扶桑皇国 Empire of Fuso


概要


 扶桑皇国は、極東に位置する立憲君主制国家。

 1980年代まで政治・経済を軍事政権が支配していたが、1984年に学生を中心とした民衆と軍の一部が蜂起したことにより軍事政権が崩壊、新たに民主主義国家として生まれ変わった歴史がある。
 周辺国とは昔の軍政時代の禍根が消えておらず、特に直接戦争を経験している芹華では未だ「鬼畜扶桑」との認識をする層が高齢者を中心に存在する。

 政治的中枢としての首都は西京府西京
 この名は、歴史的には"酉京"が正しく、読みも「ゆうきょう」であった。しかし何らかの理由(書類の書き間違い説が有力)で「西京」と表記されて以来「せいきょう」と呼ばれるようになっている。
 西京特別区内の特に中心部は歴史保存地区となっており、その外郭に中央官庁関係のビルが並ぶ。

 経済的中枢は浪華府浪華市である。こちらは西京と異なり高層ビルが林立する、世界有数の大都市として有名。
 近年では2010年に「迂闊な勤労感謝の日」事件の舞台となり甚大な物的被害を被ったが、2017年現在ではすべて復興している。当時崩落した橋の一部は記念碑として浪華市庁前に展示されている。

 関東の政治・経済中枢としては江戸府江戸特別区が整備されており、扶桑高速鉄道卯酉線"ヒロシゲ"が浪華、西京、江戸の3都市を結ぶ。

 軍事的には、広大な海洋を手中に収めるということもあり強力な軍事力を持つ。特に海軍については正規空母3隻を含む大艦隊を運用するほどの規模があり、世界有数の海軍である。

神室諸島


 太平洋上に浮かぶ扶桑皇国領。神室(本)島・姫神室島・彦神室島の3島からなる。
 経済・先進技術・政令の特別区域(特区)に指定されており扶桑国内では唯一道府県に属していないものの、首長に相当する政府高官には知事と同等の権限が付与されているなど実質ひとつの県として扱われる。
 201X年、「国連安保理決議6102」に基づき国連軍部隊“JTF109”が駐留しており、扶桑三軍の部隊もこれに加入している。


扶桑近現代史概略(1946~)


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 8年戦争で扶桑は連合国として参戦し、戦勝国として名を刻んだ。
 戦時下の特例として扶桑政権は軍の中央司令部、所謂大本営が握っていたのだが、戦後もその状況は継続。二年後の法改正によって軍事政権として安定した地位に落ち着いた。にも拘らず国民の支持率が低下しなかった陰には8年戦争の勝利というまだ新しい記憶と戦意高揚のため徹底されたナショナリズム、そして軍部と癒着した大財閥群の影響があると言われる。同時に好景気の波が押し寄せ、「戦勝景気」の時代となった。

 しかし1950年代半ばになると戦勝景気も落ち着いた。しばらくは戦中のような軍需製品の需要が見込まれないことから、基礎工業力の維持・向上を兼ねて国家政策により重工業メーカーは民間指向への転換を図る。具体的には自動車や生産機械の開発製造に注力することとなった。当然兵器開発を停止させたわけではないが、以前に比べると小規模なものとなり、充てられる予算も少なくなった。
 その頃、芹華では共産党が政権を獲得。国内の政治、経済に対し次々と改革を推し進めていく。
「計画経済と無駄なき社会保障」をテーマに推し進められたこの改革は、これまで停滞していた芹華の経済を力強く駆動させ始めた。国家から強力なサポートを受けた科学技術・工業技術は発達し、さらに発展した経済により国民への高効率社会保障を確立することができた。また同時に国際貿易も盛んに行い、国際的な信用基盤を築き始めた。

 1960年代に入り急成長を遂げた芹華のGDPが扶桑と並んだ。
 この時代には(恐慌というほどではない)不況が世界を襲い、扶桑においてもそれは例外ではなかった。各種企業の業績は悪化し、有名な大企業でもちらほらと倒産する企業が出ていた。そんな中、計画経済を進めていた芹華は無事であったのだ。
 ナショナリズム教育を受けて育った扶桑国民はこの時既に30代から40代となり、
 国内の企業や政治に大きな影響を与える世代となっていた。彼らは、10年ほど前までは格下だと思っていた芹華が自らの国と肩を並べ、ないし抜かしかねない存在となったことに憤慨した。彼らの意思は瞬く間にメディアを通じて国民全体に知れ渡ることとなり、さも扶桑国民の共通認識であるかのような報道がなされた。扶桑国民の間には芹華に対する嫉妬の交じった憎悪が充満した。
 そして1974年。扶桑軍は芹華に侵攻を開始する。芹桑戦争の幕開けである。


 当時、東西に分断されていた世界においてこの戦争は格好のイデオロギー戦争の火種になってしまったのは言うまでもない。
 扶桑軍はファーニケス軍の強力なバックアップの下芹華の主要都市・軍事基地を大型戦略爆撃機で絨毯爆撃し凄まじい戦果を上げたものの、対する芹華軍もリュドスカヤ軍からの支援を受けながら数的不利の中、絶望的な戦況を耐え忍んだ。
 開戦当初こそ圧倒的な軍事力を背景に侵攻を続けていた扶桑軍だが、1975年2月・芹華における一大行事、旧正月に芹華軍が反撃に移った「春節攻勢」により事態は一転。じわじわと戦線を後退させることになる。
 リュドスカヤの支援がさらに強力になった77年以後は扶桑軍の劣勢が目立つようになり、海上においてもリュドスカヤ製対艦ミサイルにより扶桑海軍艦艇が複数撃沈されるほどになった。
 この状況を好ましくないと考えた扶桑軍本部は、芹華の戦意を挫くため核弾頭の使用を決断。
 現地時間1978年8月12日11時53分、当時芹華第2の都市であった慶雲市上空において、扶桑空軍爆撃機により投下された核爆弾が炸裂。威力は最小設定ではあったが、爆発中心地点から8km半径以内の地区が壊滅した。
 これ以後芹華軍は反撃することなく、両国は講和へと進んでいった。


 1978年10月23日、芹桑講和条約により扶桑と芹華は講和した。
 戦争は、扶桑の戦術的勝利と政治的敗北という形で終わった。講和条約の内容も扶桑が当初思い描いていたほど扶桑に有利なものではなかった。というのも、芹華侵攻に対する国際世論の反発は戦争当初から免れることができなかった上、核使用により扶桑が国際政治で不利な立場になることは必至であったためである。とくに芹華と友好的な関係を持っていたリュドスカヤを始めとする諸国は扶桑に対する経済制裁を実施した。
 しかしその事実が直接国民へ伝えられることはなかった。国民に対しては、あくまで扶桑が優位に立ち、政治的にも扶桑の勝利だというニュアンスで報道を行った。


 1980年2月、ひとつの論文が軍事雑誌に掲載された。当時の「皇国の矛、亡国の盾」と題されたこの論文の趣旨は、当時の対外強硬政策を採っていた扶桑当局への失望と、平和的民主国家に向けて国民の蜂起を促すというものであった。当然、この論文を掲載した雑誌は回収され、当該記事は削除されることとなった。

 しかし、既に100冊を超える冊子が民衆の手に渡っていた。論文「亡国の矛、亡国の盾」を手にし研究した大学生はその意見に賛同し、学生運動を行う者も出てきた。やがてその活動が集団的なものとなると学生運動組織が大学ごとに結成され(中には高校や学校外で結成されたものもあった)、さらに全国の学生運動組織を統括する「扶桑民主化運動隊」が生まれた。
 扶桑当局はこれを違法として取り締まりを行ったが、学生たちは教授などを巻き込んだ草の根的ネットワークを構築して強固な活動主体を築いた。

 この状況に反応したのは国内だけではない。
 扶桑軍装備の大ディーラーであったファーニケスは積極的介入を行わなかったものの、リュドスカヤやフルシアンテ、ノーベレンなど西洋国家は反政府組織である学生たちを支援した。具体的には資金援助と技術提供である。
 また、選抜された一部の学生たちはルスランに渡り、独自の空軍組織を結成すべくノーベレン製戦闘機J35ドラケンを運用する訓練を行っていた。

 1981年に入り、学生運動はその活動を拡大させていた。支持層も10代から30代まで広がり、国内各地で当局との衝突が起こるようになっていた。
 そのような最中の1981年7月、扶桑海軍第二艦隊所属のDDG-183「磯風」が、艦長の宮津中佐以下多数の士官、下士官兵とともに艦隊離脱を宣言。同時に僚艦「浦風」を撃沈する。
 また、この混乱に乗じて国内武装組織と化した「扶桑民主化運動隊」改め「扶桑民主義勇軍」は大規模な反政府活動を実施。関東を手中に収めることに成功した義勇軍と、関西を中心とする扶桑軍の間で事実上の内戦状態が始まった。

 内戦の詳細な内容については、別テキスト「扶桑民主化闘争・内戦史」を参照されたい。

 1984年12月30日、首都西京の陥落により内戦は終結。
 双方合計で1万以上の戦死者と、発端となったDDG「磯風」を含む多数の兵器を消耗したこの戦いは、義勇軍側の勝利という形で終わった。
 軍事政権は消滅し、扶桑は選挙で選ばれた議員による議員内閣制の立憲君主国家として再建することとなった。
 強硬的な武力の使用を認めない新憲法の下で軍備も再編され、規模は縮小されないまでも任務の方向性は、より国際貢献・平和維持方面へと変更された。また大手財閥系企業の解体が行われ、自由市場の本格化とともに外国資本導入を開始。民間のグローバル化が始まる。
 一時は内戦によって扶桑経済の信頼は下落、不景気になるのではないかと囁かれていたが、扶桑銀行の妙策と復興特需により大きな影響は避けられた。また前述の市場の自由化により活発な経済活動が行われるようになり、扶桑はむしろ好景気となった。

 1990年代では、扶桑海軍および空軍91年のジハール戦争にも参加。主に連合軍の後方支援や、海上輸送ルートの平和維持および機雷掃海を行った。一部では戦闘も発生していたと言われるが、確かな資料は残っていない。

 2000年以降は、2003年にリュドスカヤで発生した大規模テロを始めとして世界各国でテロリズムの動きが活発化する中、扶桑も警察力の強化などを行う。具体的には、軍事政権時代の反省から警察には最低限の武装(一般の警察官は最大で拳銃のみ、機動隊でもSMG程度)しか許可されていなかったが、機動隊へのアサルトライフルの配備、対テロ専門部隊の編成がなされ、そちらにもアサルトライフルや散弾銃、狙撃銃が配備されるようになった。


2010年11月23日、「迂闊な勤労感謝の日」事件発生。
扶桑政府は2000年以降各国で活発になるテロリズムへの対策を進めてきたが、本事件によりテロリズムに対する認識の甘さが露呈した。
これを受け扶桑政府は国境警備体制をより一層強化することとなり、具体的にはイージス艦と地対空ミサイルの増備、各レーダーサイトの能力強化などが行われた。
事件の通称は、当時の江田首相が国会答弁において「迂闊だった」と発言したことから。
詳細は野田和良「『迂闊』事件を探る」(角山新書)等。


 2014年に国連総会の決議と安全保障理事会の決議により、ファーニケス軍を主体として多国籍統合任務部隊(JTF、またはMJTF)が世界各地で編成。扶桑軍も多くの部隊を派遣している。
 また、そのうち9番目にあたるJTF109が扶桑南洋にある神室島を本拠地として編成された。

扶桑民主化闘争・内戦史(草稿)

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 1980年2月 「皇国の矛 亡国の盾」発表。
 1980年12月 ファーニケス政府、大学生らの活動に注目。CIAは極秘に「扶桑革命の兆候あり」と判断、これを利用するため活動を開始する。
 1981年、扶桑各地で民主化運動デモが頻発。この時期を海外新聞社は「扶桑の春」と呼んだ。



 *磯風の反乱および関東クーデター
 1981年7月、旗風型駆逐艦三番艦「磯風」艦長宮津中佐以下260人の将兵が艦隊離脱および扶桑民主義勇軍の決起を宣言。制止を試みた姉妹艦「浦風」をハープーン対艦ミサイルにて撃沈した後、同調した駆逐艦らと共に関東周辺海域を制圧した。
 同時刻、相武台駐屯地および八千代駐屯地に所属する第2師団、第11師団、江戸府、安総県、岩槻県、那珂県、足柄県の政治中枢を占領、関東地域を制圧した。
 また空軍鉾田基地、所沢基地、相模原基地、海軍横須賀・大湊基地といった主要基地が陸軍に制圧され、所属する部隊と共に「関東軍」を組織した。

 *扶桑民主義勇軍・義勇空軍
 関東空軍部隊を包含した関東軍の総数は約3万人で、扶桑全軍の約10分の1であった。この数的劣勢を補い、また他地域にもこの蜂起の正当性を訴えるため、民間人(多くは学生)および退役軍人から成る「扶桑民主義勇軍」が組織されたとされる。彼らは準軍事組織として看護や事務・給食・輸送等の兵站業務に従事した。
 特記すべき活動としては、義勇軍独自の空軍部隊がある。
 義勇空軍で使用された戦闘機は、J35ドラケンである。ドラケンはノーベレンで開発された多用途戦闘機であり、小規模な設備で運用できる特徴がある。
 ドラケンは「磯風」の反乱とともに横浜港へ陸揚げされ、筑波学園都市を中心として数カ所に新設された野戦飛行場へ配備された。
 また義勇軍はその編成に先立ち、選抜された18歳前後の大学生や高校生を極秘裏にルスランへ派遣し、戦闘機パイロットとしての訓練を施した。そして彼らはドラケンとともに帰国、任務に就くこととなった。
 もっとも、義勇軍第一世代のパイロットである彼らの任務は主に新人教育であった。
 義勇空軍のJ35は、関東空軍のF-104、F-4、F-1らと共に関東の制空権を保持する役目を追っていた。関東空軍部隊は練度の上では義勇空軍に比べはるかに優っていたが、彼らの戦闘機は大規模な運用設備が必要だった。しかしJ35は前述のとおり小規模設備で運用可能なため、高速道路や一般道路の直線を利用した滑走路で離発着できた。またその全天候要撃機および多用途機としての性能も活かし、空対空、空対地任務においてゲリラ的運用(通常の戦闘機のように一定時間滞空するのではなく、頻繁にあらゆる地域で離着陸するような運用形態)がなされ、関東地域の重層的防空および航空阻止に一役買っていた。
 ドラケンの弱点としてはその独特な飛行特性が挙げられ、操縦には高い技量を要した。実際、ルスランでの訓練において一名の訓練生が死亡する事故を起こしている。また短い航続距離も弱点であるが、義勇軍はそれを運用法で補ったため、大きな問題にはならなかったようである。

 *軍務省の混乱と一次闘争終結
 この事態に対応を追われる軍務省では穏健派・強硬派が激しく対立。現場(主に師団指揮官階梯)では関西地方において強硬派が目立ち、また中部以東においては穏健派が多く見られた。
 扶桑皇国首都である西京には、政治中枢と共に皇居西京城が存在した。関東軍がやがて首都を攻撃すると判断した扶桑政府は、騒乱開始から一ヶ月経った8月15日に皇室を西京城から 江波城へ疎開させた。
 義勇軍および関東軍は一ヶ月のうちにその勢力を関東全域に広げることに成功したものの、富士川を境に攻撃、侵攻を中止。一時的な停戦状態となる。
 8月18日に関東軍は、義勇軍の指揮下に入った。指揮系統が一本化され、また以後は義勇軍の別称として関東軍と呼ぶようになった。(なお、本稿では以後関東軍と称する。)
 ここまでの一連の流れを第一次闘争と呼ぶ。

 *予備生徒制度
 第一次闘争が収束すると、関東軍は戦力の拡充に努めた。
 関東軍は新兵を養成するため青少年を利用した予備生徒制度を確立し、高等学校や大学校には予備生徒隊が組織された。これは以前の学生運動団体が母体となっているが、その活動は後方支援にとどまらず、前線で活動する兵士を養成するものとなっていた。また緊急時には予備生徒が最前線で戦闘を行うことも考慮されており、実際に富士川地域では予備生徒隊による扶桑軍との戦闘が行われていた。
 また筑波には関東空軍の新人兵養成組織として筑波航空学校が設立された。そこでは生徒に対し航空機の整備運用を行う専門教育が施され、優秀な生徒は戦闘機パイロット養成課程へ進むことができた。その教官には元扶桑空軍パイロットの他、ルスランで訓練していた義勇軍パイロット(通称、第一期生と呼ばれる)が当っていた。
 ところで、有り体に言えば、予備生徒制度は未成年を兵士として運用する制度である。これを問題視する国内外の人権団体は関東軍を強く非難するとともに、ファーニケスが扶桑軍を支援する根拠ともなった。


 *第二次闘争の勃発
 1984年11月4日。ファーニケスで下院議員選挙が行われるのと時を同じくして、関東軍は休戦ラインの富士川を越え、関西へと侵攻を開始した。第二次闘争の開始である。
 関西扶桑軍はこの第二次闘争勃発の4ヶ月ほど前、揚陸艦を使用した房総半島東部九十九里沿岸への上陸作戦を計画し、部隊編成を進めていた。同様の作戦は第一次闘争中にも計画されたが、横須賀所属の第二機動艦隊や多数のミサイル艇を運用している関東海軍相手では成功する可能性が低いとして却下されたものであった。
 関西扶桑軍上層部は、この第二次闘争を関東軍を挟撃する絶好の機会だとし、九十九里上陸作戦(秘匿名称"マル9")実行を決定した。
 11月8日、揚陸艦隊が揚陸艦6隻(陸軍将兵約4500名同乗)、駆逐艦6隻、フリゲート3隻、潜水艦3隻により編成され、人々の目を避け翌々10日深夜(午前1~2時ごろと言われる)にそれぞれ出港した。上陸開始は11日午前9時を予定していた。
 関東軍が揚陸艦隊を察知したのは10日午後7時頃であった。関西に潜む関東軍シンパにより揚陸艦の出港が確認したと連絡が入り、関東海軍上層部は、この動きは関東に対する上陸作戦であるという結論に至った。(この時既に関西揚陸艦隊の出港から18時間近く経っており、関東軍司令官は憤慨したという)
 10日午後8時30分、関東海軍司令部は横須賀基地に停泊する第二艦隊全艦艇に対し非常呼集および緊急出港を発令した。当時横須賀基地に停泊していた4隻の駆逐艦と2隻の巡洋艦、8隻のミサイル艇、5隻の潜水艦が、発令から6時間以内に出港した。
(当時横須賀で乾ドックに入っていた駆逐艦1隻と関東唯一の空母「赤龍」は戦闘に参加できなかった。)
 いち早く出港したミサイル艇は第二艦隊に先立ち房総半島周辺の哨戒を開始した。(なお、この時ミサイル艇28号は機器トラブルのため4時間遅れの出港となった)

 以下、当時の状況を時系列順に記載する。

 11日午前4時52分、海上哨戒に当っていた関東所属P-2Jが館山沖150kmにて揚陸艦隊を発見。司令部に情報を送信した直後、撃墜される。関東第二艦隊はその情報を基に、館山沖より南東へ向かう。

 午前5時16分、P-3Cが九十九里沖海域にて潜水艦を発見。攻撃しかけるが、直前に関東所属の潜水艦だと判明し中止。

 午前5時43分、房総沖130kmにてミサイル艇28号が揚陸艦隊を発見。その後第二艦隊到着まで関西艦による砲撃を回避しつつ、情報を司令部に送信し続ける。(当時の状況は石田俊治『ミサイル艇28号』に詳しい)

 午前5時59分、ミサイル艇17号が28号に合流。協同して情報収集に当たる。

 午前6時23分、第二艦隊潜水艦「422」が揚陸艦隊潜水艦「421」と交戦開始。

 午前6時31分(推定)、第二艦隊潜水艦「422」撃沈。揚陸艦隊潜水艦「421」は損害のため浮上。

 午前6時52分、第二艦隊指揮官吉原少将により揚陸艦隊に対し無線警告が実施されたが揚陸艦隊は応答せず、攻撃を決断。第二艦隊およびミサイル艇隊交戦開始。
 第二艦隊、ミサイル艇、P-3C等による対艦ミサイル攻撃が実施される。
 同時に揚陸艦隊側も駆逐艦、フリゲートによる対艦ミサイル攻撃を実施。

 午前6時54分~55分、双方による第二波攻撃開始。

 午前6時59分、関西揚陸艦隊は揚陸艦「山城」機関部に2発命中、航行不能。また揚陸艦「淡路」、駆逐艦「島風」は1発被弾。
 第二艦隊には被害なし。

 午前7時01分、関西揚陸艦隊は揚陸艦「周防」、駆逐艦「太刀風」「秋潮」「雪潮」それぞれ1発被弾。「周防」「秋潮」「雪潮」大破。「太刀風」ミサイル弾薬庫に命中し爆発、まもなく沈没。
 第二艦隊では巡洋艦「衣笠」駆逐艦「磯風」「山雪」「峯雪」それぞれ1発被弾。なお磯風については損害軽微。

 午前7時04分、ミサイル艇隊による第三波攻撃開始。

 午前7時08分、関西揚陸艦隊、揚陸艦「淡路」「石見」「美作」それぞれ2発、駆逐艦「島風」「澤風」「深雪」「初雪」それぞれ1発被弾。「淡路」「石見」「美作」「島風」「深雪」大破、沈没。
 第二艦隊巡洋艦「衣笠」駆逐艦「山雪」「峯雪」、浸水のため行動不能。

 午前7時12分、揚陸艦隊司令官、第二艦隊へ投降。戦闘終結。

 午前7時18分、揚陸艦隊潜水艦「428」、駆逐艦「磯風」へ雷撃。
 午前7時20分、「磯風」被雷、爆沈。

 午前7時30分、全艦艇による救助活動開始。



 かくして関西扶桑海軍による揚陸作戦は失敗し、またこれを知った関西扶桑軍の士気は低下した。関東軍の進撃に抵抗していた東海軍管区第4、第13師団は一部の部隊を除いて次々に投降し、12月13日に関東軍は近畿に入った。
 しかし、首都防衛の任を負った近畿軍管区との戦闘は激戦となり、陸軍だけで合計3万を超える死者を出した。関東軍では前線兵士として予備生徒が多数投入されただけでなく、中には駐屯地に展示してあったM4シャーマン戦車や九七式中戦車、はたまた関西扶桑陸軍では当時開発中であった90式戦車の試作1号車まで使用されたという噂もある。
 空軍においても双方ミサイルや機関砲弾、そして燃料の補給が間に合わなくなっており、真偽の程は定かでないが、F-104の主翼で相手の機体を切り裂くことにより『撃墜』を果たした関東軍パイロットもいたという話がある。また予備生徒上がりのパイロットにとって、ゲリラ航空戦ではなく正面からの衝突ばかりとなる近畿戦では扶桑空軍相手に圧倒的に不利であり、多数の予備生徒がドラケンと共に空へ散った。
 海軍は陸・空軍から支援の要請を受けたが上陸作戦の失敗を受け拒否。主戦場が内陸部な上、海軍は当時有効な対地攻撃能力を持っていなかったことも理由に挙げられる。
同時に、関西在住の民衆の間でも関東軍に同調し、民主化を求める声が次々に噴出。西京以西では民衆が陸軍駐屯地や警察署に押し入る騒ぎが巻き起こり、特に西京では市街戦の最中に民衆が介入してくるなど、およそ正常な戦争とは言いがたい状況となった。
12月30日、関東軍は遂に西京に到達。軍務省や国会議事堂、首相官邸を占拠し政権奪取を宣言。関東軍総司令藤谷中将は関西扶桑軍、関東軍双方に武装解除、戦闘停止─事実上の終戦宣言─を命じた。

翌年1月30日、関東軍による一時的な新政権(藤谷内閣)により憲法改正を巡る国民投票が実施され、87%の賛成により「扶桑皇国憲法」が成立。2月11日に天皇より公布され、3月1日より発効した。
翌3月2日に藤谷内閣は総辞職、16日には改憲後初の国政選挙が行われた。
これを以って扶桑皇国の民主化が完了したとされる。




あとがき

以上が扶桑民主化闘争(内戦)の概略史である。
この闘争は、扶桑皇国の民主化という偉大な業績を残した。
しかし同時に合計10万を超える扶桑国民が死傷するものとなり、その過程には未だ様々な議論がある。だからこそ、この闘争の全てを、今の扶桑皇国を作り上げた歴史として、後世に語り継がねばならない。そして、多大なる犠牲の下に手に入れた民主国家としてのアイデンティティは、いつまでも失ってはならない。故・丸山真男氏の言うように、民主主義国家とは民主主義「である」のではなく、民主主義に「する」ことによって初めて成立しうる概念である。あの闘争があったために今の民主国家扶桑があるということに安住していると、いつか我々は本来の民主主義の理念を忘れ、民主国家扶桑を失ってしまうことになりかねない。その時に待ち受けているのは闘争前の非道徳国家であり、対外倫理の存在しない国家である。人々はそのような国家存在を忌避したいがために闘争に臨み、新しい皇国を作り上げたのではなかったか。
我々扶桑皇国民は、皇国の歴史をより輝かしく善いものとしていくため、民主の灯火を絶やさず燃やし続けねばならないのである。今後増えるであろう闘争を知らない世代に闘争を伝え、民主国家扶桑皇国を望んで死んだ人々の理念を彼らに受け継いでいくため、この闘争史が役立つ日が来ることを望んでいる。
最後に、新しい扶桑皇国を見ること無く死んだ兵士、そして青年たちに、最大限の敬意を払って筆を置くこととする。



軍事


 扶桑皇国国防軍(Imperial Fuso Defense Force、IFDF)は陸軍、海軍、空軍の三軍から成り、国防軍法第3条第1項により「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ものとされる。
 行政的には扶桑国国防省の管轄下に置かれる(実質的には同じ組織の別側面と言える)。最高司令官は内閣の長である内閣総理大臣で、国防軍は厳格なシビリアンコントロールの下に組織されている。
 また国土交通省の外局である海洋保安庁は有事の際、必要に応じて国防省の指揮下に置かれ、扶桑沿岸海域の警備を行う。

 1980年代の軍備改編以前は「その主たる使用目的は報復措置である(1972年国防軍法)」とする戦術核を保有し、主に空軍と海軍によって運用されていた。
 軍備改編後には方針を転換し「国防軍による核兵器の保有・使用は認めない(1986年国防軍法)」として保有する核兵器を全廃した。この法改正の際、国会前や首相官邸周辺では核廃止賛成・反対両派による大規模なデモや集会が行われ、時に機動隊も交えて三つ巴の暴動となった。現在でも扶桑の核再保有について新聞や雑誌などマスメディアで賛否両論が見られる。



扶桑皇国国防陸軍(Imperial Fuso Defense Army)

 扶桑に対する海外勢力による上陸作戦を防止し、上陸された場合にはこれを直接撃破することを主な任務とする。また副次的任務として海・空軍海外派遣時の基地警備や基地周辺の安全保障を担当する。
 規模は2016年時点で約14万6000人。
 第3.5世代MBTである10式戦車や第3世代戦車である90式戦車を装備するなど、国産兵器が多く使用されている。本土防衛が主任務であるが有事の際には海兵隊的活動も行うため、ファーニケス製水陸両用装甲兵員輸送車AAV7や、国産の02式水陸両用装甲車が配備されている。
 軍備再編以前は25万を超える大組織であったが、再編後の規模縮小により現在の形となった。

 00年代以降の趨勢を踏まえ近年は対テロ戦力の拡充にも力を入れており、中央即応集団には著名な第11空挺団から派生した特別作戦群や、海外派遣・対テロ作戦に特化した即応旅団が組織されている。
 即応旅団には一般部隊では見られない特殊な装備品が使用されていることが訓練公開などによって明らかになっている。特にHEAT弾対策の鉄柵や爆発反応装甲を備えた装甲車、15式小銃等の新型小銃、またUH-60やRAH-66等の航空機も旅団内で運用していることから、この旅団が陸軍内で相当特殊な扱いを受けていることがわかる。

扶桑皇国国防海軍(Imperial Fuso Defense Navy)

 海洋国家である扶桑皇国の防衛力の中核を担っている。
 海上からの侵略を阻止し、また艦船、航空機、潜水艦等の脅威を排除して、海上交通の安全を確保することを主な任務とする。
 規模は2016年時点で約6万人。
 扶桑皇国が島国であり、また広大な領海および経済水域を保有することもあり非常に能力が高い。3隻の通常空母と10隻のイージスシステム搭載艦、6隻の揚陸艦を保有・運用する、世界でも有数の海軍である。
 ワークホースとなる汎用駆逐艦においても国産のFCS-4とRIM-4および長射程型のRIM-4改を搭載し、艦隊全体として高い防空能力を持つ。
 空母艦載機としてはF-14が主力であり、導入当初のF-14Aから改良を重ね、AIM-120やL-JDAM、ASM-2の運用能力を持つマルチロール機となっている。また前任主力機であるF-4Sも若干数が残っているが、機体寿命が近いこともあり、数年内に退役する見込み。F-14についても老朽化は免れないことから新型機の導入計画が進められており、STOVL(短距離離陸・垂直着陸)仕様のF-35B戦闘機が実戦配備が開始されている。

 2000年代以前は「シーレーン防衛」「大規模部隊の上陸阻止」を主軸に置いて整備され、「シーレーン防衛」については、南方海域の空・海双方の安全保障を行うため、軍事プレゼンスの象徴である空母を筆頭に世界最大級の通常動力型攻撃潜水艦と多数の対潜哨戒機を運用し、対潜戦能力は他国の追随を許さない程となった。
 「大規模部隊の上陸阻止」については揚陸艦等の接近を阻止するフリゲートを配備し、陸軍の地対艦ミサイル、空軍の空対艦ミサイル、また駆逐艦の艦隊艦ミサイルや艦砲と共に対艦攻撃を行う。F-14がASM-2を搭載し積極的な対艦攻撃を行えるよう改造されたのも、上陸阻止に対する拘りが伺える。ゆきなみ型駆逐艦の導入と同時にトマホーク武器システムを導入したのも、扶桑本土から遠く離れた島嶼が外部勢力により占拠されたような場合に備え、遠距離攻撃を行うためとされる。

 現代では新たに海賊・テロ対策の任務が付与されるにあたり、必要性の薄れたミサイル艇は減勢し、駆逐艦による即応駆逐隊を編成している。この部隊は特にテロ活動の活発な地域へ迅速に赴き、その海域において最低限度の空間支配・戦力投射を行う部隊である。その中核として整備されたのが、2000年から就役した「ゆきなみ」型駆逐艦である。ティルトロータ機MV/SA-32J「うみどり」、トマホーク武器システムの運用能力を持つゆきなみ型は、駆逐艦2隻を伴った即応駆逐隊の嚮導艦として運用される。
 計画当初は懐疑的な意見の多かった即応駆逐隊およびゆきなみ型であるが、近年の対テロ作戦において様々な活動実績を残している。

 扶桑海軍所属の潜水艦は20世紀末まですべて通常動力型であった。これは、当時の原子炉は燃料棒交換の際に艦体を丸ごと分割しなければならないため運用コストが跳ね上がるという事情があった為である。
 しかしその後の原子炉の性能向上に伴い、艦齢を終えるまで燃料棒を交換する必要が無くなった。これを受けて国防省および扶桑海軍は1995年に原子力潜水艦の導入を決定し、17年後の2012年に1番艦が就役した。
 この扶桑初となる原潜は長魚雷のほか対艦ミサイル、巡航ミサイルを搭載し、対地・対艦作戦を遂行可能となっている。なお通常動力型潜水艦にも巡航ミサイル運用能力が与えられるという報道があるが、国防省は今のところそのような計画はないとしている。

  • 部隊編成
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聯合艦隊

第1航空艦隊

  • CV-57 こうりゅう 
  • DDG-177 あたご
  • DDG-160 みょうこう
  • DD-140 ゆきぐも
  • DD-133 おきなみ
  • AOE-515 ふうれん

第2航空艦隊

  • CV-58 はくりゅう
  • DDG-176 たかお
  • DDG-162 あしがら
  • DD-141 かざぐも
  • DD-137 まきなみ
  • AOE-516 かすみ

第3航空艦隊

  • CV-56 せきりゅう
  • DDG-163 はぐろ
  • DDG-161 なち
  • DD-142 あきぐも
  • DD-143 まきぐも
  • AOE-517 とうや

第11揚陸艦隊

  • LHD-3020 いなば
  • LPD-3111 つるが
  • DDG-197 かわかぜ

第12揚陸艦隊

  • LHD-3021 さつま
  • LPD-3112 まなづる
  • DDG-199 みねかぜ

第13揚陸艦隊

  • LHD-3022 きい
  • LPD-3110 つねがみ
  • DDG-198 たにかぜ

第21即応駆逐隊

  • DDH-180 ゆきなみ
  • DD-134 はやなみ
  • DD-138 さざなみ

第22即応駆逐隊

  • DDH-181 あすか
  • DD-135 ゆうなみ
  • DD-136 しきなみ

第23即応駆逐隊

  • DDH-182 みらい
  • DD-139 いそなみ
  • DD-131 ながなみ

第24即応駆逐隊

  • DDH-183 あおば
  • DD-130 きよなみ
  • DD-132 たかなみ

第101駆逐隊
  • DD-120 せとしお
  • DD-116 はやしお
  • DE-230 よど

第102駆逐隊
  • DD-117 くろしお
  • DD-118 おやしお
  • DE-216 あがの

第103駆逐隊
  • DD-119 いそしお
  • DD-121 まきしお
  • DE-217 すずか
  • DE-233 おぜ

第104駆逐隊
  • DD-115 なつしお
  • DD-124 はるしお
  • DE-213 きたかみ
  • DE-214 おおい

第105駆逐隊
  • DD-122 もちしお
  • DE-234 なか
  • DE-235 かせ
  • DE-215 つるみ

第106駆逐隊
  • DD-123 やえしお
  • DE-231 かこ
  • DE-232 ひい
  • DE-218 くしだ

洋上補給隊

  • AOE-510 はまな
  • AOE-511 しんじ
  • AOE-512 かわち
  • AOE-513 かみえず
  • AOE-514 しもえず
  • AOE-515 じんざい


潜水艦隊

第1潜水隊群

ASR-96 おおば

第1潜水隊

  • SS-405
  • SS-408
  • SS-465
  • SS-472

第2潜水隊

  • SS-400
  • SS-402
  • SS-474
  • SS-476

第3潜水隊

  • SS-401
  • SS-410
  • SS-468
  • SS-475

第2潜水隊群

ASR-97 うらが

第4潜水隊

  • SS-406
  • SS-407
  • SS-466
  • SS-479

第5潜水隊

  • SS-409
  • SS-416
  • SS-469
  • SS-477

第6潜水隊

  • SS-412
  • SS-414
  • SS-471
  • SS-473

第3潜水隊群

ASR-98 こいで

第7潜水隊

  • SS-403
  • SS-411
  • SS-470
  • SS-478

第8潜水隊

  • SS-404
  • SS-413
  • SS-415
  • SS-467

練習艦隊

  • TV-4501 すわ
  • TV-4021 なだしお
  • TV-4022 さちしお
  • TV-4120 あまつかぜ
  • TV-4121 ときつかぜ
  • TSS-503
  • TSS-504 



扶桑皇国国防空軍(Imperial Fuso Defense Air Force)

 平時においては周辺の空域を警戒監視し、領空内に不法に侵入しようとする航空機に対して対領空侵犯措置をとるほか、災害派遣、国際派遣、物資や人員の空輸業務等を行っている。また、有事においては、航空優勢の確保による防空、侵入してくる戦力の航空阻止と近接航空支援を主な任務とする。国内に配備された警戒管制レーダーや、長距離地対空ミサイルの運用も行う。
 規模は2016年時点で約4万5000人。

 主力戦闘機としてF-15、F-2、F-35Aを保有する。
 F-15についてはF-15J、F-15FXJ、F-15SEの三機種が運用されている。
 F-15FXJはF-15Eをさらに発展させた機体で、12発の空対空ミサイル運用能力と高い対地攻撃兵装運用能力がある。事実上の扶桑空軍主力戦闘機であり、既存のF-15Jは開発実験団所属機を除き全てFXJに更新されている。
 F-15SEは残存していたF-4EJの後継機として40機程度が導入されている。今後の動向如何によっては100機程度のFXJがSE相当への能力向上改修を受ける可能性があると報道されているが、費用に見合うだけの戦力となるか疑問視する声もあり、先行きは不透明である。
 また次世代国産戦闘機のデモンストレータ機としてF-3が開発されており、基地航空祭などにおいてデモ飛行を行っている。
 ステルス性に優れたF-35Aは導入開始から間もないものの、実戦配備は順調に進行中である。

 また、戦術偵察機としてRF-4EJ、戦略電子情報偵察機としてRF-4XJが運用されている。
 RF-4XJは高高度より偵察を行うため大型の精密偵察カメラポッドを搭載し、また対空脅威を振り切るためエンジンの改良及び水メタノール噴射装置の搭載により推力を増強。また高高度高速巡航に対応するため、FBW化に加え主翼翼型や動翼アクチュエータなど機体のほぼ全部分に対する改造が行われ、マッハ3級の高高度偵察機になった。このことから「魔改造」「チタニウムの亡霊」「もはやファントムじゃない」などと呼ばれることもある。
 90年代の改造においてメインコンピュータを一新したことで最新鋭のデータリンクが使用可能となり、高度2万メートル以上の高度から精細な画像情報及び電子情報を収集し、またその情報をリアルタイムで作戦司令部やAWACSに転送可能となっている。(戦闘機に対してはデータ容量の問題により不可能)
 改造機という扱いではあるが殆ど新造に近い改造が施されているため構造寿命には余裕があり、この先も長きにわたって運用される見通し。
 これを運用する第5飛行隊は、部隊マークにブーメランが描かれていることで有名。

派遣“治安維持行動”統合任務部隊(Joint Task Force "Security Action")

 神室諸島地域に派遣された扶桑皇国国防陸海空軍による統合任務部隊である。201X年、「国連安保理決議6102に伴う神室諸島地域安定化協力法(通称:神室派遣法)」に基づき編成された。
 統合任務部隊は航空団・艦隊・戦闘団で形成され、それぞれ独立して行動するものの、各司令は統合任務部隊指揮官の指揮を受ける。
 実力部隊のほか、支援部隊、外交駐在武官など神室諸島に在する扶桑皇国領の安全保障を担任するほか、派遣されている各国部隊および国連に対する窓口でもある。
 これまでに編成された統合任務部隊としてはもっともコンパクトなものであるが、同時にもっとも高度な自己完結性を持つとされている
 指揮官は派遣後に陸海空軍の参謀本部長に就任することが通例となっている。指揮官は坂本三郎空将。


神室島派遣戦闘団

派遣統合任務部隊の陸上を担う部隊。
神室諸島を陸上で直接警備する。派遣規模は1個連隊程度。


神室島派遣艦隊

派遣統合任務部隊の水上戦力を担う部隊。
重要海域警備や航空団の戦闘支援(後述)のほか、民間タンカーの護衛や不審船舶への臨検も任務としている。
派遣規模は1個艦隊(8~10隻)程度

神室島派遣連合航空団

 派遣統合任務部隊の中で最も強大な航空戦力を担い、JTF109の構成部隊を担う。
 統合任務部隊のなかで最も最前線に立ち、最も規模が大きいとされる派遣任務部隊の主力部隊である。
 陸海空軍のあらゆる航空機を一元的に管制しており、偵察・輸送・哨戒・戦闘まで数多の任務をこなす多忙部署でもある。
 派遣規模は2個航空団程度。


扶桑空軍運用機リスト(1955年3月~2017年4月)

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戦闘機
機体名 運用状態 運用期間
F-86F 退役 1955~1981
F-104J/DJ 退役 1962~86
F-4EJ 退役 1970~2001
J35D 退役 1981~1997
F-1 運用中 1977~
F-4EMJ 運用中 1988~
F-15J/DJ 運用中 1982~
F-2A/B 運用中 2000~
F-15FXJ 運用中 2002~
F-15SE 運用中 2013~
F-35A 運用中 2017~

輸送/空中給油輸送/要人輸送機
機体名 運用状態 運用期間
MC-20 退役 1941~1957
DC-3 退役 1938~1962
C-46 退役 1954~1978
YS-11 退役 1965~2001
C-1 運用中 1971~
MU-300 運用中 1980~
C-130H 運用中 1983~
YS-33 運用中 1985~
KC-33 運用中 1988~
B747-400 退役 1992~2009
C-130J 運用中 1998~
B777-300ER 運用中 2009~
C-2 運用中 2013~
C-30 運用中 2014~

偵察機
機体名 運用状態 運用期間
RF-86F 退役 1961~1979
RF-4E/EJ 運用中 1974~
RF-4XJ 運用中 1997~

早期警戒機・早期警戒管制機
機体名 運用状態 運用期間
E-2C 運用中 1982~
E-33 運用中 1997~

練習/連絡機
機体名 運用状態 運用期間
KAL-2 退役 1954~1971
T-1 退役 1957~2003
T-2 運用中 1972~
T-3 退役 1976~2005
T-300 運用中 1981~
T-4 運用中 1988~
T-7 運用中 2002~

電子戦訓練支援機・電子戦機
機体名 運用状態 運用期間
EC-46 退役 1961~1976
YS-11EB 退役 1972~2007
EC-130 運用中 1978~
EC-1A 運用中 1985~
EC-1B 運用中 1986~
E-767 運用中 1994~

捜索救難機
MU-2S 退役 1967~2001
MU-300S 運用中 1989~

輸送/捜索/救難ヘリコプター
機体名 運用状態 運用期間
H-19C 退役 1956~1976
KV-107 退役 1967~2007
S-62J 退役 1962~1984
CH-47J/JA 運用中 1985~
UH-60J 運用中 1990~





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最終更新:2023年10月29日 10:18