目の前に広がる暗闇。
「おーい」
そこから呼びかけられる声は、まるでトンネルの向こうから聞こえる遠い声のようで。
いや、そんなはずはない。昨日はそんなトンネルになど入った記憶は……。
「ねぇねぇ、起きなさいよー」
さっきよりもはっきりと、声が聞こえる。
それと一緒に、頬を細い指でつつかれるような感触。
……眠っているのか、俺は。
だが、いつもと何か感覚が違うような。
「ちょっとー……あ、起きた起きた。おはよう、【鶏冠石のマスター】」
目を開け、体を起こす。
そしたらどうだろう。何故かそこは鶏冠石の部屋で、しかも俺は絨毯の上で、
毛布を被って眠っていたようだ。
そして俺の隣には鶏冠石ではなく、どこか呆れた表情の月長石ちゃんが、
カーペットに足を崩して座っていた。
「んー? あたしの顔に何か?」
「ん、いや……おはよう。それより鶏冠石は」
「いないよ。どっか出かけたんじゃないの?」
出かけた?
あいつが俺に何も言わず出かけるなんて、有り得ないと思う。
しかし事実、鶏冠石の部屋には俺一人……と、そこまで考えたところで、
昨日の記憶の記憶がよみがえる。
様子の変だった鶏冠石に話を聞こうとして、そしたら……そしたら……。
「何震えてるのよ?」
「え? あ、あぁ何でもない何でもない」
まさか、鶏冠石があんな実力行使に……いや、忘れよう。忘れた方が良いんだ、うん。
「それより、朝ご飯ぐらい食べた方が良いんじゃないの?」
「そ、そうだな。うん、そうしよう。月長石ちゃんはどうする?」
「ごちそうになるつもりで起こしたから」
白い歯を見せながら笑う月長石ちゃん。
その顔に釣られて、俺は苦笑を浮かべることしかできなかった。
「おーい」
そこから呼びかけられる声は、まるでトンネルの向こうから聞こえる遠い声のようで。
いや、そんなはずはない。昨日はそんなトンネルになど入った記憶は……。
「ねぇねぇ、起きなさいよー」
さっきよりもはっきりと、声が聞こえる。
それと一緒に、頬を細い指でつつかれるような感触。
……眠っているのか、俺は。
だが、いつもと何か感覚が違うような。
「ちょっとー……あ、起きた起きた。おはよう、【鶏冠石のマスター】」
目を開け、体を起こす。
そしたらどうだろう。何故かそこは鶏冠石の部屋で、しかも俺は絨毯の上で、
毛布を被って眠っていたようだ。
そして俺の隣には鶏冠石ではなく、どこか呆れた表情の月長石ちゃんが、
カーペットに足を崩して座っていた。
「んー? あたしの顔に何か?」
「ん、いや……おはよう。それより鶏冠石は」
「いないよ。どっか出かけたんじゃないの?」
出かけた?
あいつが俺に何も言わず出かけるなんて、有り得ないと思う。
しかし事実、鶏冠石の部屋には俺一人……と、そこまで考えたところで、
昨日の記憶の記憶がよみがえる。
様子の変だった鶏冠石に話を聞こうとして、そしたら……そしたら……。
「何震えてるのよ?」
「え? あ、あぁ何でもない何でもない」
まさか、鶏冠石があんな実力行使に……いや、忘れよう。忘れた方が良いんだ、うん。
「それより、朝ご飯ぐらい食べた方が良いんじゃないの?」
「そ、そうだな。うん、そうしよう。月長石ちゃんはどうする?」
「ごちそうになるつもりで起こしたから」
白い歯を見せながら笑う月長石ちゃん。
その顔に釣られて、俺は苦笑を浮かべることしかできなかった。
トーストにオムレツ、そして生野菜のサラダとコーンスープ。
俺一人だったらもっと手抜きのもので済ませるが、月長石ちゃんもいるということで、
まともな朝食を用意した次第だ。
「で、鶏冠石にでも用があったのか?」
俺の向かい、普段は鶏冠石が座っているはずの席。そこで、イチゴジャムをたっぷり塗ったトーストを、
上品に食べる月長石ちゃんに話しかける。
口にわずかに付いたジャムと少し目立つ八重歯のせいで、吸血鬼の食事中のように見えてしまった。
「ん、まぁね。でも鶏冠石いないなら、別にアンタでもいいわー」
「ずいぶんといい加減だな。で、何だ?」
トーストを皿に戻す月長石ちゃん。
そしてマントの中に手を入れ、取り出したのはケースに入った1枚のディスク。DVDだろうか?
「これをね、鶏冠石に返しておこうと思って」
差し出してきたケースを受け取り、表面を眺める。
無地の白い表面には何も書かれておらず、中身がいったい何なのかは全く見当が付かない。
……しかし、勘で何となく分かってしまう。これがろくでもないシナだと言うことが。
大体月長石ちゃんが差し出してきたものだ。何かいたずらに絡んだ物と考えてしまうのは、
仕方のないことかも知れない。
「中身、気になる?」
と、まるで俺の様子を楽しんでいるかのような視線を送ってくる月長石ちゃん。
「まぁ、少しは」
「やっぱりー。大丈夫よぉ、何も危ない物じゃないから……むしろ、面白い?」
やけに不穏な一言が飛び出した気がするが、彼女の姿を見ていて、
なんだか本当に中身が気になってきてしまう。
「じゃあ、一緒に見ようよ。あたしも今日で見納めだからさぁ」
鶏冠石に用があると言う、月長石ちゃんの言葉を忘れていた俺は、
結局その言葉に従ってしまったのだった。
俺一人だったらもっと手抜きのもので済ませるが、月長石ちゃんもいるということで、
まともな朝食を用意した次第だ。
「で、鶏冠石にでも用があったのか?」
俺の向かい、普段は鶏冠石が座っているはずの席。そこで、イチゴジャムをたっぷり塗ったトーストを、
上品に食べる月長石ちゃんに話しかける。
口にわずかに付いたジャムと少し目立つ八重歯のせいで、吸血鬼の食事中のように見えてしまった。
「ん、まぁね。でも鶏冠石いないなら、別にアンタでもいいわー」
「ずいぶんといい加減だな。で、何だ?」
トーストを皿に戻す月長石ちゃん。
そしてマントの中に手を入れ、取り出したのはケースに入った1枚のディスク。DVDだろうか?
「これをね、鶏冠石に返しておこうと思って」
差し出してきたケースを受け取り、表面を眺める。
無地の白い表面には何も書かれておらず、中身がいったい何なのかは全く見当が付かない。
……しかし、勘で何となく分かってしまう。これがろくでもないシナだと言うことが。
大体月長石ちゃんが差し出してきたものだ。何かいたずらに絡んだ物と考えてしまうのは、
仕方のないことかも知れない。
「中身、気になる?」
と、まるで俺の様子を楽しんでいるかのような視線を送ってくる月長石ちゃん。
「まぁ、少しは」
「やっぱりー。大丈夫よぉ、何も危ない物じゃないから……むしろ、面白い?」
やけに不穏な一言が飛び出した気がするが、彼女の姿を見ていて、
なんだか本当に中身が気になってきてしまう。
「じゃあ、一緒に見ようよ。あたしも今日で見納めだからさぁ」
鶏冠石に用があると言う、月長石ちゃんの言葉を忘れていた俺は、
結局その言葉に従ってしまったのだった。
◆
……後悔先に立たず。昔の人は、上手いこと言ったものだ。
耐えきれずリモコンの一時停止ボタンを押し、テレビに映されている静止画を眺めながら、
ため息を漏らす。
「ね、面白いでしょー。これがあたしの新薬の力でね、前にレッドベリルがコウノトリの」
ソファの隣に座りながら、大笑いしながら話す月長石ちゃんの言葉も、右から左へ流れていく感じだ。
こんな物を見せられて、俺は鶏冠石の顔をまともに見ていられるのか。
いや、無理だ。きっと夜な夜な思い出して、その度……。
「わ、悪い。ちょっと飲み物取ってくる」
少し頭を冷やそう。そう思い、席を立って部屋を出ようとする。
こういうときは、アイスコーヒーだ。頭も冷えるし、頭も冴える。いや、
この場合頭が冴えるのは良いことなのか?
それよりも、ドアノブに手をかける前にドアが開くって、一体どういう……。
「た、ただいま戻りましたわ。少し、レッドベリルのところに用事がありまして……」
今、一番会いたくない相手と、見事に鉢合わせしてしまった。
どこかばつが悪そうな表情を見せる鶏冠石。彼女の見上げる視線が、俺の目と合う。
「お帰り月長石ぃー」
「え、ただい……げ、月長石っ! あなた、どうしてマスターとここに……マスター、そこをどいてください!」
――それだけはダメだ。
とっさの判断で、俺を避けて部屋に入ろうとする鶏冠石の前に立ちふさがる。
右、左、右、左、右と思わせて左……時折フェイントを織り交ぜながら、必死に鶏冠石を足止めする。
その間に、月長石ちゃんがテレビの画面でも消してくれればっ。
「マスター、どきなさい! わたくしはあの小娘に用がっ」
「いやいやいや、とりあえず落ち着こう。これから客間でお茶を」
「最初から客間にいればよかったでしょうが! どうしてマスターの自室に招いているんですかっ」
「あぁ、ちょっとなぁー。パソコンで用事が」
「パソコンの電源点いてませんわよ!」
すっかり怒りの形相を見せる鶏冠石。これではらちがあかない。
「……鶏冠石、悪いっ!」
最後の手段。鶏冠石の体を抱き上げ、部屋の中を見せないよう強引に退室。
絶対に、鶏冠石に今のテレビの画面を見させてはいけない。きっとそんなことになったら……。
「ちょっ……ま、マスターっ、離しなさい……」
照れくさいのか、鶏冠石の声が小さくなり、抵抗も弱まる。
よし、今のうちにここから……。
「再生ー」
……その瞬間、不吉な声が、俺の背後から聞こえた。
いや、さすがにそれはまずいよ、月長石ちゃん。だって今一番の見せ場だったんでしょ。
そんなところで再生したら、きっと……。
『い、いい加減解毒剤を渡しなさいっ……コケ。って! あなた何ビデオカメラを回しているんですのっ……コケッコ』
スピーカーから流れる、鶏冠石の声。
それだけで、この部屋の空気は一瞬にして凍り付いた。
「……げ、月長石ちゃん」
振り返れば、そこでは相変わらず画面を前に大笑いしている月長石ちゃん。
そしてテレビの画面には、涙目でビデオカメラを止めようとする鶏冠石の姿……ただし、口には黄色いくちばし、
頭からは鶏のトサカ。そして首から下は、白い羽毛で包まれた……まぁ、人型の鶏の格好だった。
『いいじゃないのよぉー。きっとマスターも可愛いって言ってくれるわよ?』
『こんなのただの宴会芸ですわっ! ……コケ』
『ね、姉様、語尾にコケっていうのは、どうしようもないの?』
『仕方ないですわ! 勝手に口から漏れるんですから……コケ』
腕に抱く鶏冠石の震えが、俺の体にダイレクトに伝わってくる。
「……えっと、ちょっとやりすぎた?」
この状況が、そんな笑っていられるようなものではないことぐらい、月長石ちゃんも分かったようだ。
その声は明らかに予想外の事態に驚いている色を見せているし、何より彼女の息をのむ音が、
大きく聞こえてきた。
「見ましたわね……」
そして、怒りに震える鶏冠石の声。
思わず腕から彼女を解放し、少しずつ後ずさってしまう。
「い、いや、まぁ……うん、そうだね」
うつむき、表情を隠す鶏冠石。
口元だけが薄ら笑いを浮かべているように見え、それが俺の恐怖をかき立てる。
震える鶏冠石の肩。何とかなだめようと、その肩に触れようと手を伸ばす。
だが、その差し伸べた手は、鶏冠石の裏拳で払いのけられる。
いつしか口元からは笑みが消え、鼻をすする音が聞こえてくる。
「え……えーっと…………げ、月長石、ちゃ……」
振り返ってみると、そこはすっかりもぬけの殻。いつの間にかケースに収められたDVDと、
何も映さぬテレビの画面。
そして、開いた窓から吹く風で、レースのカーテンが揺れているだけだった。
ひどいな。俺を見捨てて逃げるなんて。この状況を一人で打開しないといけないのか。
「忘れて……」
鶏冠石の小さな声。
それは、確かに俺の耳に届いた。
「忘れて……さもなくば、わたくしがあなたの記憶を物理的に」
「え? あ、その、物理的って?」
更に後ずさる俺。いつしか部屋の中程まで追いつめられていた。
目の前には、震える拳を自分の胸元で構える鶏冠石。うつむいていた顔はいつしか持ち上がり、
涙を必死に堪える表情が、俺に向けられる。
「こういう、ことですわっ!」
気付いたら時すでに遅く。俺の腹部に飛び込んできた彼女によって、俺は見事に押し倒されてしまう。
何とか頭部を守ったが、脳が揺れるような感覚に、不快感を覚える。
そして馬乗りになった鶏冠石。震える拳を掲げると、まっすぐ俺の額めがけて振り下ろしてきた。
「いてっ!」
「忘れなさいっ、忘れなさい! 人間は物理的衝撃で忘れられるんでしょう!?」
「そ、それはそう……あだっ、痛っ! だからってこんなっ」
「忘れなさいっ! 忘れなさいっ! お願いだから忘れてっ!」
それほど強くない鶏冠石の拳。
だが、さすがに顔を殴られるとそれなりに痛い。それに泣きながら拳を振り乱す鶏冠石を見ているのも、
なんだか辛くなってしまう。
何とかやめさせなければ……とにかく、冷静にさせないと。
「い、一番、見られたくなかったのにぃ……ひっくっ」
「あぁ、泣くなよ鶏冠せぎっ! 泣くのだけじゃなく殴るのもやめっ!」
「うぅっ、ひどい……ひどいですわっ……ふえぇ」
ついに我慢の限界が来てしまったのか、殴る手も止まり、本気で泣き出してしまった鶏冠石。
何とか体を起こし、弱々しく泣く彼女の頭を撫でる。
何も知らなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。普段泣くような奴でないから、
強い罪悪感に胸を締め付けられた。
「……悪かった。絶対に言わないから、落ち着いてくれ」
そうか、昨日様子が変だったのは、これを知られたくなかったからなんだな。
嫌がる鶏冠石に、無理矢理事情を聞こうとして……あぁ、なんだか俺最悪だ。
「このことは俺からきつく叱っておくから」
結局、この後小一時間鶏冠石をなだめる羽目になったのは、言うまでもない。
こういった過去の失敗を深刻に受け止めてしまうのが鶏冠石なのだから、
仕方ないことなのかもしれない。
「……絶対、公言しませんわね?」
「ああ、絶対だ。あと昨日はホント済まなかったな。こんな嫌なこと、無理矢理聞き出そうとして」
「え?」
その一言で、何故か鶏冠石が目を丸くする。
「どうして殴られたのかなって、ずっと考えてたけどさ。まぁ、こういう事なら仕方ないよな。ごめん」
「え、ええ、そうですか。反省してるなら、まぁ……」
どこか引っかかりのある口調の鶏冠石。何故か、俺から目線をそらしている。
「これは、本当のことを言うべきかしら……」
「ん、何だって?」
「いっ、いえ、別に。それより月長石には、きつくお灸を据えてあげなくては……ふふふふふ」
俺のことを信用してくれたのか、鶏冠石はすっかりいつもの調子を取り戻した。
だが、うつむいて薄ら笑いを浮かべるその顔は、その怒りの矛先にない俺ですら、
背筋の凍るような感覚を覚えた。
耐えきれずリモコンの一時停止ボタンを押し、テレビに映されている静止画を眺めながら、
ため息を漏らす。
「ね、面白いでしょー。これがあたしの新薬の力でね、前にレッドベリルがコウノトリの」
ソファの隣に座りながら、大笑いしながら話す月長石ちゃんの言葉も、右から左へ流れていく感じだ。
こんな物を見せられて、俺は鶏冠石の顔をまともに見ていられるのか。
いや、無理だ。きっと夜な夜な思い出して、その度……。
「わ、悪い。ちょっと飲み物取ってくる」
少し頭を冷やそう。そう思い、席を立って部屋を出ようとする。
こういうときは、アイスコーヒーだ。頭も冷えるし、頭も冴える。いや、
この場合頭が冴えるのは良いことなのか?
それよりも、ドアノブに手をかける前にドアが開くって、一体どういう……。
「た、ただいま戻りましたわ。少し、レッドベリルのところに用事がありまして……」
今、一番会いたくない相手と、見事に鉢合わせしてしまった。
どこかばつが悪そうな表情を見せる鶏冠石。彼女の見上げる視線が、俺の目と合う。
「お帰り月長石ぃー」
「え、ただい……げ、月長石っ! あなた、どうしてマスターとここに……マスター、そこをどいてください!」
――それだけはダメだ。
とっさの判断で、俺を避けて部屋に入ろうとする鶏冠石の前に立ちふさがる。
右、左、右、左、右と思わせて左……時折フェイントを織り交ぜながら、必死に鶏冠石を足止めする。
その間に、月長石ちゃんがテレビの画面でも消してくれればっ。
「マスター、どきなさい! わたくしはあの小娘に用がっ」
「いやいやいや、とりあえず落ち着こう。これから客間でお茶を」
「最初から客間にいればよかったでしょうが! どうしてマスターの自室に招いているんですかっ」
「あぁ、ちょっとなぁー。パソコンで用事が」
「パソコンの電源点いてませんわよ!」
すっかり怒りの形相を見せる鶏冠石。これではらちがあかない。
「……鶏冠石、悪いっ!」
最後の手段。鶏冠石の体を抱き上げ、部屋の中を見せないよう強引に退室。
絶対に、鶏冠石に今のテレビの画面を見させてはいけない。きっとそんなことになったら……。
「ちょっ……ま、マスターっ、離しなさい……」
照れくさいのか、鶏冠石の声が小さくなり、抵抗も弱まる。
よし、今のうちにここから……。
「再生ー」
……その瞬間、不吉な声が、俺の背後から聞こえた。
いや、さすがにそれはまずいよ、月長石ちゃん。だって今一番の見せ場だったんでしょ。
そんなところで再生したら、きっと……。
『い、いい加減解毒剤を渡しなさいっ……コケ。って! あなた何ビデオカメラを回しているんですのっ……コケッコ』
スピーカーから流れる、鶏冠石の声。
それだけで、この部屋の空気は一瞬にして凍り付いた。
「……げ、月長石ちゃん」
振り返れば、そこでは相変わらず画面を前に大笑いしている月長石ちゃん。
そしてテレビの画面には、涙目でビデオカメラを止めようとする鶏冠石の姿……ただし、口には黄色いくちばし、
頭からは鶏のトサカ。そして首から下は、白い羽毛で包まれた……まぁ、人型の鶏の格好だった。
『いいじゃないのよぉー。きっとマスターも可愛いって言ってくれるわよ?』
『こんなのただの宴会芸ですわっ! ……コケ』
『ね、姉様、語尾にコケっていうのは、どうしようもないの?』
『仕方ないですわ! 勝手に口から漏れるんですから……コケ』
腕に抱く鶏冠石の震えが、俺の体にダイレクトに伝わってくる。
「……えっと、ちょっとやりすぎた?」
この状況が、そんな笑っていられるようなものではないことぐらい、月長石ちゃんも分かったようだ。
その声は明らかに予想外の事態に驚いている色を見せているし、何より彼女の息をのむ音が、
大きく聞こえてきた。
「見ましたわね……」
そして、怒りに震える鶏冠石の声。
思わず腕から彼女を解放し、少しずつ後ずさってしまう。
「い、いや、まぁ……うん、そうだね」
うつむき、表情を隠す鶏冠石。
口元だけが薄ら笑いを浮かべているように見え、それが俺の恐怖をかき立てる。
震える鶏冠石の肩。何とかなだめようと、その肩に触れようと手を伸ばす。
だが、その差し伸べた手は、鶏冠石の裏拳で払いのけられる。
いつしか口元からは笑みが消え、鼻をすする音が聞こえてくる。
「え……えーっと…………げ、月長石、ちゃ……」
振り返ってみると、そこはすっかりもぬけの殻。いつの間にかケースに収められたDVDと、
何も映さぬテレビの画面。
そして、開いた窓から吹く風で、レースのカーテンが揺れているだけだった。
ひどいな。俺を見捨てて逃げるなんて。この状況を一人で打開しないといけないのか。
「忘れて……」
鶏冠石の小さな声。
それは、確かに俺の耳に届いた。
「忘れて……さもなくば、わたくしがあなたの記憶を物理的に」
「え? あ、その、物理的って?」
更に後ずさる俺。いつしか部屋の中程まで追いつめられていた。
目の前には、震える拳を自分の胸元で構える鶏冠石。うつむいていた顔はいつしか持ち上がり、
涙を必死に堪える表情が、俺に向けられる。
「こういう、ことですわっ!」
気付いたら時すでに遅く。俺の腹部に飛び込んできた彼女によって、俺は見事に押し倒されてしまう。
何とか頭部を守ったが、脳が揺れるような感覚に、不快感を覚える。
そして馬乗りになった鶏冠石。震える拳を掲げると、まっすぐ俺の額めがけて振り下ろしてきた。
「いてっ!」
「忘れなさいっ、忘れなさい! 人間は物理的衝撃で忘れられるんでしょう!?」
「そ、それはそう……あだっ、痛っ! だからってこんなっ」
「忘れなさいっ! 忘れなさいっ! お願いだから忘れてっ!」
それほど強くない鶏冠石の拳。
だが、さすがに顔を殴られるとそれなりに痛い。それに泣きながら拳を振り乱す鶏冠石を見ているのも、
なんだか辛くなってしまう。
何とかやめさせなければ……とにかく、冷静にさせないと。
「い、一番、見られたくなかったのにぃ……ひっくっ」
「あぁ、泣くなよ鶏冠せぎっ! 泣くのだけじゃなく殴るのもやめっ!」
「うぅっ、ひどい……ひどいですわっ……ふえぇ」
ついに我慢の限界が来てしまったのか、殴る手も止まり、本気で泣き出してしまった鶏冠石。
何とか体を起こし、弱々しく泣く彼女の頭を撫でる。
何も知らなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。普段泣くような奴でないから、
強い罪悪感に胸を締め付けられた。
「……悪かった。絶対に言わないから、落ち着いてくれ」
そうか、昨日様子が変だったのは、これを知られたくなかったからなんだな。
嫌がる鶏冠石に、無理矢理事情を聞こうとして……あぁ、なんだか俺最悪だ。
「このことは俺からきつく叱っておくから」
結局、この後小一時間鶏冠石をなだめる羽目になったのは、言うまでもない。
こういった過去の失敗を深刻に受け止めてしまうのが鶏冠石なのだから、
仕方ないことなのかもしれない。
「……絶対、公言しませんわね?」
「ああ、絶対だ。あと昨日はホント済まなかったな。こんな嫌なこと、無理矢理聞き出そうとして」
「え?」
その一言で、何故か鶏冠石が目を丸くする。
「どうして殴られたのかなって、ずっと考えてたけどさ。まぁ、こういう事なら仕方ないよな。ごめん」
「え、ええ、そうですか。反省してるなら、まぁ……」
どこか引っかかりのある口調の鶏冠石。何故か、俺から目線をそらしている。
「これは、本当のことを言うべきかしら……」
「ん、何だって?」
「いっ、いえ、別に。それより月長石には、きつくお灸を据えてあげなくては……ふふふふふ」
俺のことを信用してくれたのか、鶏冠石はすっかりいつもの調子を取り戻した。
だが、うつむいて薄ら笑いを浮かべるその顔は、その怒りの矛先にない俺ですら、
背筋の凍るような感覚を覚えた。
◆
「と、言うわけで、わたくしのマスターに変装のことは言わないように」
「う、うん。でもどうして?」
「脅されていたなど知られたくもありませんし、その方が何かと都合が良いのですわ。
それにその、少しはかっこいい……」
「ん? どしたの姉様?」
「……何でもありませんわ。それよりレッドベリル、月長石がどこにいるか、知らないかしら?」
「と、言うわけで、わたくしのマスターに変装のことは言わないように」
「う、うん。でもどうして?」
「脅されていたなど知られたくもありませんし、その方が何かと都合が良いのですわ。
それにその、少しはかっこいい……」
「ん? どしたの姉様?」
「……何でもありませんわ。それよりレッドベリル、月長石がどこにいるか、知らないかしら?」