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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か10

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―10

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p206-210
目次


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【引用者註】『ある神話の背景』は「非政治的」か?

『ある神話の背景』に、「勤務隊第三小隊所属の曽根元一等兵のように、彼ら軍夫たちをかたらって逃亡させた立場の人に訊いてみれば、又、別の視点があり得るだろう。曽根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である」というくだりがある。
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『ある神話の背景』の取材中に私は作者と二度あった。私が曽根一等兵の話を、作者から聞いたのは、那覇港に近いシーメンス・クラブで会ったときだったとおぼえている。

そのとき、朝鮮人軍夫の話がでて、ついでに曽根一等兵のことを作者が話した。

曽根一等兵は元共産党員だが、渡嘉敷島の朝鮮人軍夫何十人かをこっそり逃がしてやったというのである。曽根もいっしょに逃げたらしいが、初めて聞く話で、私は興味をそそられた。曽根一等兵は勤務隊の兵隊で、戦隊員ではなかったが、赤松大尉の指揮下にあった。

おそらく、渡嘉敷島の日本兵の中で、赤松隊の行動を批判的な目でみていた唯一の人物ではないかとおもわれる。また、彼だけは赤松と「同じ穴のムジナ」ではなかったということで、真相をつたえてくれる人物であるような気がする。

作者は、「曽根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である。会えば視点も変わるだろう」と言っている。

曽根元一等兵と会わずに『ある神話の背景』を書いたのは、ちょっと、軽率だったように、私には思える。しかし、彼と会っておれば、『ある神話の背景』は書けなかったかも知れないという気もするのである。

彼と会わなかったということ、「赤松戦隊員」だけと会って証言を取ったということだ
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けでも、『ある神話の背景』の「軍側の証言」は証言力がはなはだ弱いと見ないわけにはいかない。

シーメンス・クラブで、朝鮮の軍夫の話がでたとき、「朝鮮の人たちのことが発表されたら、それこそ大変なことになるでしょうね」と、曽野氏が真顔で語ったのは印象的だった。「それは、そうでしょうね」と私はうなずいたが、とにかく、曽野氏が、朝鮮の人たちの話は、タブーだとして回避する意向であったことがわかる。『ある神話の背景』では、軍夫に対する赤松隊員の加害行為についてはほとんどふれていない。

『ある神話の背景』が、宗教的視点から、戦争と人間の問題をテーマにしているとすれば、朝鮮人軍夫の問題を除くべきではない。その問題をさけたところに、政治的なにおいがにおうのである。「政治」を避けたところが、むしろ政治的なのである。

「赤松神話」は、朝鮮の軍夫たちの立場からはどうだったかということを追求してみるべきであった。『ある神話の背景』が、たんに、「ヤマトンチュ対ウチナーンチュ」の立場から書かれていることは、致命的な欠陥であり、そのことで、この作品は倭小化され、また、すこぶる政治的なものになっている。

『ある神話の背景』の帯評の中で、田村隆一氏は、「ここでも"神話"は、感情の集団化
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と、思考の政治化によつて支えられていたにすぎない」と書いている。『ある神話の背景』では、「感情の集団化」と「思考の政治化」をうながしたとみられる、いくつかの文章を引用し、「ジヤーナリズムが、一つの社会現象、人間像を造る上での責任は大きい」と作者は書いている。もちろん、「ジヤーナリズムの責任」の中に、私の書いた「赤松神話」もおかれているわけだが、感情的、政治的な文章として、作者は、『サンデー毎日』に執筆したルポライターのI氏の文章をあげている。その文章の内容について私は意見をのべるつもりはないが、ただ、ここでは、『ある神話の背景』の作者自体が、「感情の集団化」や「思考の政治化」をうながすようなことになっていないかどうかを考えてみたいのである。『ある神話の背景』では、「赤松令嬢」の立場に対する、作者の同情など、「神話否定」のための感情的要素として働いており、他方、明治時代に沖縄で発行された教育雑誌『琉球教育』からの引用で、沖縄の中で、忠君愛国思想による軍国主義教育が培われたことを証し、それが集団自決の心理的遠因となっていることをほのめかしているが、自決の心理と教育行政をむすびつけて説くのは、「非政治的」といえない。いったい社会の集団生活の中で、純粋な「非政治的人間」というのが存在しうるだろうか。政治的、非政治的というのは、あくまで相対的観念ではなかろうか。政治にまるで関心がなく・選挙のときは棄権する人が「非政治的」かというと、そうもいえない。投票の棄権は、現実政治の容認の
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一形式であり、その人は棄権によって消極的な意味で政治に参加しているのである。永井荷風のような極端に「非政治的人間」とみられる人でも、彼の社会批評または花柳文学によつて、他人の思考感情に影響をあたえる点では、非政治的とはいえないのである。人間の言動は、本人の意図せざる結果を生むから、まったく非政治的ではありえない。『ある神話の背景』が、作者の意図するところとちがって、もし旧軍人や自衛隊員、または一般国民の思想にある種の影響をあたえるとすれば、つまり、政治的結果を生むことになる。そうなれば、「ジャーナリズムの責任」だけをとやかく言えなくなる。

曽野氏は「私は明瞭にするべく歩き出したのだが、事ここに至って、どんどん背景がぼやけて来るのを感じる。老眼と乱視と近視が一度にかかったようだ。島は、そこで死んだ人と生きた人とをのぞいては、誰もそれを語る資格はないとでも言うように、優しい拒絶の微光に包まれているように見えてくる」というだけの慎みは、もっているようだ。

私には、『ある神話の背景』の中で、トーマス・マンの言葉より何よりも重みを感ずるのは、金城牧師の言葉であり、曽根一等兵の行為であるような気がする。金城牧師や曽根一等兵の側から書かれたら、作品は次元の高いものになっていただろう。
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