次郎号走る by ◆QKZh6v4e9w さん



吹っ飛んだ眼鏡を探すのに意外に手間取り、宿屋の外に出たときには山田の姿はとうに消えていた。
俺は左右を見回した──あいつ、どっちに行った!?
とりあえず来た方向から探すのが筋だろう。
俺は、宿屋の庭でひっそり控えていた若草色の愛車に駆け寄った。
「行くぞ、次郎号!」
狭いベンチシートに滑り込み、イグニッションをまわす。
エンジン音を響かせ、俺はパブリカを発進させた。

最初、俺はそんなに心配してはいなかった。
山田がどんなに怒りくるっていても所詮は女の足だ。車に勝てるわけないじゃないか。
だが、次郎号を走らせているうちに俺の眉間の皺は徐々に深まっていった。
ライトに照らされた夜の田舎道に、山田の姿はどこにもない。
七百メートルほどいったところで俺は諦めた。
山田はいない。こっちじゃない。
反対側から山を越えたのだろうか?
俺は宿屋まで戻り、逆に次郎号を走らせた。
だがそちらにも山田の姿はない。
宿屋の前には道は一本だけだ。この道のどこかに絶対に山田はいるはずなのに。

諦めきれない俺はもう一度最初の方角に車を向けた。
どこかに隠れてるんじゃないかと思い当たったのだ。
薮とか。電柱とか納屋とか。大きな木とか。
ゆっくりと流しながら、疑り深く道の端を調べていく。
宿屋から三百メートルほどの開けた地点で俺は怪しい地蔵を発見した。
本物の地蔵の横に、ちょこんと、トランクを抱えて目を閉じて──長い髪で色白の──馬鹿か、あいつは。
物陰伝いにこそこそ歩いていたところ戻ってきたパブリカを見つけ、逃げ場がなくて咄嗟に固まったに違いない。
「おい!」
次郎号を急停車させ、俺が飛び出すと山田は性懲りもなく逃げようとした。
「待てよ!」
コンパスなら俺のほうが長い。十メートルほど追跡したところで片手を伸ばし、首根っこを余裕でふん捕まえた。
山田はトランクを振り回して暴れようとする。
「放せ上田!…絶対に戻らないぞ!」
そのトランクをたたき落とした。
「な、ななな」
目を白黒させている山田の肩を掴む。
ヘッドライトの逆光で俺の顔は影になって、山田にはよく見えないに違いない。
眩しそうな山田の顔は困惑の表情を浮かべたままだった。


「…悪かった」
「………」
「あんな事はもうしない。だから一緒に戻──」
山田が、ぎっと音をたてそうな凄い迫力で俺を睨んだ。
仕方なく、俺は言い直す。
「──大きい駅まで送ってやるから、乗れよ。歩いてたら朝までかかるぞ。な」
「………」
「タヌキが出るぞ。ニホンカモシカやクマもいるかもしれない。危険だ」
「…クマは……いやだ」
「だろう」
山田は俯き、肩を揺らせ、ぎこちなく俺の手を払った。
「……上田」
山田がぽつりと呟いた。
「ん」
「本当に反省してるのか?」
「…おう」
俺は少しほっとして頷いた。山田は一応口は利いてくれるつもりのようだ。
「もう二度と、冗談でああいう事はしないな?」
「しない」
トランクを拾い上げ、俺は山田を促した。
「さあ──」
即座に奪い取られた。
「持てます」
「……」
俺は夜空を見上げた。月が涼やかに照っている。

二人で次郎号に乗り込み、俺はハンドルを握った。
この時間に動いているような電車が入っている駅なんて、ここからじゃ急いでも二時間はかかるだろう。
気のせいかもしれないが、トランクをしっかりと抱えた山田と俺の間の空間はいつもより広い。
いや、たぶん気のせいじゃない。
山田の横顔はまっすぐ前方に向けられて、完全には怒りが解けてない事を示している。
長いドライブになりそうだった。


「…you」
「………」
「しりとり、しないか」
「………」
「しりとり」
「………」
単調なエンジン音をぽつぽつ破るのは時折俺のかける声だけだ。
山田は黙りこくっている。重苦しい雰囲気に、俺は溜め息をついてまた運転に専念した。
自業自得という言葉をまた苦々しく噛み締める。
こうなるんじゃないかと思ったんだ。
だからややこしい関係になることを、きっと俺は無意識のうちに避けていたのかもしれない。
──以前のような気楽な間柄に戻れれば一番いいのだが、それも甘い期待かもしれない。

だが、スッキリしない事がある。これくらいは確認してもいいだろう。
「you」
「……」
「さっきから考えてたんだ」
「……」
「君がみた夢なんだがな…」
「…?」
「黒門島がらみなんじゃないか?」


「!」
激しい動揺の気配が伝わってきた。俺は少し満足し、シートに座り直した。
「そうだと思ったよ。君が変になるのは大体あの島のせいだ」
「……どうでもいいじゃないですか」
声は細かった。
「上田さんには関係ないですよ」
「関係あるだろ」
「ないんですよ。全然」
「おい…」
俺は横目で山田を睨む。全然関係ないってのはないんじゃないか──俺はこいつを、わざわざあの島から。
山田の横顔は半分髪の毛で隠れていて、よく見えなかった。
「…上田さんは関わっちゃだめです」
「そういう夢だったのか?」
「………」
「とっくに関わってるじゃないか、いろいろ」
「………」
「教えろよ。どんな夢だったんだ?」
「……私……」
山田の声は小さくて、聞こえにくかった。
「待て」
俺はハンドルをまわして、次郎号を路肩に止めた。
エンジンを切ると、対向車も滅多に通らない深夜の車内はしんと静まり返った。
「…どんな夢だったんだ」
俺はハンドルに手をかけ、前方に視線をむけたまま山田に呼びかけた。
「どうしてそんなに知りたいんだ、上田……物好きだな」
山田の声は相変わらず小さい。
俺は頷いた。
「当然だろ。常に探究心を忘れないのが優秀な学者の条件だ」
違う。君の事が知りたいだけだ。
「今更遠慮すんな、なにかの役にたつかもしれないぞ。言ってみろ、ん?」
山田は苦笑した。
「役に立ちませんよ」
「今まではちゃんと君の役に立ったじゃないか」
「……役に立っちゃ、いけないんですよ」
俺は首を巡らせ、山田を見た。
トランクを抱えた腕、ぎゅっと取っ手を掴んだ指。
「言わないと車出さねえぞ。どんな夢だ」
「………」
「you。ここで夜明かしする気か?」
「………」
山田はふぅっと、糸が切れた人形のような動きで座席に背を預けた。
「…聞いたら、上田さん、怒りますよ」
「怒るかどうか聞かなきゃわかんねえだろ」
「怒りますって」
「どうせ死ぬんだろ、俺が」
「……」
山田はのろのろと顔をこっちに向けた。



「…湖に」
俺はその視線を受け止めた。
「私と上田さんがいるんです」
「………」
「私はかがみ込んでて……」
「………」
「上田さんを、抱きしめてます」
「………」
「上田さん、死にそうなんです」
「………」
「私、泣いてて…死なないでって、叫んでて……」
「………」
「でも上田さん、だんだん静かになっていって……」
「………」
「ふっと顔をあげたら、……小さい女の子がいるんです」
「………」
「髪が、長くて。……私。小さな頃の、私が」
「………」
「私が、いて……」
「………」
「…お父さん……みたいに……っ…厭…!!」
山田の膝からトランクが半端に滑り落ちた。頭を抱え、山田は細く叫んだ。
「いやっ!!」
「山田!」
トランクを引っ張り出して後部座席に放り、俺は身を揉む山田を抑えつけた。
「山田」
「やだ、やだ!やだっ!」
山田は首を振り、俺が傍にいることに気付くとますます怯えた目になった。
「上田さん」
涙でいっぱいのこいつの目を、今夜俺は何度みることになるんだろうか。
「上田さん、私に近づいちゃだめですよ。絶対、だめです」

──だからか。

「馬鹿だな、君は……夢は夢だろ」
「……」
山田は目を見開いて俺を凝視した。涙がぽろぽろとこぼれ落ちて行く。
「で、でも、私は、上田さんと一緒にいちゃいけないんです。厭なんです。上田さんが──」
「物理学の権威で大学教授の俺が、youは馬鹿だって言ってんだよ!」
俺は山田を怒鳴りつけた。
久々に、本気で腹が立っていた。
「youが言ってるのは『確定済みの未来』なのか?そんなもの、この世にあるはずがない」
「………」
山田の目にどんどん新しい涙が盛り上がっていく。
底なしの馬鹿だな、こいつ。
「未来なんて、いくらでも変わっていくもんだろう。いや、変えていくものだ。俺はyouの思い通りにはならないぞ」
「………」
「大間違いなんだよ。youは過去だけに囚われて、俺を見ようとしていない」
「……上田」
「怯えて一生過ごす気か。馬鹿すぎて呆れたよ、youは馬鹿だ。馬鹿め。この馬鹿めっ!」


「ば」
山田の頬に一瞬朱が走った。
「…ば、馬鹿ばか言うなっ」
「反論できないだろう、どうだ馬鹿」
「上田っ」
殴り掛かってきた山田の腕を、俺は掴んだ。
「好きだ」
息をのみ、瞬時に山田は固まった。
「……youもだろ」
「!」
動揺しまくっている山田の目がおかしくて、俺は思わず笑い出しそうになったが我慢した。
また悪質な冗談だと思われたらたまらないじゃないか。
「それでも、俺たちは一緒にいちゃいけないのか。you」
「………」
山田は口をぱくぱくし、俺の目から視線を外して鼻や顎のあたりに彷徨わせた。
「いいな、you、俺は君の傍でしつこく生きてやるぞ」
「駄目なんです!私、私と一緒にいたら──」
「俺は幸せになれる」
「………」
「百五十まで長生きして、俺より二十年ぐらい早く死ぬyouの臨終の枕元で嘲笑ってやる。バァーッカ、ってな!」
山田の綺麗な目。
「だから、逃げるな」
「………上田」
山田の唇の端が歪んだ。笑おうとして、泣いてやがる。
「どこまでも、自分の都合だけじゃないか……」
「そうだよ。悪いか」
「私の都合はどうなるんだ」
「youの都合なんか聞いてねえよ」
「ひど…」
「なあ、知ってるか。……youの泣いてる顔、可愛いぞ」

狭いベンチシートで山田の躯を助手席のガラスに押しつけた。
すぐに俺は──いや、俺たちは、キスに夢中になった。

本当に好きな女とキスした事あるか?
俺は、今までキスっていうのは単なる段階なんだろうと思っていた。
キスという単独の行為が厳然としてあって、そこを通過して次の段階に行くためのステップだと。
仕方ないじゃないか、童貞なんだから。
でも、実際に山田と交わしたその時のキスはステップなんかじゃなかった。
それは渾然と入り交じった欲望と相手を想う感情の証明手段で、ほとんど性行為そのものだった。
キスする場所は唇だけじゃなくて、髪も頬も瞼も鼻もこめかみも耳も、首も顎も、うなじのきわも、手も指も爪も──とにかく、触れられるところに全部だ、そうでもしないと気が済まなかった。
山田の躯をまさぐって、ほかに出ている場所がないか俺は必死で探した。
邪魔だ、服が邪魔だ。
それにこのシートは狭すぎる。
はあはあと息を荒げながら、俺は顔をあげた。目の前のガラスが曇っていた。
俺の顎のひげに、山田がキスしている。
可愛いんだ。もう離したくない、俺のものにしたい。こいつとセックスしたい。
「──山田!」
俺は山田の腕を解き、運転席に戻った。
「行くぞ。youも探せ」
「何を?」
山田はシートの端っこに張り付いたまま、乱れた髪をかきあげ、小さな声で訊ねた。
その恥ずかしそうな響きに俺は笑った。
「ラブホテル」




宿屋に戻るという選択肢は頭になかった。それには遠くまで来すぎている。
俺はシートベルトもつけずに、次郎号を急発進させた。
この愛車をこれほど早く走らせた事は数えるほどしかないだろう。
田舎道はいつのまにかよくある田舎の郊外に変わっていて、一番先に目についたネオンの下に垂れているビニールカーテンの中に、俺はパブリカを滑り込ませた。
「急げ、山田!」
「鍵、上田。鍵!」
助手席から山田を引きずりだし、次郎号を施錠しておいて俺はあたりを見回した。
ラブホテルは初めてだから──よくわからない。とりあえず目をひくパネルに大股に近づいてみる。
様々な装飾の部屋の写真が輝いている。どうやら、この中から選べるようだ。
「どれにする。好きなの選べよ」
「そ、そんなの……どれでも同じですよ」
俺は山田を見た。……くそっ、可愛過ぎないか、こいつ。
「俺もそう思う」
パネルを確認もしないで俺はついているボタンを押した。
音声指示の通りに金を入れると静かに銀色のカードキーが滑りでてきた。──便利だな。
「205だ。山田、来い」
「はい」
俺と山田はきびきびと──というか、せかせかと近くのエレベーターに駆け寄った。
足踏みしたいような気分だった。

205号の部屋は、なんていうのか、やたらに赤い部屋だった。
扉は赤、カーペットも赤。カーテンも赤、サイドテーブルも電話も灰皿も赤、ベッドカバーも赤。
磨りガラスの向こうの浴槽も赤、トイレの便器もペーパーホルダーも赤。……徹底してるな。
俺の隣で山田が呟いた。
「……テレビの二時間ドラマとかで、いかにも最初の殺人事件が起こりそうな部屋ですね」
「同感だ。山田」
「はい」
「風呂に入りたいか?」
「……い、いいです」
山田は俯いてまっかになった。
「寝る前に、入ったし」
「よし!」
俺は山田にかがみ込んだ。背と膝に腕をまわし、ぶんと音がしそうな勢いで抱き上げ、部屋の奥に突進した。
「上田…」
一緒にベッドにもつれ込んだ。
邪魔な服を剥ぎ取ろうとして──俺はふと指をとめた。
何かが気になる。
俺は頭をあげ、赤いサイドボードをもう一度ちらりと見て、何が視界にひっかかったかを確認した。
「…………おおぅ」

馬鹿だ、俺は。

「………」
一瞬黙っていようかと考えたが、そんなわけに…いくわけないか。
俺は渋々、山田の耳に囁いた。
「you」
「ん…」
山田から、くらくらするようないい匂いがする。
ボタンを外した襟の奥からだ。これは、こいつの躯の匂いだったのか。
「思い出した。その……。あれだ。コンドーム……用意してきてない」



「………今言うか、それ」
「そこにも置いてあるけど。…その、俺は、普通のじゃ駄目なんだ」
山田が紅潮した可愛い顔を俺にあげ、ぼそっと呟いた。
「巨根って、ホント大変だな」
「………」
反論…できないな。
俺は長い溜め息をついた。肺の底まで吐き出したかった。
これだけ盛り上がっておいて、このオチか。つくづく俺は童貞とおさらばしにくい人間らしい。
「すまん」
腕をつき、起き上がろうとして、俺は首にまわされた山田の腕に気がついた。
「バカっていう奴がバカだって、上田いつも言うけど、ほんとなんだ…」
「you?」
俺の鼓動が急に一拍とんだ。
体中がかあっと熱くなる。
待て。まてまて。
何期待してるんだ、次郎。
山田は赤くなった顔を俺の胸にすりつけて、ものすごく聞こえにくい声で──。
「とっくに覚悟してるぞ。でなきゃそこの灰皿で、上田さんを殴って逃げてます」
「ゆ、you?」
「いいって言ってんです!…上田さんがいやなら、いいけど」
「に、妊娠してもいいのか?」
「…いいですよ」
「俺の子だぞ」
「そうでなかったら、怖いだろ」
「妊娠したら産まなくちゃいけないんだぞ」
「普通はそうですね」
「お、俺と絶対に結婚しなくちゃいけなくなるぞ?」
「それはこっちの台詞だ」
「俺はいい」
「私もですよ」
「後悔しないか」
「そっちこそ」
「逃げたくなっても、知らないぞ」
「百五十まで一緒にいてくれる……んでしょ」
「違う。youの寿命は百三十歳だ」
「………」
「………」
「…百三十歳で、いいですよ」
山田はそっと顔をあげ、とても優しい目で笑った。
ああ。
俺もこいつも、本物のバカだ。

俺は、綺麗で温かなこいつを見つめた。
どうすればいい。どうすればいい。
どうすれば、この気持ちを伝えられるんだ。
山田の頬を撫でる俺の指は小さく震えていた。



つづく

最終更新:2006年10月09日 17:27