小さいころは、よく一緒に遊んだりしたものだった。  近所の公園でかくれんぼしたり、駄菓子屋で買ったお菓子を分け合ったり。  平気で触れ合っていたお互いの手が、いつしか次第に距離を置き始めたころ、悠姫の胸から母乳が流れ始めた。  同年代の女の子たちより、少しだけ早い初乳だった。  一度だけ、悠姫の母乳を飲ませてもらったことがある。  未発達の乳房の先端から、白濁の液体が流れ出る光景は、不思議な神秘性を放っているように感じられた。  味は……正直、よく覚えていない。  異性への好奇心が芽生え始めた俺には、女の子の胸に口をつけるという行為があまりにも刺激的過ぎて、とても味わうどころの話じゃなかった。  夢中で胸に吸い付き、ふと視線を上げてみると、目をつぶり、頬を真っ赤にして、必死に耐えている悠姫の顔がそこにあった。  悠姫が初めて見せた、「女」の顔だった。 悠姫「……あれ、智治?」  教室に入ってきた悠姫が、俺を見るなり素っ頓狂な声を上げた。  それまで一人も人のいなかった、早朝の教室。  あまり見慣れないその光景が、悠姫の出現で、少しは見慣れたものに変わる。 悠姫「頭でも打った?」 智治「……開口一番すっげぇ無礼なこと言われてる気がするんだが、それどういう意味だ?」 悠姫「いちいち言わないとわかんないわけ? 自覚ないのねー」  肩をすくめて、悠姫は言葉を続ける。 悠姫「いっつも遅刻ぎりぎりのアンタが、今日はどういう風の吹き回し? HRまでまだ一時間近くあるんだけど」 智治「ああ……そんなことか」  手を後ろに組んで、いすにもたれかかる。 智治「昨日からお前のことばっかり考えててよ、どうも寝付けなかったんだ」  ごんっ!  なぜか思いっきり拳が振り下ろされた。 智治「ってえ! ちょ、お前、今の殴るところじゃないだろ!?」 悠姫「どーせロクでもないオチがつくことくらいわかってるんだから。先に殴っておいただけよ」  平気な顔して言い返されてしまう。 智治「お前……俺は真剣なんだぜ?」 智治「俺の目を見ろ。これがふざけてる顔か?」 悠姫「ふざけてる顔ね」 智治「うっ……」 悠姫「まあ、元からふざけた顔以外の何物でもないけどねー」  があーん……。 智治「ちょ……今のセリフはひどくない? 俺のガラスのハートが粉々なんだけど。どうしてくれんの?」 悠姫「飴あげる」  ころん。  ポケットから取り出した飴の袋を、悠姫は無造作に俺の机の上に放り投げた。 智治「飴玉一個でチャラにされる俺の心の傷って一体……」 智治「しかもこれハッカじゃねーか! 俺ハッカ苦手なの知ってるだろ?」 悠姫「うん」  真顔で返される。 智治「…………」  あまりに真顔すぎて、切り返すスキがない……。 智治「…………」 智治「……まあ、別にいいけどさ」  ふてくされて、俺は机に突っ伏した。 智治「はあ……」  大げさにため息。 悠姫「…………」 悠姫「……で、何? 私がどうしたって?」  悠姫の声が、少し硬くなる。 智治「ん……いや、もういいや。そんな雰囲気じゃねーしさぁ」  無愛想に突っぱねて、もう一度ため息。 智治「はあ……」 悠姫「…………」 智治「はあああああ……」 悠姫「…………あー、もう!」  がっと両耳をつかまれて、無理やり引き起こされる。 悠姫「いいから言いなさいって言ってんの! 顔上げる!」 智治「いたたたた痛い痛い! わかった、わかったから手を離せぇぇぇ!」  何とか悠姫の手を振りほどく。 智治「あー、くそ、いってぇなマジで……」  軽く耳をさすったあと、俺は改めて悠姫に向き合った。  そのままじっと顔を見つめる。 悠姫「……何よ」  怒るような、困っているような、そんな表情を浮かべる悠姫。 智治「あー……なんと言うかな」  視線をそらしながら、俺はつぶやくように言葉を続けた。 智治「……昨日から、言おうか言うまいか考えてたんだ」 智治「でも……、お前の顔見て、やっぱり言っておこうと思って」 悠姫「…………」 智治「悠姫……」 智治「お前……やっぱりその顔にピンクのブラは似合わな」  ごしゃああっ!  悠姫のカカト落としが炸裂した。 悠姫「いっぺん死んで来いっ!」  そのまま顔面を机に叩きつけられる。  断末魔さえあげられないまま、その一撃で俺は完全に沈黙した。 智治「…………」 智治「…………白」  わけではなかった。  ごすっ!  さらに肘が落とされる。 智治「……いってぇ」 悠姫「ったく……アンタに付き合ってると、ロクなことないわよ」  それはこっちのセリフだ……。  散々どつきまわして満足したのか、悠姫は自分の席に座ると、かばんから荷物を取り出し始めた。 智治「ってか、お前こそずいぶん朝早いんだな」  後頭部をさすりながら体を起こす。 悠姫「いつもこんなに早いわけじゃないわよ。今日は特別」  振り向きもせずに、悠姫は答える。 智治「じゃあ、何で今日はこんなに早いんだ?」 悠姫「……寝つきが悪かっただけよ」 智治「ふーん……」 悠姫「…………」  しばらく無言の時間が流れる。  教科書等をてきぱきと机に収めると、かばんを机の横にかけて、悠姫は立ち上がった。 悠姫「私、ちょっと行くところあるから」  そう言うなり、さっさと教室を出て行ってしまう。 智治「…………」 智治「ふう……」  一人教室に残され、俺は再び机に突っ伏した。 智治「寝つき、ねえ……」  悠姫の言葉を思い出す。  俺のほうも、似たような理由だった。  懐かしい夢。 智治「あれからしばらくの間、毎日のように夢に見てたっけ」 智治「まったく……何やってたんだか。昔の俺は」 智治「…………」  …………。  …………。 無名「おお? 珍しいじゃねーか、佐久間」 智治「…………」 無名「こんな時間にお前がいるなんてな。俺、傘持ってきてねーぞ?」 智治「…………」 無名「おーい、寝てるのかー?」 智治「ドラ○エの屍ごっこ中なんだ」 無名「返事してるじゃん」 智治「……しまった」  眠ってはいなかったが、少しうとうとしていたのは確かだった。やっぱり眠り足りないらしい。  心地いい微睡みを妨害され、しぶしぶ体を起こす。 智治「……よお、立脇」 立脇「よお。ちゃんと起きてるかー?」  クラスメイトの立脇のやつが、不可解そうな表情で俺を見下ろしていた。  立脇和希。  クラスに一人はいるようなムードメーカー。  割と整った顔をしているが、頭は空の2.5枚目。  ノリはいいし、気楽に付き合えて、よく二人で組んでバカやっている。 智治「あー……、眠ぃ」  あくびしながら、軽く周囲を見回してみる。  すでに数人の生徒が教室をうろうろしていた。自分では眠っていないつもりだったけど、もしかしたら、少し眠っていたのかもしれない。 立脇「いっつも遅刻ぎりぎりのお前が、今日はどういう風の吹き回しだ?」 智治「どこぞの暴力女と同じこと言うんだな」 立脇「暴力女って……。朝っぱらから、また新と何かやったのか?」 智治「思いっきりカカト落とされた。ああ、あと肘も」  身振りを交えて軽く説明する。 立脇「お前も懲りないねえ」  立脇は首をすくめただけだった。 立脇「って、ちょっと待て」  が、唐突に神妙な顔になる。 立脇「お前、今、カカト落とされたって言ったな?」 智治「ああ、言った」 立脇「…………」 立脇「……見えたか?」 智治「見えたぞ」 立脇「……色は?」 智治「白」 立脇「うおおおおおおお!」  頭を押さえて悶絶する立脇。 立脇「チクショオ! いいなあ幼馴染ってやつは無防備で! 俺もパンチラカカト落とし喰らいてええええ!」 智治「ちなみに昨日はピンクだったぞ。おとといは確かしまパン」 立脇「てめえええっ! 何でそう毎日見てんだよ! いくら幼馴染でもおかしいだろ! おかしいよな! 誰かおかしいと言ってくれ! 言ってくれよおおお!」 智治「はっはっはっ、現実を認めたまえ立脇くん。君が階段下でロマンを夢見ている間に、確実にパンチラシーンをゲットできてしまう男が目の前にいるという現実を!」 立脇「そ……そんな、そんなバカな……!?」  俺は立ち上がり、顔面蒼白でわなわなと震える立脇の肩に、ぽんと手を置いた。 智治「大丈夫、安心しろ」 智治「お前にも、きっと春がやってくるから。……な?」 立脇「…………バッ」 智治「バッカヤロぉお! お前なんか、お前なんかっ、大っ嫌いだああああ!」  ゴゴン! 悠姫「バカはアンタたちのことでしょうがっ!」  二人まとめて鉄拳を叩き落される。 智治「く……っ、いつの間に!」 立脇「新あぁぁあん、俺にもパンチラカカト落としぃー」  びたああああん!  思いっきり頬を張られて、立脇は無様に吹っ飛ばされた。机やいすをなぎ倒しながら。 智治「…………」 智治「怖ぇーよー……」 悠姫「アンタたちのほうがよっぽど怖いわよ」  鼻息も荒く、自分の席に戻ってしまう。  ゲンコツ一発で容赦されたことを神っぽい何かに感謝しつつ、それだけではすまなかった立脇に視線を落とした。 智治「おーい、生きてるかー?」 立脇「げ……、元気……イッパイ…………だぜ……ヘッ……」  かなりいっぱいいっぱいな顔で何とか立ち上がる。鼻血だばだば垂れ流しながら。 智治「志村ーはなぢはなぢ」 立脇「あー……」  ふらふらしながら、右手で血を受け止める立脇。  が。 立脇「……ぃくしっ!」  びしゃあああっ。  いきなり盛大にくしゃみをかました。  右手に溜まっていた鼻血が、その勢いで派手に撒き散らされる。  正面には俺。  結果。 智治「…………」  鼻血と唾液と、その他いろんなモノの混合液が、顔面にクリティカルヒット。 立脇「あ……」 智治「…………」 立脇「……その、アレだ。不可抗力ってやつ」 智治「…………」  無言で蹴り倒す。 立脇「いや、マジで悪気はなかったんだって! なんか鼻がむずがゆくなって……」 立脇「がはっ! ぐはっ! やめ……ごふうっ!」  静かな表情で、俺は抵抗する立脇を蹴り続けた。いつまでも、いつまでも。  …………。 智治「ふう、いい汗かいた」  汗とその他いろんな液体をさわやかにぬぐう。 智治「うわ、汚ぇ。いい加減洗ってくるか」  ピクリとも動かなくなった立脇に背を向けて、俺は教室の外へと歩き出した。もはや振り返ることもなく。 智治「うー……いまいちサッパリした気がしねー……」  水道で必死に汚物を洗い落としたものの、やっぱりなんだか気持ち悪い。 智治「うわ、シャツにも少しかかってるし」  あー最悪。  朝っぱらからテンションがた落ちで、もともと微塵もない学習意欲がさらに低下する。  いっそサボっちまうか?  ふっと、そんな考えが脳裏をよぎる。  が、その直後、前年度の悲惨すぎる結末が、記憶の底からよみがえってきた。  気に入らない授業を適当にサボり倒した結果、あわや留年の憂き目に会いかけた半年前……。  恥も外聞もかなぐり捨てて悠姫にすがりつき、追試に向けて地獄の猛勉強に明け暮れた毎日……。  奇跡的に追試をクリアして、感慨にむせび泣きそうになったところ、悠姫にレッスン料として有り金全部ふんだくられ、本当に泣いたあの日……。  あの時と同じ思いは……、もう……したくない……! 智治「…………」 智治「シャワーしてぇ……」  どんなに自分を鼓舞しても、気持ち悪いものは気持ち悪かった。 智治「歩くか……」  HRまで、まだ少し時間はある。  気分転換に、少し辺りをぶらついてみることにした。  渡り廊下に出て、手すりに背中を預ける。  半乾きの顔に吹き付ける風が心地いい。  秋晴れの空。澄んだ青色が、眠り足りない目に少しまぶしい。  振り向いて下に目を向けると、登校してきた生徒たちが、少し足早に昇降口へと向かっている。朝のHRまで、もうそんなにゆとりのない時間だろう。 智治「ふぉふぉふぉ、下界は騒がしいものよのぉ……」  めったにこんな機会はないから、とりあえず思いっきり優越感に浸ってみる。  明日は俺も、騒がしい下界の住人なんだろうなあ……。 智治「…………」 智治「……はあ」  そろそろ教室に戻るか。  そう考えながら、俺は手すりから背中を離した。 無名「……あ……あの……」 智治「……ん?」  歩き出そうとしたところで、不意に背後から声をかけられる。  奇妙な違和感を感じさせる、妙に高くてか細い小さな声。  って言うか……。 智治「…………」 智治「……ドッキリ?」  振り返ってみると、明らかに場違いなほどちみっちゃい女の子が、なにやらもじもじしながら俺を見上げていた。  身長は俺の胸ほどしかない。不安げな瞳、そわそわした表情。体はまるっきり凹凸のない、単なる筒。  どう見ても子供じゃねーか……。 智治「何でこんなところに子供……」 女の子「あ……あのっ!」  俺の言葉をさえぎって、女の子が声を上げる。 女の子「お、おねがいです……たすけて……たすけてください……っ」  かなり本気で切羽詰った表情。  なんだかわからないが、ただ事ではないことだけはわかった。 智治「ど、どうした……?」  及び腰でたずねてみる。 女の子「あ……その……」  女の子は不安げに口を結んだまま、うつむいて話そうとしない。 女の子「…………」 智治「…………」  正直こっちが困ってきた。  いったい俺はどうすればいいんだ……。 智治「……な、なあ……」  何とか声をかけようとしたところで、女の子は突然顔をきっと上げた。  今にも泣き出しそうな顔。頬は真っ赤で、瞳はかすかに潤んでいる。  通りすがりの人が見たら、十人中十二人くらいが、俺がいじめていると思うことだろう。 智治「お、おい……」  再び口を開きかけた俺をさえぎり、女の子は搾り出すようにつぶやいた。 女の子「お……おトイレ、どこ……?」 智治「…………」 智治「……はあ?」  …………? 智治「……はあああああ!?」  じゃーーーー……。  きゅっ。  ぺたぺた。 女の子「あう……ごめんなさい……」  真っ赤な顔で、女の子は恥ずかしそうに頭を下げた。  間一髪で間に合ったらしい。 智治「いや……別にいいけどさ」  頭を掻きながら、俺は中途半端にうなずいた。  キーンコーンカーンコーン……。  と同時に予鈴が鳴り響く。 智治「げ」  さっさと帰らないとHRに遅れてしまう。一時間も早く登校しているのに、それで遅刻してしまってはシャレにならない。 智治「……じゃっ、俺はこの辺で」  いろいろ疑問は残るものの、とりあえずさわやかにその場を離れようとする。  きゅっ。  が、背を向けて歩き出そうとしたところで、右腕をつかまれてしまう。 智治「…………」  口元を少し引きつらせながら、俺は精一杯さわやかに振り返った。 女の子「職員室……、どこ……ですか?」 智治「…………」  マジすか。  今から職員室まで送り届けていたら、本気で遅刻してしまう。  ああ、悠姫と立脇に、けちょんけちょんにバカにされる光景が目に浮かぶ。 女の子「…………」  かといって、不安そうに俺を見上げている女の子を見捨てていくのは、いくらなんでもマズい。 智治「…………」 智治「あー、もうしょうがねぇ!」 女の子「え……、わっ!?」  女の子の背中とひざの裏に手を回し、気合と共に一気に持ち上げる。  通称・お姫様抱っこ。  まさか本当にやる羽目になるとは……それもこんな小さな女の子相手に。 智治「時間ないから、悪いけどすっ飛ばすぞ。落っこちないよう気をつけろよ!」 女の子「え? え?」  パニクっている女の子をきっぱり無視し、全速力で走り出す。  見た目のとおり、女の子は軽かったが、やっぱりかなりの負担になる。  何で俺がこんなことしなきゃならんのだ……。  腕と足の疲労に舌打ちしながら、俺はほとんどやけくそで廊下を疾走した。  すれ違う生徒たちの、ぎょっとしたような視線が痛い。 教師「おい! 廊下を走……」  教師の怒鳴り声が途中で途切れる。 女の子「あ、は、はずかしい、です……っ」  俺が一番恥ずかしいわあっ!  腹の底から叫びたい衝動を必死で抑える。  青筋と薄っぺらい作り笑いを浮かべながら、俺は職員室を目指してひたすら走り続けた。  …………。  …………。 智治「到……着……」  女の子を半ば放り出すように床に降ろし、そのまま崩れ落ちる。  日ごろの運動不足がたたって、もうすっかりへろへろだ。  HRまでに教室に戻る余力など、とてもじゃないが残っていない。  途中で担任と出会えれば、言い訳のひとつもできたのだが、どうやらすれ違ってしまったらしい。  もーどーでもいいや。完全に開き直って、俺はとにかく必死に呼吸を繰り返した。 智治「ハア……ハア……」 女の子「あ……あの……」 智治「ゼエ……ゼエ……」 女の子「その……えと……」  何とか顔を上げると、困ったような、悲しいような顔をして、女の子が俺を見下ろしていた。 女の子「ご、ごめんなさい……。めーわく、かけちゃって……」 智治「…………」 智治「ふう……」  何とか少し落ち着いて、俺は体を起こし立ち上がる。 智治「あのな……ハア、こーゆーときは、謝るもんじゃねーだろ」 女の子「え……?」 智治「ごめん、じゃなくて……ハア、ありがとう、だろ?」 女の子「あ……」  女の子は目を丸くする。  ややあって、女の子は照れたような、恥ずかしいような、そんな微笑を口元に浮かべた。 女の子「ありがとう、ございました」 智治「ん……そんな感じ」 女の子「うんっ」  笑ってうなずく女の子。  不安とか、緊張とか、ようやくそんなのが少し抜けた気がする。  改めて見てみると、なかなかかわいい女の子のようだった。 担任「おおっ、いたいた」  と、そのとき、職員室の向こうから素っ頓狂な声が聞こえた。 担任「心配したよー。放送をお願いしようかと……お、佐久間が一緒だったのか」  飛び出してきた担任が、女の子に駆け寄る。まだ職員室に残っていたのか。 智治「あれ……先生の……」 女の子「せんせえー!」  連れ子? と聞こうとした俺の言葉をさえぎり、女の子が答えた。 女の子「ふぇぇ、ごめんなさいー、迷子になっちゃって……」 担任「おやおや、それは大変だったねえ」  謝る女の子と、うなずく担任。  そして、置いてきぼりの俺。 智治「…………、せんせえ?」  …………。 智治「せんせえー、その子、何?」  脳内の処理が追いつかず、素直に聞いてみることにした。 担任「ん? 気になる? 気になるか?」 智治「当たり前だっつーの。何でこんなところに、こんな小さな女の子が?」  眉をひそめる俺に対し、担任はにやついた笑みを浮かべる。 担任「んー、そうかそうか。よし、仕方ない。お前にだけ特別に、少しだけ早く教えてやろう」 智治「……少しだけ早く?」 担任「耳の穴かっぽじってよーく聞け。実は、この子はな……」  …………。  …………。 担任「……というわけなのよ、これが」 智治「…………」 智治「……はあ?」  …………。 智治「……はあああああ?」  キーンコーンカーンコーン……。 のぞみ「きょうから、このクラスに、編入して……きました、えと……えと……沖宗のぞみ、です」 のぞみ「えと……こどもですけど、よろしくおねがい……します」 智治「…………」  マジで? とか、かわいいー! とか、とにかく沸き立ちまくっている教室の中、俺は一人呆けた顔で、ぼーっと女の子の姿を眺めていた。  飛び級でこの学園に編入してきた、超がつくほどの天才少女。  しかも帰国子女で、数年にも及ぶ海外暮らしの末、日本に帰ってきたばかりなのだという。  本当は二学期の始まりに合わせて帰国するはずだったが、父親の仕事の都合で、戻るのが少し遅れてしまったらしい。  …………。  ……はあ、さいでっか。  俺もさっきはバカみたいに驚いていたが、いったん冷めてから改めて説明を聞くと、あまりにも現実離れした話に理解がついていかない。  ってか、天才って……。 担任『それにしても、トイレにいくだけなのに、何で迷子になっちゃったかなあ』 のぞみ『ふぇ……?』 担任『ほら、あそこ』 のぞみ『……あ! あんなところにっ』 智治『歩いて十歩じゃねーか!』  天才か……?  とりあえず、チャイムはすでに鳴っていたものの、おかげで俺は遅刻扱いにならずにすんだ。世の中わからないものだ。 のぞみ「…………」  さっきから、ちらちらと視線をこっちに向けている。まあ、初めての環境の中、唯一の顔見知りだ。当然といえば当然だろう。  ……ああ、そういえば、ついさっきばったり会った上、同じクラスになるとは奇遇だ。それ以前の段階で驚きっぱなしで、すっかり気づかなかった。 立脇「おい、佐久間」  不意に立脇が背中を突っついてきた。 立脇「すげぇな、ほとんどマンガだなおい」 智治「そりゃまあぶっ飛んだ話だが、興奮しすぎじゃねーの? ロリコンか?」 立脇「お前こそ、何でそんなに冷めてんの? ショタコンか?」 智治「何でやねん」  一足先に聞いてるからな。 立脇「質問っ! 天才って、具体的にIQいくつくらい?」 のぞみ「あの……えと……」 担任「お前の3倍くらいだろ」 立脇「それ俺がひどいのかその子がすごいのかわかんねーよ!」 担任「両方だろぉ?」 立脇「ひでぇ!」  どっと教室に笑いが起きる。  それと同時に、立脇に続くようにたくさんの質問が、矢継ぎ早に女の子に繰り出され始めた。 女子生徒「身長いくつー?」 女子生徒「趣味とかあるの?」 女子生徒「やーんもうかわいいー!」 男子生徒「好きな人とかいるのかなぁハァハァ」 のぞみ「えと……あの……えと……」 担任「おいおい、困ってるじゃないか。そのくらいに……」  キーンコーンカーンコーン……。  いよいよ収拾がつかなくなりそうになってきたところで、HR終了のチャイムが鳴り響いた。 担任「あ、それじゃあ僕は授業があるから。いじめないようになー」 のぞみ「え! あの、ちょっと……」  女の子の呼び声もむなしく、担任は颯爽と教室を出て行ってしまう。  担任がいなくなったとたん、大半の生徒は席を立って、女の子の周りをぐるりと取り囲んでしまった。立脇のやつも含めて。 智治「お、おい!」  あわてて俺も席を立つ。  女の子が気が弱いことは、さっきのやり取りで十分把握している。一人っきりで質問攻めにされたら、到底耐えられそうにない。  人垣を無理やり押し分けて、何とか中に割り入っていく。  見てみると案の定、騒ぎの中心で一人立ち往生させられて、狼狽してすっかり半泣きになっていた。 智治「おい、いい加減にしておけよ! 困ってんじゃねーか」  そう言いながら、女の子の前に立ちはだかる。 悠姫「そういうこと! ほら、離れた離れた!」  いつの間にか、悠姫も隣に立って、人垣を押し返そうと躍起になっていた。 のぞみ「あ、あの……」 智治「大丈夫か?」  女の子に向き直り、ひざを曲げて視点をあわせる。 智治「困らせてごめんな。怖かったろ?」  できるだけ穏やかな声を心がけながら、俺は何気なく女の子の腕に手を伸ばした。  ……が、俺の指先が、女の子の腕に触れた瞬間。 のぞみ「……ふゃっ!」  びくんっ! と、女の子の体がひときわ緊張して。  ぴ……。  ぴゅっ……。 のぞみ「や……やああああああっっ!」  ぷしゃああああああああっ!  突然、顔面に真っ白な何かが直撃した。 智治「わぷっ!?」  思わず後ろにひっくり返る。 智治「な……なんだぁ?」  見上げると、白い液体が俺の頭上を、右に左にと乱れ飛んでいた。 智治「…………」 智治「……もしかして」 のぞみ「やああ……とまって、とまってよぉぉぉ……」  必死に自分の胸を隠そうとする女の子。だが、どんなに隠しても、小さな手のひらのあちこちから液体が漏れ出て、女の子を白く濡らしていく。  間違いなかった。  女の子の母乳だ。 立脇「お、おい、ウソだろぉ……? こんな小さな子が、こんなに出すところ見たことねーぞ」  動揺が教室中に広がっていく。女の子を囲んでいた人垣も、すっかり距離が広がってしまっていた。 悠姫「…………」  さすがの悠姫も驚いているらしい。あんぐりと口を開け、ただ呆然と見守っているだけだ。  女の子の必死の努力もむなしく、女の子の母乳は散々噴出しまくり、女の子の足元に大きな水溜りができたころ、ようやく勢いが収まり始め、やがて完全に止まった。 智治「…………」 智治「…………なあ」 のぞみ「ひっく……ひっく……うう……ふええええん……」  完全に気が動転している。母乳まみれの手で顔を覆い隠し、ただただ泣きじゃくるばかりだ。  そんな中、一番立ち直りが早かったのは悠姫だった。 悠姫「はい、ハンカチ」  ポケットから取り出したハンカチを、さっと女の子に差し出す。 のぞみ「ひっく……ひっく……」  うつむいたまま、ハンカチを受け取る女の子。 悠姫「この子、ちょっと保健室に連れて行くから。智治、アンタはここ片付けておいて」  母乳まみれの俺に、さらに片づけを命じられますか。 智治「おいっす」  と訴えたかったものの、どうせ無駄だからおとなしく従っておいた。  女の子を連れて、さっと教室を出て行く悠姫。それと同時に、ようやく教室の妙な雰囲気も和らぎ始めた。 立脇「さすが新、噴乳慣れしてるだけに対応が早いな」 智治「いやまったく」  昨日も出してたしな。搾ったのは俺だが。  ってか、原因の九割は俺だが。 立脇「それにしても、すごい量だったな。あの年齢のころなんて、母乳が出るやつ自体少ねぇぞ?」 智治「それは、さすがに俺も驚いたな」 立脇「それで、味はどうだった?」  興味津々といった様子で、立脇がたずねてくる。 智治「正直、薄いな」 智治「まあ、年齢が年齢だし、胸のサイズもサイズだ。濃度が高まるまで、蓄えていられないんだろう」 立脇「そりゃそうか。にしても、ホントどこにあれだけの量を蓄えていたのやら……」 立脇「ま、それはさておき」  立脇は話を区切ると、教室の隅の掃除用具入れをびしっと指差した。 立脇「掃除」 智治「…………」 智治「手伝って☆」 立脇「ダ・メ☆」 智治「…………」  一時間目の中ごろに、悠姫と女の子は戻ってきた。  女の子は、もう落ち着いてはいたものの、朝のことを相当気にしているのか、すっかりしおれてしまっていた。  クラスメイトたちも、さすがに気まずいのか、休み時間になっても懲りずに質問攻めにしようとするバカはいなかったのが救いだった。  何度か声をかけようかとも思ったものの、自分の机でうつむいて、しゅんと落ち込んでいる女の子になかなか声をかけられないまま、ずるずると時間が過ぎていった。  キーンコーンカーンコーン……。 立脇「うおおお昼休みじゃあああ!」 智治「…………」 立脇「うおおお自由じゃあああ!」 智治「…………」 立脇「うおおお昼メシじゃあああああ!」 智治「…………」 立脇「ん? どうした佐久間。この世の終わりみたいな顔して」 智治「さ……」 智治「財布忘れた……」 立脇「…………」 智治「無言で立ち去ろうとするなマイフレンド!」 立脇「悪ぃな、金の切れ目が縁の切れ目だ。あばよ」  おごってくれとも貸してくれとも言わないうちに、立脇は無情にも足早に行ってしまった。 智治「ああ、唯一の希望が……」  がっくりとうなだれる俺の肩に、後ろからぽんと手が置かれる。 悠姫「私が工面してあげようか? ん?」  まるで菩薩のような、神々しいほど穏やかな笑み。  こいつがこういう顔するときは、当然何か裏があると見て間違いない。 悠姫「別に何もたくらんでなんかいないわよぉ?」  うん、間違いない。 智治「おおっと、こうしちゃいられない! 次の授業の準備をしないと」 悠姫「昼休みだって言ってるでしょうが」 智治「その昼休みにがんばるやつが差をつけるんだろうが! 次は科学だな、よし、じゃあ科学室で会おう! アデュー!」  早口でまくし立てながら、手ぶらで教室を飛び出す。  かすかに「チッ」と舌打ちが聞こえた。やっぱり逃げ出して正解だったらしい。 智治「あー……、腹減ったなあ……」  逃亡には成功したものの、空腹であることには変わりない。  あてもなく、金もなく、一人とぼとぼと廊下を歩き続ける。  ああ、腹減ったなぁ……。  その辺に食い物とか落ちてないかなぁ……。  道を歩けば食い物にあたらないかなぁ……。 智治「…………」  あたった。食い物じゃないけど。 のぞみ「…………」  知らず知らず向かっていた渡り廊下。朝出会ったその場所に、女の子はぽつんとたたずんでいた。  そうだった。声でもかけようか、とか何とか思いつつ、絶望してすっかり忘れてしまっていた。  暗い顔で中庭を見下ろしながら、じっと何かを考え込んでいる。まだ立ち直っていないらしい。  ちょうどいい。 智治「よっ」  近寄って、ぽんと肩に手を置いてみる。 のぞみ「はえっ!?」  そのとたん、まるで電気ショックを受けたかのように飛び上がる女の子。  ばっと振り向いて、俺と視線がぶつかると、火がついたように顔が真っ赤になった。  そして見る見るうちに涙目になる。 智治「え……ど、どうした?」 のぞみ「あ……あの……その……っ」  金魚のように口をパクパクさせて、何か言おうとしている様子だが、まるで声にならない。 智治「おいっ、なんだか知らないけど落ち着……」  とりあえずなだめようとする俺の言葉をさえぎり、女の子は突然叫んだ。 のぞみ「あ、あ、で……出ちゃ……っ!」 智治「へ? ……ぶっ!」  ぷしゃああああああああっ!  とっさに反応できなかった俺の顔面に、またしても真っ白な何かがぶちまけられる。  何かっつーか、もはや言うまでもない。  女の子の母乳だ。 のぞみ「や……あああ……」  胸を両手で押さえ、へなへなとその場に座り込む女の子。  朝思いっきり出したためか、今回はそれほど長く噴乳は続かなかった。  でも、逆に考えれば、朝あれだけ出し尽くしていながら、もう噴出するだけの母乳が胸にたまっていたということでもある。それもこの年齢で。  それに、それほど長くというのは、あくまで朝のときの量と比べたら、の話だ。  今のだって、並みの女では到底出せそうにないほどの量が十分ある。俺も女の子もびしょびしょで、女の子の足元には小さな水溜りができているのだ。 のぞみ「う、く……あうう……」  はっと我に返る。  見下ろすと、女の子はぺたんと床に座り込んだまま、くすんくすんと泣き声を上げていた。  そしてふと周囲を見渡している。  格子状の手すりしかついていない、大変見晴らしのいい渡り廊下。  青空の下、泣きじゃくる幼い女の子と、慰めるでもなく、ただそれをじっと見下ろしている無表情な野郎一人。  どう見ても俺が悪者です。本当にありがとうございました。  …………。 智治「とっ、とりあえず逃げるぞ!」 のぞみ「ふぇ……?」  自分のピンチをようやく悟り、あわてて女の子の手を取って、強引に立ち上がらせる。 のぞみ「あ……っ」  驚いたような声を上げるが、今はそれどころじゃない。  えーと、逃げるって言ったって、いったいどこへ?  えーと……。 悠姫『この子、ちょっと保健室に連れて行くから』 智治「そうだ、保健室だっ」  朝の悠姫の行動を思い出し、急いで決定を下す。  見回してみると、いくつかの窓の向こうに、こっちを見ているらしい女生徒の姿を発見する。  ある二人組の女生徒が、口をパクパクと動かしあっている。思いっきりひそひそ話してるっぽい感じだ。  げっ、なんか指差された!  もはや一刻の猶予もない。 智治「おい、走るぞ!」 のぞみ「え……は、はいっ」  困惑した様子で、それでもとりあえずうなずく女の子。  俺は女の子の手を引いて、保健室目指し猛ダッシュを始めた。  それにしても、今日はやけに走る日だな……。 智治「誰もいねー……」  幸か不幸か、保健室は無人だった。  人目を引かないですむのはありがたいが、保険医までいないのは困った。 のぞみ「ハア……ハア……」 智治「ん……お疲れさん」  息を切らしている女の子を置いて、俺は早速部屋をあさり始める。 智治「えーっと、とりあえずタオルか? どこに……」 のぞみ「あ……そこの棚をひらいたところに」 智治「ん」  言われた場所から、タオルを二枚取り出し、一枚を女の子に手渡す。 智治「ほら」 のぞみ「は、はい……ありがとうございます」  おずおずと受け取る女の子。 智治「っと……ほかに何かできること、あるか?」  俺も母乳を浴びた顔や頭を拭きながら、そうたずねる。 のぞみ「えと……ドライヤーをとってください」 智治「ドライヤー?」 のぞみ「そっちの引き出しにあります。それと、そっちの棚に消臭剤が……」 智治「……何でそんなにいろいろ知ってるんだ」 のぞみ「えと……朝にもきたから」  たった一回でそんなに覚えるか? 普通。それもあんなに取り乱していながら。  さすがに記憶力は高いらしい。 智治「ほかに、何をすればいい?」  ドライヤーと消臭剤を手渡しながら、再度たずねる。 のぞみ「あ……えと、えと……」 のぞみ「あの……むこうむいていて、ください」 智治「…………」 のぞみ「…………(真っ赤)」  そんな赤くなられても……。 智治「あ、ああ……」  気恥ずかしいような、なんとなくむなしいような、複雑な気持ちで女の子に背を向ける。 智治「そっち向いてよくなったら言ってくれよ」 のぞみ「は、はい……」  …………。  …………。  …………。  シャアアアッ。 智治「結局カーテン閉めるのかよ」  ブオオオオオ……、カチッ。  しゅっ、しゅっ。  シャアアアッ。 のぞみ「もう、いいです……」  数分後、ようやく女の子がカーテンを開けて出てきた。 智治「もう、大丈夫か?」 のぞみ「…………」 智治「…………?」  女の子はうつむいたまま、道具をテーブルの上に置くと、無言でいすに座り込んでしまう。 智治「どうした……?」 のぞみ「…………」 智治「…………」 のぞみ「…………」  ぽたっ。 智治「え……?」 のぞみ「……っく、ひっく……ひっく……」 智治「お、おい!」  何も言わないまま、突然泣き出してしまう女の子。 智治「ど、どうしたんだよ。なんか俺、悪いことしたか?」 のぞみ「……っ」  ぶんぶんと激しく首を振る。 のぞみ「ちが……うの……ごめ……なさ……」 智治「…………」  ぽん。  女の子の頭の上に、そっと手を置く。 智治「とりあえず、落ち着け。な?」  床にひざをつき、軽く頭をなでさすりながら、女の子と目線を合わせる。 のぞみ「ひっく……ひっく……」 のぞみ「……うん。ぐす……」  ややあって、女の子は少し落ち着きを取り戻したのか、震える声で俺に語りだした。 のぞみ「わたし……朝のこと、佐久間さんにあやまりたくて……」 智治「朝の……って、HRのあとの?」 のぞみ「うん……ぐすっ。佐久間さんに、あんなことしちゃって……どうしていいか、わかんなくて……」  何だ、そんなこと……ともう少しで言いそうになったが、こんなとき、下手に言葉をさえぎって否定するのも逆効果なので、まずは言いたいだけ言わせてしまうことにした。 のぞみ「わたし……たくさん緊張しちゃうと、おっぱいが、出ちゃうんです……」 のぞみ「まだこどもなのに、こんなにいっぱい、おっぱいがでちゃって……うまくおさえることができなくて……」 のぞみ「わたし、こわがりで、泣き虫で……だから、前の学校でも、ちょっとしたことで、すぐおっぱいが出ちゃって……」 のぞみ「いっぱいおっぱいがでるだけでも変なのに、すぐにふきだしちゃって、クラスのみんなにかけちゃったりしてたから、あんまり友達もできなくて……」 のぞみ「ひっく……家の中でも、おへやをよごしちゃったりして、おとうさんにおこられたりして……こんなだと、新しい学校なんか、いけないぞって……」 のぞみ「だ……だから……ぐすっ、がまんできるよう、いっぱい、いっぱい練習したのに……ちょっとだけ、がまんできるようになってたのに……っ」 のぞみ「それなのに……朝、あんなにいっぱい佐久間さんにかけちゃって……っ、ぜったい、出さないって、決めてたのに……っ」 のぞみ「ぐすっ……だ、だから……佐久間さんに、あやまりたくって……それで、ずっとかんがえてて……急に声、かけられて……びっくり、して……」 のぞみ「だから……だからぁ……ふぇ……ふぇぇぇぇ……」  一生懸命言葉を続けた女の子だったが、とうとう泣き声に変わってしまった。  新しい環境……それも年不相応の場所に身を置くことが、きっととても不安だったのだろう。 智治「…………」  なでなで。  そっと頭をなでながら、不安を感じさせないよう、できるだけやさしくささやきかける。 智治「気にすんなよ。俺、この程度慣れっこだからさ」 智治「今朝、お前を保健室に連れて行ってくれたやついるだろ? 俺、あいつと幼馴染でさ、昨日も派手にぶっかけられたんだよ」  まあ、俺が搾ったんだが。 のぞみ「っく……でも……でもぉ……っ」  女の子はそれでも納得できないらしく、必死に嗚咽をこらえている。 智治「だから、そんなに泣くことないって」 智治「友達になら、俺がなってやるからさ。な?」 のぞみ「ひっく……ひっく……」 のぞみ「……友達……?」  少しだけ顔を上げて、真っ赤な目を上目遣いに、俺を見つめる女の子。 智治「俺だけじゃ不満なら、その幼馴染だっているし、立脇のやつも……」 智治「……いや、あいつはやめておこう。あれは単なるバカだ」 智治「とにかく、ここにはそのくらいで怒るやつなんかいないよ。そりゃあ最初はびっくりしただろうけど、こんなのすぐ慣れるって」 智治「だからさ……泣くなよ」 のぞみ「ぐす……、ほんとう?」 智治「こんなことで嘘なんかついてどうすんだよ」 のぞみ「……おこってない?」 智治「怒るわけないだろ。友達だろ?」 のぞみ「…………」 智治「な?」 のぞみ「…………」 のぞみ「……うん」  泣きはらした目をこすると、顔を上げて、はにかんだような泣き笑いを見せる女の子。 智治「やっと二回目だな」 のぞみ「え……?」 智治「笑った顔見るの」  髪をくしゃっとかき回して、にっと笑いかける。 智治「泣き顔ばっかりだったけど、やっぱり笑ってるほうがいい。そうだろ?」 智治「えーっと……、あれ? 名前なんだったっけ」 のぞみ「あ……、沖宗のぞみです」 智治「ん、そっか」 智治「のぞみ……笑え。笑えよ」 智治「きっと楽しいぜ? 笑ってるほうがよ。な?」  のぞみの頭から手を離すと、立ち上がって、両手を無造作にポケットに突っ込んだ。 智治「俺は、佐久間智治。改めてよろしくな、のぞみ」 のぞみ「あ……」 のぞみ「うんっ」  にっこりと笑うのぞみ。  まぶたは少し腫れているけど、ようやく見れた満面の笑みだった。 のぞみ「よろしくです、佐久間さん」 智治「ん、よろしく」  俺もにやっと笑って返してやる。  ようやく一件落着だ。  くぅ……。 のぞみ「あ……、泣いちゃったら、なんだかおなかすいたかも」  おなかを押さえて、照れたように笑うのぞみ。 のぞみ「お昼ごはんのこと、すっかり忘れてました」 智治「お昼ご飯……」 智治「…………」  ぎゅぎゅるるるぐるるるぐぎゅ。 智治「ぐおおおおお……」  思い出したとたん、猛烈に腹がすいてきた。 のぞみ「わ、すごい音」  目を丸くするのぞみ。 のぞみ「佐久間さんも、まだごはん食べてないんですか?」 智治「……財布忘れたんだ」 のぞみ「ありゃりゃ……」  お子様にまで苦笑された……。 智治「のぞみ……笑え。笑えよ……」  やさぐれて背を向ける。 のぞみ「あの……よかったら、わたしのおべんとう、いっしょに……」 智治「マジで!?」  が、光の速さで振り向く。 のぞみ「まだ言い終わってないです……」  ますます苦笑されていたが、そんなことは一向に気にならなかった。 智治「でも、俺が食べる分なんてあるのか? お前よりたくさん食べるぞ、ほぼ間違いなく」 のぞみ「だいじょぶですよー。はじめての日だから、はりきって作りすぎちゃったんです」 智治「ほほー、そうかそうか。作りすぎてあまって……作りすぎて……」 智治「え……もしかして、お前が作ったの?」 のぞみ「うんっ。えへへー」  ちょっぴり得意げに笑うのぞみ。 のぞみ「お料理とか、好きなんです。晩ごはんの準備したり、お菓子とかも作ったり……」 智治「結婚してください」 のぞみ「……はえ?」 智治「なんでもない」  適当に流して、さっさと保健室を後にする。  まさかこんなところで食い物にあたることになるとは……人生は不思議だ。