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Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

インドネシアにおける慰安婦調査報告



Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題



1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識


 第2次大戦中、日本軍占領下のインドネシアで、多くの女性(インドネシア人、華人、オランダ人)が、日本兵の性的犠牲になったことはインドネシア社会では周知の事実であった。たとえば、1959年4月3日付けのインドネシアの新聞(Mestika紙)には、日本の賠償支払いに関連した投書が掲載されているが、その中で、日本からの賠償を本当に受け取る権利があるのは、日本の兵士たちの横暴の犠牲者になった人々であるとして、「聖戦を戦う手伝いのための売春婦として連れていかれた少女たち」のことに触れている。

 筆者自身1980年から1981年にかけてジャワ農村で実施した調査の中でも、そういう女性のことはしばしば耳にした。それは、この村の○○の娘が、「学校へ入れてやる」と騙されて日本軍に連れて行かれ日本兵の女にされた、というような話である。

 また、そのような女性を題材とした小説や映画は早い時期から作られていた。たとえば、1982年には「カダルワティ──5つの名を持つ女──(Kadarwati : Wanita dengan Lima Nama)」と題するパンディル・クラナの小説が出版され、のちに映画化もされた。さらに1986年には「欲望の奴隷(Nafsu Budak)」と題する映画が制作・上演された。この映画はあまりにも有名で、そのため今でもマスコミ等では、「慰安婦」を象徴する代名詞としてしばしばこの「欲望の奴隷」という表現が使われるほどである。

 性的な犠牲になった女性という場合、かならずしもすべてが厳密な意味での従軍慰安婦を意味するわけではない。非常に多くの女性が、特定将校の「女中」あるいは「現地妻」のような形で、専属的に性的な奉仕をさせられていた。そしてそのようなケースの場合、必ずしも「強制」によるものではなく、そのことにより本人あるいは家族に対し保障されるさまざまな物質的な利益を考えて、ある程度納得のうえでその道を選んだ者もいる。あるいは時には純粋な恋愛に近いかたちで関係が始まった場合もあるだろう。インドネシア社会では、そういったさまざまなケースと、厳密な意味での従軍慰安婦を、ほとんどの人が区別して理解していない。またわれわれが、いくらその区別を説明してもなかなか納得してもらえない。それがこの国での慰安婦調査の場合の最大のネックである。

 いずれにせよ、その頃の小説や映画、あるいは人々の記憶の中では、このような日本軍の性的犠牲になった人々は、かつては「イアンフ」という明確な用語で認識されていたわけではなかった。この言葉自体はインドネシア社会ではきわめて新しいもの、つまり、1991年12月に韓国で名乗りを上げた元従軍慰安婦が日本政府に補償金支払いを求める訴えを起こし、いわゆる従軍慰安婦問題が国際的にクローズアップされて以来のことである。


2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり


 その当時たまたまジャカルタに長期滞在していた筆者の記憶では、この問題が大きくインドネシアのマスコミを賑わせるようになったのは1992年7月以降のことだった。1992年7月6日付けの全国紙「コンパス」が、「読売新聞」の記事を紹介し「日本軍が第2次大戦中、アジア諸国の女性を慰安婦として募集するにあたって、軍が関与していたという事実を証明する文書127点が発見された」と伝えた。次いで、7月7日の各紙に、「日本政府が6日、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア出身の元慰安婦に対する謝罪の意を表明した」と報道された。

 さらに「コンパス」紙は、日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見されたと述べている。その4点とは、(1)南スラウェシの民政部(インドネシアの海軍支配地域を統括した日本軍の行政機関)第2復員班長から第2軍高級副官あてに提出された「南部セレベス淫売施設調査」(1946年5月30日)、(2)台湾軍がカリマンタンより慰安婦50人の派遣を要請した手紙、および台湾軍参謀長陸軍大臣の副官あてに、南方総軍から要請をうけて「ボルネオ行き」「慰安土人」50名を派遣するに際して台湾在住の日本人(慰安所)経営者3名の渡航許可を求める電報、(3)同じく慰安婦20名を追加派遣したい旨了承を求める電報、(4)ジャワ島スマランにおける慰安所運営に関する報告(「終連報甲1588号」1947年1月9日付け)である。

 この頃連日、社説も含めて各紙が、日本が慰安婦問題で軍の関与を認めたという報道で賑わった。しばらくすると、インドネシア人もまた慰安婦問題の犠牲者になっていたのだとして、インドネシア社会から名乗り出る人々の証言が報道されるようになった。

 7月12日に「コンパス」紙が、「インドネシアにもあった従軍慰安婦問題」として、2人の男性の証言を載せた。1人はジャワ島ソロ市在住のウィナルソ(Winarso。退役軍人で証言当時は州議会議員)氏で、彼は「ソロで起こった悲劇の証人になる用意がある」と名乗り出て、彼が商業学校に通っていた頃(1944-45年)、その隣り合わせの敷地にあったフジ旅館(オランダ時代のHotelRusche Gladag、実は軍慰安所として使われていた)で見聞きしたことを語った。彼はかねてからそこに住む女性たちに興味があったが、ある夜、学校の火の見櫓に登って、ホテルの風呂場の窓越しに、1人の女性と話す機会があった。それによれば彼女は「学校へ入れてやる」といって騙されてここへ連れて来られ、日本兵の相手をさせられているということだった。ちなみにウィナルソ氏はのちに、「朝日新聞」、日本電波ニュースの取材を受け、日本のテレビでも8月15日にそのインタビューが放映された。

 もう1人は、西カリマンタン州議会議長のアリフ氏で、彼は16歳の頃、スマトラ島リオーのタンジュンン・パウの日本軍の宿舎で働いていた時、鉄道建設に携わっていた渡辺少尉指揮下の日本軍部隊のもとに慰安所があったと証言した。

 その数日後、1992年7月17日に、「元慰安婦だったと認めた女性」と題して、4段抜きの大きな記事が「コンパス」紙に載った。前述のウィナルソ氏の証言をもとに、「コンパス」の記者が、当時ソロ市のフジ旅館で働かされていた女性を探し出したのである。カランアニャル県在住のトゥミナさんという女性で、彼女は料理人として働かないかと誘われてソロの町に出たところ、フジ旅館に閉じ込められて、他の女性といっしょに日本軍将兵の相手をさせられたと証言したのである(トゥミナさんとのインタビュー記録もあるので参照されたい)。これ以後さらに何名かの女性が、マスコミの取材に応じて自分たちの体験を語った。

 ちょうどこの頃、1944年にスマランの収容所から連れだされて慰安婦にされたオランダ女性がいたことを記した記録を「朝日新聞」の記者がオランダで発見し報道したが、これを7月22日付けの「ビジネス・インドネシア(Bisnis Indonesia)」紙が報道している。ほぼ同じ頃インドネシアの雑誌『テンポ(Tempo)』のオランダ特派員もこの資料をオランダで見つけて、1992年7月25日号で9頁にわたる特集記事を組んで大きく報じた。

 さらに『テンポ』は、同年8月8日号でも、12ページにわたる慰安婦問題の特集を組み、ジャカルタ、トラジャ、ウジュンパンダン、スマラン、バンカ島で慰安婦にさせられた女性たちの体験を紹介した(後藤乾一「インドネシアにおける「従軍慰安婦」問題の政治学」『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、237-240頁に詳細な証言が紹介されている)。またこの中で日本の海軍特警隊の禾(ノギ)晴道氏が書いた『海軍特別警察隊』という書物を紹介し、その中で著者がアンボン島で見聞した慰安所に関する記述を紹介している。

 これらの一連の報道の中では、これらの女性を意味するものとして、「ジュウグン・イアンフ」、あるいはインドネシア語で「ワニタ・プンヒブル"Wanita Penghibur"」という新しい言葉が使われ、インドネシア社会に定着するようになった。従軍慰安婦自身、自分たちがこのような名称で定義されるものだということは、当時は知らず、報道によって初めて知ったのだった。


3 日弁連弁護士のインドネシア訪問


 そのように、「従軍慰安婦」問題がインドネシアのマスコミに登場するようになると、人権問題でさまざまな闘争を展開していた法律援護協会(LBH)がこれに関心を示すようになってきた。そのような中で、1993年4月に村山アキラ氏を団長とする日弁連の弁護士5名(村山氏の他にイシダ・アキヨシ、ヨシ・マサアキ、ノガミ・カヨコ、岩城和代)が、「朝日新聞」の大村哲夫氏(個人の資格で)の案内で労務者ならびに慰安婦の調査に訪れた。彼らは訪問に先立って、法律援護協会と連絡をとり、調査の協力を依頼した。

 この調査はあくまで、その年の10月に東京で開催予定であった戦後補償に関するセミナーのための事実関係調査を目的としたものであり、弁護士個人の資格で行われたものであった。しかしインドネシアのマスコミの中には、日本政府がいよいよ慰安婦の補償問題に乗り出してきたというニュアンスで報じるものや、あるいは日本の弁護士がインドネシアの元慰安婦の訴訟を援護するために来たという書き方をするものもあった。これに関しては、当事者から確認をとらず、法律援護協会関係者からの情報だけに基づいて書くというインドネシアの新聞記者の取材方法に大きな問題があったのであるが、いずれにせよ、この報道はいよいよ補償がもらえるのかという誤解を与え、その後何百人という元従軍慰安婦が相次いで名乗り出る契機となったのである。

 こうして、日弁連の弁護士訪問時には、元労務者とならんで元従軍慰安婦と称する女性たちが法律援護協会に押しかけた。特にジャカルタと並んで一行の訪問先になっていたジョクジャカルタの支部ではそうであった。のちに慰安婦の補償獲得闘争の先頭に立つようになったマルディエム(日本名ももえ)さんも、この時(1993年4月26日)に名乗り出た1人である。一部の人には、日弁連の弁護士が直接面談したが、総数があまりに多く、全員に面会することができなかった。そこで法律援護協会ジョクジャカルタ支部は、名乗り出てきた人達にとりあえず名前、住所、日本時代の体験等を簡単に書いてもらっていったん引取りを願った。これが、法律援護協会によるいわゆる「登録」作業の始まりである。

 ところが、この頃法律援護協会の本部は、日弁連の5人の弁護士の訪問中、彼らと直接話して、その調査目的が必ずしも訴訟の準備のためでなく、主として同年10月に行われる戦後補償のセミナーのための情報収集であったことを知り、警戒心を強めた。ブユン・ナスティオン氏は、4月23日、ソロで「日本人弁護士のグループは真剣に元慰安婦たちが日本政府に補償を要求するのを援助しようとしているのか、それとも自分たちの団体の利益だけを追求しているのか疑問である」として注意を喚起する発言をしている(「リプブリカ(Repbulika)」紙ならびに「ジャヤカルタ(Jayakarta)」紙、1993年4月23日付け)。

 以下にみるようにこれ以後も登録を受け付けたのは法律援護協会のジョクジャカルタ支部だけであり、本部が関心をもたなかった背景にはこのような不信感もあったのかもしれない。


4 法律援護協会への登録


 さて、ジョクジャカルタ支部では、その後も登録にくる女性が出現し、彼女たちへのマスコミの取材合戦が始まり、1993年度を通じて新聞紙上で女性たちの体験紹介が相次いだ。法律援護協会ジョクジャカルタ支部は1993年8月末で、とりあえず登録受付をいったん打ち切ったが、この時点で登録者は317人(ジョクジャカルタ特別州84名、中ジャワ州99名、東ジャワ州16名他)になっていた。それまでにこの事業に1150万ルピアの費用を費やしたという(「リプブリカ」紙、1994年2月28日付け)。ただしこの女性たちの登録は自己申告のみに基づくものであり、法律援護協会の側では特に認定作業や事実関係の調査を行ってはいない。しかも慰安所で働かされた厳密な意味での従軍慰安婦だけでなく、日本人の現地妻や日本軍将兵に強姦された被害者なども入っている。

 法律援護協会ジョクジャカルタ支部のブディ・ハルトノ弁護士は、1993年9月に大統領、官房長官、外務大臣ならびに社会大臣あてに、労務者ならびに慰安婦の補償問題について政府の支持と助言を求める書簡を送った。

 このように日弁連の弁護士のインドネシア訪問を契機に、慰安婦問題はいっそうマスコミの脚光を浴び報道が加熱したのであるが、このためにのちに、「それまでインドネシアでほとんど問題にされていなかった慰安婦問題が、日弁連の弁護士の訪イによってインドネシアにも持ち込まれた」という誤解が生じたほどであった。たとえば、すでにその前年7月に何度か慰安婦問題の報道をしていた「コンパス」紙までが、1996年11月16日の記事の中では、そのような認識を示しており、それに対して、ソロで最初に証言をしたウィナルソ氏が投書欄で反論する(「コンパス」紙、1996年11月28日付け)というようなこともあったほどである。また日本側でも現在一部にはそのような認識があり、慰安婦問題はインドネシア側から出てきたのでなく、日本側から「火をつけた」という誤解が強く残っている。

 なお、この間(1993年8月)日本政府は慰安婦募集に際して「強制性」があったことを公式に認め、インドネシアの各紙もこれを報じた。


5 兵補協会による慰安婦の登録


 法律援護協会ジョクジャカルタ支部による登録が、主としてジョクジャカルタや中ジャワ在住者を対象にして1993年から行われたのに対し、ジャカルタを含む西ジャワ方面における登録は、1995年になってから兵補協会によって行われた。兵補協会というのは、日本軍の補助兵として採用されたインドネシア兵(兵補)たちが、勤務期間中、軍事預金として強制的に給料の一部(おおむね給料の3分の1)を天引き貯金させられていたものを払い戻して欲しいという要求運動を展開するために1990年に結成された組織である。正式名を「元兵補連絡中央協議会」といい、最近までジャカルタ郊外のブカシ県ポンドック・グデ(PondokGede)にあるタスリップ・ラハルジョ会長の自宅を事務所にしていた。

 兵補協会の説明によると、彼らが従軍慰安婦の登録をするようになったのは、かねてからこの問題に理解を示していた高木健一弁護士が、この協会の本部を訪れた時、「慰安婦の実態調査をしてみたらどうですか」と持ちかけたのがきっかけだという。そして、兵補協会の全国支部のネットワークを利用して1995年8月に登録受付が開始された。個人的データを書き込む特定の様式のフォームを協会側が用意し、そこに名前、生年月日、出生地、住所、日本時代の呼び名、1942-45年までの居住地の他、覚えている日本人の名を2名、日本人知人の名を1名記入させている。

 ここでも厳密な意味の慰安婦だけでなく、日本軍将兵に強姦されたもの、特定の日本軍将校の現地妻にされたものなども含み、Wanita Selir(ジャワ語で妾の意)という広い定義のもとに登録を受け付けている。その結果現在、全国で19,573名が登録している(その地域別一覧は付録を参照)。同協会は1996年11月にこの全登録者名簿を2巻本に製本し、高木弁護士、インドネシアの内務大臣、政治・治安調整大臣(Men polkam)らへ送った。

 兵補協会では、その中から一部の人々を抜き出し、日本軍政時代の体験に関する25項目の質問を記載した調査票を使ってより詳細な調査を行っている。これらの質問に対しては、aからdの4つの選択肢が用意されており、その中から選ぶという形式になっている。この調査は、バンドゥン支部のヘリ支部長が中心になって行われたため、データは西ジャワ地区のものがもっとも整っている。


6 アジア女性基金の償い金に関する情報


 1995年7月にアジア女性基金が作られた当初、インドネシアのマスコミではこのことが大きくとりあげられることはなかった。また法律援護協会、兵補協会ともに、この基金の設立経緯や活動内容について正確な情報はほとんど入手していないようであった。1995年8月に筆者が法律援護協会の本部を訪れて、ブユン・ナスティオン理事長と会談した時、同氏は、要求項目としてa日本政府への謝罪要求、s日本の文部省に歴史の教科書の改定を要求、d慰安婦の記念碑建設、f本人ならびに遺族に対する補償の支払い要求の4点を出していた。しかし女性基金に関する言及はまったくなかった。

 ジョクジャカルタ支部も同様であった。ブディ氏が女性基金のことを最初に知ったのは、1996年2月12日に彼の事務所を訪れたアジア・プレス・インターナショナルの虎松彩乃さんという日本女性の口からであったという(「コンパス」紙、1996年2月14日付け)。たまたま筆者は1996年2月から7月までジョクジャカルタに滞在しており、この間しばしば法律援護協会支部に足を運ぶ機会があったが、同協会の情報は、このようにここを訪れる日本の支援団体関係者の口から間接的に入るものに限られているという印象を受けた。

 因みに同協会は、組織が一体となって慰安婦問題を扱っているのではなく、ジャカルタとジョクジャカルタとの間のコミュニケーションも限定されているようであったし、さらにジョクジャカルタ支部内でもスタッフの1人である弁護士のブディ・ハルトノ氏が、なかば個人的に元慰安婦の法的代理人となって活動をすすめていた。つまり法律援護協会は必ずしも一枚岩ではなく、ブディ氏が浮き上がっている様な傾向があり、ジャカルタの本部に届いている情報がかならずしもブディ氏に共有されていないというような状況がみられたのである。

 ところで女性基金に関してブディ氏は当初「その資金は日本の市民によって、自発的ではない形で集められたものであるから、法律援護協会は政治的には拒否する。しかし人道的見地からみれば、すでに年老いている元慰安婦の人たちの状況に鑑み、受け取るだろう」と述べ、アジア女性基金の償い金を受け取るとも受け取らないとも態度を表明しなかった(「コンパス」紙 1996年2月14日付け)。

 ところがブディ氏は、その後有光健氏らの招待でアジア太平洋の戦争犠牲者の集いに出席するため、1996年7月12日から22日にかけてマルディエムさんと共に日本を訪れた際、女性基金は政府が責任逃れをするために作った「まやかし」の組織であるという認識を持つに至り、これ以後償い金の受け取りを拒否する方針を明確にした。また、この時ブディ氏は、中国、韓国、台湾、フィリピンの従軍慰安婦たちとアジア女性基金の償い金は受け取らないと約束しあったという(「コンパス」紙、1996年11月16日付け)。

 一方、兵補協会の態度は、これまでも法律援護協会に比べて、報道される機会が少なく、その主張は明確ではない。アジア女性基金の成立時期は、ちょうどこの協会が元慰安婦の登録を大規模に開始した時期とほぼ重なっているが、この頃女性基金についての情報をどの程度正確に関知していたかは不明である。彼らは現在なお補償金支払いを強く求めており、女性基金からの償い金も歓迎するという立場をとっている。しかしそれを公に発表する機会もあまりないうちに、後述のようにインドネシア政府が償い金の個人的受け取りを拒否するという方針に出たため、政府に逆らって何もできないというのが現状のようである。


7 インドネシア政府の態度


 インドネシア政府は慰安婦問題に関し、日本国政府から何らかの公式発表があった時に、それに対する型通りのコメントをすることはあっても、それ以外には態度を明確に表明することも日本政府に要望を出すこともなかった。当初からインドネシア政府の態度が極めて"ソフト"であったことは後藤乾一も指摘している(前掲書、229-232頁)。1993年4月の日弁連の弁護士訪問時には、記者のインタビューを受けてインテン・スウェノ社会大臣は、「日本政府が補償をするなら、それは上手に実施しなければならない。不公平やお互いに損したというような形で行われてはならない」と答えている。しかも、その時大臣は、「元従軍慰安婦を探し出さねばならない」と語り、犠牲者たちが名乗り出ることを暗に奨励するような発言を行ったことがある。しかしそれ以外にはほとんど意見の表明はなく、そのことは結果的に、政府が積極的に慰安婦の補償獲得問題に対して、支持をしていないかのような印象を与えてきた。

 たとえば、法律援護協会ジョクジャカルタ支部のブディ・ハルトノ氏は、この問題でしばしば大統領や社会大臣に書簡を送っているが、特に内容のある回答を受け取ったことはないという。また、慰安婦の代表としてジョクジャカルタのマルディエムさんら数人の女性が社会大臣に会見を求めてジャカルタへ行ったが、社会省ではBiro Hukum(法律問題)担当の職員に会えただけであった。これは政府が先頭にたって日本政府に要求をつきつけてきた韓国の態度とは対照的である。このような基本姿勢は、労務者問題、兵補の軍事貯金返済問題においても同様にみられる。

 ひとつには、日イの友好関係に鑑みて政府がこの問題に正面から取り組むよりは、民間団体に任せた方が良いという考えがあったというが、しかし背後から法律援護協会や兵補協会の活動を支援するという姿勢さえもみられなかった。

 筆者が1995年8月にブユン・ナスティオン氏から聞いたところによれば、この頃ジョクジャカルタで、インドネシア政府の社会省が代わって戦争の被害者に補償をせよという要求を出し、これに対して社会省は、(1)被害者たちの家を改装する、(2)被害者に年金を出す、という2点を約束したという。しかしこれらは今日に至るまで実施されていない。

 そのような中で、1996年後半からアジア女性基金からの償い金の受け取りをめぐって、インドネシア政府は明確な方針を打ち出してきた。つまりインテン・スウェノ社会大臣が1996年11月に、「従軍慰安婦問題に関するインドネシア政府と日本政府の合意の結果として、3億8000万円(当時のレートで約90億ルピア)が10年間に支払われることになった。第1回目の支払いとして7億7500万ルピアが、ウンガラン(Ungaran、中ジャワ)、マゲタン(Magetan、中ジャワ)、ビンジャイ(Binjai、北スマトラ)、パレ・パレ(Pare-pare、スラウェシ)、クンダリ(Kendari、南スラウェシ)の6ケ所で、養老院など社会福祉施設の充実のために支出される」と発表したのである(「コンパス」紙、1996年11月15日付け)。

 社会大臣によれば、インドネシア政府は当初から、補償金の支払いは要求しておらず、ただ日本政府が良い解決法を見つけてくれるよう求めていた。その背後にはインドネシア民族、とりわけ犠牲者たちの harkat(品質)とmartabat(尊厳、威信)を守るという意味があった、という。

 この、個人に対する償い金は受け取らず、女性基金のお金は養老院建設のために使うという見解は、この段階ではまだ日本側の了解を得ておらず、社会大臣が一方的に発表した形だったので日本側を驚愕させた。しかしやがて、1996年12月22-25日にアジア女性基金は3人の代表をジャカルタに派遣し、社会省の担当者と話し合いを行なった結果、ほぼインドネシアの希望通りのかたちで両国間で決着をみることになった。そして、アジア女性基金の原文兵衛理事長は、1997年1月10日の記者会見で、インドネシアでは、個人に対する償い金は支払われず、養老院建設のために支払うという旨の発表を行った。

 そして1997年3月26日に、橋本龍太郎首相が大統領にあてた謝罪の手紙が日本大使館を通じて届けられ、それを受けてアジア女性基金の山口達男と社会省のアスモロ次官の間でMOUが調印された。このMOUに基づいて、日本政府はアジア女性基金を通じて3億8000万円(約90億ルピア)を10年間にわたり拠出することになったのである。


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