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2 北ビルマにおけるインパール作戦後から終戦に至る戦況

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る




2 北ビルマにおけるインパール作戦後から終戦に至る戦況



 1944年初頭から開始されたインパール作戦が春を過ぎ敗色濃厚となる中、連合軍は逆に北ビルマと雲南方面から総反攻を開始した。慰安婦が大勢送られていた北ビルマでの本格的戦闘は、雲南前線方面では1944年5月11日から、最北端に位置するミチナ(ミイトキーナ)2)飛行場周辺では5月17日から始まった。激しい戦闘行為が終了し日本軍の抵抗が止んだのが、ミチナにおいては、8月3日の夕刻、雲南方面の拉孟(松山)では9月8日、騰越では9月14日である。

 北ビルマと雲南方面の戦略的な重要性を踏まえつつ、この間の戦闘の経緯について述べよう。連合軍の北ビルマ反攻の戦略目的は、レド公路の開通にあった。これは、ベンガル方面から伸びるアッサム鉄道の終点にあたるレドから、アラカン山系を越えてミチナ→騰越→保山(もしくは→騰越→拉孟→保山)→昆明、そして重慶に到る援蒋ルートを再開することにあった。一方の日本軍は、南方の資源地帯と日本本土周辺を中国大陸の鉄道網を使って結び、海からの商船輸送が潜水艦攻撃によって途絶したとしても、それに代わる陸の鉄道交通網確立を目指して、大陸打通作戦を展開していた。北ビルマの確保は、重慶を中心とする中国の抵抗力を弱め、陸による南方圏との連結を目指す日本側の戦略目的達成のために不可欠であった。

 ミチナは、レド公路がイラワジ川を横切る要所で、それを越えると中国の雲南省に入る。騰越は明代以来の古い中国の城壁都市で、人口が4万人余りでその地方の中心であった。拉孟は騰越の少し南に位置し、イラワジ川の更に東に位置する怒江(サルウィン川)を渡る要所で、恵通橋という橋が架かっていた。この橋は、中国軍が退却する際に自ら破壊したため、そこが北ビルマの日本軍と、重慶・昆明を拠点とする中国軍の勢力を分ける境界となっていた。怒江の更に東には、メコン川があり、その間に保山という中国側の抵抗拠点があった。メコン川をわたれば、大理の近くを通って昆明に抜け、そこから重慶に至るという道筋であった。

 また、最初の中継地の北ビルマ領内に位置するミチナは連合軍が航空路の安全を確保するためにも重要であった。それは、そこがビルマ北部の山間に開けた唯一の台地であり、西と北と東の3ヶ所に、それぞれの方角の名前を冠した飛行場が敷設されていたためであった。日本軍は、インドから重慶へと向かう補給用の航空路を遮断するためにミチナの飛行場から哨戒活動を行っており、このために連合軍の補給航空機は、ヒマラヤ山脈を越え大幅に北回りの航路をとって迂回しなければならなかったからである。


図1防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』(以後『イラワジ会戦』と略す)朝雲新聞社、1969年、付録「ビルマ素図」より引用)

 北ビルマへの侵攻は、スティルウェルを司令官とする駐印軍の飛行機を使ったミチナへの攻撃と、中国人を司令官とする雲南・ビルマ遠征軍(第20集団軍)の怒江渡河、沿線主要都市の攻撃という、2つの異なる方向からの同時攻撃によって開始された。ミチナの西飛行場がすぐに占領されて以後、日本軍はその後方にある市街地へと退却し、自然の地形を利用して防御を続けた。フーコン峡谷からぞくぞく進行してくる連合軍をミチナより少し鉄道で南に下ったモガウン付近で押しとどめるための作戦が第18師団によって行われており、雲南方面から進行した中国のビルマ遠征軍に対しては第56師団による防戦が展開されていた。そのため、元来18師団に属していた丸山大佐を中心とするミチナ守備隊への兵力補充は思うに任せなかった。雲南方面を守備する第56師団に対しては、ミチナ守備隊に対して、応援部隊を派遣するように、第33軍から直接命令が下されたが、第56師団の参謀長の独断により、応援部隊の人員は極端に減らされ、増援部隊として派遣された水上少将には、十分な兵力が与えらないこととなったのである。また、雲南方面でも防衛の核となる決戦地が、怒江沿岸から東に入った内陸部の龍陵と決定されたために、沿岸に近く北に離れた騰越や拉孟の守備隊は完全に孤立し、やがて籠城戦を経て玉砕していくこととなる。以上が、ミチナと、雲南方面の大まかな状況である。次に、拉孟、騰越、ミチナの順で、慰安婦関係の断片的な資料をもとに各地の詳細な戦況と関連させつつ、どのような戦況下で慰安婦たちが死亡し、或いは捕虜となっていったのかを論ずることとする。

注《浅野論文》



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