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II 「半島女子勤労挺身隊」の結成

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)



Ⅱ 「半島女子勤労挺身隊」の結成




1 女子戦時動員のはじまり


 日本(当時の「内地」)において労働力の戦時動員が本格的にはじまったのは、日中戦争開始から1年もたたない1938年4月、国家総動員法が公布されてからである。動員は成人男子に始まり、1939年には早くも女・子供や朝鮮人の動員が計画されるようになった。同年7月に閣議決定された「昭和十四年度労務動員実施計画綱領」は、労働力の「給源」として、「女子無業者」「昭和十四年三月新規小学校卒業者」「移住朝鮮人」などをあげている(石川a、324~25)。

 そして、1941年9月の閣議では、「昭和十六年度労務動員実施計画ニ関スル件」を決定し、改めて「女子ニ付テハ男子労働者ノ代替トシテ未婚女子ヲ主タル対象トシ之ガ動員ヲ強化ス」と定められた(石川a、816)。また、同年11月には、国民勤労報国協力令が公布され、14歳から25歳までの女子は、1年間に30日以内で勤労への参加を「協力」させられることになった(石川b、401~02)。さらに、12月、太平洋戦争が始まると、国民徴用令が実施された。女子への実施は見送られたが、それは時間の問題にすぎなかった。戦局の悪化と労働力事情の悪化は、それまで以上に女・子供の動員を要求するようになったのである。

 ここで、1942年5月当時の朝鮮における教育統計を見ておくと、国民学校で約186万名、中学校で約4万名、高等女学校で約3万名などが学んでおり、国民学校就学率は約55%で、義務教育は実施されていない(京城日報社、435~36)。

 1943年1月15日付けの朝鮮総督府機関紙『毎日新報』には「校門を出た少年少女、決戦の増産場へ、職業紹介所で国民学校卒業児童を配定」、2月14日夕刊には「進学より就職戦線に、溌剌たる新たな働き手の群像、京畿道内八千中等卒業生の動向」などの記事が見える。後者は、道内20の中等学校別に卒業生数、就職者数、進学者数、家事其他の数を示したもので、進学・家事従事を非難し就職を勧める意図が透けて見える記事である。5月20日付けでは、「戦力増強と最近の勤労対策(下)強権発動よりも忠誠心に期待」と題して、「本年度国民動員計画に見えるひとつの特色は、男子の就業制限禁止にともなう女子代替、高等女学校卒業者などの就業の指導勧奨である」とはっきり書いている。

 1943年6月、国民勤労報国協力令が改正され、勤労報国隊を常時組織化し、勤労奉仕は1年につき30日以内を60日以内にと改正された。また、「無職の未婚女子」に対しては3か月ないし6か月程度の勤労奉仕を要求することになった(『毎日新報』6月4日。以下「毎6・4」のように略す)。女子の動員が強化されたのである。

 翌7月、厚生省や大政翼賛会中央協力会議において、女子も徴用すべしとの意見がおこった。しかし、「わが国家族制度の特質にかんがみ」実現にはいたらなかった(法政大学大原社会問題研究所、58)。「勤労挺身」よりも「軍神の母」となることが優先されたのであろう。『朝日新聞』(大阪)10月26日の社説は、「我国婦人に軍国の要請するものは何よりもまづ良妻賢母たれ、さうして貴き軍神の母たれといふにある。この第一義的挺身を忘れていはば婦人としては第二義的な勤労挺身のみを唯一無二の途と考ふるものは、真に今日の国家的要請を悟らぬものである」(明治大正昭和新聞研究会、573)と主張している。


2 女子勤労挺身隊の結成と出動


 1943年9月13日、次官会議は「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」を決定した。「一四歳以上の未婚者等の女子を動員の対象とし」、「市町村長、町内会、婦人団体等の協力により女子勤労挺身隊を自主的に結成させ」、「航空機関係工場、政府作業庁ママ、および公務員の徴用、男子就業の制限禁止により女子の補充を要するものに優先充足することとし」たのである(労働省、1122)。これは「従来の勤労報国隊と異なって、さしあたり一年ないし二年の長期にわたり、新規女学校卒業者は同窓会単位により、その他一四歳以上の未婚者は部落会・婦人会単位により、団体として軍需工場などに出動させる制度」(大原社会問題研究所、16)である。徴用=強制によらずに、「女子勤労挺身隊」の名で、「自主的」な女子の動員の促進・強化を図ろうとしたのである。

 そして、同月21日の閣議では、「国内態勢強化方策」を決定し、「国力を挙げて軍需生産の急速増強をはかり特に航空戦力の躍進的拡充をはかる」ことなどを目標と定めた(近藤、18~19)

 10月6日、厚生省は地方長官宛に通牒を発し、挺身隊について、「これは大体一年以上出動するもので今後無業の一般女子はなるべく挺身隊に出動することを要請」させることにした(明治大正昭和新聞研究会、779)。

 東京で最初に女子勤労挺身隊が結成されたのは10月中旬、女子学習院同窓生のそれで、常盤会勤労挺身隊と呼ばれた。11月はじめには厚生省などに出動することになっていた(斉藤、44~45)。また、工場管理研究所の調査によれば、東京で最初に動員された(日付不明)のは山脇高女の卒業生挺身隊であり、大阪で最初に挺身隊が動員されたのは1943年11月30日であった(44~45)。なお、斉藤勉によると、山脇高女の卒業生挺身隊の小西六への入社は11月25日である(65)。

 朝鮮では、10月に入って、『毎日新報』が「有閑女子積極動員」(8日夕刊)「女子労力も積極活用」(9日)などの見出しをもつ記事を掲載するようになった。

 朝鮮における女子勤労挺身隊も、当初は女学校の同窓会を基礎として組織することが考えられたようである。『毎日新報』10月15日夕刊を見ると、「女学校出身者たちを動員、京畿道で万全の対策を講究中」という記事があり、専門学校・高等女学校・実業学校あわせて21校の卒業生総数、就職者数、進学者数、結婚者数、家事従事者数が発表されている。そして、1940~42年までの卒業生総数の43.6%にあたる3252名が家事従事者であること、43年度は37.1%にあたる932名がそうであること、それを「実業方面に動員すること」が考えられていることが書かれている。

 11月24日、厚生省は「女子については学校単位で女子勤労挺身隊を結成させ、供出させる」と発表した。26日と27日の『毎日新報』もそれを報道している。また、朝鮮総督府は、1944年から「女子モ決戦態勢デ 増産戦士トシテ 工場デ働カセル」方針を決定し、京城府は、12月14日までに労務課を新設して、その準備にかかった(毎12・14、日本語欄)。

 1944年1月17日、京城府郊外の龍山で「女子挺身隊」あるいは「特別女子青年挺身隊」が結成された。満16歳以上の料理屋などの雇女152人を「イザトイフトキニハ ミヲ ナゲダシテハタラケルヤウニ シツケルタメ」であった(『京城日報』1月18日。毎1・25、日本語欄)。しかし、この挺身隊はいわゆる勤労挺身隊ではなかったようである。

 「女子中等学校の同窓会や女子青年団で編成された女子挺身隊」は2月末までに日本全国で16万人余りに上った。また、「女子中等学校新規卒業生」で編成された女子挺身隊16万人余りは、4月早々から出動し始めていた(斉藤、174~75)。

 3月18日、閣議は、「女子挺身隊制度強化方策要綱」を決定した。学校長や女子青年団長あるいは婦人会長らをとおした「強力な命令で」、女子勤労挺身隊の「結成を強化」することを再確認している(毎3・20)。また、挺身隊員に対しては「必要に応じ挺身隊組織により必要業務に協力すべきことを命じ得ることとした」(労働省、1123)のである。

 朝鮮では、3月20日から2か月間の予定で「平壌女子勤労挺身隊」が兵器増産のため、「○○廠」〔原文のまま〕に出動した。それは「朝鮮では初めて」のことであった。4月4日からは第2隊も出動した(毎4・19)。名前は女子勤労挺身隊となっているが、期間の短いことにおいて、これは本来の女子勤労挺身隊とは言えない。試行的に実施されたのかもしれない。

 ところで、元挺身隊員の中には、「朝鮮では初めて」とされていた「平壌女子勤労挺身隊」の出動(1944年3月)以前に「挺身隊」として出動した、と証言している者がいる。たとえば、1943年2月に東京麻糸紡績沼津工場(以下、「東麻」と略す)に動員されたという 甲先や、同年6月に不二越に入社したと証言している崔福年(戸籍に崔鳳女と誤記されていたため、日本では当初崔鳳女と紹介された)である。彼女らの証言について検討した小池善之は、 甲先は「官斡旋」に、崔福年は「募集」に応じたのではないかと推測している(125)。また、訴訟を提起している崔福年の弁護団は、その訴状の中で、崔福年は、「毎月三〇円位の給料が貰えるし、女学校まで行かせるとの約束」を信じて不二越の「募集」に応じたと書いている(強制連行労働者等に対する賃金等請求事件弁護団、6)。

 しかし、『朝鮮総督府帝国議会説明資料』第10巻(第86回、1944年12月)に「国民学校卒業生ニ付テハ前年来内地航空機工場ニ送出セシ勤労報国隊員ノ成績概ネ良好ナルニ鑑ミ女子ノ勤労強化策ヲ考慮中ナリ」(217)と書かれていることや、『富山県警察史』下巻に、1943年7月に「県では(中略)町内会報国隊・学校報国隊・女子報国隊・組合報国隊・半島報国隊などに常時出動体制を要請」(229)などとあるのを見れば、むしろ「女子報国隊」として出動し、そのまま「女子勤労挺身隊」に横滑りした可能性がある。

 なお、崔福年によると、不二越の職員が2人、2~3か月の間、学校に滞在して説得した結果、仁川の永化国民学校からは8名、仁川全部では50名が1943年6月に、不二越へ行った、京城から行った人もいた、1945年7月20日、朝鮮の沙里院に移動した、月給はもらわなかった、ということである(鄭恵瓊)。


3 挺身隊のがれ


 1944年4月22日付けの『京城日報』に「街は早婚組の氾濫」と題する記事が載っている。東大門署管内の結婚状況をのぞくと、「去年の今頃までの結婚年齢は男は廿二、三才から廿五、六才で、女は十九才から廿一、二才までが殆ど大部分であつたが今年一月以来は結婚年齢が男女ともに低下し男は十八、九才から廿二、三才の者が多く女は甚だしいのは十五、六才の者もあり大半は十七、八才から廿才までといふ現状である」(中谷・河内、30から重引)。挺身隊のがれの結婚ではないかと考えられる。

 1月28日の『毎日新報』は、女子中等学校18校の卒業者2588名中、就職を望む者が1107名、上の学校へ進む者が831名、家庭に入る者が650名であることを紹介しながら、「女子の就職が断然多くなる」と書いている。就職も挺身隊のがれの一つの方法であったと思われる。

 おそらくはこうした状況を踏まえて、1944年1月23日、東条英機首相は議会で「余裕のある女性の勤労逃れは許せない」と発言し、挺身隊制度強化の必要性を協調した(佐藤、252)。『写真週報』2月23日号は、「今議会でも東条総理は『女子の徴用は行はない』と言明された。その信頼と親心にあなた方は背いてはならない」と述べている(16)。

参考文献



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