呪文と石

4-6



 *

翌日の木曜日、路上にて。

奈緒子は疲れた躯に鞭打って喫茶店のバイトに行き、なんとか終了時間まで勤め上げた。
今日の御飯のためである。
待ち焦がれていた報酬を手にし、必要な食料品を買い込んで久々に幸せな帰宅の最中だった。
後ろから聞き慣れた不吉なクラクションが鳴り響いた。

顔をこわばらせて振り向くとそこには若草色の小さな車があった。
運転席から大男が手を振っている。
奈緒子は急いで前を向き、見なかったふりをしようとした。
「you。──you!」
速度をおとし、ぴたりと並走するパブリカから上田の声がする。
「乗れよ。昨日の、その、お詫びに……なにか奢ってやるから」
「別にいいです。今日はお金入ったし、バイト先でサンドイッチの残りを食べたから満腹だし。失礼します」
「更に一食浮くんだぞ、you」
いつもいつも食べ物で釣られると思ったら大間違いだ。
奈緒子はつんとして小さな胸を張った。
「結構です。今日は部屋に押し掛けて来ないでくださいね、手品の練習がありますから」
次郎号が動かなくなったので気になった奈緒子がまた振り向くと、アイドリング状態で停止した車内で上田が暗い目をしてハンドルにもたれかかっていた。
「……ど…どうした…んですか、上田…さん…?」

上田はゆっくりとドアを開け、ゆっくりと車を廻って近づいてきてゆっくりと顔をあげた。
かと思うといきなり腕を伸ばし、奈緒子を捕まえた。
「上田っ!?」
「この午後しかないんだよ。俺のほうも臨時の教授会が入ったからな」
言うが早いか上田は助手席に奈緒子を押し込み、サイドブレーキを完全に解除しない状態から次郎号を急発進させた。
今度こそ明白なる誘拐である。

……目を覚ますと、そこはすでにとっぷりと日の暮れた池田荘の自室だった。
彼の姿は既になかったが、全裸の躯に布団がかけてあった。
ここ数日と同じ場所がけだるく痛む。
全身が疼き、喉が乾き、頭痛がし、しかもまたキスの痣が増えている。
上田の声や熱や重み、そしてきれぎれではあるがねちっこくていやらしい記憶がフラッシュバックする。
恐ろしい事に抱かれている途中奈緒子は快感と疲労で気が遠くなってしまったらしい。
ゴミ箱に目を動かすと新たに山盛りになったティッシュで溢れ返っていた。
正直なところ今回は回数すら覚えてない。気絶は上田の専売特許だったはずなのに。
──平日とかなんとかいうレベルじゃなくて。
この状態は有り得ない。
いささか遅すぎるのかもしれないが、奈緒子の心に、ようやく深刻な不安が芽生えてきた。
なにせ普段からあの男は変人なので、多少変でも気付かなかったのだ。

とりあえずまたもやお腹が減っている。買い込んだ食料品の袋を探したがどこにもない。
次郎号にだか路上にだか忘れてきてしまったらしかった。
「上田。あの野郎…!」
震える指で即座に大学に電話したが上田は研究室にはいなかった。
そういえば臨時の会議とかなんとか言っていた事を思い出す。

奈緒子はその夜、空腹と憤激のあまり最後のお茶を飲み尽くしてしまった。








 *

そのまた翌日、金曜日の午後遅くの事である。
まさか今日はいくらなんでも現れまいと思っていた長身が、花やしきの舞台裏に現れた。

「!う、上田!」
「よう」
上田の顔はやつれていた。
顔色は悪く肌にもつやが無い。
一層落窪んだぎょろりとした目の下にはうっすらと隈、頬も削げていることに奈緒子は気付く。
いつもきちんと整えている口やあご周りのひげすら無精にすすけて見える。
奈緒子でもキツいのに、一回り年上の上田が連日あれだけやっていれば無理もない。

「だ、大丈夫か──なんか死にそうな顔してるぞお前」
「ふっ…このところ学生の論文指導やエッセイの取材で忙しくて」
上田は明らかに嘘をつきつつ、ジャケットのポケットから小さな壜を取り出した。
ひと捻りで蓋をとばしてあおったその壜のラベルにはどこかで見たようなピラニアの絵が描かれている。
奈緒子は見とがめた。
「上田。何だそれ」
「気にするな」
上田は息をつき、高い目線から奈緒子をじっと見据えた。
「you、今朝はどこに行ってたんだ?」
「新しく始めたコンビニのバイトに…それが何か──」
奈緒子はそわそわと周囲を見回した。
長居しているのは手品のタネを仕込むのに熱中していた奈緒子だけで、他の芸人の気配はない。
油断した。
バッグの中に布や造花を放り込み、彼女はさりげなく立ち上がろうとした。
──ところを腕を掴まれ、お知らせだのちらしだのの重なる壁に押し付けられる。

「そうか、新しいバイトか…元気だな」
上田はチャイナドレスの裾の割れ目から掌をさしこんできた。
「それなら大丈夫だろう」
「!!!まさかっ」
「フ、フフ……その、まさかだ。…おぅ、効いてきた…高価いだけの事はあるな」
病的に目がギラギラしている状態の上田の笑いは凄みがあって怖かった。
「上田…!」
上田のひげが首筋をこすり、奈緒子は痛みに眉を歪めた。
「出せよ。持ってるだろ、あれ」
「……か、金なら無いぞ」
うすうすわかっていても素直に従う気はない。
奈緒子は頬をひきつらせてちらとバッグに視線をやった。
上田が舌打ちして腕を伸ばした。あっという間に中身が化粧台にぶちまけられる。
ハンカチに包まれた四角い箱を指で探り、上田はそれをつかみあげた。
「ほら、やっぱり、こういう時にも真面目に避妊だ。一枚出してくれないか、you」

男女の関係になった後、上田が奈緒子に贈った上田専用男性用避妊具の小箱である。
いつも持ってろというわりには上田はズボラでほとんど使ってなかったのに、ここ数日は使いっぱなしだ。
それを手に押し付けられ、奈緒子は怯んだ。
「や、やりすぎですよ上田さん。昨日だって犯罪のようっていうか、いや、立派な犯罪ですよあれ」
上田はちょっと目を逸らした。
「何が犯罪だ。君だって歓んでたし、……その、婚約者同士なら当然の行為じゃないか」
「……はいぃい?」
奈緒子は目を見張って上田の横顔をまじまじと見上げた。
婚約───?






何だその固い響きの単語は。
それは確かに、彼にはこれまでに何度かプロポーズらしき言動を示されてはいるのだが。
奈緒子自身もこのままずっと上田と一緒にいるのだろうなあ、とはぼんやり考えているのだが。
正式に『婚約』したことなどない。する予定も今のところは…
…だがそういえば先月長野に上田が『挨拶』に行った。
上田は結局最後まで具体的な言葉は何も切り出せなかった。意気地なしだからだ。
だが母は何故か前々から上田を気に入っており、初手から二人は結婚するものだと決めてかかっている節がある。
奈緒子をよろしくねとかどうか任せてくださいお母さんとかそんな言葉は確かに彼女の頭上で飛び交っていた。
もしや奈緒子が気がつかなかっただけで、二人の間では充分意思の疎通が計れていたのだろうか。

次に奈緒子は恐る恐る、つい先日、『ドライブの途中についでに』上田が寄りたいというので連れて行かれた拝島の彼の実家での雰囲気を思い出した。
出された美味しいもなかを夢中で頬張り珍しくも頬が綻んでいる奈緒子を前に、
亡くなったお父様はあの有名なとかお母様も著名な書道家でいらっしゃってとか
とても綺麗なのに清楚でとか次郎もいい年だしとか女性を連れて来た事が一度もなくてとか
仕事ばかりしててとか心配していたのだとかこれで安心とかよろしくお願いしますねとか、
息子と違ってごくまともそうな上田の両親の発言は実に嬉しげで前向きで──
そういえばこうと決まれば一日も早く孫の顔をみたいとか式は神前かとかそんな言葉もさりげなくあまりにもさりげなく。

「──ああっ!」
自分と上田がいつの間にやら実質的に『婚約』しているらしい事に初めて気付いて奈緒子は仰天した。

「そうだったんですか!?」
「そうだったんですかって、おい」
「だって、上田さんと婚約してるならなんで私はこんなに貧乏なんです。パンの耳食ってるし」
「マンションに移れと言ったら君は厭がったじゃないか。強欲なくせに生活費も受け取らないし」
「不気味じゃないですか。上田さんから理由もなく便宜をはかって貰うなんて」
「なにが不気味だ」
「だって上田さんですよ」
「どういう意味だ。理由もなくって…婚約してるだろう」
「してないじゃん」
「してるんだよ!俺はそのために、着々と外堀を埋めて」
「わかりにくいんですよ!」
「どこがだ!youがニブいだけだろうが」
「もっとわかりやすくハッキリ言ってくださいよ!ドライブのついでとか名物のもなかとかフランス語とかでごまかしやがって。あ、そうだ、それこそ結納とかもしてないし、婚約指輪も貰ってないじゃないですかっ、ほら、100カラットのダイヤがついてるような」
「……そうか、やっぱり欲しかったのか」

上田は奈緒子をじっと眺めた。
「……上田さん?」
奈緒子も思わず上田を見つめた。
でかいぎょろ目は随分優しく見えた。
「あのな、you……」
上田は口を噤んだ。
さっと赤くなり、彼は咳払いをした。
「…ま、その話はいいじゃないか。それより、…とりあえず、やろうぜ」
「───はいっ?」
「愛情の確認。…セックスだよ。決まってるだろ」
上田は避妊具の箱をせわしなく奈緒子に押し付けた。
「一枚出せ。今朝も君のアパートで可愛がってやるつもりだったんだがな、全く」
「ってここでか。上田、お前」
「ほら、早く」
奈緒子の腿の裏に大きな掌がまわる。上田はそれをもちあげようとした。

奈緒子は確信した。
上田は絶対にどこかおかしい。
このままでは本当にこの場で犯される。






最終更新:2006年11月16日 23:53