後日談風  by 280 ◆K4f74q9XQ6 さん

前編


そもそも事の発端が何だったのか。
もう思い出す事も嫌になる。と言うか面倒臭い。馬鹿馬鹿しい。
上田の馬鹿のせいでしち面倒臭い事件に巻き込まれ、帰ってきた時には家が無かった。
そう。私の住み家である池田荘はまっさらな更地になっていたのだ。


「で、どうして私が、まかないをしなきゃならないんですか?」

買い物を終えた私はリビングに座る上田を睨みつける。
上田は私の事なんて切られた小指の爪ほども気にせずに、ザッと広げた新聞記事を目を細めて読んでいた。

「しかも買い物まで全部私に任せて。重いんですよ、牛乳パックって」

腹立ち紛れにわざとリビングのテーブルにこれみよがしに牛乳パックが三本──勿論上田の要望だ──入ったビニール袋を置くと、上田はチラと私を見上げフンと小さく鼻を鳴らした。

「愚問だな。住む場所がなくなったYOUを泊めてやったのは誰だ?君がどぉぉぉぉぉしても部屋を貸してくれと言うから、俺はわざわざYOUを泊めてやったんじゃないか。
しかし、君の所業はどうだ。昨夜は快くベッドを貸しはしたが、YOUのイビキと寝言のせいで俺は寝不足気味。
さらに。住む場所が見付かるまでと言っていたが、君の収入じゃあすぐに見付かるとも思えない。家賃も払えないとあれば、最低限の家事ぐらいはして貰わなくては。
ギブ・アンド・テイク。世の中は全てこれで成り立っているんだ。分かるか?山田奈緒子」

ぐだぐだとお得意の理屈を述べた上田は、勝ち誇ったように鼻の穴を膨らませると再び新聞に目を通し始めた。

「何がギブ・アンド・テイクだ。お前のせいで私が何回死に掛けたと思ってるんだ?それぐらい当たり前だろうが」

私は苦々しい表情で暫く上田を睨みつけていたが上田はやはり何処吹く風。
目を細めたりわざとらしく頷いたりして、家庭欄を真剣に読み耽っている。
まともに相手をして貰えないのは明白で、私は大きな溜め息を吐くと重いビニール袋を持ち直してキッチンへと向かった。



昨日私が上田のベッドを借りて、上田は床に転がるはめになったのは確かだが、これはじゃんけんで勝ち取った正当な戦利品だ。
買い物だって買い物リストと必要最低限のお金しか渡されなかったから、余計な物なんて何一つ買っていない。いや、買えなかった。
なのに、何故ここまで腹の立つ理屈を聞かされなきゃならないんだ?
私が何か悪い事をしたとでも言うのか?

確かに上田の言う事は一理ある。
だけど、だからって、こんな家政婦の真似事みたいな事までしなきゃならないなんて、世の中は何処か間違っているんじゃないか?

苛々をぶつけるようにキャベツをザクザク切っていた私だが、その背中にさらにムカつく上田の声が聞こえた。

「食事の支度が終わったら風呂の準備だ。ワイシャツにアイロンもな」

くそっ。食事に毒でも仕込んでやろうか、こいつは。





貧乏性が染み付いた私の作ったご飯を食べ終えた上田は、少しばかり膨れたようにも見える胃を擦りながら風呂へと向かって行った。
無論、食べている間も「味が薄い」だの「切り方が雑」だの文句を溢していたが、皿は舐め取ったかのように綺麗に空になっている。
当然ながら洗い物も私の担当。風呂場から聞こえてきた上田の悲鳴をBGMに、私は鼻唄混じりに皿を洗った。
風呂の温度は軽く五十度を越えているはず。ざまあみろ。

洗い物を終えた私は勝手知ったる何とやらで、リビングのソファを占領してテレビのリモコンを手に取った。
そこに飛び込んできたのはタオルを腰に巻き付けただけの姿の上田だった。

「あら、どうしたんですか?上田さん」
「どうしたんですか?じゃないだろう、山田!YOU、あの風呂の温度は何だ!?危うく俺の大事な息子が火傷でただれて使い物にならなくなる所だっただろうが!」

わざとらしいまでににっこりと笑う私とは対照的に、鬼の様な形相の上田は私からリモコンを引ったくる。
ブッツリとテレビの電源を切るとリモコンをソファに投げ捨て、上田は恥ずかしげもなく仁王立ちになった。

身長のある上田とソファに座る私。
必然的に私の視界はタオル一杯な結果になる。

「ちょ…上田さんっ、前!ソレ!!」
「YOUは俺に何か恨みでもあるのか?今の現状のいったい何が不満だと言うんだ?俺は君に部屋を提供した。ベッドも、食事もだ。
なのに君は俺の健康を気遣う食事を作るでもなく、あまつさえあんな恐ろしい熱湯風呂に俺を入れ殺害を企てた。コレが恨みによる所業と言わずして何と言おう!」
「殺害は企ててません。って上田、タオルっ!」
「確かに、超優秀で天才的な頭脳と日本技術科学大学助教授の肩書きを持つ俺の事をやっかむ気持ちは分からなくもない。だからと言って俺を陥れようとしても、YOUが貧乳で貧乏で職なしである事実は代わりない。
これは紛れもない事実なのだよ」

目の遣り場に困る私の事などお構いなしに、上田は腰に手を当ててひたすら馬鹿な事をとうとうと語る。
その間にもタオルがゆっくりとズリ落ちそうになっているのに、上田はやっぱり気付かない。
コンプレックスであるはずのその物体は徐々にその姿を露わにされようとしている。





──って言うかドサクサに紛れて貧乳って言うな。この巨根。

「良いか山田。俺がYOUをこの部屋に泊めたのは純粋に困っている君の、お・か・あ・さ・ん・に、君を頼むと言われたからだ。その俺を陥れると言う事は、すなわち、君のお母さんを、図らずも絶望の縁に追い遣る結果になるんだぞ?
もし俺がこの世からいなくなれば、YOUは住む場所を失い一生泥草にまみれた生活を強いられる事になる。そうなれば君のお母さんは君の事を心配するあまり、心労に倒れるかも知れない。
あの時君が俺を殺さなければ。そう思うあまり自殺を図ろうとするかも知れない。YOUはそんなにも親不孝者だったのか?違うだろ!?」

──お前が死ぬのは勝手だが、人の親を勝手に殺すな!

何度そう言ってやろうと思ったか。
しかし目の前のタオルは今にもヒラリと舞い落ちそう。
とにかくコレを先に何とかしなくては。

瞬時に頭の中で算段を組み立てた私は、尚も何かを言い募ろうとする上田のタオルに狙いを定めた。
ガッチリ掴んで腰に押し付けてやればタオルが落ちる事もないだろう。
そうなれば上田だって、少しは現状を認識出来るに違いない。

だが私の算段は、いともあっさりと崩された。


私が手を伸ばした瞬間。

「おぉうっ!」
「ふにゃっ!」

私の手に驚いた上田が、思わず腰を引いたのだ。



──ハラリ



私の手に残されたのは少し湿ったタオルが一枚。
そして目の前には。


例の巨大な物体。



「ううううう上田っ!!馬鹿っ!何てモノを見せるんだ貴様っ!」
「ゆゆゆYOUの方こそ、一体何を考えてるんだっ!!」

どもった回数で互いの動揺が伺えるだろう。
上田から視線を外しながら私は必死になってバシバシとタオルを振り回す。その度に上田にタオルが襲い掛るが、私にそんな事を気にする余裕はない。

「馬鹿っ!変態っ!!巨根っ!!!」
「ちょっ、YOUっ、待てっ」
「馬鹿者っ!お嫁に行けなくなったら貴様のせいだ!!」
「おうっ!」

上田の方を見る余裕もなく私はひたすらタオルを振り回す。
しかし、不意に何か重い物が引っ掛かった感触に、私はタオルを振り回す事が出来なくなった。



薄目を開けて上田の方を──ただし下半身でなく上半身を──見ると、私が振り回していたタオルは、しっかりと上田の手に握られていた。
そうだ。こいつは何処で習ったんだか知らないが、それなりに腕が立つんだった。
私の振り回すタオルの五枚や十枚、掴む事なんて造作もない。

「山田」
「な…何だ上田。その手を──」
「YOUはそんな趣味があったのか?」
「ハ?」

相変わらず話が唐突に飛ぶ男だ。
って言うか、妙にこっちに近付いてないか?

「人の性的嗜好をどうこう言うつもりはない。だが俺には、残念ながらYOUの趣味に添えるような感性は持ち併せていない。どちらかと言えば、攻められるよりも攻める方が好みとも言える」
「な…何の話を──」

じりじりと後退さる私だが、間違いなく上田はその距離を詰めている。
逃げ場もなく肘掛けに背中がぶつかった瞬間、ギシリとソファが悲鳴をあげた。
上田がソファに足を掛けたのだ。

「あまり冗談が過ぎると俺も黙っていられないぞ?」
「だから何の話をしている!近付くな、こらっ!」
「何の…?…それこそ愚問だな」

フッと薄っぺらい笑みを浮かべた上田がグィとタオルを引き寄せた。
いまだタオルを握ったままだった私は、当然ながら上田に引き寄せられる結果となった。

「YOUがタオルでぶった殆んどが、俺の息子──すなわち男根に当たっていたのだよ。これがどう言う事か分かるか?」

トンとぶつかった上田の胸板から、ほのかに石鹸の匂いが漂う。
タオルから手を離すのも忘れ、私は自分の頭の中が混乱し始めたのを自覚した。



私を抱きとめた上田の手がサラリと私の髪を梳いた。

「刺激を与えられれば何らかの反応を示すのは生物としては当然。自然の摂理。俺の場合も例外ではない」
「っ?……ちょ…ちょっと待て上田!正気か!?」

嫌な予感に慌てた私は上田を見上げる。
首筋から顎のライン。いつだって私はこの高さで上田を見ていたのだから、今更取り立てて変わった所はない。
あるとすれば、間近で感じる上田の体温がいつもより少し熱いのと、洗い立ての石鹸の匂いが無性に鼻の奥をくすぐる事ぐらいだ。

上田はタオルから手を離す事もなく、いつもの笑みを浮かべて視線だけで私を見下ろした。

「無論理性は残っている。俺とて見境なく盛る獣のような馬鹿げた真似をするつもりはない」
「な…なら──」
「だが」

不意に圧力が掛る。
自然な流れに逆らう事も出来なかった私は、上田に抱きとめられた姿勢のままソファに押し倒された。

「ギブ・アンド・テイク。この言葉の意味が分かるな、山田奈緒子」
「っ……!」
「目には目を、歯には歯を。偉大なるハンムラビ法典にもそう記されている。俺が受けた刺激の分、俺が君に刺激を返す事は当然だ」

私に体重を掛けぬよう少し体を起こした上田は、至って冷静な口調で言った。

──あぁ…やっぱり。

嫌な予感が当たった事に私は背筋が震える思いだった。
こんな予感なら当たらない方が良かった。

至近距離で私を見つめる上田から私は目を逸らす事が出来ない。
いつもぐしゃぐしゃな髪はお風呂上がりのせいか湿っていて、少しくたりとなっていた。


──それにしたって……あのカミソリキスの時と言い今と言い、どうしてこうムードもヘッタクレもないんだろう。
もっともアレはほんの僅かな時間で、唇が当たったかどうかも今となっては記憶にないんだけど。
大体、タオル如きで反応を示す上田のモノがオカシイんじゃないか。


なんて。
下らない事を考えている間にも、上田の顔は近付いてくる。
喉の奥はぴったりと張り付いていて、一言だって口にする事は出来ないし、体は硬直しきって身動き一つ取れない。
唯一動くのは瞼だけ。

──あぁ……多くは望まない。せめてシャワーを浴びてベッドの上でムードのある音楽かなんかを聞きながらが良かった…。

そんな事を考えながら目を閉じた私の唇に、柔らかな感触が触れた。

最終更新:2006年09月04日 10:20