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呪われた乙女 - (2006/10/17 (火) 02:15:11) のソース

  彼はとても変わった方でした。企業家でもないのに豪邸に住み、貴族でもないのに使用人を抱え、錬金術師でもないのに学に秀で、外出はほとんどせず部屋に篭りがちでした。
  そんなお方が、私のマスターでした。

  私がマスターに会ったのはもう随分と昔のことです。深い深い森の中で半ば行き倒れていたところを拾われたのです。身動きできなかった私に彼は、大丈夫かい、と優しく語りかけてくれました。
  そのときは見知らぬ彼を警戒し、大丈夫ですと言って立ち上がろうとしました。けれど私が思っていた以上に体は疲弊していたらしく、よろめいて果ては尻餅をついてしまいました。
「あまり大丈夫そうではなさそうだな」
  彼はそう言うやいなや私を抱え上げると、こっちに私の屋敷があると言って森の奥へと進んでいきました。
  十分もしないうちに屋敷に着きました。それはそれは、森の中には不釣合いな立派な邸宅でした。
「ここが私の屋敷だ」
  そう言い、彼は堂々と進んでいきました。自分の屋敷なのだから堂々としているのは当然なのでしょうけれど、失礼ながらそのときの彼の風貌はこれほどの屋敷に住めるそれではありませんでしたので……。
  屋敷の扉を開けると何人かの使用人が彼を出迎えました。たとえ深い森の中とはいえ、屋敷に住んでいるだけではなく使用人を抱えているということにひどく驚いたのを今でも覚えています。
  私はすぐに二階にある部屋の大きなベッドに横にされました。こんな深い森の中だというのに使用人は多くいるらしく、階下などから人の気配が多く伝わってきました。
「少し待っていてくれ、軽い食事の用意をしてくる。それまでは眠っているといい」
  そう言うと彼は踵を返し部屋を出て行きました。体に異常はないとはいえ、行き倒れる程度には疲弊していましたので、長い時間をかけることもなく私は眠りについていました。

  どれほど眠っていたのでしょうか。窓の外を見てもなにぶん森の中、しかも曇り空でしたので陽はあまり射しておらず、時間がはっきりしませんでした。
「目が覚めたようだね」
  反対側から声が聞こえました。食事を乗せたワゴンの横に彼が座っていました。食事から湯気が出ているのを見ると、あまり長くは眠っていなかったようです。
「怪我をしているようでもないし、具合が悪そうでもないから、ただ疲れていたんだろう。ゆっくり休むといい」
  彼は優しく微笑み、食事をワゴンからベッドサイドのテーブルへ移しています。
「なぜここまでしてくれるの?」
  体力が戻ったためか、そういった疑問が頭をよぎり、思わず問いかけていました。その問いに対し彼は、
「さぁ……なんでだろうね。普段はこんなことしないのに」
  と困ったように笑っていました。後で使用人の方に聞いたのですが、それまでの彼はとても偏屈で、人助けをするような方ではなかったそうです。
  なぜか彼は私を長いこと屋敷に置いてくれ、その間も優しく接してくれました。そうしているうちに私もまんざらでもなく、というよりは彼に惹かれていきました。
  あるとき私は意を決し、彼に
「マスターになってくれますか?」
  と問いかけてみました。すると彼は、
「私なんかでいいのかい?」
  と、いかにも彼らしいというのでしょうか、そういった返答を下さいました。もちろん、そうだからこそ申し込んだわけですので、私は自分が思ったよりも強く、
「はい!」
  と言っていました。すると彼は、
「そうか。それじゃあ、これからもよろしく」
  と言ってにっこりと笑いました。

  それからの数ヶ月はとても充足したものでした。マスターと共に森中を散歩して回ったり、普段マスターが部屋で行っている実験の様子を見たりと、とても楽しいものでした。
  けれど、それは壊れてしまいました。
  一人の使用人が体調不良を訴えました。使用人たちは皆住み込みで、その壮年の男性は自室で療養することになりました。ですが、彼は一向によくならず、むしろ悪化の一途を辿りました。そして彼は……言わなくても、分かりますよね?
  それが引き金となったかのように、体調不良を訴える者が続々と現れました。原因は全く分からず、マスターは流行病の危惧もしました。しかし、感染経路が不明とはいえ、発症のタイミングが他の病より圧倒的に遅いことから、たぶん違うだろうと見当をつけていました。
  原因不明の死者が数人に及んだとき、私の体にも変化が現れました。何か黒い霧のようなものが体から少しずつ噴出してくるのです。それと時を同じくして、少しずつではありますが、体調不良を訴えてから命を落とすまでの時間が短くなっていきました。
  今になって思えば、マスターはそのときすでに、その黒い霧が原因なのではと疑っていたのでしょうね。屋敷中の書物をひっくり返しては、自室に篭り何かをしているようでした。
  そんな折、私は気づきました。遠目に見たときはそれほど具合の悪そうでない使用人が、私が近づくと具合が悪くなるのです。一度や二度ならば偶然ということもあるでしょうが、何十回もそうでは必然であると言わざるを得ません。
  その事実に私は打ちひしがれました。
「私の……私の、せい……」
  気づいたその日の夜、私はこっそりと屋敷を出ようと考えました。しかし、運悪くマスターに見つかってしまい、引き止められました。
  その時に強引にでも屋敷を去っていればよかったですね。けれど、私はできるだけ長い間マスターの近くにいたかった。この黒い霧にさえ触れられなければ大丈夫、そう考えたのです。私はマスターに連れられ屋敷に戻りました。
  その晩はとても寝苦しく感じました。長いまどろみの末、ようやく眠りに着いたのも束の間、待っていたのは得体の知れない悪夢でした。私の体から発せられる黒い霧が形を成して、私に語りかけてくるのです。

  ――お前は呪われている。

  黒い影はただこの言葉を繰り返すだけでした。
  なぜこんなことをするの。
  なぜ私に憑くの。
  いつ私に憑いたの。
  そう問いかけても、先ほどの言葉を繰り返すばかりでした。

  その日の目覚めは最悪でした。こんな悪夢を見たのだから仕方がありませんが、穏やかな日差しや木々のざわめきすらも不快に感じ、すっきりしません。ひとまず目を醒ますため、洗面台で顔を洗おうと廊下に出ました。そのとき何か違和感を感じたのですが、何かは分かりませんでした。
  あの後も夜通しで調べていたのでしょう。マスターの部屋からは灯りが漏れています。昨晩のこともあり、それを見て少し申し訳ない気持ちになりました。泣きそうになるのを堪えながら、私は洗い場へと向かいました。
  マスターと顔を合わしてしまったら辛くて、申し訳なくて泣き崩れてしまいそうでしたから足音を立てないように、ゆっくりと廊下を進みました。途中、私の体から出ている黒い霧が夢のように言葉を発するような気がして、それが恐ろしくて少し早歩きで進みました。
  洗い場に着いて、先ほどの違和感の正体に気がつきました。それまでに気づかなかったというのがおかしかったのかも知れませんね。
  屋敷の中が普段以上に静まり返っていたのです。まるで誰もいないかのように。
  嫌な予感が全身を駈け巡り、鳥肌が立ったかのような感覚に襲われました。躊躇せず、私は駆け出していました。二階の廊下を走り、階段を転げ落ちるように駆け抜け、エントランスホールを抜け、一階の廊下を全力で通過しました。
  私は自分の考えが現実だったことを強く認識していきました。多少数が減ったとはいえ、多くの使用人がいたはずなのにそれまでの間に誰ともすれ違わず、扉の向こうからも物音や気配がしなかったのです。
  使用人たちの寝泊りしている区画へと着きました。けれどなかなか最初の扉を開くことができませんでした。自分の考えが現実だとは思いたくなかったのです。しかし、目を背けるわけにもいきません。
  私は扉のノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開きました。扉は木製でしたが、まるで鉛でできているかのように重く感じました。
  開かれた隙間から、上面だけが赤い斑模様の白いベッドに人が横たわっているのが見えました。眠っているだけ……そう願いながら近づいていきましたが、そんな願いが届くはずもありません。ベッドの上のシーツの膨らみから覗いた顔は苦悶に満ちていて、生前の面影は全くありませんでした。その時になって初めて、赤い斑模様が血であることに気づきました。
  私は一目見ただけで別の部屋へと駆け出しました。恐ろしくて見ていられなかったのと、誰か一人でも無事な人がいないか確かめようとしたからです。
  その隣の並びの三部屋、そこは炊事担当の人が住んでいたのですが、全員亡くなっていました。
  向かいの並び四部屋、掃除や洗濯などの雑用の担当の人が住んでいたのですが、こちらも駄目でした。
  ……この屋敷にいる使用人の全員が亡くなっていました。最後に見た部屋から飛び出すと、私は自分の“呪い”への絶望と恐怖から廊下に座り込んでしまいました。不思議と涙は出てきませんでした。
  後悔と自責の念に打ちひしがれました。あのとき、引き止めたマスターを振り切って屋敷から去っていればこんなことにはならなかったのに、と。
  そこであることに気づきました。
  マスター……私はマスターの無事を確認していません。部屋の灯りがついていたからといって、マスターが生きているという証拠にはなりません。
「マスター!」
  私は必死に駆けました。ただ……ただ早くマスターのもとへ行きたかった。
  全力で走っているというのに、気ばかりが急いて、足がもつれ何度も転んだからでしょう、なかなかマスターの部屋まで辿り着きませんでした。私は全力疾走の勢いそのままに、わずかに開いていたマスターの部屋の扉を押し開けました。
  マスターは床に倒れ臥していました。私は泣きじゃくり、何度も呼びかけながらマスターの体を揺らしました。
「お願い……死なないで」
  今度の願いは聞き届けられたのか、マスターの体はまだ温かみを持っており、息もしていました。それに気づいた私は、黒い霧を吐き出し続ける小さな体を酷使して、マスターをベッドに寝かせました。
  私はベッドの脇で様子を見続けました。私の体から出ている黒い霧……呪いが原因なのだろうから私は近くにいるべきではないのに、どうしてもマスターのそばから離れることができませんでした。

  数十分ほど経ったころでしょうか、マスターが目を醒ましました。虚ろな目で私を見つけると、にっこりと、あの優しい笑顔を見せてくれました。その途端、また涙が溢れました。
  マスターは指でそっと私の頬を伝った涙を拭き、
「心配かけてすまなかったね」
  と本当に申し訳なさそうな笑顔を私に向けました。けれど、その顔はとても苦しそうだったのが忘れられません。屋敷の中で一番私の近くにいたのですし、すぐ目の前で黒い霧を浴びているのですから蝕まれていないわけがありませんでした。
  額から脂汗を滲ませながら、マスターは弱々しい声で、
「もう一つ謝らなくちゃいけないな」
  と言いました。私にはマスターが謝る理由なんて皆目見当がつきません。
「何を……ですか?」
  恐る恐る聞き返しました。
「君の、その黒い霧を治す手段が、見つからなかった」
  その言葉に私は驚きを隠せませんでした。
「これが原因だと、気づいていたのですか?」
  思わず聞いていました。マスターは悪い咳を何度かした後に、こともなげに、
「なんとなくだけどね」
  と答えました。
  言い終わるや否や、マスターは血を吐き出しました。その光景に、私は驚きと恐怖で言葉を失ってしまいました。マスターは、見えているのか見えていないのかよく分からない眼を閉じゆっくりと独白を始めました。
「死ぬ直前というのは、恐ればかりが占めていると思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。愛しい者が近くにいるというだけで、死ぬのも恐くはない。ただ、置いていってしまうことを申し訳なく思う気持ちで一杯だ」
  その言葉を聞いて、私は寂しくなりました。私はマスターが逝ってしまわないようにギュッと手を握りました。
  キュッ……
  気のせいかもしれません……マスターが少しだけ、私の手を握り返してきた、そんな気がしました。
  途端、マスターの手から力が抜けていくのを感じました。
「い……いや……い……や……」

  ――あの日から、一人で生きていこうと決めました。呪いによりマスターを失った辛さで潰れてから、独りで生きていくことを選んだのです。
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  それから幾年、幾十年もの月日が流れました。屋敷は寂れ、もともと森の中ですから人も寄りつきません。それが私にとっては幸いでした。誰にも会わなければ、誰も殺めずにすむから。
  しかしある日のこと。私以外は誰もいないはずなのに、薪の燃え爆ぜる音が聞こえてきました。不審に思った私は、音のする方へと足を向けたのです。

  ――そして、私は貴女と出会ってしまった。
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