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II 根差部―「優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ」

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野村正起
沖縄戦負兵日記
玉砕戦一等兵の手記
1974年10月15日 第1刷発行
1978年 8月15日 第2刷発行
太平出版社


II 根差部―「優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ」


三月二三日(金)晴 やや暖かい


早朝、麓の部落(豊見城村字高安)で、空襲警報発令のサイレンが鳴った。と同時に、すさまじい爆音と機銃掃射の轟音があたりをつつんだ。アメリカ軍機グラマンの襲撃であった。

部落にはいままでにないことである! あわてたわれわれ通信分隊の一〇名は、機械を肩にして、山腹の宿舎から飛び出した。

そして、東麓の各壕へ避難しようとして部落から駆け登つてくる中隊の者や住民らとともに山を越え、その麓の南方に位置する分隊壕へと駆け込んだ。

ほどなく付近に群がっていたグラマン機は飛び去った。が、カーチスも交えて、アメリカ軍機の数は刻々と空に増え、いずれも那覇方面に向かって飛んだ。

那覇上空は、すでに爆弾の黒煙と高射砲の弾幕に満ち、無数のアメリカ軍機が乱舞していた。

息つく暇もないアメリカ軍機の攻撃である。われわれはただ壕内に潜んで、アメリカ軍機の去るのを待つよりほかにしかたがなかった。

午前八時に至つて、那覇市垣花(かきはな)町の第一船舶団司令部より、「現在マデノ敵艦載機数、延べ三五〇機。主トシテ全島ノ港湾、飛行場ヲ襲撃中」との電信があった。
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空襲には慣れきっているわれわれも、互いに顔を見合わせて、「いよいよ敵の上陸する前哨戦だ」と語り合った。

アメリカ軍機の攻撃は、そのわれわれの思いを駆りたてるかのように、ますます激しくなった。

上空をまるで川の流れのようにアメリカ軍機の群れが、あとからあとから那覇に向かつた。そしてそのうちの何機かは、壕の前を地上すれすれに飛んで、あたりに機銃を乱射していった。


陽が落ちて、さしものアメリカ軍機の攻撃も途絶えた。ようやくわれわれは壕を出たが、那覇の空は暗くかげって、黒煙が数条立ち昇っていた。

幸い付近に被害はなかった。

間もなくわれわれの第二中隊は、一部人員を徹夜の壕掘り作業に残して、部落へ引揚げていった。……まだ中隊の壕は、完成されていない。

この中隊の動きに前後して、住民たちも部落へ向かった。

分隊は、司令部との交信を終え、暗くなってから、全員、宿舎に帰った。

やがて、遅い夕食をとって横になったが、分隊長源田軍曹(仮名)と、補充兵の稲葉亮一上等兵(千葉県出身)、竹節勇上等兵(長野県出身)、初年兵の津代忠雄一等兵(仮名)、沢田勇一等兵(愛知県出身)、の五人が、またアメリカ機動都隊の来攻について、とやかく話しはじめた。

日ごろからうまの合う神経質なやつばかりである。わたしには、うるさくてしようがなかった。

そんなことをいくら詮議してみたところで、しよせん、どうすることもできない問題である。どうせ、なるようにしかならない運命であるのだ。
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三月二四日(土)晴 白雲多し


午前三時の船舶団司令部との交信後、「敵機動部隊接近!」の入電を伝える分隊長の声を耳にした。が、わたしはそのまま眠ってしまった。疲れてもいたが、いまさら騒いでも仕方があるものか、との思いがしたからである。

しかし、数時間後の明け方、わたしは、分隊長に起こされた。「オイッ、敵艦が見えたぞ! 壕へ移動することになったから早くせい!」。分隊長の声はうわずっていた。

わたしは、あわてて駆け出す分隊長につづいて宿舎を出た。

山頂に続く道は、壕へ急ぐ兵士と住民の群れで、ごったがえしていた。

頭上には、まるでおもちやのトンボのような格好の速度の鈍いアメリカ軍機が五~六機、低く飛んでいた。観測機である。

その上空を、グラマン、カーチスの大編隊が、絶え間なしによぎった。

壕内に駆けこむと、敵艦を見てきたという初年兵の佐藤敏男一等兵(岡山県出身)、芹沢忠一一等兵(静岡県出身)、大須賀義雄一等兵(静岡県出身)、の三人が、しょげた表情で、そのもようをわたしに語った。「まるで海の色が見えないほどに敵の艦船がひしめいている!」というのである。

―午前九時ごろ、わたしは、分隊長に従って壕を出た。

昨夜、壕の東北約四〇〇メートルに位置する木立に囲まれた高地台上の根差部部落へ、連隊本部が移動してきたので、従来の船舶団司令部中継の本部との通信連絡が廃止され、本日正午から・直接本部と交信することになったので、その事務打合わせについて、本部通信小隊を訪ねるためであった。が、二人にはそのついでに、自分たちの目で、アメリカ艦隊を確認しておきたいという希望もあったのである。
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途中、人影はまれであった。たくみにアメリカ軍機の下を潜つて、根差部落台上西方の芋畑にでたときである。二人は、思わず息をのんで足を停めた。

眼下の海面を蔽うばかりの無数のアメリカ艦艇を見たのである。教えられてはいたが、あまりにもおびただしい数であった。

いよいよおれもこの沖縄で最後になるかも知れない、とわたしは思った。そして、生きることへの未練を、自然の摂理にまかせようと考えることによつて、解決した。わたしの死生観である。

やがて二人は、福木に岡まれた赤瓦葺きの屋敷に仮泊している通信小隊を訪ねた。

わたしには、ひさしぷりに会う小隊の連中である。懐かしかった。しかし、ろくに落ち着いた話もできなかった。ここもアメリカ艦隊の噂でもちきりで、異常な緊張が渦巻いていたのである。

二人は、小隊長代理の橋本曹長に会つて、事務打合わせを終え、早々に小隊宿舎をあとにした。

二人が分隊壕に帰り着くと同時であつた。遠雷のような轟音が起こつた。砲弾の炸裂音である。「艦砲射撃らしいぞ」。わたしがいうと、「艦砲射撃!?」ひとりひとりが、異様な顔をしてつぷやきかえした。皆には初めて耳にする砲弾の音である。

間もなく、「本日九時二五分ヨリ、本島東南海岸二対シ、敵艦隊ハ艦抱射撃ヲ開始セリ」との報が、本部より伝えられた。

「砲撃の次は上陸!!」それは島嶼攻略のアメリカ軍の常套手段である。皆、その事を予期して、壕内に息を潜めていた。艦砲射撃は、午後二時二五分に至って途絶えた。

その後も艦載機の空襲と、観測機の地上慎察は執拗をきわめた…。


日が暮れると、昼間の騒音にくらべて、無気味なほどの静けさがやってきた。海上のアメリカ艦隊
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も、陸の日本軍も、いま、沈黙の対峙を続けている。

情報によれぱ、本島を包囲するアメリカ軍艦艇は一、二〇〇隻とのことである。

われわれ沖縄島守備軍(第三二軍)の兵力は、約一〇万といわれるが、この大攻囲軍を相手にして、いかに戦うかが問題である。

「本土からの特攻機の襲撃!!」「連合艦隊の救援!!」などを信じる声も強いが、最近の戦況を考えるに、その援助は望みうすだ。玉砕したサイパンや硫黄島のことを思えば、正直な話、わたしは憂欝になってくる。

しかし、沖縄は日本の一角である。この沖縄が敗れるときは日本の最後だ、いかに衰えたりとはいえ、過去においてあれだけの戦果をあげてきた日本軍である。まだこの島から敵を追っ払うだけの底力は期待してもよいとわたしは思う。

三月二五日(日)晴


早暁より、艦載機は来襲した。観測機-トンボは、しだいに数を増して飛んでいる。

兵士も住民も、皆、壕内にとじこもっていたが、わたしは窮屈な壕生活に飽きて、佐藤・大須賀・芹沢の三人を誘いだし、無人の高安部落をぶらついて、朝のいっときを自由にすごした。

そのわれわれ四名が、分隊壕に帰ってからのことである。また、遠くに砲声が起こった。と、こちらの海の方にも、ドラムを連打するような発射音がして、ヒユーツ、ヒューツと、砲弾が頭上をかすめだした。

ほどなく、牛前九塒三〇分の連隊本部との交信が開始されたが、「九時一五分ヨリ・敵艦隊ハ、本島東南海岸オヨビ慶良間列島ニ砲撃ヲ開始セリ」との電信に接し、壕内は、異常に緊張した。
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慶良間列島内の座間味島(ざまみとう)には、中隊から乳井小隊も派遣されているのだ。皆その安否を気づかって、いろいろと語り合った。慶良間列島と普通呼ばれている島々は、那覇の西方約二〇海里の海上に浮かぷ島々で、列島中の座間味・阿嘉・慶留間・渡嘉敷などの大きな島には、海上挺身隊と海上挺身基地隊、ならびに船舶工兵二三連隊と二六連隊の一部を合わせた、少なぐとも三、○○○の将兵が配置されているもようである。

昼前、壕の前を通りかかった海軍兵曹長と兵長の二人が、連合艦隊の救援を確信ありげに語っていった。硫黄島にはその姿を見せなかった連合艦隊が、この沖縄には必ずやってくるというのである。

午後一時三〇分の本部との交信で、次のような電信をえた。

三月二五日一三時軍司令部情報部発表
一、三月二四日六時五〇分ヨリ、敵艦載機南西諸島ニ来襲ス。現在マデノ来襲数延七二三機ナリ。九時二五分ヨリ一四時二〇分マデ、沖縄本島東南海岸、敵艦ニヨリ艦砲射撃ヲ受ク。
二、現在マデノ戦果ハ、撃墜二一機、撃破一五機。
三、我ガ方ノ損害キワメテ軽微ナリ。

日没後、特攻機が来襲した。本土からの初の救援に、全員、壕を出て、歓声をあげて空を仰いだ。

特攻機は、西北の空を紅に染めた敵の曳光弾幕の中に、さか落としに舞いおりていった。と、同時に、火柱が高く立ち昇った。

機体もろとも、敵艦に体当たりしたのにちがいない! 噂には聞いていたが、目撃したのは初めてである。わたしは、いい知れぬ感動と、哀感に胸をうたれた。

やがてアメリカ軍は、照明弾を打ち上げはじめた。夜空にいくつも輝くその照明弾は、一弾が消えると、また一弾がボッと炸裂して、絶え間なく地上を照らしている。
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艦砲射撃は、依然としてやまない。

三月二六日(月)晴


夜っぴで、慶良間列島および本島東南海岸にたいする艦砲射撃は続いた。

そして夜が明けると、また艦載機が空を制し、トンボが飛んだ。

午前八時三〇分、本部との交信で、「本日八時五分ヨリ、慶良間列島へ熾烈ナル艦砲射撃支援ノモト一、優勢ナル敵ノ先遣部隊ガ上陸ヲ開始セリ。所在ノ我ガ部隊ハ、直チニコレヲ邀撃(ようげき)敢闘中ナリ」との電信が入った。

ついに! との思いが、期せずして見合わす皆の面を走った。

なんといっても離島の小部隊である。われわれは乳井小隊はじめ友軍部隊を案じ、かつその健闘を念じた。

だが、午後二時に至って本部より、「慶良間列島守備隊トノ通信杜絶セリ」との絶望的な入電があった。分隊長以下、暗然として声もなかった。

ひそかにわれわれが期待していた連合艦隊も、ついにその姿を見せなかった。慶良間は陥ちたのである。

わたしは、いまさらのように兵士のはかなさを痛感した。そして、いずれはこの本島も、同じ運命におかれるのではなかろうか…、との不安に襲われた。
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夕刻、また特攻機が来た。だが、もう昨日のように歓声をあげる者はなかった。

薄闇の西空を、アメリカ艦艇から撃ち上げる曳光弾がほのかに赤く彩られて、さびしく消えていった。


三月二七日(火)晴 やや冷たい


昼ごろ、本部通信小隊より船舶団長戦死の報が伝えられてきた。

その報によれば、船舶団長大町大佐は、一昨日の三月二五日、慶良間列島内の渡嘉敷島守備隊(海上挺身第三戦隊および海上挺身基地隊)基地を巡視中、慶良間列島攻略を企図するアメリカ機動部隊の奇襲に遭遇。余儀なく同島守備隊を指揮して、アメリカ機動部隊邀撃の機を待ったが、船舶団司令官としての責務上、本島に帰還して隷下全部隊の指揮をすべく、同夜、特攻○レ艇に身を託して帰島の途次、海上において戦死したもようである。

この司令官戦死の報は、慶良間列島守備隊全滅直後のこととて、余計にわれわれの気持ちを暗いものにした。

午後四時三〇分、大本営は、アメリカ軍の慶良間列島上陸について、次のように発表した。無線機で聴取したものである。

一、敵ノ機動部隊ハ、ソノ後、南西諸島近海ニ出現シ、三月二三日以来、主トシテ沖縄本島ニ対シ、砲爆撃ヲ実施中ニシテ、二五日一部ノ兵力ハ、慶良間列島ニ上陸セリ。
二、所在ノ我ガ部隊ハ、コレヲ邀撃スルト共二、我ガ航空部隊ハ、右機動部隊二対シ、果敢ナル攻撃ヲ続行中ニシテ、現在マデニ確認セル戦果ツギノ如シ。
艦船轟沈 大型五隻
轟沈マタハ大破 大型五隻
飛行機撃墜 四四機
撃破 約一一〇機

日暮から、東北高地上に、しきりに艦砲弾が落下しはじめた。高地上のあちこちに、轟然と真っ赤な火炎を吹き上げて炸裂するさまが、壕の入口から手にとるように見える。分隊の者は、初めてのこととて驚き、かつ珍しそうにこれをながめている。

この砲撃は、夜陰に乗じて高地台上の道路を往来する友軍部隊の行動を阻止するためであろうが、ときおり、思い出したように、その高地とこちらの山の間の畑のなかを走る道路上にも、艦砲弾が飛んでくる。これはまた間近いだけに、すさまじい閃光と轟音と震動が、肝を奪う。いよいよこのあたりも、砲弾の脅威に曝されることになってきたのである。


三月二八日(水)晴


午後三時ごろ、中隊本部壕より帰つた分隊長は、一同を集めて、「第二中隊は、明日没後、東北高地の、根差部部落南西の山間にある壕へ移動することになった。移動後の中隊と連隊本部との通信連絡は、有線によって行なわれることになったので、通信分隊は、移動先の中隊本部壕より同高地の東北約五〇〇メートルの山間にある連隊本部壕との間に今夜中に線路を構成(電話線を架設)しなければならない」と、中隊長斎藤栄三郎大尉(東京都出身)からの命令を達した。

そして、「野村、ご苦労だが、津代を連れて、行ってくれないか」と、わたしにいった。命令である。

間もなく、わたしは分隊長と根差部高地に下検分にでかけた。
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日が暮れてから、わたしと津代は、互いに電話線(軽被覆線)一巻を肩にかけて、壕を出た。めざす根差部高地には、しきりに艦砲弾が炸裂していた。

途中、津代は行くことをしぷって、「命令が無謀ですよ!」と、わたしに帰隊を要求したが、「いまさら帰れるかッ、行け!」と、わたしはかれを強引にうながして道を急いだ。

日ごろから古参兵にたいして、「飛んでくる弾丸は前ばかりではない……」と、ほのめかすほどの津代である。自分の了見の前には、命令も蜂の頭もなかった。

わたしにしても、最初から不服はあった。日ごろ、進級などに関しては粗略に扱っておきながら、なにも一等兵であるおれを指揮官にして出さなくても、分隊長が行けなければ、上等兵である稲葉か竹節を出せばよいのに……と、思ったことである。しかし、出てきた以上、「艦砲がひどいので…」といって帰るわけにはいかなかった。

やがて二人は、中隊本部壕にたどり着いた。それと同時に、ようやく砲撃が衰えた。思わずわたしはホッとしたが、先を急がなければならない。

わたしは津代をうながして、中隊本部壕から台上の道賂に至る山の斜面の雑木の枝に電話線を架設し、さらに、台上道路の東側の杉の木から、西側の杉の木へと、電話線を高くかけ渡した。この道賂は、連隊本部壕の方向から、やや東寄りに北に走って、その右側にまばらに杉の木が立ち、左側に狭い芋畑がつづいている。

連隊本部壕への電話線のコースは、この道路の左側の芋畑の前方五〇メートル程の地点に在る製糖工場の小屋の手前から、左へ二〇メートルぐらい歩いて、台上西方の広い芋畑に出、その芋畑の中を北東に直進するわけである。

わたしは、津代と道路沿いの芋畑の上に、電話線を敷設していった。
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そして、製糖工場の小屋のままできたときである。突然、なだれのように砲弾が落下しはじめ、二人はアワをくって、横手の石垣の陰にとびこんだ。

いつときして、砲弾が衰えると、突然、怒鳴るように津代はいった。「古兵殿、これ以上やることは無茶です。津代は帰ります!」。

「何!」。わたしは思わず拳を固めてつめよった。しかし、それ以上、引止めることの無駄を知ってやめた。
「気をつけて帰るんだぞ……」。わたしは、静かにいった。
「帰ります!」。津代は、それが当然ででもあるように、自分の肩にかけていた電話線をわたしの足元に置いて、すたすたと闇のなかに消えていった。

わたしは、かれのうしろ姿を見送りながら、中隊長を恨んでいた。中隊長は、弱兵の多い初年兵にたいして、ただ人数の確保のみに力を注ぎ、兵士として鍛えることをしなかった。だからこんな不心得者ができたのである。

わたしもでけらめな兵士ではあるが、命令のなんたるかは心得ている。わたしも砲弾は恐ろしい、しかし、兵士が砲弾を恐れてばかりいては、戦争はできないのだ。また、「砲弾を恐れて逃げ帰った」といわれることは、兵士としてこのうえもない恥である。

だが津代にはそんな考えはない。かれはなによりも自分がだいじである。自分の前には命令もクソもないのだ。

ようし! おれは意地でもひとりでやってやる。そのかわり帰ったら、「中隊長が甘いからこんな不心得者が出るのだ!」と、中隊長の目の前で、津代を殴り倒してやる! と思うことによって、わたしは、自分の感情をおさえた。
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三月二九日(木)晴


一晩中、艦砲弾の落下する根差部高地台上で、移動先である中隊本部壕から連隊本部壕までの電話線の架設作業をひとりで続けたわたしは、ようやく、未明に作業を終えた。

そして帰途につくと、昨夜来の欝積していた憤懣が、任務を果たした喜びの前に、うすらいでいくのを覚えた。それは ―津代はどうしたであろうか。かれのことだから、おそらく平気でしゃあしゃあと分隊に帰ったであろう。まさか途中で艦砲にやられたのではあるまい。しかし、それにすると、分隊長の処置がおかしくなってくる。津代が帰った以上は、当然、だれかを応援によこしそうなものである― ということであったが。

分隊壕にわたしが帰り着くと、他の者はもとより、分隊長までが、手をとらんばかりにして迎えてくれた。

わたしは、しばし興奮した誇りに酔っていたが、壕内の奥に、津代が首を垂れて坐しているのを見て、にわかに昨夜来の憤りがこみあげてきた。

なぜ!? わたしは、なじるように分隊長を見た。一瞬、分隊長の面に困惑の色が走った。そして、衷願するようにわたしにいった。「津代はけしからんことをした。後悔している。許してやってくれ」。「……」。わたしは返事をしなかった。

分隊長は、命令にそむいて逃げ帰った津代を「許してやってくれ」とわたしにいうのである。一人あとに残って命令に従ったわたしには、応援の者も出さずにおきながら……、わたしは、腹立たしさに身震いした。

だが、中隊長にしたってどうせ分隊長と同じことであろうと思うと、わたしは急になんともいえない情けない感じにつつまれた。
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わたしは、分隊長の相手になるのが馬鹿らしくなって、黙ったまま奥の自分の席に入って、寝ころんだ。じっさい、疲れてもいたのである。そのままわたしは、いつしか眠っていた。

夜に入って、中隊は根差部高地南西の山間の壕へ移動した。

通信分隊は、東側の山腹にある壕が完成していないので、砲撃が遠いのを幸い、器材置場として借用した指揮班壕上部の道路端の茅葺きの民家に入った。壕生活からくらべるとなんだか心細いが、たとえ板の間にしても、やはり家の中は快適である。

木立に囲まれた台上の部落には、住民の帰宅した煮炊きの火が木の間越しに洩れ、まるで昨夜の砲撃が、嘘のようにしか思われないのどかさである。


三月三〇日(金)晴


アメリカ軍の本島上陸が、いよいよ間近に迫った。
情報によれば、「港川オヨビ嘉手納ノ沖合ニ、敵輸送船ガ集結シテ、上陸の公算大ナリ」とのことである。

情報のとおりだとすれば、一方は牽制ではなかろうか? しかし、西海岸からの上陸ということも考えられる。が、ここだけではなくて、他の地点にも、アメリカ軍は上陸しそうな気配を見せている。

糸満と天久(あめく)である。部落を往来する他部隊兵士や住民たちの話によれば、糸満と天久の海岸に、「敵が何十隻もの舟艇で押し寄せて来て、機関砲をぶっぱなしていった」とのことである。また、港川にも糸満にも、同様のことが行なわれたという者もある。
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だいたい、アメリカ軍が上陸しそうな気配をみせている地点は、以上の四か所らしいが、これはアメリカ軍が企図する上陸地点の抵抗を少なくしようとして、防御軍の注意を四方に分散させるためか。または、各防御陣地の配備を探って、そのもっとも適した地点に上陸しようとするためかのいずれかであろう。

が、果たしてアメリカ軍は、いつ、どこの海岸へ上陸してくるであろうか……。

三月三一日(土)晴


艦砲射撃がすごくなった。昨日まで、ヒューツ、ヒューツと、巨大な笛のように空に聞こえていた砲弾の通過音が、ゴオーという音に変わった。まるで幾百もの雷が鳴っているような轟音である。そしてその炸裂音が、ヅルヅルと地響きをともなって聞こえてくる。

タ暮、台上西方の墓地に、艦砲弾が集中した。アメリカ軍は、沖縄特有の巨大な墓を、日本軍陣地とでも間違えたのであろうか。

このため、連隊本部と中隊間に架設した電話線が切れて、わたしは芹沢と保線(補修)に出た。すでに砲撃は途絶えていたが、台上には、直径四~五メートルもある弾痕が、いたるところにできていた。

はるかな海上には、こうこうと電灯に輝くアメリカ艦がひしめいて、さながら大都市の灯を望むようであった。

午後九時ごろ、那覇市垣花町の船舶団司令部通信班勤務についていた四年兵の山崎上等兵(仮名)が、同通信班勤務を解かれて帰隊し、分隊に復帰した。

通信班の井手軍曹や僚友井手富夫兵長(愛媛県出身)も、元気だとのことである。「司令部は落ち
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着いたものだ」と、かれは、司令部がいかにも勝算ありげに見えることを一同に語った。


四月一日(日)快晴


今朝は、付近にアメリカ軍機も見えず、砲撃もない閑散な時間がつづいた。空はあくまでも晴れてただ遠くに海鳴りのような轟音が聞こえていた。

わたしや佐藤・大須賀・芹沢は、まるで戦いを忘れたかのようなそののどけさに、日ごろの緊張も解けて、あてもなく部落をうろついて回った。

しかし、それは、われわれのみが感じた地域的な平和でしかなかった。われわれが宿舎に帰ってからのことである。午前八時四〇分であった。

指揮班へでかけていた分隊長が、急いで帰ってきて、「おいッ、敵が嘉手納付近へ上陸し始めたぞ!」といった。「…」。全員、亜然として、分隊長の顔を見た。分隊長は、興奮していた。

分隊長が指揮班で聞かされたという連隊本部からの伝達によれば、「本日八時一○分ヨリ、本島南部地区ノ海岸嘉手納付近ヘ、熾烈ナル艦砲射撃支援ノモトニ、優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ、所在ノ我ガ守備部隊ハ、直チニコレヲ邀撃激戦中デアル」とのことであった。

「嘉手納付近へ上陸し始めた!」。われわれは初めて口にして、緊張した顔を見合わせた。意外なショックであつた。だれしも最初はアメリカ軍を、水際で撃退できると固く信じていたのである。

それが上陸し始めたとは、同方面のわが部隊は、いったいどうしていたのであろうか!? むざむざ敗れて上陸されたとは思われない。しかし、現実には、アメリカ軍が上陸しはじめたことにまちがいはないのだ。

しいて考えれば、日本軍の誘導作戦ともとれるが、いずれにしても、この本島の地上をアメリカ兵
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(つづく)

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