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大好きな人

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匿名ユーザー

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「ますたー!! 朝だよぉ、起きろ~! えいっ!」
「げふっ!!」
  その日の朝も、私は腹部に強い衝撃を受け、心地よいまどろみから強制的に覚醒させられた。けいれんする肺にどうにか空気を取り込み、何とか心停止を阻止する。
「……天河石……昨日も一昨日も、そしてその前にも、『寝てる人のお腹に飛び乗っちゃいけません』って言わなかったか?」
  腹の上に馬乗りになっている動かない天河石を、私は精一杯厳しい顔をして睨んだ。
「聞いたけど忘れちゃった。ごめんなさ~い!」
  まあそれが通用するような子なら、毎日毎日最悪の目覚めを繰り返してはいない。満面の笑顔を浮かべる天河石をどかし、私は朝からため息をついた。

「あ、おはようございます、マスター。今日もお寝坊さんですね。みんな出かけちゃいましたよ」
「ああ、おはよう黒曜石……ところで、以前から頼んでいることだけど、天河石に私を起こさせるのはやめてもらえないかな?」
  朝の挨拶を交わし、香ばしい朝食の匂いに食欲を刺激されつつ、私は生死に関わる問題を黒曜石に陳情した。
「フフ、ダメです。マスターを起こすのは天河石ちゃんが一番うまいんですから。嫌ならちゃんと自分で起きてきてください。お台所が片づかなくて困ってるんですよ」
  黒曜石は微笑みながら、議題を即座に却下した。みんな私をマスターと呼んでくれるが、どうもその意味を忘れているような気がする。
「やれやれ、朝寝がいかに至福の時間か分からないなんて、黒曜石もまだまだ……天河石? どうした、椅子の場所が気に入らないのか?」
「よいしょ、んしょ……今日はマスターの横で食べるぅ! いただきま~す! はぐはぐはぐ……」
  普段は私の正面、黒曜石と並んで座る天河石だが、何を思い立ったか私の隣に椅子を持ってきて座ると、黒曜石の着席も待たずに猛烈な勢いで食べ始めた。
「どうしたの、天河石ちゃん? あんまり慌てて食べると喉に詰まる――」
「ごちそうさまぁ! 次はますたーの番! はい、あ~んしてぇ、あ・な・た」
「ごほっ!」
  飲んでいた食前酒が気管に入り、私は盛大にむせた。
「げほ、ごほっ! ……て、天河石……いったい何の真似?」
「昨日テレビでやってたぁ。黒曜石に聞いたら、『好きな人同士はああいうコトするのよ』って」
  それを聞いた黒曜石が珍しく慌てた。
「て、天河石ちゃん! あれはお話の中のことなの! ホントにやったりはしないの!」
「お話? ああ、ドラマかなんか見たのか? どんな話だったんだ?」
「!! そ、そんな恥ずかしいこと言えません! マスターのエッチ!」
「ええ!? なんで?」
  黒曜石は顔を真っ赤に染めると、先ほどの天河石に負けない勢いで朝食を平らげ、台所に引っ込んでしまった。
「ほらぁ、はやくあ~んしてぇ」
  釈然としないものを感じながら、私は天河石がフォークに突き刺した目玉焼きを一口にほうばった。

「あなた、ネクタイが曲がってますよぉ」
「いや、ネクタイとかしてないけどな……」
  食後も天河石はやたらとベタベタしてきては私の世話を焼いた。まあ実際には役に立ってはいないのだが。しかしこの歳でままごとする羽目になるとは思わなかった。
「マスター! お休みだからってゴロゴロするのはやめてください! 天河石ちゃんもあんまりくっつかないの!」
  黒曜石はさっきから私と視線を合わせようとしない。どうもよく分からないが、天河石が何かするたびに黒いオーラを発しているところを見ると、怒っているようだ。
「ほら、今日は虎眼石ちゃんと遊ぶって言ってなかった? 待たせたらかわいそうでしょ?」
「あっ、そうだった! じゃあますたー、いってくるね!」
  そういうと天河石は私から離れ、つま先だって私を見上げると瞳を閉じた。これはまさか……悪い予感がする……。
「……天河石。念のため聞くが、何してるの?」
「も~わかってるくせにぃ。お出かけのときはいってきますのチューをするんだよ?」
  ああ、やっぱりそうか……どうしたものかと視線を向けると、黒曜石もこちらを見ていた。だがすぐに背中を向けてしまう。
「……してあげればいいんじゃないですか? マスターと天河石ちゃんは“好きな人同士”みたいですからね」
  いつも通りの穏やかでていねいな言葉遣いだが、そこはかとなくトゲを感じるのは私の気のせいだろうか?
「しょうがないな……ほら、ちゅっ。これでいいだろ? いってこい」
「えへへ、ますたー、おひげがじょりじょりしてくすぐったいよ。じゃあいってきま~す!」
  さすがに唇にするのも気が引けたので、ぷにぷにする頬に軽くキスしてやると、天河石はとろけそうな笑顔を浮かべてかけだしていった。一人前に照れていたようだ。
「やれやれ、大変な目にあった……黒曜石、お茶を一杯――」
「申し訳ありません。急ぎの片づけものが残っておりますので、失礼します」
「……やれやれ」
  足音高く居間をあとにする黒曜石を見送ると、私はこの日何度目になるか分からないため息をついた。

「マスター。それでは夕飯の買い物に行ってきます」
「あ、ああ。いってらっしゃい」
  二人だけの重苦しい昼食をすませると、黒曜石はすぐに出かける支度をはじめた。普段はそんなことしないのだが、今日は何となく玄関まで見送りに来てしまった。
「今晩はなにが食べたいですか?」
「え? ああそうだな、魚がいいかな」
「……では、いってきます……そうだ、付け合わせはどうしますか?」
「は? 付け合わせ? ええと、特に思いつかないな。任せるよ」
「そうですか。……ええと、それでは、他に何か必要なものとかは……」
  そわそわと視線をさまよわせ、どうでもいいようなことをいつまでも尋ねてくる黒曜石の姿を見て、さすがの私もようやく気がついた。
「ええと……黒曜石、もしかしていってらっしゃいのキスをして欲しいの?」
「そそそ、そんなことありません! 私は天河石ちゃんと違って大人なんですから、お話と現実の違いくらい分かってますし、マスターが嫌がることをむりにしてもらおうなんて――」
  手をブンブン振りながら否定する黒曜石の顔に手を伸ばし、前髪をかきあげ、その額に私はそっと口づけた。
「あ……」
「いってらっしゃい。気をつけてね。私は黒曜石のことも大好きだよ」
「……はい、ありがとうございます、マスター。私もマスターのことが大好きです。いってきますね!」

  すっかり機嫌を直した黒曜石を見送り、私は居間に戻ってソファに頭から倒れ込んだ。自分の台詞と行動を思い返すと、恥ずかしさで首を吊りたくなる。
「まったく、何がマスターだよ……どっちが御主人様だかわかりゃしない……」
  どっと疲れを感じた私は、忘却を求めてそのまま眠りに落ちた。

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