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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か9

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―9

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p202-206
目次


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【引用者註】住民を日本国民として扱ったか

集団自決命令の有無に関して、状況証拠となりそうな参考事実に、一寸、ふれておきたい。

集団自決という事実は、厳としてあったのである。それは赤松第三戦隊長のいた渡嘉敷島だけでなく、第一戦隊(梅沢裕少佐)のいた座間味でもあったし、第二戦隊(野田義彦少佐)の守備配下にあった慶留間島でもあったようだ。これらの事実は符節を合わしたような偶然の出来事だったのだろうか。

各個別々におきた事件だろうか。それに、集団自決は慶良間列島の住民だけに起こった出来事である。沖縄本島にもその例はなく、本島周辺の他の島々でも起きていない。たとえば、最大の激戦地の一つであった伊江島や、渡嘉敷島よりも多数の住民が鹿山兵曹長指揮下で虐殺された久米島でも、集団自決はなかった。

【引用者註】この一文が書かれたときには、伊江島や沖縄本島での集団自決例はまだ報告されていなかったと思われる。たとえば読谷村チビチリガマの真相が明らかになったのは、戦後38年たった1983年であった。http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm 

慶良間列島は、緒戦で、米軍から不意の猛攻をうけたこと、島々があまりに小さかったことなどで、極度のパニック状態におそわれたようだ。おそらく住民側にも集団自決を用
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意する「心理的ガソリン」があったのだろう。しかし、その「ガソリン」に、軍が点火しなかったと果たしていえるだろうか。

住民の集団自決は、慶良間列島各戦隊の統一した住民処置方針だったのではないだろうか。

赤松元戦隊長は、曽野氏に送った私信の中で、いみじくも、次のような意味のことを述べている。

「当時、陸軍刑法など輸郭は観念的にはわかっていたが、深く研究はしなかった。
 軍刑法を知らなくても、いろいろと処置するのにさほど抵抗を感じなかった。(住民処刑などを指す)。それは私達も、今に近く死んで行くのだという気持ちが根底にあったからだと思う。この気持ちは部隊の者がとった全ての行動に働いていて、これを抜きにしては私達のとった行動は理解し難い」。

本音とおもわれるこの赤松の言葉が、前にも述べた私の推理をあざやかに実証してくれている。彼らには「死ぬつもりのエリート意識」があって、住民の生命は軽視されたのである。「抵抗を感じなかつた」というのは、平気で殺したということである。

この意識で住民を殺した彼らと、集団自決で肉親同士が殺し合った行為とは、異質のものである。
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赤松大尉は、米軍のところに降伏の相談にゆくとき、「なけなしの牛かん一箱」を部下にかつがせて持たせたという。米軍へのお土産というわけである。これはどういう心境だろうか。なぜ、「お土産」をもっていったのだろう。「昨日の敵は今日の友」というわけだろうか。また、そのプレゼントを受けた米軍の指揮官はどんな気持ちを抱いただろうか。部下の兵隊たちが、栄養失調でバタバタとたおれてゆくときに、赤松のところには、牛かんが保管されていたわけだ。

餓死寸前にあった部下の兵隊たちにとっては高根の花であったその牛かんの一部が、かん詰めなどありあまるほどある米軍に土産として差し向けられたのである。

ある時期から赤松はひそかに生きることを考えていたともおもえる。赤松の陣地は、やがて、「食糧を保管した住居」となる。

戦うための陣地は、随時、移動できるが、住居となった陣地は移動しにくい。そして、食糧貯蔵倉庫でもある陣地を砲撃破壊されることは、生存に対する脅威である。

陣地をみたという理由で住民がやたらに殺されているが、「陣地という名の赤松の住居」をみたためではなかっただろうか。

『ある神話の背景』の中での赤松弁護は、良心の呵責も感じないらしい赤松のハートにわざわざ神の名において膏薬をはってやるようなものではないだろうか。
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赤松隊は、終戦後も住民二人を殺している。当時の村長の証言では、二人は陣地に連れてゆかれて処刑されたことになっているが、赤松側の言い分では、歩哨線で"誰何"したら、逃げたので射殺したと弁明している。作戦要務令の歩哨一般守則には、「夜間近づく者あらば銃を構へて良く確め彼我判明せざるときは機先を制して"誰か"と呼ぶ、三回呼ぶも夏なければ殺すか又は捕獲すべし」の一項がある。これは、敵前歩哨の夜間動作を示すもので、敵味方不明のとき歩哨のとるべき処置である。さて、前述の住民二人が射殺されたのは昭和二十年八月十六日の朝である。朝だから、米兵か住民かの見わけはつく。夜間の「彼我判明せざるとき」とはちがう。昼間である。昼間・歩哨が三回"誰何"したというのはおかしい。

また渡嘉敷島は日本領土であり、米軍以外は、そこに住む人間がすべて日本国民であることははっきりしている。住民と軍は一体となって戦うべき立場にあった。はっきり住民と知った上で赤松隊の歩哨が、住民二人を射殺していることは明らかである。これは、赤松隊が渡嘉敷島の住民を敵視していた動かしがたい事実である。

曽野氏は、作戦要務令歩哨一般守則について誤解しているようだ。「日本国外の戦場を対象として作られた作戦要務令を、日本国内の戦場に持たせてやった軍当局が悪い」と曽野氏はいう。そんなはずはない。戦場が日本領土内たとえば渡嘉敷島の場合なら、指揮官
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がとるべき方法はいくらもあるはずである。歩哨は作戦要務令の一般守則だけで動いているのではない。(必ず)各指揮官からあたえられるさらに具体的な行動基準たる「歩哨特別守則」がある。特別守則の作成は各指揮官の裁量に任されていて、同守則により、いかなる状況にも対応できる余地が残されている。同胞たる渡嘉敷島住民に対してとるべき適当な措置を「特別守則」の中にもりこむことができる。

赤松隊長は、住民を同胞とおもわず、住民が歩哨線に近接したときは射殺せよと、特別守則の中で命令していたのだろうか。当時、赤松隊長が、歩哨にどういう「特別守則」をあたえていたか、その全内容も問題である。

ただし、曽野氏の『ある神話の背景』が沖縄戦記録文学の中で最初の、現時点では唯一の、戦争と人間の問題を掘り下げた作品であること、さらに、沖縄における戦後的思考のパターンに痛烈な一撃をあたえた作品であることは否めない。
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