覚悟 by 151さん




とにかく早く会話を切り上げて、奈緒子を迎えなければ。
「矢部さん…」
止めようとする菊池さんの言葉は矢部さんの耳には届かなかった。
「一体どんな奴なんですかねぇ、あの山田を妊娠させる男なんて」
焦る俺は、矢部さんの何気ない質問を容易くかわすことができなかった。
「知りませんよ!山田がどんな男の子供を孕もうと僕には関係ないですから!!」

なぜこんなことを言ったのか。
一刻も早く矢部さんたちをこの場から追い出したかった。
堪っていた焦燥がつい口を突いた。言い訳はいくらでもできる。
その言葉に本心など微塵もなかったのだから、言い訳という表現を俺は是としないが。

「さあ、今日はもう帰ってください!」
さっさと彼らを追い出そうと、俺は思いきり目の前の扉を開けた。
同時にガンッ!!と大きな音が響き、途中で扉が止まる。
瞬間サッと血の気が引き、しまったという思いと共に、俺は開いた隙間から首を出し、外を見た。
「山田!」
予想通り、そこにいたのは頭を押さえ蹲る奈緒子だった。
中で矢部さん達が息を飲む気配がする。
「だ、大丈夫か?」
体の通らない隙間から、慌てて奈緒子に声を掛ける。
先の音は奈緒子の額と扉が勢いよくぶつかる音だったのだ。
見守る俺に、奈緒子からの返事はない。
数秒後、額を押さえたまま奈緒子が立ち上がってくれたおかげで、やっと扉を充分に開けることができた。
「山田…」
その小さな肩に伸ばそうとした俺の手は、いとも容易く振り払われた。
俯いたまま俺を見ようとしない奈緒子。
「山…」
それでももう一度伸ばそうとした俺の手は、今度は自らその動きを止めた。
奈緒子の、強く、鋭く、そして涙でいっぱいの目に見すくめられたからだ。



「………馬鹿か、お前ら」
奈緒子が小さな震えた声で呟くように言った。
「…妊娠、なんて、するわけないだろ。馬鹿」
奈緒子が、自分のスカートを握りしめるのが視界の端に映る。
「馬鹿、まぬけ、この…巨根が!」
奈緒子がいつ涙がこぼれてもおかしくない程潤んだ目で俺を睨みつける。
「ばーーーーか!!!」
精一杯の憎まれ口を叩き、精一杯の力で俺を突き飛ばし、奈緒子はそこから走り去った。

矢部さんは、頭をぶつけたのが泣くほど痛かったのかと思っただろうか。
菊池さんは、どこまで理解したのだろう。
俺には、すぐにわかった。奈緒子は、俺の言葉を聞いてしまったんだと。

もちろん、すぐに追いかけた。
だが生じた一瞬の間を埋めるのは容易くなかった。
奈緒子の足は意外に速く、俺の体は連日の睡眠不足で予想以上に疲労していた。
それでも俺から逃げようと走る奈緒子に、やっと手を伸ばせる距離まで追いつくことができた。
「山田!待て!」
俺の言葉を無視し、振り返りもせず走る奈緒子。
俺は強引にその腕を掴み上げた。
急に止められた反動で倒れそうになる奈緒子の体を、もう一方の手で支える。
大学の入口まで全力疾走して、二人ともかなり息があがっていた。
「は…離して、下さい」
二の腕を優に一回りで掴める俺の手から逃れようと、奈緒子が必死に藻掻く。
奈緒子を、そして自分を落ち着かせるよう、俺は諭すように話しかけた。
「山田、話を聞いてくれ」
「うるさい、上田。…離せってば」
奈緒子は体全体で俺を拒否する。目も、決して合わせようとしない。
「…頼む、奈緒子」

その言葉で奈緒子の抵抗が止む。
力の抜けたその腕を離すことなく、俺は返事を待った。



奈緒子は小さく呟くように言葉を吐いた。
「……上田さんは、ずるい。私のこと、こんな時だけ名前で呼んで。そうすれば落ち着くとでも思ったんですか?」
事実そうなのが自分でも悔しいのだろう。
渇いていた涙が再び奈緒子の目に溜まっていく。
「人の前じゃ絶対呼ばないくせに」
しゃくり上げそうになるのを押さえているのが、掴んだ腕越しに伝わる。
「心配しないでください。本当に妊娠なんてしてませんから」
「山田…俺は…」
「本当に、離してくれませんか?すっごい見られてるんですけど」
そこでやっと、ここが大学内だということを思い出した。
数人の学生達が好奇の目で俺達を見ていたことに、改めて気付く。
だが、俺は奈緒子を離さなかった。
そのまま奈緒子を連れて咄嗟に思いついた目的地へと引っ張って行く。
後ろで奈緒子の文句が響いていたが、気には留めなかった。

目的地こと、次郎号の駐車場に連れていき、車に奈緒子を乗せるまでが大変だった。
厭がる奈緒子を、強引に押し込む形で助手席に座らせた。
だが発車させてからは諦めたのか、黙って俺の謝罪に耳を傾けてくれた。

「………だから決してあの言葉は本心じゃないんだ、慌てていただけで…、だな」
そう言いつつ奈緒子を一瞥するが、窓の方に顔を向けているせいで表情を伺い知ることはできない。
「お…俺がYOUのことを関係ないと思うわけないだろう?は…ははっ」
試しに笑って誤魔化してみると、奈緒子は少し項垂れやっと俺の方を見た。
「……別に、上田さんが言ってたことがショックだったわけじゃないですから」
「え…?」
奈緒子の意外な言葉に、運転中にも関わらず、助手席の方に何度か目を遣る。
「どうせ、私が妊娠したかも…何て勘違いして、焦ってたんだろ!この…へっぽこ次郎が」
あまりの図星ぶりに俺の表情が固まる。
「はぁ…もういいです。上田さんの言いたいことは分かりましたから、そろそろ降ろしてくれませんか?」
そう言って上目使いで見つめてくる奈緒子に、俺は簡単に首を縦に振るわけにはいかなかっ



「じゃ…じゃあなんで怒ってたんだよ。まさかぶつけた頭が泣くほど痛かった訳じゃないだろ」
「な!泣いてなんか…」
そこで奈緒子が口ごもり、頬に付いた涙の跡を拭う。
俺は目的もなく車を走らせながら、奈緒子が言ってくれるのを待った。

「………恥ずかしい、ですか?」
小さな、本当に小さな奈緒子の声を聞き逃すまいと、奈緒子の方に体を傾ける。
「何、だって?」
「だから!……そんなに、私と付き合ってるって矢部さん達に言うの…嫌ですか?」
なるほど。奈緒子が怒ったのはそれでか。
体を戻し、何と返すべきか思案する。
表情の変わらない俺を不満に思ったのか、奈緒子が俺を見上げながら、声の調子を荒らげた。
「そりゃあ!今までさんざん一緒に私のこと馬鹿にしてたんだから…その私と、付き合うことになった、
なんて言うの……恥ずかしいかもしれないけど……でも、私……」
「言って欲しいか?」
言おうとしていたであろうことを先に口にされ、奈緒子はばつが悪そうに顔を背ける。
「……別に」
今更誤魔化しても、そこまで言ってしまっていたら、奈緒子の本心は手に取るより明らかだった。
その時偶然運転中の俺の視界にあるものが入り、俺はその横に車を止めた。
「ちょっと待ってろ」
不審そうに俺を見上げる奈緒子をそのままに、俺は車から降り、横にあった電話BOXの中へと入る。
睨むように俺を見続ける奈緒子を見つめ返しながら、俺は目的の番号を押し始めた。


「どうしたんですか?急にUターンなんかして」
「行く場所ができた」
車に戻った俺が急に進路を変えたことで、奈緒子は少し狼狽えた。
「行く場所?」
奈緒子の質問に答えず、黙って車を急がせる俺を、奈緒子は不満げに見上げ、やがて諦めたように窓の方へ顔を戻した。
不慣れな道に入り、先程電話で聞いた場所に車を走らせる。
チラリと奈緒子を見るが、俺の視線を知ってか知らずか、俺の方を見ようとはしない。
やがて目的の通りを見つけ、その狭い路地に入った所で、奈緒子は驚いたように俺を見た。



 「う、上田さん?!」
奈緒子を無視し、その通りで一番大きな建物の、地下駐車場へと入っていった。
空いていた場所へ車を止め、降りようとする俺の腕を奈緒子が掴む。
「ちょっ!な、何考えてるんですか?!上田!!」
易々とその腕を振り払い、車から降りた俺は助手席の方に移動し扉を開けた。
顔を赤らめ、自分から座席を離れようとはしない奈緒子に顔を近づける。
「し、信じられない…」
困惑と軽蔑の目で俺を見上げる奈緒子に、俺は作った笑顔を浮かべてみせた。
「別に信じなくても結構だが、恥ずかしいから抵抗するなよ。ただでさえこんな所は不慣れなんだ」
俺は強引に、奈緒子を車から引っ張り出した。

初めての場所、初めての経験で右も左も分からなかったが、奈緒子が大人しく付いてきてくれたことで、
その後何とか二人きりになれる場へとたどり着くことが出来た。
そこへきて久々に奈緒子の口から出た言葉は、先と同じものだった。

「信じられない」
そう言われるのも無理はない。
想像していたよりは普通の、そして広いものだったが、部屋の真ん中で堂々とその存在を主張するベッドが、
ここはどういう場所かをはっきりと示している。
先に部屋に入らせられた奈緒子はそれを見て足を止め、俺はその後ろで立ち止まった。
「どうして今!こんなとこに来ようなんて思えるんですか?!もう…本当に…」
怒りというよりも戸惑いを多分に含んだ声で奈緒子が俺に訴える。
諦めたように部屋の中へ入っていく奈緒子に俺は黙って付き従った。

「上田!何か言え!」
ベッドの手前まで来たところで、初めて奈緒子が俺の方を見る。
俺は黙って、顔を赤らめ捲し立てる奈緒子を見下ろす。
その頬には、もう涙の跡は残っていない。
額を見ると先程の衝撃でまだ赤く腫れていた。
手を伸ばし、額にそっと触れると、奈緒子が言葉を発するのを止める。

最終更新:2006年09月14日 03:19