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「請われて起ち蔑まれて去る」(2006/08/31 (木) 22:02:34) の最新版変更点
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世間が次の自民党総裁選に目を向けはじめてもうしばらく経つけれど、思うところがあって次の記事についてちょっと書いてみたい。</p>
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<p>小泉支持率47%、平均で歴代2位 本社世論調査</p>
<p><a href=
"http://www.asahi.com/politics/update/0828/005.html">http://www.asahi.com/politics/update/0828/005.html</a></p>
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web版朝日新聞であるasahi.comの記事より。朝日の世論調査にしてはずいぶん高い数字だなぁとか、その記事のグラフ見る限り平均支持率50%ってのはちょっと下方修正してないか?とか、そういう話はさておき。</p>
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以前目にした政治家について書かれた文章の中に「(政治家というものは)請われて起ち、喜んで迎えられるが、最後は非難され蔑まれて去っていくものだ」といった趣旨のものがあって、なるほどと思ったことがあった。政治というものはおおよそ誰がやっても最終的に批判が蓄積していくというのは、歴史が証明している。もちろん、支持が多い内にさっさとその椅子を降りてしまえば、その限りではないが。</p>
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さて、政治の「政」とは「まつりごと」であり、その意味するところは元々「祭りごと」なのだろう。日本でいう「祭り」とは祖霊を祭る行事であって、つまり神事である。古来、神事と集団におけるリーダーは密接不可分であったことは、神権政治という言葉があることからも自明と思う。しかし、単に神事を取り仕切るだけならば、たとえば古代の小さなムラ社会では人々の合議によってもそれを行うことは可能だったはずだ。それでもなお、多くの文明の中で、神事は一部のリーダーのものだった。なぜだろうか?……それは、</p>
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