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「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)

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「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)(太田良博・沖縄タイムス1985年4月8日掲載)


はじめに


沖縄戦でいつも話題になる事件の一つに渡嘉敷島の集団自決と住民虐殺がある。

この事件について作家の曽野綾子氏は『ある神話の背景』のなかで、当時渡嘉敷島の指揮官であった赤松嘉次大尉が「完璧な悪玉にされている。赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった」と述べる。その神話の源になっているのが『鉄の暴風』のなかの赤松に関する記述だとしてその赤松神話を突き崩すために書かれたのが『ある神話の背景』である。

曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』を、戦後、沖縄住民によって書かれた沖縄戦記録の原典と見ているが、その中の第二章「悲劇の離島」の第一項

「集団自決」が、『ある神話の背景」で問題とされている箇所である。

実は、その部分は、当時、沖縄タイムス社の記者だった私が執筆したもので、いわば〈赤松神話〉の作り主は私だった、ということになる。そして、赤松神話は『ある神話の背景』によって突き崩されたとする見方が、沖縄の戦記作家たちの間に出てきている。

『鉄の暴風』のなかの=集団自決=の項は、伝聞証拠によって書かれている、赤松の自決命令は事実に反するとする『ある神話の背景』の主張に同調する意見である。もちろんが『ある神話の背景』をそのままみとめているわけではない。手きびしい批判をくわえながらも、曽野氏が指摘した集団自決に関する事実関係については、曽野説を支持し、『鉄の暴風』の記述は訂正を迫られているとしている。


仲程氏の指摘


まずその一例として仲程昌徳氏の『沖縄の戦記』がある。それには『ある神話の背景』の重要な箇所が次のように引用されている。

「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」との曽野氏の文章を引用した上で、仲程氏はつぎのように述べる。

〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚(かんぷ)なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである〉としている。さらにまた、仲程氏はつぎのように書いている。


定説化をおそれる


〈曽野は、そのことに関して「いずれにせよ、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定されたのであった」と記載に対する重要な指摘をする〉

右のように、『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録が、直接の体験者でない者からの伝聞証拠によって書かれたというのが『ある神話の背景』の論理展開の上でのもっとも重要な土台になっており、それが、そのまま信じこまれているのである。

この「伝聞証拠説」に関する事実関係を明らかにしなければ、曽野氏の見解が、そのまま定説化するおそれがあるので、伝聞証拠で「赤松神話」をつくったとされている私としては、このさい、裏史の証言台に立たざるをえない。すなわち、『鉄の暴風』の問題の箇所が決して伝聞証拠にもとづく記述でないことを立証するために----。

   ◇   ◇

おおた りょうはく氏 著述業、1918年=大正7年=那覇市生まれ。早稲田大学政経学部中退、沖縄タイムス記者、琉球大学図書館司書、琉球放送局ニュース編集長、琉球新報資料室長。著書『異説沖縄史』『沖縄にきた明治の人物群像』ほか


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