星が降る by ◆QKZh6v4e9wさん

5-8



……だがこんな、やかましくて気忙しくて油断のできないせこくて俗悪な日々とももう少しでおさらばだ。
俺はようやく、自分だけの世界を取り戻せる事になったのだ。
ロンリーでスライムな、上田次郎の世界を。

 *

翌日から山田はせっせと部屋を探し始め、俺は帰宅すると不動産屋のちらしを見せられるのが日課になった。

「これなんかちょっといいなあって思うんですけど」
山田が指差す物件を見て俺は眉をしかめる。
「六畳一間か。風呂もトイレもついてないじゃないか」
「別にそれは構わないんですけどね。月一万八千円なんですよ。微妙だなぁ」
「構わないのか」
「ガス代や水道代かかんなくていいじゃないですか。掃除もしなくていいし」
山田は溜め息をついた。
「でも周りの環境が今ひとつですね」
「物騒なのか?」
「大きなスーパーばっかで安売り店や商店街がないらしいんですよ」
「どこが駄目だ」
「だめですよ。毎日の買い物で負けてもらえないじゃないですか」
「買い物を『毎日』した事がそもそもないだろう、you」

貧乏人山田のチェックは厳しく、一週間たってもアパートは見つからなかった。

「上田さん。これ見てくださいよ。今日不動産屋さんにお薦めされちゃって」
「なんだ。…おおう!月五千円!?」
「礼金も要らないんです。どう思います?」
「素晴らしいじゃないか」
「よし決めた。電話貸してください」
「返した事があるか──待て。まてまて。なんだこれは」
「何ですか?」
「お祓い済って小さい字で書いてあるぞ」
「ああ、そこ昔から出るっていうんで超有名な物件らしいんですよ」
「何っ。…ハハ。こ、怖くはないが、そんな部屋にはどうも顔を出しづらいな。いかがわしすぎる」
「来なくていい。でも、ねっ、五千円なんですよ!五千円!!」
「youはつくづく貧困だな」
「こんな部屋、きっともう二度と巡り会えません」
「敷金と当座の家賃のスポンサーは俺だ!駄目だ、許さない」
「信じてるんですか?」
「まさか。俺は理性と知性を重んじる科学者だ。幽霊なんか……ハ、ハハッ」
「じゃあその理性と知性で正体を暴いてみたらどうだ。次の本のネタになるぞ」
「……とにかく、駄目だっ」

アパートは見つからない。二週目が過ぎ去った。

「山田、この広告欄を見ろ」
「月一万五千円でルームシェア?巣鴨か、うーん…」
「単独じゃ無理だぞ。この際妥協しろ」
「人見知りするんですよね、私。繊細だから」
「どこがだ。…ほら、よく見ろ、ペット可だ。youの亀も大手を振って飼えるだろう」
「不可でも、黙って持ち込んじゃえば平気ですけどね。吠えないし。エヘヘッ」
「おい」
「あっ。条件がついてる」
「おう?…本当だ。なになに…『寝言歯ぎしりしない人』……」
「……」
「……」
「嫌がらせか」
「違う」



東京はこんなに広いのに、山田の厳しい条件を満たす物件はどこにも無い。
このまま見つからないんじゃないだろうか。
そう思い始めた三週目。

「上田さん、聞いてください!」
「どうした」
「今日電話があったんです。いつも行く不動産屋さんから」
「いい物件か」
「とっておきの部屋を特別に安くして紹介するからもう二度と来ないでくれって」
「なにかやらかしたのか、you」
「いいえ。毎日毎日朝から晩まで無料のお茶や飴玉や風船やティッシュ貰いながらカウンターで調べてるだけですよ。一万円の部屋を」
「迷惑だろうが!」
「明日来てくれって。案内しますって。でも遠くて…根津なんです。電車代が、今ちょっとですね」
「今だけじゃないだろう。明日か、土曜だな…いいぞ。連れていってやる」

 *

そういうわけで俺と山田は次の日、不動産屋のおっさんと一緒に根津の町に立った。
落ち着いた感じの町並みを通り過ぎ案内された路地に入る。
目の前に、昭和初期にタイムスリップしたような構えの木造アパートがあった。悪くない風情だ。
玄関は古いが掃除がしてあり感じが良い。手入れの行き届いた鉢植えが塀に並んでいる。
部屋は二階の三番目、畳も替えてまだ二年くらいの清潔な部屋だ。
トイレは共同だが小さな流しがついていて、近くに銭湯もある。
山田の大好きな商店街には徒歩五分。それに当然、浅草にも近い。

「住人が急に国に帰ることになったって言うので」
不動産屋は嬉しそうに説明した。
「普段留学生同士の紹介で借り手がつく物件なんですけどね、今回は運がいいんですよ、お兄さん」
「お兄さん…?」
俺はじろりと山田を睨んだ。
山田は知らん顔で押し入れを確認している。
「決めた。ね、次郎にーさん。ここがいい」
それほど不気味ではない愛想笑いを浮かべている山田の顔から目を逸らし、俺はおっさんに言った。
「環境のほうはどうなんですか。痴漢や通り魔や下着泥棒などは」
「ああ、お兄さんとしてはその点ご心配ですよねえ」
不動産屋は窓を開けてみせた。
「大通りからちょっと離れてますけど商店街からの流れで人目がありますからね。女性の一人暮らしでも不安はないです」

「あの。ここに住んでる留学生って、例えばバングラディシュから来た歌好きな男の人とかじゃないですよね」
山田が口を挟んだ。おっさんは首を振った。
「今回は特別に妹さんにご紹介してますが、ここは本来留学生の、それも女性専用でしてね。大家さんが日本舞踊の師匠をなさっている方で、国際的な文化交流に熱心で…」
「女性専用?という事は──」
「男性の訪問は一切禁止です。大家さんがきちんとした方で、家族や親戚といえども特に夜間は厳禁です。どうです。ご安心でしょう、お兄さん!」
おっさんはあははと笑い、山田もエヘヘッと笑った。
俺は口元をひきつらせながら追求した。
「家賃は。結構お高いんじゃないですか、こういう穴場的な部屋は」
「それがですね、本日は特別御奉仕価格の月一万二千円で」
「安い!」
「お願いします!」
「待て山田っ」
山田はじろりと俺を見た。
「なに、次郎にーさん」
「…じゃなかった、な、奈緒子。もうちょっとよく考えて、だな……」
「なんで」



「すみません」
俺はおっさんに向き直った。
「前向きに検討しますので。返事は明日でもいいでしょうか」
「いいですけど」
不動産屋は不審そうに俺と山田を見比べた。
「ご要望にぴったりじゃないですか。ここ以上の物件は絶対にありませんよ、断言しますが」
「ともかく明日。明日お返事します」
俺は何か言いたげな山田の首根っこを掴み、愛想笑いを浮かべながらそのアパートを後にした。

 *

「最高じゃないですか、あのアパート」
山田は興奮気味だった。
「あーあ、長野から出て来たときからあそこに住んでられてれば余計な苦労しなくて済んだのに!」
「余計な苦労?」
「無闇に上田が入り浸れないじゃないか、あそこなら」

俺は眉間に皺を刻んで次郎号のハンドルを左にきった。

「部屋に帰って上田さんがいると怖いんですよね」
「何が怖い。俺は不審者じゃないぞ」
「充分不審者だっ。勝手に入ってるのに鍵かけてたり、いつだったか、電気消してじっとしてた事あっただろ」
「あれはyouに仕掛けを見せようとして」
「洗濯物取り込むし。なにが下着泥棒はどうですかだ、自分だろ」
「親切心で取り込んでやってるんじゃないか。下着泥棒なんか断じてしない!」
「黙って人のブラ持ってった事あったじゃないですか」
「あれはちゃんと返したはずだ」
訂正しながら横目で見るが、山田が怒っている気配はなかった。

「ねえ上田さん」
彼女はにこやかに言った。
にこやかな山田──天変地異が起こる前触れのようだ。
「ちょっとつねってくださいよ。ほっぺ」
「なんで」
「夢じゃないかと。エヘヘヘッ」
俺は無言で左手をあげ、思い切りおでこをしっぺした。
「いったあっ!………エヘヘ。夢じゃないですね。エヘヘヘヘ!」
「………」
不幸でいるのが当たり前という人間に千年に一度レベルの幸運が来るのも考えものだ。
長い付き合いだが、こうも見苦しくはしゃぐ山田を初めて見た。
あまりの浮かれぶりに眉間の皺が深まるのを自覚せざるを得ない。

「you」
「なんですか上田さんっ」
ぱあっと光溢れる笑顔で山田がこっちを見た。
語尾にハートマークがつきそうな勢いだ。
「随分嬉しそうだな」
「そりゃあ。理想通りですから。二千円高いけど、エヘヘヘ」
「俺には見えるぞ。youが家賃を滞納してあのアパートを追い出される姿が」



ぴきっ、と音がした。いや実際には音はしなかったが、空気がこわばった。

「……どういう事だっ」
また横目で見ると、いつものように眉間に皺をよせている山田が見えた。俺はほっとした。
やっぱり山田はこの顔だろう。
「フッ…。あの低家賃で、二千円高いとか言っている時点でもう駄目じゃないか」
「そんな事ありませんよ」
山田は気を取り直すように明るい声をはりあげた。
「前の時よりほんと安いですもん。そのぶん生活費に廻せるし、浅草にも近いからバイトだって」
「それにあのアパートは随分きちんとしていたな」
山田の言葉を無視して俺は容赦なく指摘した。
「前の鷹揚な大家さんやぼろアパートならともかくだ。だらしのないyouがあのこぎれいな環境に馴染む事ができるのか」
「うっ…」
……かなり動揺しているな。
「ゴミをちゃんとまとめられず、厳しい大家さんに日本舞踊の扇子で叩かれているyouの姿も目に浮かぶようだ」
「ま、前の大家さんにだって叱られてましたよ!大家さんの性格は関係ないと思いますっ」
「あのな、you」
俺は微笑を浮かべてやった。
「それは安心する要素になるのか?」

マンションの駐車場に滑り込む。
「とにかく明日までもうちょっとよく考えたほうがいい。これを機会に未熟で至らない破綻した性格を猛反省するんだ」
シートベルトを外しながら説教をしていると山田が俺をちらちらと見ているのに気がついた。
「何だよ」
「上田」
山田は何か言いかけて、ふいにそっぽを向いた。
「何なんだよ」
山田の横顔はなんだかうらめしそうだった。
「──先にそっちが言ったんじゃないですか。ここを出てけって」
早口にそう言って、彼女は急いで助手席から降りていった。
「………」

俺はとっさに何も言い返せなかった。

 *

「だから、上田さん」
山田はソファから立ち上がった。うんざりした表情が険しい。
「この部屋から早く出てけ、でも安くてきちんとしたアパートはやめとけって。わけわかんないですよ」
「そうとは言ってないだろ」
俺は苛々と牛乳を飲んだ。

帰って来てからずっと俺と山田は言い争っている。

「あのな、物事は何でも一面だけ見て納得してちゃいけないって言いたいんだよ、俺は」
「へー」
山田は気のない相づちをうつ。
「そりゃ確かに安くて商店街が近くていいアパートかもしれない」
「浅草にも近いですよ。上田もいないし」
「だがな、例えば隣の部屋の留学生が……ある日いきなり貧乳の歌を歌いはじめたらどうする」
「有り得ません」
山田は一言の下に切り捨てた。
「上田が入ってこれないんだから誰も教えることはできないだろっ。エヘヘヘッ」



最終更新:2006年11月17日 22:22