by ◆/YXR97Y6Hoさん


  するりと、手の中から抜け落ちる指先の感触。

  「……!!」

  寝室のベッドで飛び起きた上田次郎の、その全身はびっしりと汗をかいていた。
  時計を見るまでも無い。窓の外はまだ暗く、朝など遠い先のことだと判る。
  悪夢だったのかと、僅かに頭痛のする頭を振り払う。
  汗の不快感を流そうとシャワーを浴びるべく立ち上がろうとして、初めて違和感を覚えた。
  ――そういえば、何故、俺は服を着ていない?――
  その上、右手の先がしびれている。恐る恐る、麻痺して感覚のないあたりを覗き込んでみた。

  そこには、華奢な足が乗っていた。

  思わず、全力で腕を引き抜く。乗っていた足が勢いで高く跳ね上げられて、ベッドに落ち軽くバウンドする。

  慌てて布団を捲った先には、見慣れた女が眠っていた。
  山田奈緒子。
  いつもの服装、ロングスカートが膝まで捲れていて、でもそれだけで。
  上田はホッとしながら、心のどこかで残念だと感じているのを黙殺した。
  深呼吸して状況把握に努めれば、自分の服が無い理由もだんだん思い出せてくる。

  (……そうだ、こいつをいつものように事件に連れ出して、その間に池田荘が取り壊された。
  いくら財布も心も胸も貧しくて、まったく売れてないくせに自意識過剰で可愛らしさの欠片もない女とはいえ、
  行くあてもないまま放っておく訳にもいくまいと思って、ここまで連れ帰った。
  ああそうだ、この害獣を放っておく事は世の為にならない。
  ふ、なんという美しいい自己犠牲精神の持ち主なんだ次郎!
  ……いい気なもんだ、人のベッドで、高イビキなんざかきやがって。
  人の腕に足を、もう片方の足はベッドの縁から落ちていて、まったく、女らしさの欠片もない。)

  「思い出したぞ。どうしてもここで寝たいのなら抱かれてみるか?って言って服を脱いだら、
  ものすごい勢いで腹に正拳突きを食らったんだ。そのまま気絶していたのか……。
  先に俺が起きたらどうなると思ってるんだ。警戒心の欠片もないのか、お前は」

  事実、自分が先に起きたというのに。
  それとも俺だから、安全だとでも思っているのだろうか?
  そんなことを考えながら、上田はさっき跳ね上げた細い足を高く持ち上げ、落とした。
  足はさっきより高くバウンドしたが、持ち主は未だ目覚めそうに無かった。

  そうだ。池田荘が、取り壊されて、こいつはこれからどうするんだろう。
  徐々に血の巡りが戻ってきた、一番むずがゆいタイミングの腕を擦りながら上田は奈緒子の顔を眺めた。
  トクウエー、とか呟いて、何の夢を見ているのか幸せそうな、無邪気な寝顔だと思う。
  子供のようだと思う。前しか見ていないようで、向こう見ずで。
  何があっても進んでいくようにも見えて、そのくせ、本当は酷くもろい。
  誰かが支えていないと壊れそうで。なのに、差し伸べた腕を振り払う。
  差し伸べた手を、受け取って欲しいと思う。
  差し伸べている振りをして、縋っているのは俺だ。
  上田次郎は伸びてきたヒゲが囲む口の端に、皮肉な、しかしどこか寂しげなものを浮かべた。

  ああ、思い出した。
  抜け落ちる指は、夢じゃない。
  いつだったか、奈緒子を驚かそうと手を離したこと。
  そして、彼女だ。
  白い手袋と帽子を残して消えた、彼女だ。

  ずきりと上田の肩が痛む。
  落ちようとする人間一人の体重を咄嗟に支えたのだから、痛めて当たり前だ。
  彼にとって、いや寧ろ二人にとって。
  目の前で消えようとする命を助けられなかったことは、これが初めてではない。
  だが、初めてではないことと、慣れてしまうこととは、イコールではない。
  富毛村では、目の前で肉親を失うことになってしまった少女がいた。
  何も言わなかったが、幼い頃父を亡くし、その傷を抱えたままの奈緒子には、
  その状況にはやはりショックが大きかったのではないだろうか。
  あの村からの帰り、助手席で眠る彼女は小さく肩を抱いて、啜り泣きを洩らしていた。
  それを見なかったことにしたのが正しかったのかどうか、彼にはわからないでいる。

  独りで泣かないで欲しいと思う。
  泣き顔が見たくないわけじゃない。
  彼女の支えになりたい。上田はそう強く思った。
  だがそれは。
  指を離してしまった自分には、許されないのかもしれない、とも。

  奈緒子は、未だ目を覚まさない。
  触れたいという衝動に襲われた上田は、その衝動のままに、そっと髪を撫でた。
  長い黒髪は安物のシャンプーを使われているのだろうに、それでも指に絡まない。
  ――もっと触れたい。
  柔らかそうな頬に触れると、上田の手ではその顔を半分近く覆ってしまえる。
  その顔の小ささに改めて体躯の差というものを認識してしまうと、苦しくなって。
  奈緒子がむずかる子供のように動かした唇を、親指でなぞる。
  ――さっきから呼吸が苦しくて仕方がない。
  触れたら治まる。何故かそう確信して、上田は奈緒子の唇を貪るように吸い付いた。

  奈緒子は孤独な夢を見ていた。
  いつしか見なくなっていた、あの夢を。
  湖畔の父と母の夢を。
  ただ、いつもと違ったのは。
  立ち尽くしていたのは、自分ではなくて。
  震える腕で、縋りつくように消えていこうとするのは。
  消えようとする男を抱え上げ、泣いているのは。

  ――あれは、私と、    だ――

  奈緒子の瞳から大粒の涙が零れ、上田の鼻先を濡らして男の澱んだ熱を僅かに冷やす。
  はっと正気にかえり唇を開放すると、ほぼ同時に奈緒子が薄く目を開いたのがわかった。
  上田は何も無かったような顔をして身を離す。奈緒子は少しの間ボーっとしていたが、やがて、眉をひそめて口を開いた。

  「上田。寝込みを襲うなんて、卑怯だぞ」

  「卑怯なものか。寝る前に言ったはずだ、どうしてもここで寝たいならってな」

  奈緒子は冷静だった。上田は、内心の動揺を隠そうとして、失敗して声が裏返っている。
  一度大きく咳払いをして、言葉を紡いだ。

  「だいたい、初めてでもないじゃないか、お互い」

  「カミソリのことですか?あんなの、触れてないようなものじゃないですか」

  「当たったよ」

  「当たってない」

  「いや、当たった」

  「当たったわけないじゃないですか!」

  「そんなにイヤなのか?俺と、キスするのは」

  上田の目に、剣呑な光が灯る。

  「イヤに決まってます。上田さんとなんて」

  奈緒子の言葉を聞くや否や、上田は奈緒子に圧し掛かり、また唇を重ねた。

最終更新:2008年08月29日 14:02