初挑戦 by 582さん



もうすぐ1時か……
タクシーの後部座席にぐったりと身を沈めながら、車内のデジタル時計に目を遣る。
今夜の上田次郎は優雅な午前様だ。
そうだよ。何しろテレビに雑誌に引っ張りだこの俺なんだ。そろそろ専用の送迎付けてくれなきゃな。
――まあ、テレビに呼ばれたのも三ヶ月振りではあるが。

今日は「徹底検証! 今そこにある超常現象」なんて陳腐なタイトルの特番の収録だった。
上田はゲストとして一席を与えられたのだが、何しろ、2時間番組の収録だというのに
4時間近くもスタジオ詰めだったのだ。
この番組、司会者はその道じゃかなりの場数を踏んでいる有名タレントが起用されていたが、
その補佐で進行を務める女子アナウンサーというのが曲者で、ろくに原稿を読んで来ていないのか
度々トチる。それが何度も続くと、ゲストのバラエティータレント達も突っ込んで笑いを取る気も失せて
ダレた空気が蔓延する。そんな調子で延々とカメラを回し続けた収録だった。
そして、やっとスタジオから解放されたと思いきや、すかさず番組スタッフが擦り寄ってきて
「先生お疲れ様でした。ぜひこの後……」などと誘導され車に乗せられ、赤坂のレストランに連れ込まれる。
美味い料理なら一人でじっくり味わいたいというのに、スタッフが二人がかかりで機関銃のように喋りまくり、
「先生、今日の番組の数字次第じゃシリーズ化も計画されてますんで是非!」
などと口説きにかかった。バラエティー専門タレントならいくらでも確保できるのだろうが、
ある程度の肩書きと知名度のある識者を繋ぎとめておくのは難しいのかもしれない。
上田のように仕事を選ばず、どんな空気の現場にも対応できそうなタイプは重宝せねばという算段だろう。
とにかく高いワインが次々と注がれ、よく分からないうちにカラオケにも連れていかれ、
すっかりハイな状態で最後、タクシーに乗せられたのであった。




しかし疲れたな。
テレビの現場なんてつまらんもんだ。司会の女子アナと若い女性タレントが露出の高い服を着てくれてるから
まだ耐えられる……て、おい、飲ませすぎだよあいつら……
しかし、最近の若い女性というのは、よくあんな下着みたいな服で人前に出られるもんだ。
髪も真っ赤や金に染めたりグルグル巻きにしたり、化粧も間近で見るとありゃ化けモンだよな。
いや俺も二年くらい前までは、海外の金髪ギャルが出演するビデオをよく取り寄せていたものだが……ておい、
今夜はアルコールによって俺の優秀な頭脳が冒されているようだ。
そのせいで、今日のケバケバしい女性タレント達の姿じゃなく、なぜか真っ直ぐな黒髪が艶めいて瞼に浮かんでくる。
シャンプーのCMみたいに、サラリとその髪をなびかせて振り向いた姿は――




あいつはどうしてるだろうか。
いよいよあのボロアパートから完全に撤退命令が下され、あいつはヘラヘラ笑いながら
荷物を抱えて俺のマンションに現れた。
しかし俺は、一晩だけ泊めてやった後に、金を渡してあいつを追い出したのだった。
大家と再度交渉するか、新しい住居をなんとか探させるつもりだ。
とても耐えられん。あの無防備な寝顔には。

助手であり相棒とも呼べる間柄であったが、俺の中でその関係がどんどん変化してきた。
妹では決してない。ペットとも違う。
あの容姿に女を感じたことはほぼ皆無だ。どこに魅力があるのか、どう検証しても答えが導き出せない。
ただ、傍にいてほしいというだけだ。
それだけ認めたら少し気が楽になったような気がする。
しかし、だ。
あいつは一体どういうつもりで俺のマンションに来た?
俺も男だ。一つ屋根の下に女がいて平静でいられると思うのか。
いくら温厚で器の大きい俺だからと言って、あまり簡単に懐に飛び込んでこられても困る。
これまで一緒にあれこれやってきた仲間を傷付けたくはない。
だが、いくら冷静かつ怜悧な頭脳を持ってしても、生理現象を司るのは全く別の感情のようで……
それを表に出さないうちに手を打つことにしたのだった。




渋滞でなかなか進まないタクシーの座席で、数日前の展開を振り返りながら上田は目を閉じた。
瞼の裏には、普段の3割増しほど美しくなっている奈緒子が笑顔を向けている。
今度はいつ俺の前に現れるだろうか?
奈緒子がどこに住むことになるのか検討もつかないが、以前みたいに気楽に訪ねて行けるのか、
とても想像がつかなかった。

やっとマンションに到着した。静かに霧雨が降っている。
なんとか真っ直ぐに歩けるし、だいぶ頭もハッキリしてきた。これならちゃんと身繕いしてベッドに入れるだろう。
そして、エレベーターから降りると――

「おい、You!」
俺の部屋の前に、あいつがしゃがみ込んでいたのだ。
慌てて駆け寄ると、ゆっくり目を上げた。僅かに濡れた髪がしっとりと顔を覆っている。
「上田さん…今日はずいぶん遅いじゃないですか」
膝を抱えたまま、微かに笑って呟く。なんか、いつもより随分おとなしいじゃないか。
「何やってんだ? 濡れてるじゃないか。とりあえず入れ」
まだ9月だし、肩や髪が少し雨をくぐった程度の濡れ方だったが、何だかひどく寒そうに見えて
何も考えずに部屋に通した。あいつ、山田は黙ってリビングの真ん中に立っている。
いつもの調子なら勝手にズカズカと入ってソファに転がりそうなものだが、まさか遠慮してるのか?
とりあえずタオルを渡して座らせる。山田は湿ったカーディガンを脱ぎ、
ノースリーブのワンピースの肩にタオルを掛けた。



「で、その荷物を見ると、やっぱりダメだったんだな」
数日前と全く同じ状況だ。あの時はもっと堂々とやって来たのだが。
「すみません。せっかく上田さんがカンパしてくれたのに」
「おい、くれてやった訳じゃないぞ。ちゃんと返してもらうからな」
「わかってますよ…」
クスリと笑う。しかしさっきと同じで、いつもの元気というか図々しさがない。
山田は肩に掛けたタオルの端をギュッと握り、座り直した。
「私、長野に帰りますから」
「ほう……」
一瞬、胸に何かが刺さったような気分になった。しかし頭は冷静に働いている。
「奇術師なんてヤクザな仕事で食ってける訳ないよな。それで、尻尾巻いて逃げる事にしたのか」
「何とでも言ってください」
すかさず言い返してきたが、視線は斜め下に落ちたままだ。
何かあったのか? とりあえず、口を開くのを待った。
「私、もう疲れちゃったんですよ。奇術師とか、適当なバイトで何とか食べていく生活の事じゃなくて。
今まで色んなゴタゴタに巻き込まれて、それはそれで結構楽しかったけど……」
山田はタオルを肩から外し、膝の上で再び握り直すと、真っすぐ俺に目を向けた。
「もう、上田さんを黒門島に関わらせるわけにはいきません」



黒門島って…、何だそれ、もう解決したことじゃないのか」
「私がこうして生きている限りは、きっとまた奴らが現れるはずです。あの島が完全に絶えるまで。
だから、東京にいるわけにはいかないんです」
「何だよ、ちょっと前までここに居座るつもりだったんだろうが」
山田はまた目を逸らした。膝のタオルは最早グチャグチャに弄ばれている。
「だって、同居なんて、やっぱり変じゃないですか……」
ようやくそこに気付いたのか。俺も男だってことに。まあいい。
「長野に帰ったって奴らは追って来るだろう? Youみたいなのでも働こうと思えば何とかなるだろうし、
住む場所さえ確保できれば東京のほうが…いや、別に止めるわけじゃないが」
酔いは醒めてきたのに、また脈拍数が増加してきたようだ。おかしい。
「だから! 上田さんはもう関係ないんです。――でも、近くにいたらやっぱり……
そういうことですから、今夜だけ泊めてください。明日の朝、長野に出発しますから」
また普段の突っかかるような調子が出てきたと思ったら、ソファの上で膝を抱えて丸くなった。

このままじゃ埒があかないな。
俺を危険な目に遭わせたくはないということか。だが、それは単なる義理なのか?
確かめておかなくてはならない。
数日前には出なかった、何か説明のつかない力が沸々と身体に湧いてきた。
アルコールがもたらす作用だな。――まあいい。今夜はなんていうか、特別だ。

最終更新:2006年09月19日 18:52