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「軍命令」は創作だった・元琉球政府職員が勇気ある告白証言

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新しい歴史教科書をつくる会『史』平成18年9月号(通巻58号)より

沖縄集団自決の「軍命令」は創作だった

~元琉球政府職員が勇気ある告白証言~

藤岡信勝(自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授)


(2006年)8月27日付けの産経新聞は、昭和20年沖縄渡嘉敷島住民の集団自決について、「軍命令は創作だった」という当事者の証言を報じた。戦後60年余、また一つ歴史の真実が明らかになった経過を報告する。


「日本軍の非情・残酷」を際だたせる話



戦争末期の昭和20年3月、米軍が沖縄本島の西の海上にある慶良間列島に攻め込んできたとき、座間味島と渡嘉敷島では数百人の追いつめられた住民が家族どうしで殺し合うなどして集団自決するという痛ましい出来事があった。

ところが、戦後、それは日本軍の将校の命令により強制されたものであったと言われるようになった。私がその話を初めて読んだのは今から30年近くも前、確か中公新書の一冊だったように思う。そのとき感じた日本軍の非情さ、残酷さに対する嫌悪感を今でもはっきり思い出すことができる。それは軍隊一般に対する反感、軍事一般に対する拒否感に間違いなくつながるものだった。

沖縄戦関係のおびただしい数の書物に書かれているこの話は、元をたどると一冊の書物にたどり着く。昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された『沖縄戦記 鉄の暴風』である。

しかし、昭和48年に曽野綾子氏の『ある神話の背景』が出版され、渡嘉敷島のケースについて、軍が命令したという従来の「定説」に決定的な疑問を投げかけた。それ以来、「沖縄集団自決軍命令説」は次第にその虚構性が明らかになってきた。


座間味島・梅澤少佐の場合



まず、すでに決着がついた座間味島のケースを見ることにしよう。慶良間列島では日本陸軍が海上挺身隊という特攻部隊を配置した。ベニヤ板で作った一人乗りの小型の船に爆薬を積んで、アメリカの軍艦に突進して自爆し敵艦を撃沈するという作戦である。座間味島には梅澤裕少佐を隊長とする部隊が配置された。「鉄の暴風」では、その梅澤隊長が住民に自決命令を出したことになっている。次の記述である。

<軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。>

のちにこの記述を裏付けるような証言者が現れた。昭和32年4月、厚生省引揚援護局の職員が「戦闘参加(協力)者」調査のため座問味島を訪れた。そのとき、当時の女子青年団長だった宮城初枝さんは、村の長老から呼び出され、厚生省の役人の前に座った。「住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか」という、質問に、宮城初枝さんは「はい」と答えた。

集団自決の命令者とされた梅澤隊長の戦後には悲惨な運命が待っていた。マスコミをはじめ様々な人々から非難され、職場に居たたまれず仕事を転々とした。

座間味島の集団自決から33回忌(32年後)に当たる昭和52年3月25日、宮城初枝さんは娘に「梅澤隊長の自決命令はなかった」ことを初めて告白した。 事実は、梅澤隊長のもとに自決用の弾薬をもらいに行ったが断わられ追い返されていたのである。集団自決の命令を下したのは、梅澤隊長ではなく、村の助役だった。

では、なぜ村の長老たちは宮城さんにウソの証言をさせたかといえば、厚生省の方針で、非戦闘員が遺族年金など各種の補償を受けるには単なる自決では足りなく、軍の命令があった場合にだけ認められるという事情があったからだ。座間味村(そん)の遺族が国から補償を受けるためには、ウソでも軍の命令で集団自決したという証言が必要だったのだ。

その後、宮城初枝さんは梅澤隊長に面会して謝罪し、命令を下した助役の弟も梅澤隊長が無実であることを証言する念書を梅澤氏に手渡した。こうして座間味島では、住民側の証言によって梅澤隊長の命令はなかったことが証明されたのである。


渡嘉敷島・赤松大尉の場合



渡嘉敷島には赤松嘉次大尉(当時25歳)が隊長として赴任した。この島での集団自決の軍命令について、「鉄の暴風」は次のように書く。

<(3月)27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している。」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、働突し、軍籍にある身を痛嘆した。>

しかし、存命している知念朝睦元少尉は、地下壕の存在も将校会議の存在も否定する証言をおこなった。右の記述はすべて、よくできた作り話だった。赤松隊長の軍命令などはなかった。

ただ、渡嘉敷島については、座間味島ほど明瞭な決着がついたわけではなかった。赤松隊長の軍命令を積極的に否定しているのは旧軍の側の人々であり、渡嘉敷島の住民はこの点について黙して語らない。

なぜ「軍命令説」が生まれたのか、ウソの証言をしたのは誰なのか、といったことが判明しないと、赤松隊長の無実は確証されない。座間味にあって渡嘉敷に欠けていたものは、宮城初枝さんや助役の弟にあたる証言者だったのである。


照屋昇雄さんとの出会い



私が代表をつとめる自由主義史観研究会の会員で、横浜市の公立中学校教師・服部剛(たけし)氏は「沖縄戦集団自決命令の真実」というテーマの教材を開発した。その教材の裏付けを取る意味もかねて、自由主義史観研究会では、昨年の5月20日から22日までの三日間、「沖縄戦慰霊と検証の旅」を実施し、座間味島と渡嘉敷島の現地調査をおこなった。この調査旅行で思わぬ展開があった。

自由主義史観研究会の会報に沖縄調査旅行の参加者を募集する記事が出た。すると沖縄の二つの地方紙「沖縄タイムス」(朝日系)と「琉球新報」(毎日系)がそろって5月18日付けの社会面に会の調査旅行を椰楡する記事を大きく掲載した。高嶋伸欣・琉球大教授らが県庁で記者会見を開いて会の現地調査を「沖縄戦の実相を歪める意図がある」などと批判したからだ。

結果から見れば、これは大変有り難いことだった。現地の二大新聞が大きく扱ったことで、沖縄中の人達が私たち小グループの動向を知ることになった。その結果、意外にも沖縄在住の複数の方々から激励のメールや手紙をいただいた。その中のお一人に、恵(めぐみ)隆之介さんがいた。

恵さんは自衛官出身で沖縄在住のジャーナリストである。恵さんは渡嘉敷島の集団自決についての重要な証言者と知り合いであるという。私は何とか会わせていただけないかとお願いした。最終日の5月22日午後、私たちは予定を変更して那覇市内にある証言者のご自宅にお邪魔することになった。その方が、照屋昇雄(てるやのぶお)さんだった。


赤松隊長は自ら罪を背負った



照屋さんは元琉球政府の職員で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を適用するための資格審査の調査を担当した。配給米を支給するための名簿をもとに、年齢からして軍に行っただろうと推定される住民32000人にアンケートを送り、軍に行ったことがあるか、あるとすれば何月何日どの部隊に所属したか、等々の質問項目に答えてもらった。そうして膨大な資料をつくり、個々の住民がどのような形で軍と関わったかを調べ上げて、補償金の支給対象とするかどうかの資料とした。恵さんの叔母さんはひめゆり部隊の一員として戦死しているが、その消息を調べてもらったところ、死んだ場所まで一発でわかったという。

照屋さんは、そうした調査に基づいて赤松隊長の自決命令などなかったと断言する。しかし、軍の命令があったことにしなければ自決した遺族への補償金が支給されない。そこで琉球政府社会局長の山川氏と渡嘉敷村長の玉井(喜八)氏が赤松氏を二、三回訪ねて、「命令した」と言ってほしいと依頼した。赤松氏は初めは受け付けなかったが、度重なる懇願をついに受け入れ、「僕は軍で死ぬ運命にあったのに、生きているのは渡嘉敷の皆さんのおかげなので書きましょう」と言ってニセの文書にサインしてくれたという。照屋さんは赤松隊長を「神様のような人」と評した。

ところが、赤松氏が癌に冒されて死期が近づいてから、奥様から玉井村長に電話があり、渡嘉敷村史から「命令があった」という記述を消してほしいと言われた。玉井村長は三日も眠れないほど悩み、どうしたらよいか照屋さんに打ち明けた。村史を訂正したら補償金を打ち切られる危険があり、また死者の戸籍の記述を全部訂正しなければならなくなるからだ。結局、この話はうやむやになり、赤松隊長は名誉を回復しないまま昭和55年に他界した。

照屋さんは、「これは初めて話すことだが、絶対に口外しないで欲しい」とクギをさした。「口外すると沖縄では生きていけない、それこそ自決しなければならない」とも言った。

昨年の6月4日、私たちは沖縄調査の報告会を開き、ビデオに収めてきた照屋さんの証言の一部を音声のみ参加者に聞いてもらった。もちろん照屋さんのお名前は厳密に伏せた。会場に産経新聞の石川水穂氏がおられ、翌日の記事となった。しかし、匿名である分だけ決定打になりにくかった。

私は東京在住の赤松氏の二人のお嬢さんにもお目にかかった。いずれも五十歳代の家庭の主婦である。赤松氏は沖縄関係のことは全く語ったことはなかったという。上の娘さんが初めてお父様のことを知ったのは、関西の大学に入り、ESSクラブで沖縄のことを勉強したときだった。テキストとして使用した岩波新書の一冊に「鬼隊長」として登場する人物が自分の父であることを確信したのは、実家が加古川の肥料商とされていたからだった。


「墓場まで」と誓ったのは二人



本年8月27日付けの産経新聞は、照屋さんの証言を実名、写真入りで報じた。照屋さんは一年経ってついに全面的に真実を証言しようと決断されたのである。これよりさき、CS放送のチャンネル桜では8月15日に照屋さんの証言を中心とした四時間の特別番組を放映していた。産経新聞東京本社版には、別項のような一問一答の記録が掲載されている。一年前には話されなかった要素も少なからず入っている。ただ、細部に確かめたいこともあったう。

9月11日午前、照屋さんと電話でお話しをすることができた。実名と顔を出して証言することを決断した心境についてたずねると、「それより他に赤松さんをあの世で喜ばせる方法はないと思った。度胸と信念でやったことだ」と返答した。

ところで、照屋さんがチャンネル桜から送られてきたDVDを見たら話が違っているところがあって困っているという。それは共同してニセの文書をつくり、「この話は墓場まで持っていこう」と誓いあった人物が三人いることになっているが、本当は玉井村長と照屋さんの二人だけだという。これこそ私が確かめたいポイントだった。産経の記事でも、「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。(中略)私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」と書かれている。話の流れのなかで自分以外の人物として玉井村長を「もう一人の人」と呼んだので、記者の方に誤解させてしまって申し訳ない、と照屋さんは語った。自決命令文書を作ったのは玉井村長ということになる。

照屋さんは「今でも、やったことは良かったのか悪かったのか(迷っている)」とおっしゃっていたことを付け加えておく。
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