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4 スマラン―スマラン慰安婦事件

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日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―

山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン




4 スマラン―スマラン慰安婦事件


 インドネシアで起こった最も知名度の高い「慰安婦」に関する事件は、1944年初頭アンバラワとスマランに位置したアンバラワ第1または第6抑留所、アンバラワ第9抑留所、ハルマヘラ抑留所、ゲンダンガン抑留所という4ヶ所の民間人抑留所から、印欧混血人とオランダ人女性約35人を慰安婦にするため連行した事件であった33)。事件は、抑留所の管理を軍政監部から軍司令部つまり、行政官から軍当局に監理を移管するという通達が出された1943年11月3日と移管を施行した1944年3月1日の間に発生した。アンバラワ第1或いは第6抑留所で選ばれた女性によると、1944年2月23日、抑留所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされた後、1人ずつ抑留所事務所へ出頭しなければならなかった。2月24日には、再選考のため、前日並ばされた女性のうちから20人が事務所へ出頭しなければならなかった34)。2月26日に、10人の女性がその抑留所から連れて行かれ、他の抑留所からの女性たちと共にスマラン市内のカナリ通り[Kanarielaan]に位置する1軒の建物へ案内され、そこで日本語で書かれた趣旨書に署名するように強要された。同日あるいは2~3日後、その建物内で再び選考され、それぞれがスマランにある4ヶ所の慰安所へ連れて行かれた。

表1 慰安所名称と所在地40)
慰 安 所 名 称 所  在  地 旧建物名称
日の丸 ブラカン・ケブン通り[Belakang Kebon]41)。ホテル・ドゥ・パビリオン[Hotel du Pavillon](所在地ボジョン[Bodjong]11番地)裏手。 中国ホテル、ホァ・ユー[Hwa Yoe]。
青雲荘または双葉荘 チャンディ・バル地区パラレル通り[Paralelweg]にあるホテル・スプレンディット[Hotel Splendid]向い。
スマラン倶楽部 ヘニー通り[Genielaan]8番地。後日、ニュー・チャンディ通り[Nw. Tjandiweg]34番地に移動42)。 ホテル・スプレンディット建物内。後日、ホテル・ヴァン・ブリュッセル[Hotel van Brussel]に移動。
将校倶楽部 ウイ・ティヨン・ビン通り[Oei Tiong Binweg]。


 他の抑留所でも同様の経過を辿っていた。それぞれの抑留所では、日本人男性の一団が若い女性を選考する際、趣旨を知らされていない抑留所のリーダーが渋々ながらではあるが協力し、おこな
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われた。抑留所の女性達に、協力しなければならないように仕向けるといったように強制の度合いもかなり幅があった。一方、アンバラワ第8抑留所(別称スモウォノ抑留所)、バンコン抑留所、ランぺルサリ抑留所といった所では、抑留所の婦女子の強力な抵抗により若い女性たちが連れ去られるのを未然に防ぐことができた。ゲダンガン抑留所のように、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが助かった事例もあった35)。

 抑留所から女性を調達し慰安所を開設するときは、第16軍軍政監部長官から出されたガイドラインに従い兵站部将校が許可を出すようになっていた。このガイドラインには、慰安所の許可を受けるには、①女性が自分の意志で働くこと、②趣旨を示した文書に本人の署名があること、③定期的な身体検査をおこなうこと、④定期的に金銭を支給することという条件を満たしていなければならなかったようである36)。実際、4ヶ所の抑留所の女性徴募には、複数の将校と慰安所の支配人または慰安所経営者が関わった。慰安所では、1週間に1度医師が慰安婦の身体検査をしたが、充分な治療はほとんどせず、検査にあたった医師が強姦することさえあった。

 慰安所の経営者や支配人は、当時全員が20歳から40歳(1903年から1923年生まれ)の内地出身の日本人であった。少なくとも2名は、日本がインドネシアを占領したわずか数ヶ月後にはジャワに上陸し、1人はバーと慰安所を、もう1人は慰安所を開いていた37)。

 スマラン事件の慰安所は、東京から1人の将校が(抑留所移管後の様子を視察)調査に訪れたとき、女性たちの意志に反し慰安婦として働かされていることを知らされ、間もなくジャカルタの軍司令部の命令により閉鎖に至った38)。結局、慰安所の営業は2ヶ月余で閉鎖された。ここで働かされた女性たちは、その後ボゴールのコタ・パリス抑留所に移動させられ、そこで特別な医療手当てを受け、家族との再会を果たした。当時スマラン在住の日本人医師によると、それから3ヶ月後、印欧混血人女性を使い、同じ場所で慰安所が再開業をすることになったという。更に1つの慰安所の経営者は、1943年1月から終戦までの約2年半の間、スマラン州知事の依頼により慰安所を営業していたと説明している39)。スマラン慰安所事件の慰安所の名称及び所在地は表1 の通りであった。

 このスマラン事件の関係者のうち、バタビア戦犯裁判で13人に求刑が言い渡され、1人の極刑を含め11人に有罪という判決が下された。バタビア
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BC級戦犯裁判のスマラン慰安婦事件の判決文と関連公文書資料の数点は、既にオランダ語の原文とその日本語訳が日本国内に紹介されている43)。判決文には、警察が作成した証人及び被害者の尋問調書の短い引用があり、これは1944年の事件状況だけではなく、1947年から1949年までBC級裁判でどのような種類の証拠が採用されたかという事を研究者に提供している。抑留所からの犠牲者と数件の証人尋問は単に女性の徴募の状況を繰り返し、名前を列挙したにすぎないが、いくつかの資料には、慰安所の状況が詳細に記され、慰安所のようすを理解する手がかりになった。

 何人かの女性は、金銭を受け取ることを拒否したが、他の女性は金銭を受け取り、慰安所の会計係りに直接、或いは誰か知り合いに頼み「予約」を入れるといったことで間接的に支払い、女性たちは受け取った金で自由な時間を得る事も可能であった。将校倶楽部では、1晩に1人の男性を取らされていた。男性は4ギルダーを(慰安所の会計に)支払い、慰安婦は1ギルダー1セントを受け取っていた。この金で食べ物や衛生用品を購入していたようである44)。1944年4月頃、スマラン倶楽部から慰安所日の丸へ移った1人の女性は、一般邦人や軍人は、1時間あたり1ギルダー50セントの券を買い、その時空いている女性を自由に選べたと証言している。女性は45セント受け取り、この金は「慰安所で働いている原住民の女中」45)に頼んで食べ物を受け取り、慰安所で出される不味い食べ物を補っていたという。彼女が最初いたスマラン倶楽部では、メナド人男性が働いていた。スマラン倶楽部では、常に強姦や暴行の話で持ち切りだったが、時々親切な人、慰安婦との性交渉を拒否する人、少しでも楽に生きていくための要領を教えた人たちの事も話に出てきていたという。一例には、スマラン在住の1人の女性が、慰安所に入れられている妹に薬を送ったり、1人の民間日本人の知り合いに「予約」を入れてもらい、少しは慰安婦の妹を守ることもできた46)。あるヨーロッパ人医師は、性病の治療をした女性から無理矢理慰安所へ連れて行かれたことを聞かされ、すぐに1人の日本人患者に慰安所にいる女性を助けてくれるように頼んだという47)。慰安所に隣接していたレストランが何軒かあったが、そこで出されていた飲食物等は不明であったが、レストランで働いていた印欧混血人やインドネシア人の女性たちが以前慰安所で働いていたと示唆する資料はあった48)。

 スマラン慰安所事件の資料所蔵に関して言及するとすれば、バタビアBC級戦犯裁判の公判に直接関係のある資料が中心である。国立戦争資料研究所[RIOD]が最もまとまった形で資料を保存している。RIODの資料は、被告人や他の日本人の尋問調書、警察の調書、民間人抑留所にいたヨーロッパ人及び印欧混血人等からの情報資料に加え判決文である。このような資料とは多少性質の異なる資料が、外務省公文書室から見つかった。スマラン慰安所の計画から開設にいたるまで深く関与していた容疑でオランダから追及された1人の将校が自殺したときの遺書である49)。他の資料と比較し、遺書には、あまり信憑性のない慰安所開設計画経過の状況が、慰安所の実施状況とともに記述されている。またこの事件に関して、上官としての責任を示唆している。多種の証言資料尋問調書があるなかで、やはり事件経過の概要に関して言えば、裁判所が文書を見直しまとめあげた、納得のできる情報が提示されているという点からも、スマラン慰安所事件判決文3点が一番信頼できる資料といえよう。
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