。我企図は察知されるだろうと判断した。果してそれから米機の偵察が始まり写真撮影が行われたのだ。その後空襲が二、三回あり兵舎の学校も焼失、我々は村落内に舎営し分散した。之が為老人婦人達は若い兵を息子の様に大事にして戴き双方食い物を頒ち合い甘味品を分け合ったものである。空襲で優秀な鰹舟が煙を発したのを見て隊員は危険の中を飛び込み消し止めた。之も村民に対する感謝の気持の現れだった。舟はその後崖下に秘匿し戦後も活躍した由である。軍司令部は若い将兵を思ってか女傑の店主の引率する五人の可憐な朝鮮慰安婦を送って来た。若い将校は始めて青春を知ったのだ。
※1 これは『戦史叢書』1968刊などを読んで知ったことであろう。1945年時の"判断材料"にはならない。

 島の青年は殆ど出征して居り、若者は女性が主であり女子青年団が出来て軍属の様に働いて居た。此の頃夜間、山の上で燈火信号の如きものが散見された。沖縄人は米国へ出稼者が多い故スパイ活動ではないかと部下や村民間に噂が流れた。斥候を出して調べたが不明だった。疑わしき者ありとの報告もあったが証拠もなし、又考える処ありて私は押さえた※2 。之で良かった。他島は処刑の話が多い。
※2 沖縄軍が「防諜」「防諜」と号令をかけている中で、極秘基地がそれでいいのか?

 比島戦は終熄した。今度は沖縄だろう。大勢は極めて不利、部下、村民の運命如何にと案じつつ訓練に励んだ。之を推進する基地隊は三百名足らず。その装傭は機関銃一、軽機関銃数挺、擲弾筒二、後は小銃のみ、村民は約八百、老幼婦女子の他青壮年若干、之を指導する者は村長、助役、収入役等役場の幹部そして校長先生警察官等であった。敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。何という事だ。戦国の落城悲話の如き心情がケラマにあったのだ。

二、米軍上陸・死闘(20・3・23以降)


 二十三日本島に先がけザマミに空襲始まる。直ちに戦斗配置につき壕に退避厳に秘匿し応射せず。折しもザマミには沖縄船舶団長大町茂大佐一行が視察の為来島し訓示の最中であった。当日夜一行は渡嘉敷の第三戦隊へ移られた。二十四日猛爆。二十五日は戦艦級以下海峡に侵入し来り爆撃と艦砲射撃で島は鳴動した。そして舟艇秘匿壕は落盤や直撃により使用不能となった。当夜より軍司令部からは敵の輸送船の位置が知らされて出撃するのが計画であったが、数百の島を取巻く艦船が無電妨害によりガーガーと雑音ばかりで受信不能、又出撃の基地そのものが襲撃されては特攻なぞ一片の夢と化した。よしんば出撃してもすぐ沖に取巻く装甲艦により瞬時に撃滅されてしまったであろう。

 二十五日夜二十二時頃戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が来訪して来た。助役宮里盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏及び女子青年団長宮平初枝さん(現在宮城姓)の五名。

 その用件は次の通りであった。
  1. いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。
  2. 老幼婦女子は予ての決心の通り軍の足手纒いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
  3. 就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。 

 私は情然とした。今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか。
 私は答えた。
  1. 決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましょう。※3
  2. 弾薬は渡せない。
※3 宮城初枝氏はそうは聞いていない=『母の残したもの』

 しかし、彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開し忠魂碑近くに落下したので彼等は急いで帰って行った。

 これで良かったとホッとしたが翌二十六日から三日位にわたり、先ず助役さんが率先自決し村民は壕に集められ次々と悲惨な最期を遂げた由である。

 この五人も宮城初枝さんだけ生存し他は皆自決された。私は戦斗間村民が数多く亡くなったと報告を受けたがこんなことが行われたとは知らなかった。昭和三十三年頃マスコミの沖縄報道が盛になり始めて知った。

三、上陸戦(3・26)


(1)二十六日九時頃より爆撃開始
西方沖合は舷々相接する輸送船群の為水平線は全部埋まって居た。見事という他なかった。夫より上陸用舟艇や水陸用戦車が泛水開始、そして整備調整か円運動を行う。果して敵はどの島に来るか、ああ遂に来るべきものが来た。運命や如何にと台地に立ちて待機した。

 午前十時彼等は一斉に白波を蹴立ててザマミに向って来た。斯くして本島に先立つ事六日前我戦隊は沖縄の戦端を開いた。

 この米軍はアンドリュー師団、ブルース少将の77師団の由でLST32、LIS40その他の輸送船一四を主体とする陣容であった。我隊は戦隊の他約二百八十名、機関銃一挺の水際反撃は何十門の戦車で一瞬ふっとび後退し、村を取囲むコの字状丘、台地に拠って抵抗した。奴等は我々をなめた様に散開し、中腰になって前進するのを斜射、側射で撃ちまくったらコロコロ倒れた。そしてすぐ退却し空地連絡してグラマンを呼ぷ、戦車が交代反撃してくる。之で一日が終った。

(2)夜戦
 島一番の高台番所山に敵が上ったので夜九時頃本部基地隊の主力で夜襲を決心し突込んだが敵はすぐ後退し夜襲は中断した。然るに、離れて阿佐海岸に待機中の戦隊第一、第二中隊、といっても六十名がそのすぐ裏山に進入した敵の機関銃陣地に独断で斬込んだ。丁度十時頃我々主力が位置した番所山西方稜線から遥か東方に猛烈な敵の機関銃音が起こった。そして数分にして終った。この若武者等は出撃不能の無念、この裏山の機関銃陣地が翌朝より及ぼす影響を判断し叩こうとした。本部とは離れ、敵が中間各処に進入したので連絡困難、斯くして連絡とらざる儘独断斬込んだ。右の谷に沿い伊藤少尉の第一中隊、左山道に沿い阿部第二中隊、銃座を取囲み折重なって倒れて居た。敵陣地は一時奪取し奪った機銃で第二線を撃ったが逆襲でやられた。敵黒人射手は銃と鎖でつながれ、その脳天を阿部少尉の軍刀が二つに割り共に折重なって倒れて居た。生残る者四名。私は一瞬にして最も精鋭な現役部下の三分の二を失い落胆の極に達した。状況把握が遅かった。連絡報告さえあれば止められたものをと残念の至である。

(3)二十七日より月末頃迄
之より連日圧倒的に優勢な空、陸、海の包囲攻撃で逐次斃され、収容に由なく、弾薬尽き、加ふるに敵に降った村民より聞き出し、彼等は糧秣の秘匿壕を黄燐弾で焼き払ったので飢餓状態となった。村民は次々と投降したが止めなかった。しかし民間防衛隊、女子青年団はよく協カした。基地隊の朝鮮人軍夫百名は壕や陣地構築によく働いたが、敵上陸前夜動揺甚しとの報告を受けた。彼等なりに情報があった様で、日本の敗戦近しとして投降の徴がある、処刑すべきかとの報告があったが、日本人でもない彼等は既に戦力にはならぬ、処刑不可、追放せよと命じた。彼等はすぐ逃げて行った。前記慰安婦にも軍夫を放すから自由にせよと伝えた。既に日本兵と懇になった者もあり淋し相であった。すぐ米軍に行かず山林中を暫くさ迷った後四名が投降した由。一名が重傷の将校を看取ると云って離れず後二人で手榴弾で自決した。※4
※4 このことが間違って伝わり、『鉄の暴風』初版の梅澤死亡説になったと思われる。

 哀話ではないか。女傑の主人は本部と行動すると云い去らず将校軍服を着用して看護に炊事に大いに働いた。後私が負傷後はつき切りで看護してくれた。

 古座間味海岸の戦隊壕の津村第三中隊は度々本部主力と合流せんと行動したが包囲を脱することが出来ず海岸よりの戦車の攻撃に潰滅した。津村少尉は本部違絡の途上重囲に陥り哀れ戦死した。

 主力は敵の攻撃をかわして夜間行動し東の阿真山中へ又翌日は東北の阿佐山中へと食糧なき儘蹌踉として戦斗を続けた。

(4)私の負傷(4・12)と以後の状況
 東北部阿佐山中へ圧迫された主力は軍用犬により発見包囲された。地隙により辛ふじて撃退したが私は左膝関節盲貫破片創を受けた。村民は更に後方に分散避難して居たが逐次投降して行った。防衛隊も離れた、女子青年団も負傷者が出たので降りて行った。私は止めなかった。

 本部は私以下副官、当番兵、負傷兵及び前記女性が残った。軍医は散在する負傷兵の手当の為山中、林と衛生兵と共に廻り時々私の治療に来る。しかし薬材無く、米軍の落す衛生材料は貴重品であった。私はつくづく考えた。これは戦争ではない、奴等が云うジャツプハンティングだ。これ以上嬲り殺されてたまるか、皆を集めて命令した。「全員数名以下に分散し山林中に隠忍せよ、止むを得ざる場合の他反撃するな。死ぬな」。

 この頃敵の掃討も漸やく納まったので情勢の推移を待つ事とした。敗残の部下達は何を食べて居たか。漂着する敵艦船群の食糧残滓、米軍糧秣集積所より奪うレーション、焼却された食糧壕の焼け米、それ等を芋の葉、蔓、大豆の葉で雑炊を作りすすって居た。

(5)六月上旬頃迄
 私の傷は激痛が始まり化膿が進んだ。折からの梅雨で兵の作る雨除けも役立たず、連日ビショ濡れ、飢えと寒さで苦しんだ。加ふるに骨髄がやられ高熱が続き朦朧として過した。皆洗濯板のような胸になり夜が明けると横の負傷兵が冷たくなって居たりする。しかし私は助けられた。食糧は元気な兵が手に入れる度に細かく分けて届けてくれた。それを細かく切っては雑炊にする。その頃米粒は一日一人マッチ箱一つ分だった。又投降した防衛隊の学校の先生等が米軍給与等を持って度々夜間尋ねて呉れた。そして敵状、本島の戦況、米軍の内地空襲の状況をその写真と共に知ることが出来た。和平交渉が始まって居ることも判った。※5 座間味島では歩哨線を設けなかったのか?

 昼間敵の揚陸艇が私の隠れて居るすぐ下の浜迄来て放送する。「隊長に告げます。戦争は終りつつある。日本は和平交渉に応じて居る。之以上の無駄な戦斗を止めよう。部下救出の途を考えなさい」と。そして賑やかな音楽をボリュームを上げてコーヒータイム、水兵が甲板に坐って何か食って居ると歩哨が報告する。彼等は村民から私の位置を聞き私の症状衰弱の様子を熟知して居たのだ。

(6)私の捕獲(救出)作戦
 基地隊の兵に東大出の異色の学徒兵が居た。その名はI君。彼は始めからこの戦争は不可なりとし予て期する所があった。よく事態を把握して居たというぺきだろう※7。敵上陸後彼は一人で秘かに投降した。その後負傷収容された兵や防衛隊員そして米兵と協力して山林中に倒れる負傷兵、餓死迫る兵等を収容して廻った。そして又縷々反抗、狙撃され危険の為作業が進まない。その結果負傷衰弱して居る私他本部のものを捕えよく情勢を認識させ戦隊長自身に救出行動を起して貰おうと決した由である。I君は私に食糧を届けて呉れた防衛隊の人等と協力、或る早暁米軍と共に私等を急襲し、本部は私以下一瞬にして捕われた。すぐ舟艇で村の米軍本部に連れて行かれ連隊長たるハプターン中佐と会った。彼日く「戦はすぐ終る我々はもう敵同志ではない、これから貴官の部下を一緒に救出しよう」と云って握手する。そしてナイフでジュース缶を切り開き私に奨めるのだ。私の思考は大転回した。戦争は敗れたりと痛感した。そしてフランクな米指揮官の態度に感じ入った次第だ。ウエストポイント出の将校だった。
※7 I中尉は渡嘉敷島にも投稿勧告にいったが、赤松大尉は会ったものの投降には応じなかった。また赤松大尉は、伊江島島民や渡嘉敷島民の少年2人のように投降勧告に来たことを理由にI中尉を斬ることはなかった。

 それからすぐ手術、膿が溢れ出た。約一週間の医療生活で大分元気が出た。事態を把握した私は覚悟をきめ部下に告ぐ書を綴り救出作業を開始した。山中の部下達は私の指示書を読み逐次下山して集った。

 この間の我が部下、村民の好意努力は申す迄もなく米軍将兵の好意好遇は終生忘却出来ぬ思い出である。私は部下米軍に後事を託し設備の良い本島の病院に移って行った。三回の手術で腐骨が除かれやっとギブスがとれ左足を切らず済んだ。コロンビア大の外科医マッコリイ少佐他看護兵、看護婦の敵味方を隔てぬ友愛精神には感謝の言葉もない。私他多くの負傷兵が焦土と化した内地に帰還したのは二十一年一月以降、私は病院船で浦賀に上陸した。

 猶終戦の一ケ月程前私は再ぴ揚陸艇でザマミに連れて行かれハプターン中佐と会った。彼日く阿嘉島の野田少佐の戦隊が往来する米船を撃ってくるので損害が出て困る。彼の頼みは終戦を目前にし掃討作戦をすれば双方に犠牲が出るので私に一緒に阿嘉に行き情況を説明し反抗を止める様説得してくれとの事であった。私は喜んで応じた。担架で阿嘉島へ行き放送したら戦隊長以下奇麗な服でゾロゾロ降りて来た。そして私にすがって無事を喜び合った。斯くして第二戦隊は無事終戦を迎えた。阿嘉は上陸掃討戦が無かったから損害は少なかった。私は浦賀で入院加療をすすめられたが、振り切る様に家路を急いだ。母は八月終戦の二十九日に病で亡くなって居た。

 以上により座間味島の「軍命令による集団自決」の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した「座間味戦記」及び宮城初枝氏の「血ぬられた座間味島の手記」が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり)

ここまでが梅澤氏による手記である。原告弁護士徳永信一氏が正論9月号で、原告準備書面(2)(7)(8)で、最後の段落を「大城主任専門員は『現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明している」と書き添えた」と主張するがこれはウソである。(『沖縄戦の真実と歪曲』大城将保p56)
目安箱バナー