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赤松氏デビュー1968.4.6週刊新潮

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赤松氏デビュー1968/4/6号週刊新潮

渡嘉敷島の第3挺進隊長であった赤松嘉次氏が、戦後再び国民の前に姿をあらわしたのは、今から40年も前の1968年の週刊新潮紙面であった。おそらく、大スクープであったに違いない。40年も前というと、1945年の沖縄戦のときから見れば、1905年の日露戦争ということになる。

これは、明らかに「歴史史料」である。
この週刊新潮記事から、赤松氏の名誉回復運動ははじまった。この記事中の「私は何も悪いことはしていない」、「近く渡嘉敷を訪問するこころづもりだ」という言葉が挑戦的と受け取られ、2年後、有名な「渡嘉敷島渡航阻止」の抗議行動を呼び込んだ。

その抗議行動のニュースと赤松氏の言動に触発されて、大江健三郎氏は「沖縄のノート」最終回を記述した。

また、その抗議行動のニュースを読んで、曽野綾子氏は赤松氏にひきつけられ「切りとられた時間」と「ある神話の背景」という、2編の渡嘉敷島集団自決をテーマとした作品を書いた。

そうしていま、大阪地裁で赤松嘉次氏の弟と、座間味島挺進隊長梅澤裕氏とを原告とし、大江健三郎氏を被告とする名誉毀損裁判が進行している。

いまから復刻しようとする週刊新潮記事は、こうした争いごとの端緒であり、論争事始、いわば日中戦争を起こした盧溝橋事件の謎の「発砲音」である。そしてこれは、「大東亜戦争」にまけた日本国民が日露戦争を回顧するが如き歴史的文献でもある。40年の経過といえば、そのとき赤ちゃんとして誕生したとしても、早い女性なら「おばあちゃん」と呼ばれてしまう年月である。

紹介されている島の住民によって書かれた戦記、『渡嘉敷島における戦争の実相』は、曽野綾子氏の「ある神話の背景」にも一部引用されているが、そこでは他の文献との文章の類似性を例示するだけで、書かれている事実を先ずは端正に読み取ろうという謙虚な姿勢はない。この週刊新潮記事は、大学に眠る『渡嘉敷島における戦争の様相』(※)の記述内容を知る上でも、貴重な史料といえよう。


(たとえば、特攻艇『マルレ』を海に泛べる作業に防衛隊員など住民も参加していた、という事実は「ある神話の背景」にもない。玉砕した住民を見てないという赤松大尉の目には、何処にいても住民の姿は映らなかったようだ。曽野氏もそうした赤松氏の視野を踏襲している)

私にこのような歴史史料探索へと導いたのは、ほかならぬ大江・沖縄裁判の原告の人たちである。感謝申し上げます。




~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始ここから)

戦記に告発された赤松大尉

沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相



(記事リード)
 昭和20年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、恩讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。主役を演ずる赤松大尉の名。島民に集団自決を強い、女子少年を惨殺し、自らは生還していったという。ある書評氏は、彼が、いま自衛隊幕僚のイスにあることをホノめかす。

 以下は、ベールを脱ぐ赤松大尉事件の実相と、今日の素顔である。従来の沖縄戦記を変えることになるかもしれない。

 沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』(正しくは『渡嘉敷島における戦争の様相』)と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた(※)、島民自身の戦史である。


 渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間列島の主島。「山紫水明の自然」に恵まれて、沖縄の「美しき離島」といわれるところ。

 昭和20年3月、この「美しき離島」に、赤松嘉次大尉(当時25歳)を隊長とする陸軍の海上挺進隊(注=合板で作った小さな舟に爆雷を載せ、敵艦に突入する、陸軍の水上特攻隊)の第3戦隊が駐屯した。隊員130名。そのほとんどは特別幹部候補生だった。そして、爆雷を積んだ舟艇が百隻、すべて、海岸近くに隠されていた。そのほか整備隊、通信隊員若干名と、朝鮮人軍夫320名が赤松指揮下である。

 3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊が侵入した。彼らは「いかにも日本軍を見くびったのごとく、悠々と投錨」し、渡嘉敷島に砲撃を開始した。

 午後11時、赤松隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。その時の模様を"記録"は次のように書く。

 「夜空に敵艦砲の落下もものかはと防衛隊(注=軍に臨時に召集された島民隊)70余名、男女青年団員100名、壮年団員30名、婦人会40名が軍に協力、舟艇百隻は退避壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連(注=いずれも渡嘉敷島の地名)の海辺に勇姿を揃えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて、出撃の命令を今か今かと待っていた」

 しかし、「赤松隊長は出撃命令を下さず、壕の奥に待避し、戦闘意欲を全く失っていた」というのである。

 "記録"は続く、

 「百隻の舟艇は、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考えてか、或いは気が狂ったのか、全艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが、上官の命令に抗することも出来ず、既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで、舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は、本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山(注=島内の山)の奥深く待避し、赤松隊の生き伸び作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた」


島民三二九集団自決の地獄図


 3月26日、渡嘉敷島民約千四百人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。

 が、赤松隊に応戦の意思はなく、武器弾薬を放棄し、隊長以下全将兵の"生き延び作戦"がはじまった。その結果、米軍は島を完全に"無血占領"したのである。

 27日夕刻、駐在巡査を通じて、赤松隊長の「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」という命令が伝達された。その夜はものすごい豪雨。それでも島民たちは「頼みとする赤松隊」の陣地を目ざして、「ハブの棲む真暗な山道」を、統制なく、歩いて行ったのだ。その雨の山道は「親子、兄弟を見失った人々の叫び声がこだまし、全く生地獄の感」であったという。

 そうして、やっとの思いでたどりついた島民たちを待ち受けていたのは、意外にも、赤松隊長の「住民は軍陣地外へ撤退せよ」という冷たい命令であった。もっとも、その命令が意外かどうかは、"記録"そのものにも矛盾があるのだが。なぜならば、赤松隊長が駐在巡査を通じて伝えた命令は、「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」というもので、「西山の軍陣地に集合せよ」ではなかったのだから。

 それはともかく、撤退命令を受けた島民たちは、3月28日午前、西山の軍陣地北方の盆地に結集した。そして、問題の"集団自決"がはじまるのである。""記録"によると――、

「その頃、島を占領下米軍は、友軍(注=赤松隊のこと)陣地北方百米の高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り、遂に住民の待避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事ここに至っては、如何ともし難く、全住民は、皇国の万歳と日本の必勝を祈り、笑って死のうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々2個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手榴弾に2、30人が集まった。手榴弾がそこここで発火したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時に老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは、棍棒で頭を打ち合い、剃刀で自分の頚部を切り、鋤で親しいものの頭をたたき割る等、世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして329名の生命を奪った。その憎しみの盆地を村民は、今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は、軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入り口に立ちはだかり、軍の壕に入ってはいけない、速やかに軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた」

 「赤松隊長が、島民に"自決命令"を出したということは、"記録"には書かれていない。けれども、防衛隊員に手榴弾を持たせたこと、死に切れずに軍陣地に押しよせた島民たちを隊長が「軍の壕にはいってはいけない」とにらみつけたという表現などで、"集団自決"は強いられたものであるといっているのである。ちなみに、この"記録"を読んで、渡嘉敷島を訪問し、その"生存者"たちに直接問いただした人々は、確かに赤松隊長から"自決命令"が出されたという島民の証言をレポートしている。たとえば、ルポ作家の石田郁夫氏は『沖縄の断層』(雑誌『展望』67年11月号)で、「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」と明確にしるしている。


「荒れ狂った赤松隊の私刑」


 3月31日夜半、米軍は「赤松隊の兵力をみくびったか」、渡嘉敷島を撤退した。その直後、赤松隊長から島民に対して、「家畜屠殺禁止、違反者は銃殺」という命令が出され、さらに、「我々軍隊は、島に残っているあらゆる食糧を確保し、持久態勢を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住む全ての人間に死を要求している」という"主張"が付け加えられ、ただちに軍による島民監視の前哨線が設けられた。

 4月下旬、米軍は再び渡嘉敷島に上陸してきた。彼らは、すでに占領した伊江島(注=那覇市の北西にある島)から、生き残った伊江島民を連れて来て、焼け残った渡嘉敷島民の家に収容した。むろん、渡嘉敷の島民たちはその間、山をさまよっていたのだ。その"さまよう島民たち"に赤松隊は残酷な"私刑"加えてきた・・・・。

 例えば、多里少尉は「住民の座間味盛知にスパイの嫌疑をかけ」て切り殺した。また高橋伍長は、「山をさまよい歩く古波蔵太郎(※)を、敵に通ずる恐れあり」として、その軍刀にかけた。"私刑"は日ましにふえ、しかも"隊長命令"で堂々と行われるようになっていったのである。"記録"は告発する。

 「米軍の要求により伊江島住民から選ばれた若き男女6名が、赤松隊に派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり、降伏することが最も賢明な策であることを伝えるためであったが、赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を惨殺した。

 また、集団自決に重傷を負い、米軍に収容された十六歳の少年小嶺武則、金城幸次郎の両名は米軍の治療を受け、ようやく恢復したので、米軍の支持に従い、渡嘉敷住民へ連絡のため避難地へ向けられた。目的は住民へ早く下山する様伝えるためであったが、途中赤松隊の将士は二人を捕え、米軍に通じた(という)理由のもとに処刑した。

 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された」

 8月15日、島民たちは古波蔵惟好村長と相談し、ついに米軍へ集団投降した。

 赤松隊が投降したのは、8月22日のことであった。



※古波蔵太郎→古波蔵樽という人名が多くの書では引用されている。


赤松元大尉大いに弁ず



 今、その「悪名高き」赤松嘉次元大尉は「自衛隊の幕僚」ではない。すでに48歳、関西のある小都市で、父親譲りのかなり大きな肥料問屋を経営している。むろん、戦後、彼自身の口は「渡嘉敷戦」について多くを語っていない。やはり苦痛だったのであろうか?その彼が、今年1月14日、戦後、23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会"で、これまたはじめて「戦闘報告」をおこなったのである。なぜ、そういう"心境"になったのか。一つには、防衛庁が出した戦史『沖縄方面陸軍作戦』が「彼の名誉を回復した」からといわれ、また最近、渡嘉敷島住民の間で、「赤松名将説」が現れたことに「ご本人、すっかり気をよくし」たからともいわれている。

 それはともかく、ご本人に直接、島民の"告発"に見合った「戦闘報告」を聞こう。なるほど、表情はスッカリ明るいのである。まず、「戦わずして生き延びようとした卑怯者」という非難に対して――。

「 いや、二十年三月二十日、われわれは、特攻用の舟艇の準備を完了していた。そして二十三日、二十四日と空襲を受け、周辺に敵の艦船が多く姿を見せたので、直ちに出動できるような体制を組んだわけです。ただ、あの艇は新兵器なので、上級司令部からの命令なしに、独断で出動できなかったのです。そこに、私の直接の上司である第十一船舶団長の大町大佐が阿嘉島(注=渡嘉敷島の隣島)から視察に回ってこられた。ちょうど、舟艇を海岸におろしているところだったので、大町大佐にひどくシカられたことを覚えている。大町大佐の考えは敵に舟艇があることを絶対に知られてはいかんということで、全舟艇の引き上げを命じられました。そしてさらに、大町大佐を沖縄本島に護送せよという命令が大佐からでたわけです。これもいろいろと議論があって、結局25日、大町大佐を護送しながら全艇の沖縄本島転進が命ぜられた。そこで、全舟艇を浮べる作業を私が隊員に命じたんです。ところが敵艦の接近で、思うように作業ができない。そしたら、大佐が、全舟艇を引き上げよという命令をまた出されたんです。出動できる舟艇も多くあったんですが。

 しかし、艦砲射撃の中で、作業がうまくいかず、大町大佐は、引き揚げ不可能なら、全舟艇を沈めよと命令。結局、沈めました。それを島民の人たちは"卑怯者"というふうに思っておられるんでしょうが、私一人なら出撃しましたよ。しかし、上官の命令です。それに司令官として当然のことを考えられたんです。舟艇を敵に見つからないようにと・・・・。大町大佐は、26日、"地上での持久戦"を命令されて、わずかに残った舟艇で沖縄本島に帰られたんですが、途中、戦死されました。そういう事情は島民の人にはわからんですからねぇ・・・・」


「島民を斬ったのは軍紀」


 そして、島民に命令したといわれる「集団自決」についてはどうか。

 「 そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ。3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分の入れる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、28日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んできた時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来た。そして、村長が来て、"機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい"というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮してたんでしょう。あの人は、シナ事変のと時、伍長だったと聞いてたけど・・・・。

 ところが、そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫びはじめた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ、八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣き声が敵に聞こえて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで、防衛隊に命じて、泣き声を静めさせようとしました。それでもなお静まらないので、ある防衛隊員が"黙らんと、手榴弾を投げるぞ"と叫んで、胸のポケットにはいっている手榴弾に手をかけたら、どういうわけか安全弁がはずれ、ポケットのフタにひっかかって、胸のところでシューシューいって、とうとう爆発して死んでしまった。とばっちりで将校も一人負傷したが、おかげで、泣き叫んでいた島民も静まりました。集団自決があったのはそれからのことでしょう。私はまったく知らなかった。おそらく、気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。 」


 次に、「私刑」について、赤松大尉はなんと答えるか。

 「 これは知っています。いや、これはたしかにやりました。"記録"の中には私のしらないのもあるが・・・・。伊江島の女三名、男三名を米軍が投降勧告に派遣してきました。それがわれわれのほうの歩哨線に引っかかったんです。そこで私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、"捕虜になったものは死ぬべきだ"という意見でした。たしかにあの当時はそういうことだったんです。それで六人に会うと、かれらは"われわれを米軍のほうに帰してくれ"という。しかし、こっちの陣地にはいってしまったものは、帰すわけにはいかんというと、"それじゃあ、あなた方といっしょに米軍と戦う!"というんです。だけど、米軍のほうに家族を残して来てるんだから、それはできる話ではない、むしろ死んでほしいといったわけです。そしたら、女はハッキリしとるんです。"死にます"という。男は往生際が悪かったが、ある将校が刀で補助して死なせました。彼らは東のほうを向いて"海ゆかば・・・"を歌いながら死にました。

 あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで "あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい"といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。

 渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じました。防衛隊員のくせに無断で家族のもとに帰るんです。たびたびやるから、今後やったら処刑するといっておいたのにまたやった。その時は本人も悪いと思ったのか、爆雷を持って突っ込ませてくれといった。しかし、私が処刑を命じて副官が切りました。戦線離脱、脱走です。」

 赤松元大尉、実にスッキリと認めるのである。いまもって、この"処刑"に、"軍人としての自信"があるらしいのだ。

 紹介したように島民たちの"記録"にもいささか冷静さを欠いた箇所がうかがわれ、赤松大尉の弁明にも、「今さら」と思わせる強硬な部分がある。赤松氏が1月の"同窓会"の戦闘報告の冒頭、「私のやったことはすべて若気の至りで」と頭を下げたと聞く。そして近く、23年ぶりで渡嘉敷を訪問する心づもりだという。島民諸氏がどんな受け入れ方をするか。死者の墓の前に、お互いがこだわりを捨て去れれば、この小島の"戦争"はひとまず過去のものとなろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用は以上)


赤松氏の話は、のちの曽野綾子『ある神話の背景』およびその改題WAC版における話と微妙に違う。変わらないのは、大城訓導処刑以外のことは、重要な局面では「戦隊長である自分の決断だ」とは述べず、必ず「他人の誰か」を楯にして弁明を行っている点である。

なお赤松氏は、一般マスコミ登場はこれが初めてだが、すでに『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』の編集過程で、その執筆者の力を借りて軍関係文献とのすり合わせを行っている。従ってこの記事は、自分の体験だけで初めて語った "バージンスピーチ" だとはいえないだろう。

第3戦隊同窓会が重ねられ、その会合に曽野綾子氏が加わるようになって、より緻密なすり合わせが行われ、『陣中日誌』を完成させたものと思われる。 近いうちに、赤松証言の変遷も解析してみたい。

この週刊新潮記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽赤松氏に会いフォローアップした。 それは怒りの特集となった。
→史料発掘:赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報
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