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ともはねはなでしこに連れられて、薫の部屋を訪れた。
薫がともはねに話があるとは、いったい何事だろうか。
仕事を一緒にする、であればよいと思う。一緒にいられる時間が増える。
もちろん、一緒に遊ぶ方が、なお嬉しいのだが、そこまでを期待するのは虫がよすぎるであろう。

「ともはね、学校に行ってみる気はないかい?」
笑顔の薫は、ともはねにそう告げた―――

・・・

犬神と犬神使いの目的は、破邪顕正。平たく言えば、悪霊退治、妖怪退治だ。
犬神の特殊技能は、そのためにこそあるし、人には持ち得ないその力は、極めて有用だ。
しかし、それだけで任務が遂行できるとは言い切れない。
魑魅魍魎どもは、人の心の闇に巣くう。あれらは、人ではないが、人の闇そのものではある。
つまり、目的を果たすためには、人の世俗や心理を、深く理解している必要がある。
もちろん、犬神使いの存在意義の半分はそこにある。
とはいえ、連れている犬神が、人の常識に疎いのでは困る。
人の生活や思考を、より理解しているにこしたことはない。
そのためにはどうすればよいか。さほど難しいことではない。
人の中で暮らし、人と接すればよい。

以上のような議論が、犬神使い達の会議で話し合われた。
薫は過程と推論に興味はなかった(ろくに聞いてもいなかった)が、結論は気に入った。
“試しに薫の犬神、最年少のともはねを、学校に編入させてみてはどうか”

ともはねに、同世代の子供達と遊ぶ楽しさを知ってほしい、と薫は思ったので、
二つ返事で了承した。そして今に至る。

「がっこう、ですか?」
首をかしげて、ともはねが問う。

「そうだよ。どういうところかは、わかるね?」
「えっと、私くらいの人間の子供達が、勉強したり、遊んだりするところ」
「正解だ。どうかな?」
「えっと、あの、なでしこは学校、行ったことある?」
薫の横に控えているなでしこに聞いてみる。

「いいえ。私はありませんけど、きっと楽しいと思いますよ。
 お友達も、できるでしょうし。一緒に遊んでみては?」
「なでしこたちと遊ぶのとはどう違うの?」
「そうね。同じところもあるし、違うところもあると思うわ」
「うーん」
ともはねは考え込む。

「薫様は学校、楽しいですか?」
「うん、そうだね。楽しいところだと思うよ」
薫がそう言うのであれば、学校は楽しいところなのだろう。
ともはねは、そう判断した。

「薫様っ!私、学校へ行ってみたいですっ!」
「では、さっそく編入の手続きをしよう」

「初めまして。川平ともはねといいます。よろしくお願いします」
数日後、ともはねは、近くの小学校の教室の黒板の前で、
これから級友になる子供達に向かって、挨拶をしていた。

下げた頭を上げて、教室を見回す。子供、子供、子供。
子供ばかりがたくさんいる。大人は先生一人だ。不思議な空間だ。
ともはねは、これだけ多数の子供の視線に晒されたことなどなかった。
少しばかり、緊張する。ぎこちない足取りで、指示された空席に着いた。

右隣は女の子。
「よろしくね、川平さん」
笑顔がかわいい、おでこを出した女の子。ともはねの緊張も緩む。
「恐惶謹言、じゃなくて、よろしく、えっと」
「長野、長野恵」
「よろしく、めぐみ」

左隣は男の子。
「……」
そっぽを向いている。なかなかに失礼な男だ。
「……えっと、よろしく」
男の子は、こちらをちらりと向いたかと思うと、
「……“ともはね”って、変な名前だな」

えぇと、殴り飛ばしていいですか?
(だめよ、ともはね。喧嘩しちゃだめよ。仲良くなさい)
頭の中のなでしこ天使が、どうどうと言いながら、ともはねを押さえるので、辛うじて我慢する。
「なによ、ちびのくせに」
「なんだとっ!」
「川平さんっ、藤田くんっ、先生に怒られるよっ」
あまり我慢できたわけでもなかったようだ(手を出さなかっただけでも褒めてもらいたい)が、
めぐみが止めに入ってくれたおかげで、なんとか事なきを得た。

まったく、初日早々、なでしことめぐみがいなかったら、大乱闘を決めていたところだ。
学校とは、なかなかに我慢が強いられるところらしい。先が思いやられる。
こんな失礼な男の子とがいるところで、楽しいことなどあるのだろうか……。

「先生、さようなら~」
「はい、さようなら」
「ふぅ」
ともはねの登校初日は、なんとか終わったようだ。疲れた。
授業はちんぷんかんぷん。休み時間は質問攻め。
比較的ゆったりとした日常を過ごしてきたともはねには、1時間毎にパタパタと切り替わる
この学校の生活というものに、目が回りそうだった。

授業。国語というのは、なかなか面白かった。お話を聞くのはいい。
教科書は所々漢字が読めなかったが、先生に当てられた子が読んでくれるので、物語は理解できた。
が、逆に言えば、今後は自分が当てられる可能性もあるということだ。
帰ったら、なでしこに頼んで、漢字のところに読み方を書いてもらわないと。
いや、ここでは漢字も一つずつ覚えていかなくてはならない。難儀な話だ。
算数はさっぱり分からなかった。いぐさかごきょうやに教えてもらわないと。分数って何だ?
理科と社会は、わからないところもあったが、まあまあ面白かった。
なるほど、私にはまだまだ知らない世界があったのだ。チテキコーキシンが刺激される。

休み時間。クラスメイト。同世代の子供達の群れ。
薫の犬神達も、個性溢れてはいるが、ここにも、いろんな子がいる。
めぐみのように、優しい子。この子とは、仲良くやっていけそうだ。
藤田のように、つっけんどんな男子。
転校生に興味などなく、一目散に校庭に駆け出して、遊び回る男子。
お喋り好きな女子。家族構成を根掘り葉掘り聞かれたときにはどうしようかと思った。
遠巻きに見てるだけの女子。ちらちらとこちらを見ているので、興味はあるようだが、接触はしてこない。
警戒されているのだろうか。人間は比較的、警戒心は薄いはずだが……。

給食。大勢での食事。味自体は、なでしこの料理の方が美味しいであろうが、
みんなでわいわい言いながら食べる食事も、悪くはない。
うちでは食事中は、あまり私語はしないから。
めぐみ以外の女の子も、お昼の時間に、知り合いになった。
きょうこ、さとみ、かな、まゆ。顔と名前を覚える必要がある。
頭の中で顔を思い浮かべながら、名前を復唱する。

「川平さん、帰らないの?」
「あ、めぐみ。ううん、帰る。帰るよ」
「途中まで、一緒に帰りましょう?」
「うんっ!」
めぐみとは、途中まで方向が同じだ。二人並んで、のんびりと下校する。

「初日の感想は、どう?」
「うーん、そうだねぇ、ちょっと、疲れたよ」
肩をすくめてみせる。
「あはは。すぐに慣れるよ」

めぐみと別れて、一人帰路につく。玄関まで来ると、なでしこが待っていた。
「なでしこ、ただいま~」
「ともはね、今日は楽しかった?」
「んー、楽しかったけど、ちょっと疲れちゃったな」
「そう」

ともはねが編入して、一か月が経った。
なるほど、学校というのは、慣れてくると、なかなかに楽しく、面白い。

授業もたいてい分かるようになってきた。
相変わらず算数は苦手だが、その他は問題ない。
家に帰ってまで宿題をしなくてはならないのは面倒だが、たいていうちの誰かが手伝ってくれる。
そのときに、皆に学校の話題をするのも楽しい。
やはり、外から見るのと中に入るのとでは大違いのようで、皆、興味深げに聞いてくれる。

交友関係も広がった。
人間は群れをなす動物だが、女の子グループは結束と排他性が高く、男の子はそうでもない。
初めのうちは、薫様に比べて著しく紳士でない男子に辟易したものだが、
彼らに悪意がないと分かると、それも許せるようになった。
隣の席の藤田も、もう少し友好的になってくれてもいいだろうとは思うが、
あれは、ああいう対応しかできないようだ。

が、ぶっきらぼうながらも、困ったことがあれば助けてはくれる。
いつだったか、日直の仕事で、休み時間にプリントの束を抱えたまま、
社会科資料室を探してうろうろしていたら、案内してくれた。
「貸せよ」
「なんで?」
「おまえ、落としそうじゃん」
「そんなことないよ」
「いいから、貸せって」
プリントを奪われた。そのまま資料室まで案内してくれた。
後になってから、あれは荷物を代わりに持ってくれたのだと思い当たった。
どうしてそう分かりにくいことをするのだ。
素直に“重そうだね。持ってあげるよ”と言ってくれれば、こちらも感謝するというのに。
……素直な藤田を想像してみる。なんだか、気持ち悪い。
うーん。確かに、藤田は、素直じゃない方が、あっている気がする。

女の子は、分かりにくいということはないが、別の点では気を遣う。
所属しているグループの逸脱行為だ。
たまに、いつものメンバー以外の女の子と話し込んでしまうと、
その後で、まゆあたりに、じとーっとした目で見られる。
確かに私は学校では、まゆと同じグループ(しっかりもののめぐみが群れのボスだ)に
所属しているが、話くらいしてもよかろう。
その後は、まゆのご機嫌を取る必要がある。
とはいえ、まゆは、スキンシップをしてあげれば、すぐに機嫌は直る。
手を繋いだり、後ろから抱きしめてあげるのが効果的だ。
耳を噛んであげると、可愛らしい声を上げて、とても喜んでくれるが、
喜びすぎるのか、頬を染めてキスをせがんでくるので、控えるようにしている。
まゆちゃん、そういうことは、いつか好きな男の子にしてもらってね。

困惑すること、腹の立つこと、気が滅入ることも多々あるが、総じて、学校は楽しい。
何より、退屈しないのがいい。

国語や算数の授業も悪くはないが、ともはねは、音楽や体育の時間が好きだ。
歌うのは楽しい。なにやら心が温まる。
ハーモニカは、もっと上手になったら、薫様に聞かせてあげたい。
球技もいい。ボールを追いかけて、走ったり跳んだりするのは、何故か無性に心躍る。

近頃は、放課後、男子とも遊ぶようになった。一緒に野球やサッカーをする。
日が暮れるまで、ボールを追いかけ回す。
初めのうちは、放課後の校庭でボール遊びに耽る少年達を、指を咥えて見ているだけだったが、
体育の時間に華麗な球捌きを見せてからは、自然とお誘いがかかるようになった。
男の子は女の子が苦手らしいが、それは、遊びの内容が異なるからで、
一緒にボールを追いかけ回すのを楽しいと思うようなら、仲間に迎えてくれるらしい。

さて、もう放課後。今日は男子達とサッカーの日だ。
「川平ーっ、行こうぜー」

サッカー好きの気さくな少年、中村くんが声をかけてくる。
二つ返事で、一緒に教室の外へ駆け出そうとしたともはねだが、
背後から感じるじとーっとした視線を感じる。
「えっと、後から行くから、先に始めてて」
「ん?そうか、わかった。待ってるからな」
「うん」
中村くんに小さく手を振ってから、恐る恐る首を回す。

「じとーっ」
「ま、まゆちゃん、何かな」
「今日もともはねちゃんは、まゆのことを放っておいて、男子達とよろしくやっちゃうんだ」
「よろしくやるって……サッカーだよ、サッカー」
「女の友情って、はかないものよね」
「昨日はまゆちゃん達と、おままごと、じゃなくて、演劇ごっこをしたじゃない」

演劇ごっこは、最近のまゆのお気に入りの遊びだ。
昨日は、まゆの家で、めぐみやさとみと一緒に、この遊びに付き合わされた。
やっていることは完全におままごとだが、母親が服飾関係のため、まゆの家には
やたらいろいろな衣装がある。その中から好きなものを着て、アドリブで役を演じるのだ。
おおむねサイズは合わないが、まゆはそんなことは気にならないらしい。
昨日の趣向は“若草物語”?だったらしく、オールドアメリカンな格好をさせられ、
慎ましくも爽やかな四姉妹を演じさせられた。
なぜか最後には、まゆに押し倒され、やはりキスをせがまれたのだが……。
若草物語が、そういう結末とは知らなかった。

「でも、まゆは、ともはねちゃんといつも一緒にいたいのっ」
「まゆちゃん、あんまりともはねちゃんを困らせちゃいけないよ」
「めぐみ……」
見かねためぐみが、仲裁に入ってくれる。助かった。

「そうだ。今日はまゆちゃんが、ともはねちゃんと一緒にサッカーしてあげれば?」
「えっ、そっ、それは……」
まゆは運動全般が苦手だ。さすがめぐみ、まゆにとって痛いところを突いてくる。

「今日のともはねちゃんは男の子の日だから。今日は私と、女の子の遊びをしましょう?」
めぐみはまゆの後ろから肩を抱き、耳元で囁いてから頬ずりをする。
それがめぐみの言う、“女の子の遊び”なのか……。
まゆはまんざらでもないようで、顔を赤くしたまま俯いてもじもじしている。
めぐみは、まゆの耳になにやら囁きながら、手だけはこちらにむけて、パタパタさせてきた。
今のうちに行けということらしい。
めぐみに感謝しつつ、ともはねは教室を後にした。

校庭には、もう数人の男子が混じっていた。中村くんの隣には、藤田がいる。
ともはねは珍しいものを見た。
彼もいつものメンバーなので、いること自体は珍しくない。
だが、今日の彼はなにやら興奮気味に中村くんに話しかけている。
いつもの冷めきった彼にしては、珍しい。

「へへへ、今日はニューボールだぜー、買ってもらったんだ」
なんだ。あのニヒルな彼も、ボールが新しいだけで、興奮するらしい。
「へー、いいなー」
彼らに走り寄ったともはねは、会話に混ざる。
確かに、ニューボールというのは、羨ましい。今度、薫様にお願いしてみようか。
「だろ?前のはもうボロボロだったからな」
あらら。屈託のない笑顔を向けられた。
あの、初日の悪態は何だったんだと言いたいともはねの心情などお構いなしに、
「よし、川平も揃ったし、今日はこのボールでやろうぜ」

数名で、ボールを追いかける。奪い合う。
おままごとも悪くはないが、やはり私には、こういうのが性に合う。

・・・

「シュートっ!って、あれ?」
中村くんの蹴ったボールは、あさっての方向に飛んでいった。
ボールは校庭の隅の草むらに消えていく。

「あーあー、あそこに入ると探すの面倒なのによー」
「すまんっ、手元が狂った」
「足元だろ」
少年達は、皆で草むらに入っていく。ともはねもそれに続き、ボールを探す。
そこそこに育った雑草は、ボールの姿を隠してしまって、なかなか見つからない。
藤田の顔を見る。真剣にボールを探している。

ふむ。このまま探していても、いずれボールは見つかるだろうが、
せっかくの時間をボール探しに費やすのはもったいない。
なにより、早く見つけてやった方が、藤田も安心するだろう。
ともはねは、少しばかり、自分の力を使うことにした。

「こっちにあったよー」
ボールを取り上げながら、皆の方に振り向く。真っ先に藤田が駆け寄ってくる。
「はい」
藤田にボールを渡そうとして、意図せず手が触れた。
「……ありがと」
なんだ、この少年、そっぽを向いて顔を赤くして。
なにやらこちらまで、恥ずかしくなってしまうじゃないか。
「うん……」
二人、頬を染めたまま、もじもじと立ちつくしてしまう。
どうしよう。なんだ、この気恥ずかしさは。

「おーい、おまえら、何やってんだよー。
 ボール見つかったんなら、早く続きしようぜー」
中村くんの声で、二人、はっとする。
「おっ、おう」
「いっ、いま、いくよー」
顔を合わせず、皆のいる方向へ走る。

その後のともはねと、藤田は、なんだか少しだけ、プレイがぎこちなかった。

「えんそく?」
「えっ、ともはねちゃん、前の学校に遠足なかったの?」
「えっと、ほら、山奥の小さな学校だったから」
「遠足っていうのは、学校のみんなで、お出かけすることよ。今年は動物園だって」

ともはねは当然、学校行事に疎い。
知らないことは“前は山奥の学校にいたから”で誤魔化すことにしている。
めぐみの説明を聞く。なるほど、級友達と外出するのか。それは確かに心が躍る。
行き先が動物園というのもよい。以前、薫様に連れて行ってもらったことがある。
テレビでしか見たことのない動物たちが、目の前にいて、非常に興奮したのを覚えている。
遠足か。楽しみだ。

・・・

「うわー、象だーっ、でっかいねー」
「キリン、キリン、キリンさんだーっ!」
「あっち、猿がいっぱいいるぞ」
動物たちの群れを見ては、はしゃぐ子供達の群れ。
飼育員さんと先生方が、奇妙な連帯感を感じている中で、
ともはねたちは、動物たちを眺めては、動物たちとともに動物じみた奇声をあげていた。

気だるげな百獣の王、ぴくりとも動かないカバ、せわしないペンギン、派手なフラミンゴ。

「ライオンさん、眠そうだねー、あくびしてるよー」
「ああしてると、あんまり強そうには見えないな」

めぐみと藤田が会話をしている。私達はいつものメンバーだが、
ふらりと現れた中村くんと藤田が、いつの間にか合流していた。

「でも、今の私よりは強いと思うよ」
右腕をまゆに絡め取られたまま、素直な感想を述べる。

「川平っ、その言い方じゃ、まるでライオンと戦うみたいだぞ」
中村くんが笑いながら言う。

「えっ、あはは。そんなつもりじゃないけど」
いけないいけない。
ついつい、“仮に戦闘になったとして”ということを考えてしまう。
悪いことではないが、わざわざ表明することもない。

「ともはねちゃん、あっち、カンガルーいるよ」
「わっ、ほんとだ」
「俺、テレビでカンガルーがボクシングしてること見たことあるよ。
 あれなら勝てそうかな」
「無理無理」

のんびりと、皆で園内を見て回る。このあたりは小動物がメインのようだ。
小さくて可愛らしい動物が、あちこちから首を出している。
そのたびに女の子達はキャーキャー言うが、男の子達はつまらないらしい。
男の子達は、大きな動物がお気に入りだ。

うららかな午後、ときおり聞こえる動物の鳴き声。
初めて学校の話をされたときは、正直不安もあったが、
今の自分は、学校に馴染んでいると思う。
今日のように、たまにある行事ごとも楽しい。
普通の子供のように振る舞い、人間の子供のように暮らす。
そういうのも、悪くはない、と、改めてともはねは思っていた。

―――日常からの乖離―――

唐突に、しかし確実に、ともはねの体中に、感覚が走る。
日常を侵すもの。目には見えない、悪意と憎悪。
普通の人間には、漠然としか感じられない、しかし、私にははっきりと目に見えるこの感触。
いる。なにか、生者ではないものの存在を、その闇を、感じる。

「どうしたの、ともはねちゃん?」
急に立ち止まったともはねに、まゆが問いかけてきた。

「う、ううん。ちょっと、トイレ。まゆちゃん達は、先に行ってて」
「まゆも一緒にいくよ」
「すぐだから、ね?」
「えっ、ちょっと、ともはねちゃん?」

返事も聞かずに、走り出す。彼女たちと距離を取りながら、携帯を取り出す。
「はい。川平です」
出たのはせんだんだ。

「せんだんっ?あの、あのね、動物園に、何かいるのっ」
「その声は、ともはねね?少し落ち着きなさい。あなた、今どこにいるの?
 この時間は、学校……そう、遠足だったわね」
「うんっ!遠足で、動物園」
「住所はわかる?」
「えっと、えっと」
「ちょっと待って」

せんだんの声が遠くなる。受話器を押さえて、他の誰かに話しているようだ。
「なでしこっ、いる?ともはねの部屋から、遠足のプリント、もってきて」

声が大きくなる。
「ともはね、聞いて。何がいるか、わかる?」
「えっと、何かまでは分からない。でも、聞こえるの。
 人間を、恨んでいる声、人間を、呪う声」
「そう、やっかいね……わかった。
 今から何名か向かわせるから、あなたは待機してなさい」
「でも」
「いいわね。一人で無茶してはだめよ。
 場所は分かったから、すぐに向かうわ」
「……うん」
「じゃあ、いったん切るわね。繰り返すけど、待機よ」
「……はい」

電話を切る。せんだんは、こちらに向かうか、誰かを向かわせる手配をしてくれているだろう。
確かに、今感じている怨念は、非常に強い。
そちらに向かって走っているが、近づけば近づくほど、強く感じる。
ともはねの足が止まる。命令は待機だ。それに、私一人では、何もできない。

とたん、その方向から轟音が響いた。
直後、動物の雄叫びと、人間の叫び声が響き渡る。
ともはねは、反射的にそちらへ走り出していた。

象が暴れて、動物の檻をことごとく壊して回っている。
その圧倒的な威力の前に、人は逃げ回るのみだ。
暴れているのは象だけではない。
壊された檻の中から、他の動物たちが歩み出す。
それはもはや、子供達の愛玩の対象ではない。獰猛な、肉食獣だ。

動物たちは、何者かの怨念によって興奮させられている。
そうでなければ、自分の体を痛めるほどに、暴れ回ったりはしない。
どこかに、この悪意をばらまいている本体がいるはずだ。
ともはねには、それが分かる。彼女の特殊能力を使うまでもない。
犬神であれば、霊能者であれば、痛烈に感じる、この負の感情。

暴れ回る動物たちに巻き込まれないように気をつけながら、
ともはねは、慎重に、そちらへ近づいていく。
勝てないのは分かっているが、本体を確認しておきたい。
何かの動物に取り憑いているのか、それとも単独として存在しているのか。

動物たちの群れの中から、一頭のライオンが飛び出してきた。
いたっ!
あのライオンの中に“いる”。
ライオンは、ともはねには目もくれずに、走り出す。
まずい。ライオンが走り出した方向の先には―――

ともはねは、ライオンと同じ方向に向かって走り出す。
しかし、厳密には、ライオンを追いかけているわけではない。
ともはねは後悔した。
自分は、敵を目の前にして興奮しており、正しい判断ができていなかった。
今、ライオンが向かった先には、クラスメイトがいる。
めぐみやまゆがいて、中村くんと、藤田がいる。
敵を倒すのは何のためだ。愛するものを守るためだ。
そのためにこそ、私達は戦う。戦うことが第一義にあるわけではない。
今、優先すべきは、友達に危機を知らせ、彼らを安全なところまで逃がすことだ。

ともはねは走る。
彼女の脚力は、ライオンのそれに比べれば及ぶべくもないが、
ライオンは真っ直ぐ、めぐみ達の方向に向かっているわけではない。
無作為に、憎悪を振りまいているだけだ。
間に合うはずだ。めぐみ達と、合流できるはずだ。

「めぐみ!まゆっ!」
彼女たちの姿が、視界に入った。藤田と中村くんも一緒だ。
「ともはねっ」
ともはねは、ほっと胸をなで下ろす。よかった、無事でいてくれた。

「何があったんだ?向こうの方、騒がしかったが」
「その、檻が壊れて、動物たちが暴れてるのっ!早く、逃げないとっ!」
「なっ、なんだって!?」
「そんな……」
「さ、こっちよっ!」

ともはねは、皆を連れて、いったんここから離れようとする。
一刻も早く、ここから去らねば。悪意の固まりは、今も、ともはね達の近くにある。

背後の茂みから、がさりと音がする。
ともはねは凍り付く。まさか、こんなに接近されていたとは。

「川平っ、どうしたん……だ」
振り返った藤田の声が途中で途切れる。あれを、直接見たのだろう。

「がーっ!!!」

ライオンの雄叫びが、すぐそばで聞こえる。
百獣の王に相応しい、聞くものの心を恐怖に叩き落とす、咆哮。

「ひっ!」
「ラ、ライオン……」
「と、ともはねちゃん、こ、こわい、怖いよ」
子供達は、もはや立ちつくすことしかできない。射竦められて、動けない。

「みんな、下がって」
ともはねは、ライオンから皆をかばうように、一歩前に出る。
ライオンと睨み合う。

ただのライオンであっても、ともはねの敵う相手ではない。
しかも、今は悪霊付きだ。とてもじゃないが、今のままでは、勝ち目などない。
そう―――今のままでは。

私は、戦わなければならない。
今日、ここに来るまでに、電車に1時間は揺られた。
せんだん達が到着するまでには、まだ時間がかかる。
目の前の敵は、今にも私達に襲いかかろうとしている。
立ちはだかるともはねなど、ものの数にも思っていなかろう。

背後にいるであろう友人達の顔が浮かぶ。
優しい姉のようであっためぐみ。可愛い妹のようであったまゆちゃん。
気さくな兄のようであった中村くん。そして。
そして、ぶっきらぼうだが、決して嫌いではなかった藤田。

彼らを、絶対に、守る。それは使命だからではない。
ともはねが、命に替えてもそうしたいと思うから、するのだ。
そのために、彼らとの友情が、終わることになったとしても―――

ライオンが、唸り声とともに跳びかかってくる。
恐怖に、固く目を閉じる子供達。

「うがーーっ!!」

子供達の目が驚きに見開かれる。
雄叫びは、ライオンが発しているものではない。
目の前の、友人の少女から発せられているものだ。
しかし、その雄叫びは、獰猛な肉食獣そのもの。

ともはねの体は、みるみる体積を増していき、着ている服は破れ、
その下から、毛皮に包まれた、獣の体が現れる。
ライオンと互角の体躯、人など軽く引き裂ける、鋭利な牙と爪。

めぐみ達は、驚き、声が出ない。
あのともはねが、あの可愛らしい少女が、見る間に凶悪な獣に変身したのだ。
思考が止まってしまう。何も考えられない。

獣になったともはねは、襲いかかってきたライオンを迎え撃つ。
喉笛に噛み付き、力任せに放り投げる。
跳ね飛ばされたライオンは、その程度では戦意を喪失しない。
猛スピードでともはねに襲いかかる。
右の脇腹を噛まれる。苦痛に顔を歪ませながらも、前足の爪で反撃する。

それは、文字通り、獣同士の、闘い。
互いの血に赤く染まりながら、二匹の獣は、互いを噛み殺そうとする。

少し離れたところで、それを見ている子供達。
戦っている獣のうちの、一匹は、彼らの友人だ。その筈だ。
信じられない。
信じられないが、目の前で、ともはねが、小さな少女が、
禍々しい大きな獣に変わるのを、彼らは確かに見ていた。

獣となった少女が、殺し合いをするのを、確かに、見ていた。

ともはねの体は、もう傷だらけだ。とくに、脇腹からの出血がひどい。
肉ごと、ごっそり持って行かれてしまった。
それでも、ともはねは、ライオンを抑え込んでいた。
今、喉笛に噛み付けば、確実に絶命させることができる。
もう少し、もう少しだ。

「そこまでよ、ともはね」
凛とした声が響く。声のする方を見る。せんだんだ。

せんだんが術式を唱えると、青い光がライオンの体を包み、
その中に巣くう悪意だけが、消失していく。
戦意を喪失したライオンは、気絶してしまった。

「人に虐待された恨みを持つ動物霊でしたわ」
「……そう」
せんだんが間に合ってくれてよかったと思う。
あのままでは、ライオンを殺してしまっていた。
そうしなくて、よかったと思う。

しかし、間に合わなかったことも、ある。

獣の形をしたまま、一部始終を見ていた友人達の方に顔を向ける。
一様に、怯えた目をしている。当たり前だ。

「ば、化け物……」
恐怖に目を見開いたまゆに、そう呟かれる。

先程の戦いで負った傷が痛い。胸の傷が痛い。
痛いのは傷のせいだ。そう、思うようにする。

「いくわよ」
背後から、せんだんの声がかかる。
ともはねは、かつての友人達に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。

「おっ、おいっ、待てよっ!」
藤田の声がして、思わず振り向く。

「おまえっ、もう、会えないのかっ!?」

問いかけに答えることなく、ともはねはその姿を消した。

ごきょうやに治療してもらい、部屋のベッドに横になっていると、
ドアがノックされる音が聞こえた。
「どうぞ」
「ともはね、大丈夫かい?」
「薫、様……」

訪問者は薫であった。ベッドの横の椅子に腰掛ける。

「薫様、私、私……」
ともはねは、薫に伝えたいことがある。
この悲しみ、この辛さ、この絶望。

「ともはね、よく頑張ったね。本当に、よく頑張った。
 僕は、そんなともはねが、大好きだよ」
「……薫様、うっ、うっ、うわーんっ!」

薫にすがりついて、声の限りに泣く。
涙が涸れるまで、声が涸れるまで。

薫は、ともはねが泣き疲れて眠るまで、
抱きしめて、その頭を優しく撫でていた。

・・・

犬神の通学計画は、失敗に終わった。
人を知るのはよいが、公に人に知られては困る。

ともはねを知っていたものは、少しばかり記憶を操作されて、
その存在すら忘れてしまっている。
そういう目的に特化した、妖怪がいるのだ。

むろん、ともはねの真の姿を見たものも、例外ではない。
動物園での一件もすっかり忘れ、日常を、楽しく過ごしている。
欠けた友人のことも思い出さずに。

彼らを責める気などない。あれが自然の反応だろう。
むしろ、騙していたのは、私の方だ。
私が獣であり、化け物であることは、事実だ。
彼らには、本当によくしてもらった。楽しかった。
願わくば、あのままもう少しだけ、許された時間を楽しみたかったが、
私には、過ぎた願いだったということだろう。
彼らが、無事であれば、それ以上を望むのは、分が過ぎるというものだ。

ともはねは、塀の上から、目立たないように、学校を眺めている。
そろそろ放課後だ。たくさんの子供達が、校舎の中から溢れてくる。
談笑しながら、帰宅するめぐみ達が見える。
めぐみとまゆ、きょうこ、さとみ、かな。
校庭でサッカーを始める、中村くん達と、藤田。
ともはねは、離れたところから、一人見つめる。

サッカーボールが高く上がり、こちらの方に飛んでくる。
届きそうなくらいに近くに思って、思わず手を伸ばしたが、実際はそうではなかったようだ。

転々と転がるボールは、彼女からは遠く、藤田はすぐにボールに追いついた。
ボールを拾った彼が、顔を上げると、ともはねと目が合った。
気のせいだろう。こんなに距離が離れているのに。
しかし、彼は、真っ直ぐとこちらに向かってくる。
おかしい。なぜだ。今の彼は、私のことなど、すっかり忘れているはずだ。

照れたように目をそらしながら、彼は私の目の前に立つ。
しばらくお互い無言でいたが、藤田は思いきったように、声を出した。
「あっ、あのさ」
「な、なに」
「前に、会ったこと、ないか」
「……ないよ」
「……そうか。そう、だよな」
「……」
「あのさ」
「なに」
「これ……やるよ」
「……どうして、大事なものでしょ?」
「ああ、でも、おまえに、やりたいんだ」

ともはねの部屋には、今も、大事そうにサッカーボールが飾ってある。


4|06/06/18