7月5日-事の発端
爆弾かもね 投稿者:津原泰水 投稿日:2010年 7月 5日(月)03時40分24秒 編集済
http://6020.teacup.com/tsuhara/bbs/707
新人作家に他ならない川上未映子さんが新潮新人賞の審査員になっていると知り、さすがにこれには、違和感をおぼえた。
これまで黙ってきたことの一例。「読んどいたほうがいい本はなんですか?」と訊かれ、「いわゆる女流を目指すんだったら、せめて尾崎翠は」と答えたら、彼女には字がわからず、代わりに書いてあげたと記憶している。その情景を見ていた人達は少なくない。せまい店の中だった。
暫くして、彼女がブログにて、長年読者であったような調子で尾崎を紹介しているのを読み、驚いた。というか背筋が凍った。
良心的に想像すれば、彼女ははなから尾崎など読んでいて、無学な僕を傷つけないよう、わざと「おさきみどり、どう書くんですか?」と訊いてくれたのかもしれない。
「だいななかんたい?」という誤聴も、わざとだったのかもしれない。
僕は、未熟な人は嫌いではない。むしろ積極的に好きだ。いつも、伸び代のある人達と切磋琢磨していきたいと願っている。
しかし未熟な人に、他者の命運を決する権利があるとは、さすがに思わない。彼らが、自分の立場を脅かしかねない人々を、推すとは、想像しにくいからだ。
中堅作家でもその多くが、審査員へのオファーを断る。金銭的、名声的には、魅力的な話なのだが、公募に応じてくるアマチュアの才能に、うっかり嫉妬してしまうくらいなら、自分の小説を磨きたいと思うもの。
川上さんは「引き受けざるをえなかった」のかもしれない。よって僕が批判している対象は、もちろん個ではない。状況の哀しさである。
こういった違和感の表明を、作家の多くは避けたがる。誰かの恨みをかい、審査員になるチャンスを失ったりすれば、それは困ると感じるからだろう。でも、どんなに貧しくとも、死ぬまで、一人の物書きでありたいと願っている僕には、そうする権利も、また義務もあろうと感じる。
小説は文化であり、なべて文化は枯れやすい花である。命を削って、その花圃の番人の一人であり続けてきたという自負が、僕にはある。
かつて、「自死した二階堂奥歯と比して、まだ生きておられる川上さんを推さないのは、バランスを欠く」とし、川上さんの最初のエッセー集への支持を表明した。こっちの人は評し続けられるから修正が効く、といった意味である。
「どうしたら芥川賞をとれますか」という川上さんの質問に、「一頁めに『ちんこ』か『まんこ』という言葉を入れたら」と僕は答えた。その通りにして、彼女は受賞なさった。
虚しい。短期ではあったが、一編集者として「信ずる文学」を支えようとなさっていた、奥歯さんが懐かしい。
壊れた世界 投稿者:津原泰水 投稿日:2010年 7月 5日(月)13時42分21秒 編集済
大昔、少女小説作家時代に受けた、編輯者からの「可愛がり」を独白したら、白泉社のHさん(現在ウェブ上では別名義でいらっしゃるので、念のためイニシャルとする)から、たいへん悪いことをしたかのような批判を受けた。
表立って批判をしてくる人は信頼できると僕は信じているので、当時も現在も、氏に対する他意は露ほどもない。しかし特定の利益集団に帰属しているでもない者が、自分の過去を正直に語ることが、なぜ悪かったのかは未だに分からない。
くだんの編輯さんへの遺恨もなかった。話として面白いじゃないですか、スコットランドで放置されたとか。
「論争や独白に淫している暇があったら小説を書く」が正しいことだと思っているから、僕はあまり、率直な表明というのをやらない。「本音が見えにくい」と実像を知る人は言う。実像を知らない人は「こいつ馬鹿?」と思うらしい。
馬鹿ではないと言い張るほどの馬鹿ではないが、生来、行動パターンが極度に、ひたすら創作へと傾いているのは認めざるをえない。すると社会的には、馬鹿ということになるらしい。体感的にだが「あいつは世間への興味も、興味を持つほどの教養もない」と信じている人が多いような気がする。
僕もそれなりに真っ当な社会人であって、税金も年金も払っているし、防災訓練にも参加する。「職場」であるところの小説出版の動向も気になる。
壊れている、と最近思う。なんつーのかな、昔はちゃんと読み込んでいる人同士が論争とかやっていたのに、昨今は、誰もろくに原典を読まないまま、その漠たるイメージを語ったりパクっているような気がしてならない。Wikipediaのせいか?
限界かな、と思う。小説は死なない。物語は死なない。でも「文学」の当事者はみんな死んでしまった。文学というのは状況そのものだから、当事者不在では成り立たないのだ。
僕自身は飄々と小説を書き続けるだろうし、それを出版したいと仰有る編輯者が一人いれば成立する仕事なので、個人的な危機感は薄い。それでいいのか? と自問しなくもないけれど、成功を求めないことに慣れすぎてしまったので、淡々としているほかないのだ。
7月13日-津原泰水が掲示板に追記
天網恢々 投稿者:津原泰水 投稿日:2010年 7月13日(火)18時05分2秒 編集済
http://6020.teacup.com/tsuhara/bbs/713
女の友達で忘れられないひとに、尾崎翠さんがありますが、鳥取の郷里に帰へられて二三年になるけれども、もう一度上京されて、かつての「第七官界彷徨」のやうな小説を書いて貰ひたく、私は、芥川賞のカードを戴いてゐますが、こんなひとを芥川賞にしたらなぞ空想してゐます。いまではどんな仕事をされてゐるのか消息がカイモク判りませんけれども、私にとつては得がたい友人のひとりでした。(林芙美子「私のともだち」――「新潮」昭和十年四月号)
***
一見、暖かな文章である。しかし『第七官界彷徨』が啓松堂から単行本出版されたのは、昭和八年。その後も地道ながら文筆活動をおこなっていた先輩作家の、引退と消息不明を、林はここで勝手に宣言している。
ちなみにこのとき林は、芥川賞の審査員でもない(!!!)
なんてこと、僕がことさら再録しとかないと、と最近は思うのです。
参考:『尾崎翠への旅――本と雑誌の迷路のなかで――』日出山陽子(小学館スクウェア)
7月22日-川上未映子がブログで反論
2010.07.22
事実関係について
ttp://www.mieko.jp/blog/2010/07/post-9111.html
小説家の津原泰水さんがご自身のサイトで、わたしのことを書かれていると教えていただきました。
それで読んでみると、端的に事実と違うことが書かれてあったので、ここで訂正しておきたく思います。
くわしくは
リンク先の文章を読んでみてください。
その文章では「川上氏は尾崎翠の字も存在も知らなくて、おしえてあげた」というような内容があります。
津原さんも
ブログで仰ってるように現ユリイカ編集長(当時は編集長ではありませんでした)に紹介されたのですが、当然それははじめての詩「先端で、さすわさされるわそらええわ」が掲載された「ユリイカ」2005年11月号が出たあとになるはずで、はじめてお会いしたのは正確には2006年の4月のことです。
しかし、わたしは尾崎翠についてはこのブログの2005年3月の日記にアップしていますし、この内容はそこからさかのぼること1年以上前、月刊Songs2003年10月号(Songsサイトのバックナンバーの目次では、残念ながら2003年は載せていただけていませんが、尾崎翠の「第七官界彷徨」をもじった連載のタイトル「第九感界彷徨」が2004年からは確認できます。このタイトルによる連載開始は2003年8月号。)に発表したものなんです。これは津原さんにお会いする以前のことです。そこにも書いているように、そもそもわたしが尾崎翠を知ったのは二十歳前後のことなのです。まあお会いしたのは酒席でもあったことですし、人もいたし、おそらく津原さんはなにか聞き間違いをされたか記憶違いをなさっているのか、そのあたりのことはよくわかりませんけれども、これが事実ですので記しておきます。時系列をご確認ください。
それで、記事のしたのほうに、芥川賞についても言及されていますが、小説を書くと決めてもいなかった当時のわたしが津原さんに芥川賞について訊くはずもありませんし、そこに書かれている津原さんのことば──もちろん引用は控えますが、わたしの小説「乳と卵」を読んでくださった読者であれば、そんな単語はこの小説にただの一カ所も書かれていないことはおわかりくださるだろうと思います。そして「乳と卵」で扱った主題は、はじめての詩「先端で~」を書いたときから存在しているものですし、これも「先端で~」を読んでくださった読者であればおわかりになると思います。こんなことを書いたらいいなどと、誰かからご教示いただくようなものでもありません。
「乳と卵」と「先端で~」を読んでさえいれば、すぐにおかしいとわかるこのような話が出てくることに困惑しています。
そもそも、お会いして話をしたのは大勢の人をまじえて2006年の4月と夏の2度で、あとは編集者に誘われてサイン会でご挨拶したぐらいです。メールのやりとりは当時そこそこあったのですが、いつお会いしたのか確認するために4年も前のメールをひっくり返していたら、お会いする前の「ダ・ヴィンチ」2006年1月号にわたしが尾崎翠について寄稿していたことに津原さんが気付かれて、はじめてお会いした直後に感想のメールをくださっていたりと、尾崎翠にかんしてそういう経緯もあるのですが、いろいろ謎だったりします。うーん。わたしもすっかり忘れていましたから、津原さんも記憶違いをされているだけなのでしょう。
というわけで、津原さんに対してではなくて、あの文章を読んで誤解された読者の方に対して、あくまでも「事実関係」として、ここに記しておきたいと思います。以上です。
そして、新人賞選考委員、がんばります!
「時系列」への反論
みんなわかってると思いつつ 投稿者:**** 投稿日:2010年 7月25日(日)10時28分4秒
ヒントは全て提示されている。読み取る人だけ読み取ればいいとおそらく考えておられるだろう津原氏の意図をだいなしにするかもしれないが,解題してみる。もちろん,この解題の責任は私にある。
川上未映子氏は,2003年からのエッセイのタイトルに「第七官界彷徨」をもじったタイトルをつけていたことを紹介している。でも,これは,尾崎翠を読んでいたという確証にはならない。尾崎翠の作品とは意識しないまま,タイトルだけ聞きかじっていた可能性だってあるからだ。だからか,川上未映子氏は,津原氏に会ったのは,「デビュー後」で,その時には既にブログに尾崎翠を紹介していた。と主張する。それに対する津原氏の反論は,実はなされている。「デビュー前に」ユリイカの編集長の紹介であったと。そして,2回くらいしか会ったことがなく,メールでのやりとりも当時はあったが,という点に「失笑」し,「厳選されたネタ」だけでも,ということで幾つかの例をあげ,電話での交流もあったことをつけ加える。
会ったのが,「デビュー前か」「デビュー後か」ということが,川上未映子氏がこだわっている点である。
でも,実は,「事前に「尾崎を知っていた」か否かなんて、その論評の品質問題の前では、どうってことない話」なのだ。
未映子氏のブログの尾崎翠の紹介は,端的に間違いがある。
次の部分
そしてばりばり小説を書いていくんですけれども、まだ若い時分に頭痛薬の飲みすぎで中毒になってしまって苦しんで苦しんで恋人と別れて鳥取へ帰ります。
そこからはもう書かなかった。書けなかったのか。
その後の生活は戦後を逞しく生きたという説もあれば、やはり病でぼろぼろになり、独り寂しく雑巾を縫っては売り歩いて寂しい晩年を送ったという説もありますが、後者がよく伝えられるところではあります。
これが,なぜ間違いなのかは,津原氏のこの掲示板の7月13日の記事「天網恢々」を読めば,わかる。鳥取へ帰った後の記述は,林芙美子が流したデマにもとづくものであることが,今日明らかになっている。
2005年時点では,わからなかったという弁明もなりたつかもしれないが,間違いを含む文章を放置しつづけ,現時点で訂正もしないで津原氏に対する反論として紹介するというのは,尾崎翠の愛読者を称す物書きとしては,まずいだろう。これを初めて読んで,尾崎翠の悲惨な末路という誤認を植え付けられてしまう人だって,いるかもしれないのだから。もし,ご存知だったなら,訂正しておくべきだった。
「どうってことない話」,ではあるが,川上未映子氏が,津原氏が紹介するまでは尾崎翠のことを良く知らなかった,の方がまだましなのだ。川上未映子氏が,自身が称するように20代初めから尾崎翠を読み込んでいたならば,現時点においてこのような「解説」を放置したままにしている「未熟な」評者であるという可能性が,より強く導かれてしまうからだ。
最後に,津原氏が提示した命題である。
いくら出版業界が苦境で,少しでも販売拡大につなげたいからといって,このような「未熟な人」に他者の運命を決定する権利を与えていいのか。そこまで出版業界は壊れてしまったのか。
おはようございます 投稿者:津原泰水 投稿日:2010年 7月25日(日)11時44分7秒 編集済
■2003年云々:僕がどうにも書きにくかったことを、****さんがあっさりお書きになってしまったので、ま、そういう話である。というのでOKですか? 僕のこれまでの記述と矛盾していないかと思いますが。
初対面の場(トータル五人のイレコミ――半個室でした)で尾崎のレクチュアをしたのは、事実です。そのとき初めて『定本尾崎翠全集』が、ちくま文庫『尾崎翠集成』に落ちていると編集者から聞かされ、「あ、じゃあ安く入手できるから、よかったね」だとか、「旧仮名じゃないの? がっかり」、場で尾崎が「おざき」と呼ばれていて僕が「おさき」と訂正したこと、「翠」という字を誰も書けなくて「羽の下は卒業の卒でしょ」などと会話したことなど、よく憶えています。
僕はすでに『琉璃玉の耳輪』の作業に入っており、布教せねばという意欲に満ちてもいました。
当該川上さんのブログ記事を読み、「あ、買ったんだ」という所感をいだき、でも「せめて、ぜんぶ読んでから書けよ」と感じまして……。
■川上さんのブログを読む義務:御心配になり電話連絡してこられた知己からうかがったのですが、川上さんはここへの、直接のリンクを張られているそうですね。それは皆さんへの「行け」「読め」「抗議せよ」「そしてそれを広めよ」という誘導であると感じます。
電話一本、あるいはメール一往復で、「津原さん、あれ、あたしの記憶と違う」「あ、そ。ほいなら、まあ、直しとくわ」で済んだ筈。
誘導されている(かもしれない)皆さんを、僕はどこか、彼女の忠実なメッセンジャーのように感じています。ファンを下僕扱いするのかと、驚いています。
ことさら騒いで、「津原は間違っている」と(?)PRなさりたい理由を、僕がまず知りたいところです。
■2005年時点では,わからなかったという弁明もなりたつかもしれないが:成立ちません。稲垣眞美氏、日出山陽子氏らの労作『定本』は、帰郷後の尾崎の足跡を可能なかぎり辿っています。1998年刊行。ウェブ上の適当な記述のコラージュでないかぎり、帰郷後の尾崎が「書かなかった」「書けなかった」などという妄言は吐きえません。あ、ちょっと力が。
-管理者注1 : aquapolis掲示板での投稿について、原則的に津原泰水氏以外の方のお名前は伏せ字にしております。
-管理者注2 : >という引用符は行頭に打ち込むとタグとして認識されてしまうため、本文中に用いられている場合には、代わりに「」で括る措置をとっております。
-管理者注3 : 本ページ中では敬称を省略させて頂いております。
最終更新:2010年10月17日 01:33