呪文と石

7-9





反射的に、奈緒子は思いきり腿をひき上げた。チャイナドレスの裾が華麗に翻る。
クリティカルヒット。
「おぉっ……」
一声呻いてずるずると崩れ落ちた重い長身をなんとか床に横たえた。
手当たり次第にバッグに小物を詰め込んで、奈緒子は急いで逃げ出した。

目指す先は──公衆電話だ。
あまりにも上田の様子が怪しくて、どうすればいいのかわからない。
このままでは今夜のこのことアパートに戻るのも不安だ。
なにせ上田はいつでも不法侵入するのだから。
曲がりなりにもこの手の緊急性のある相談を持ちかけられそうな知り合いは、トモダチのいない奈緒子には東京広しとはいえどもあの刑事くらいしかいなかった。

 *

一時間後。
「しっかしお前のそのバイト仲間は恐ろしい女やな、いきなり急所をか…怖っ」
「矢部、面白がるな。真剣に話を聞け!」
「聞いとるやないか、貴重な癒しタイム割いて。にしてもワシら男にとってはその場所はね君」
一人は真っ赤なチャイナドレス一人は自然ではない頭髪の、不自然極まりない二人組がとあるクアハウスの一隅でひそひそと言葉を交わしている。

「だって、その時真剣に身の危険を感じ…たらしい、んですよ」
矢部はマッサージ機のスイッチをいれながら相づちを打った。
「危険言うてもな。男ゆーのも所詮スケベな生き物やしね、ほら。…あ~~極楽極楽」
「そいつ人前では気取りまくってますけどね」
「あー。ムッツリかー、……上田センセタイプやな」
「なんで上田の名前が出てくるんですか」
奈緒子は振動している不自然な前髪から視線を逸らし、自分も隣のマッサージ機に座り込んだ。
「それより。自分からコンドーム贈ってつける特訓までさせたくせに「やはり生で中出しが最高だな」ってそのまんま押し倒してた身勝手でいい加減だったその男がですよ。
『避妊は重要だよyou。コンドーム、薄くて便利でもどかしくて素晴らしいじゃないか。どんどん使おう、なっ!』って月曜からずっと大張り切りなんです
。同じ男性としてどう思います矢部さん、今まで生ばっかりだったのにここにきていきなりコンドーム濫用するって、どういう」
「アーアー公序良俗に反するのでこういう場所で中出しとか生とか大声で発言するのはやめてくださーい。
……世間の耳いうもんをちっとは憚らんかいこの手品師が。恥ずかしいやないかっ!」
奈緒子は目を剥いて罵る矢部に視線を戻した。
「すみません。でも本当に、『youがセックス大好きなんだから仕方ないんだ。な、コンドーム使おう。な』ってしつっこく…なんなんでしょうかあいつ。自分だってセックス大好きな癖に」
「セックスだのコンドームだのやめい言うとるやろが!! …しかし聞けば聞くほどあのセンセを彷彿とさせる口ぶりのオトコやな」
「違いますよ。あのバカは関係ないです」
奈緒子は唇を噛みしめ、でこぼこのシートにもたれかかった。
「不思議な事がもう一つあるんです。そのムッツリですけど、最近やたらにしつこいんですよ」
「そのオトコはもしかして絶倫か」
「巨根ですけど違います。いい年だし。これまではねちねちと一回したらそれなりに満足してたみたいなんですけど、まるで何かに取り憑かれたように何回も──
今日なんか人相が変わってて、あっ、そういえば怪しい精力剤まで」
「巨根……。えらい詳しいやないか。お前その相手のオトコ知っとるのか」
「いえ。…ト、トモダチに聞いたんですよ」






矢部は急に身を乗り出した。
「そこや。……そのトモダチ、股間蹴りつけるような女やけどえらい美人やいうて言うたな。しかも金持ちで巨乳の」
「ええ。それに教養があるし華もあって色っぽいし上品だし手品は巧いし。まさに掃き溜めに鶴っていうか」
「要するにお前と正反対の女いうわけやな。なんでお前と同じとこでバイトしとんのかわけわからんが、あーあ、ワシがその場におったらそのムッツリを即逮捕してやるのになぁ──ちょっと途中経過見た後で」
「おい」
矢部はさらに身を乗り出して目を輝かせた。
「なあ山田、その子紹介してくれへんか。個人的に僕が彼女の相談に直接乗ってあげてもいいよ。その、美人で巨乳でお金持ちの」
「駄目です。それより私の説明を聞けっ、それでですね──」
矢部は即座にマッサージ機に背中を戻し、右手をあげて奈緒子を遮った。
「紹介せんのやったらこれ以上はよう聞かん。黙っとったがな、ワシは今現在囮捜査中で忙しいんや」
「嘘つけ」
「それにしても意外やなー。打ち明け話してくるようなトモダチが乳のないお前におったとは。明日は雪決定やね」
「…乳は関係ないだろ、乳は!」

奈緒子はバッグを肩にかけて憤然と立ち上がった。
さっきから、要するに矢部は面白がっているばかりで全く真剣に聞こうとはしない。
奈緒子が物欲しそうな目で掌を差し出して隣に座っているのに、マッサージ機代のたったの二百円すら貸してくれない。
こういう怠惰で不親切な警官の対応がきっと世の痴漢やストーカー犯罪や万引きや詐欺などを助長するのである。

「もういいです。時間の無駄でした。ヅラっと帰ります」
「おお、帰れ帰れ…っちゅうてワレ!今さらりと何言うた、撃ち殺すぞ」
マッサージ機から飛び上がった矢部の視線が奈緒子を通り過ぎて頭上に流れた。
「あれ。上田センセ」
「…!!」
慌てて振り向いた奈緒子の背後に、倒したはずの大男が頷いている。
「上田、どうしてここが」
「君の数少ない知り合いとその立回先なんかな、全部お見通しなんだよ。……どうも、矢部さん」
矢部は奈緒子と上田を見比べた。
「センセもここにいらっしゃったという事は、もしかして調査かなにかですか。ほらいつもの、超常現象」
上田は奈緒子の背中に、まっすぐ立てた中指の爪の先をぐりぐり捻り込みながら笑顔を見せた。
「まあ、そんなところです」
「痛いじゃないか、上田っ」
「一人で勝手に行動するなと言っただろ。さ、行くぞ、you」
「矢部さん!」
入り口にぐいぐい押しやられながら奈緒子は叫んだ。
「い、今の話のムッツリ男、ほんとは上田なんです!こいつが連日私を襲って──」
上田が穏やかにたしなめた。
「どうしたんだよ、you。何バカな事言ってるんだ」
「本当の事じゃないか!」







「山田。お前も人間離れしたのー。ついに目ぇ開けて寝言言うようになったやないか」
矢部がしみじみと言った。
「言うに事欠いて恩義ある上田センセ相手にどういう嘘八百を抜かすんや」
「矢部さん」
上田が悲しげに目を伏せた。
「これでも私は有名大学教授でノーベル賞候補にも名を連ねる権威ある物理学者です。その私が」
「センセを信じます」
0.01秒で即答した矢部は上田に擦り寄り、気の毒げにひそひそと言った。
「上田センセ──私、前から思うてたんですけど、この小娘おかしいですよ」
「どんな風にです?」
「ほら、自分は超天才マジシャンやとか、上田センセは自分がおらんとうすらでかいだけの役立たずやとか、牛の第四胃袋がどうのとか。
心優しいセンセに言うのも酷ですけど、ここらで一度ビシーッと締めたほうがええんちゃいますか。
現実を見させんとどこまでもつけあがるんですわ、こういう小生意気な女は」
「私もそう思っていたところなんですよ。…そろそろ自分の置かれている立場というか現実をね、きちんと認識させてやろうかなと」
「さすがセンセはお心が広い。恩知らずの貧乳にもその態度、ご立派ですなあ」
「コラ矢部!お前の目は頭と同じで偽物かっ」
「何じゃワレ!国家権力に喧嘩売っとんのか!装甲車で轢いてまうぞ!」
「まあまあ矢部さん」
上田は矢部を宥め、奈緒子を中指でぐいぐい押しながら白い歯を見せた。
「キツく叱っておきますから」
「頼みますよセンセ!甘やかさんと、ここはビシーッと」
「ハハハ、私もやる時にはやりますから」

上田は振り向き、じろりと奈緒子を見下ろした。
「行くぞ、you」


 *

「まさか矢部さんに相談しているとは思わなかったよ」
上田と奈緒子は池田荘の202号室でちゃぶ台を挟んで睨み合った。

「幸い君の寝言は取り合って貰えなかったようだが」
「寝言じゃありません」
奈緒子はむくれてバッグを放り投げ、座った。
「あれに相談した私が間違ってましたけど、普通、犯罪被害の相談は警察に決まってます」
「犯罪?どんな」
「月曜日から毎日上田さんがしてる事です。不法侵入に盗み食いにストーキングに路上誘拐に強姦に…」
「なんだ」
上田も座り込み、眼鏡を外してハンカチで拭いた。
「今までと同じじゃないか」
「自覚してたのか」
「強姦じゃなくて和姦だけどな。…you」
上田は茶筒を振り、中身がないのを確認して眉をしかめた。
「君もわからない女だ。短絡的に警察に走る前にすべき事があるだろう」
「何」
「なぜそんな事をするのか、本人の俺に理由を訊ねるとか」
「訊ねたけど答えなかったじゃないか」



最終更新:2006年11月16日 23:55