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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か5

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―5

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p184-188
目次


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【引用者註】欺瞞的な「抗戦」と「降伏」の苦しい弁護

防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』中の「海上挺進第三戦隊(渡嘉敷島の)戦闘」に、左の記述がある。

「八月十六日米軍から終戦の放送があったので、戦隊長は十七日木村明中尉以下四名を米軍に派遣して確認させた。

翌十八日戦隊長は米軍指揮官と会見し、終戦処理について協議し、まず停戦を協定し、八月二十四日、一〇〇〇部隊全員武装解除を受けた」と。

右は赤松元戦隊長提供の資料に基づくものである。

赤松戦隊長は、部下本隊(八月二十四日降伏)より約一週間早く、米軍の保護下にはいっていることになる。終戦の翌日、米軍の放送を聞き、さらにその翌日、直ちに敵である米軍の下に部下を派遣して終戦を「確認」させたというが、早手回しのこの行為からみて、すでに戦意を失い、戦争の終わる機会をうかがっていたとしか思えない。

赤松隊が、日本軍側の情報で終戦を「確認」したのは八月二十一日(『ある神話の背景』に記載)だから、それを待たずに赤松は降伏しているが、抗戦中の軍隊の指揮官のとる態度としてはうなずけない。あの当時、敵軍の終戦情報だけで、あつさり降伏にふみ切るような感情や思考の百八十度の転回が簡単にできたのは「見事」といわざるをえない。天皇
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の詔勅も、赤松隊が、いつ、どんな方法で確認したのか不明だ。前述の戦闘記録の中で、「停戦を協定し……」うんぬんと白々しいことを書いてあるが、「降伏手続きに関する取り決め」をやったあと、敗残兵の苦境から脱したということである。「停戦協定」とは「事後戦力保持者」のとりうる手段である。

当時、渡嘉敷国民学校長だった宇久真成氏から聞いた話では、五月中旬ごろ、山中で、のんびりと、銃をかついで、一人で歩いている十八歳位の米兵をみたそうである。そのころは、米軍の少年兵が山中を一人歩きのできるほど、渡嘉敷島は、米軍にとって危険な場所ではなかったわけである。

『ある神話の背景』の中で、赤松隊員は、「自分たちが渡嘉敷島で持久戦をやれば、それだけ敵をひきつけ、軍全体の作戦に寄与できた」などといっているが、渡嘉敷島にひそむ日本兵など、米軍は、かゆみとおぼえないほど無視していた。米軍の記録『日米最後の戦闘』には、「慶良間確保は日本軍の損失以上に米軍にとって大きな収穫であった。いまやアメリカの手中に帰したこの投錨地は、周囲を島で防備された小型海軍基地となった。ここから海軍機は飛び、艦船は燃料弾薬を補給し、傷ついた船は修繕された」と記している。

当時、米軍の一個分隊は、日本軍一個中隊以上の火力を持っていた。『沖縄方面陸軍作戦』で、赤松隊が米軍の二個大隊を阻止したとか、一個中隊を撃退したとか、いろいろ書
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いてあるがマユツバである(戦果や損害にっいては明記してない)。

米軍の記録は、座問味島や阿嘉島では、日本軍の手ごわい反撃にあったと書いてあるが、渡嘉敷島の戦闘についてはとくにふれていない。渡嘉敷島住民も、戦闘らしい戦闘はなかったといっている。

『沖縄方面陸軍作戦』の記録で座間味、阿嘉、慶良問各島の損害を比較すると左の通りである。

(カッコ内は戦死)
【座間味】
戦隊一〇四名(六九名)
基地隊二五〇名(約一〇〇名)
船舶工員約五〇名(三二名)
水上勤務約四〇名(一五名)

【阿嘉島】
戦隊一〇四名(二二名)
基地隊二三四名(六五名)
水上勤務二一名(一〇名)
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【渡嘉敷】
戦隊一〇四名(二一名)
基地隊二一六名(三八名)
水上勤務一三名(不詳)

つまり、渡嘉敷の赤松戦隊の犠牲が最もすくなかった。逆に住民の犠牲は渡嘉敷島がいちばん多かったのである。

赤松隊は、防召兵や住民に対して実に厳格な態度でのぞんでいた。その点、彼らの軍人としての行動も厳格に批判されてよいはずである。米軍の記録によれば、米軍が渡嘉敷島に最初に上陸した、三月二十七日と同二十八日は野砲で五百回以上も砲撃し、ほかに艦砲射撃や空襲、陸上砲撃で山形改まるまで弾丸をうちこんでいる。

日本軍の抵抗はほとんど無視できるほどのもので、米軍は日本軍の応戦より、島の地形に悩まされたといっている。あれだけの砲撃で、「陣地らしい陣地もなかった」と赤松隊員が証言している小島で、隊員の犠牲は意外にすくない。その後、日本軍は抵抗らしい抵抗をやった様子がない。そのはずで、もし頑強に抵抗していたら本格攻撃をうけて全滅しただろう(上陸三日目の三月二十九日、米軍は全島を偵察している)。

六月中旬、沖縄戦が終わって以後、慶良間各島の日本軍に米軍はたえず降伏勧告をして
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いる。米軍の記録によると、日本軍捕虜や二世などを通じて渡嘉敷島の指揮官と交渉(この点、伊江島住民処刑の理由がなりたたない)したら、降伏は拒んだが、米軍が日本軍陣地に接近しなければ、こちらから攻撃を加えることはしない、米人が渡嘉敷ビーチで水泳しても何もしないと告げたと書かれている。これこそ重大な通敵行為である。『ある神話の背景』で作者はこれを「遊泳許可事件」として、赤松隊長のために、つじつまのあわない苦しい弁護をしており、その中で作者は「遊泳許可事件」の汚名を阿嘉島の指揮官に転嫁しようとさえしている。米軍記録にははっきり「渡嘉敷島の指揮官」「トカシキ・ビーチ」としてある。

赤松隊員がそれを否定しても、米軍の記録を信用するほかない。
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