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3.渡航手続き関係資料が示すもの

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3.渡航手続き関係資料が示すもの


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  日本から中国、さらに南方への人の移動を考える時に、渡航手続が必要である。『資料集成』にはこの関係の資料が多く含まれており、有益である。

■  不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件[外務次官](昭和12・8・31)

■  渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)(未作成)

  日本人の中国への渡航には昭和12年まで旅券が不要であった。日中戦争開始後、「不良分子ノ渡支取締」のために、渡航希望者はかならず所轄警察署長より身分証明書をうるか、正式の旅券をうるかしなけれぱならないとの外務次官通牒が昭和12年8月31日に出された(1巻、3-5頁)。それ以後2年8ヶ月のうちに中国へ渡航した者の数は59万人にも達したので、昭和15年(1940年)5月7日政府は支那渡航は当分中止とするとの閣議決定を出した。その決定はその趣旨を発表した外務省の発表文によって知られていたが*1、この決定の実施について出された要領手続が数次にわたり訂正されたのち、あらたな取扱要領が翌16年8月に決定されたさい、警保局長より閣議決定、当初の取扱方針、あらたな敢扱要領があわせて通達された。国立公文書館に所蔵されていた資料の中にこの昭和16年(194I年)8月16日の通牒が発見された(4巻、7-26頁)。

  まず当初の閣議決定に付されたr取扱方針」には、「特ニ支那渡航ヲ要スルモノニ対シテハ」特例で渡航を認めることが書かれており、「定住又ハ現地勤務ノ為渡支セントスル者」が挙げられていた。行先地の領事館警察の証印のある文書、または在支軍の発給した身分証明書、または呼寄証明書を有することが必要資格であった(同、11頁)。

■  渡支邦人暫定処理取扱方針中領事館瞥察署ノ証明書発給範囲ニ関スル件[警務部第三課](昭15)(未作成)

■  「渡支邦人暫定処理ノ件」打合事項[不明](昭15)(未作成)

■  渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)(未作成)

  15年中に出された警務部第3課の文書では、この範疇に入る者のうち、
特殊婦女(芸妓、酌婦、女給、軍慰安所雇傭員其ノ他)ハ原則トシテ証明書ヲ発給セサルコト
とあり、5月20日現在の「雇傭者数」を基準として、「欠員補充ノ為呼寄ヲ要スル場合二限リ」認めるとしていた(1巻、138頁)。内務省では、中国では1940年にはすでに新しい「慰安婦」の調達は望まれていないと判断していたのかも知れない。しかし、それは一時のことで、その後調達が必要になったと考えられ、15年の終わりに近いあたりで作成されたとみられる「『渡支邦人暫定処理ノ件』打合事項」という文書には、「特殊婦女」は「定住ノタメ」ということで処理せよとの書き込みがあった(同、141頁)。さて16年8月の「取扱要領」では、渡支身分証明書を発給する12項目の1つに
本邦ニ於テ婦女(芸妓、酌婦、女給等)雇入ノ為一時帰国シタル在支接客営業者ニ対シ与ヘラレタル在支帝国領事館警察署発給ノ証明書ニ雇入員数ヲ明記セル場合其ノ員数二相当スル被傭婦女
があげられた(4巻、15頁)。このときは一時の抑制方針が廃され、軍慰安所に女性を送ることを可能にする手続がととのえられたのである。

■  南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件[台湾総督麻外事部長](昭17.1.10)(未作成)

  この昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争がはじまると、日本軍は香港、シンガボール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込んだ。南方に占領地が拡大していった。そこにも軍慰安所が設置された。この新しい局面での南方占領地の慰安所への女性の確保については、新しい方式がとられた。昭和17年1月10日台湾総督府外事部長が東郷茂徳外務大臣に問い合わせを行った。
「南洋方面占領地ニ於テ軍側ノ要求ニ依リ慰安所開設ノ為渡航セントスル者(従業者ヲ含ム)ノ取扱振リニ関シ何分ノ御指示相煩度シ」(1巻、163頁)。
外務大臣は1月14日付けで回答した。
此ノ種渡航者ニ対シテハ{旅券ヲ発給スルコトハ面白カラザルニ付}軍ノ証明書ニ依リ{軍用船ニテ}渡航セシメラレ度シ
とある。このうち{  }の中に入れた部分は抹消された部分である。吉見氏はこの資料から外務省がこの種の渡航に関わらないことになり、管轄権が軍に帰属することになったとの結論を出しているが*2、外務省が関わらなくなるということの意味は、内務省と警察が関わらないということであり、警保局が支那渡航婦女について出していた条件が消えることを意味したのである。南方占領地への慰安婦の派遺はまったく軍にゆだねられ、それまでのコントロールは完全にはずされたことがわかる。

■  南方派遺渡航者ニ関スル件【台湾軍司令官〕(昭17・3・12)(未作成)

■  南方派遺渡航者ニ関スル件【陸軍省副官〕(昭17・3・16)(未作成)

  昭和17年2月末ないし3月はじめに、南方総軍から、ボルネオ行き
慰安土人五○名為シ得ル限リ派遣方
の要請が台湾軍司令官にあった。そこで陸密電第623号に基づき、台湾軍司令官の命令により、憲兵が調査して、3人の経営者を選定した。2人は愛媛県と高知県出身の日本人、1人は朝鮮人であった。この3人の渡航認可が3月12日付けで台湾軍司令官から陸軍大臣に求められた(2巻、203-204頁)。これに対して、大臣副官より3月16日陸亜密電188号をもって大臣の認可が返事された(同、205-206頁)。

  つまり業者の渡航の許可が求められているだけで、台湾先住民、高砂族の女性50名の渡航には陸軍省の許可は必要とされていないことがわかる。台湾軍の承認だけで、以前のような県知事発行の渡支身分証明書発給のような手続なしに、彼女たちは送り出されていると考えられる。そういうことを定めたのが陸密電第623号ではなかろうか。3人の業者は50人の女性を獲得したが、その方法はどのようなものであったろうか、それにも台湾軍が何らかの便宜をはからった可能性は大である。

■  南方派遺渡航者ニ関スル件【台湾軍参謀長〕(昭17・3・16)(未作成)

  さて台湾から50人の一行が出発し、ボルネオに到着してみると、現地での実情からすれば、人員も不足であり、かつ
稼業ニ堪ヘザル者等ヲ生ズル
結果となった。なお20名の追加が必要とされ、「引率者」と言われる業者1名が部隊発給の呼寄認可証をもって台湾にもどった。そこで6月13日、
慰安婦二十名増派諒承相成度
また
将来此ノ種少数ノ補充交代増員等必要ヲ生ズル場合ニハ右ノ如ク適宜処理シ度予メ諒承アリ度
との願いが台湾軍参謀長から陸軍大臣副官あてに打電された(同、207-208頁)。これに対する返事は発見されていないが、それは認められ、以後は本省に伺いをたてなくてもよいとなったと思われる。

■  心理戦作戦班報告書(Japanese Prisoner of War Informatron Report) 49号(未作成)

ビルマ・ミッチーナー資料A

■  調査報告書(Research Report) № 120(1)(未作成)

ビルマ・ミッチーナー資料B
  この一連の資料はきわめて重要なものである。南方地域への慰安婦の派遺が現地軍の句令部より台湾軍司令部に「土人」と指定して派遣をもとめているということは、同じように現地箪司令部より朝鮮軍司令部に朝鮮人女性を慰安婦として派遣するように要請がなされたことを容易に想像させる。この点で重要なのは、米軍資料の中にあろビルマのミッチーナーでの慰安所経営者及び慰安婦の尋問にもとづく報告である。日本人捕虜尋問報告第49号(5巻、203-209頁、これをAとよぶ)は慰安婦20名の尋間報告であり、SEAT1C尋間時報第2号(そのやや省略した引用が同、151-153頁にある、これをBとよぶ)は慰安所経営者夫婦の尋間報告である*3。これらによると、1942年(昭和17年)5月に日本軍が占領したビルマにおける「慰安サーヴィス」のための女性を募集するために、軍の依頼を受けた業者が朝鮮にやってきた(A)。しかし、この業者は独立して女性を募集したのでなく、京城の陸軍司令部が業者にビルマヘ慰安婦を連れていくことを打診したのに応じたものである(B)。当然にビルマ方面軍ないし南方軍総司令部からの直接の正式要請が朝鮮軍司令部に対してあったと考えるのが、さきの台湾軍への要請と考え合わせて自然である。だから、この業者もふくめて、朝鮮軍司令部、おそらく台湾と同じく憲兵司令部が業者を選定したと考えられる。最終的に朝鮮から出発した朝鮮人女性は703名であったので、ビルマ方面軍から700名以上規模の派遺要請があったと見るのが自然である。またボルネオヘの50人、20人の派遺について台湾軍参謀長から陸軍省に伺いが出されているのをみれば、この700人以上の派遺についても朝鮮軍参謀長から陸軍省に伺いが出されたのは当然のことであり、陸軍大臣の認可をえた旨を副官が朝鮮軍参謀長に打電しているはずである。

  朝鮮軍は業者を選定し、募集を行わせたのであるが、そのさい昭和13年の日本国内での募集にさいして警保局がつけたような条件がないことは明らかである。京城で料理店を経営していた夫婦が憲兵司令部の打診に応じて、この仕事を引き受け、22人の朝鮮人女性を勧誘した。資料Bによると、彼らは両親に
300円から1000円を払って、買い取った、
娘達は彼らの「単独の財産」になったと言っているが、これは前渡し金で縛ったということであろう。年齢は19歳以上であったと陳述しているが、女性たちの陳述では、彼によって募集された朝鮮人女性の募集時の年齢は17歳1名、18歳3名、19歳7名、20歳が1名、23歳以上が8名である。12名が21歳以下である。

  では、「慰安婦」をもとめていることを明瞭に説明することはなされただろうか。女性たちの供述に基づく資料Aによると、次のようにある。
この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った(5巻、203頁)

  業者にこのように欺かれたと言っているのだが、朝鮮軍司令部が明瞭に慰安婦の仕事を説明するよう指導していなければ、このいわゆる「就職詐歎」に対しても軍の責任は免れない。もしも朝鮮軍司令部が承知の上で、慰安婦にするということを隠したまま、業者に21歳以下の娘を募集させたのなら、これは軍も関与した欺蹴による募集であり、合意によらざる強制であるということになる。このあたりは断定する資料がない。

  朝鮮軍司令部は渡航手続きをおこない、客船をチャーターして輸送するまでした。台湾軍の例からして、703人の朝鮮人の女性については、渡航身分証明書などは出されていないであろう。数量としての扱いである。7月10日釜山から4000トンの客船に乗って、703人の朝鮮人女性と90人ほどの日本人男女の一行が出発した。船は7隻の船団を組んで進んだ。台湾に寄港したさい、22人のシンガボール行きの女性が乗り込んだ。あるいはボルネオ行きの追加の20人かもしれない。シンガボールで一行は別の船に乗り換え、8月20日ラングーンに入港した。ラングーンで20人から30人のグルーブごとに引率者がついて、ビルマの各地へ赴いたのである(資料B)。

  この一行の中にいたことを証言しているのは大邱出身の文玉珠ハルモニである。彼女は1940年、16歳の時に憲兵によびとめられて、満州の東安省に連れて行かれて、慰安婦にされ、翌年逃げ帰ってのち、キーセンとなっていた。1942年東安省で慰安婦であった仲間の女性から、南方の日本軍の食堂で働こうと誘われて、釜山へ行き、約束の旅館に入ると、朝鮮人の業者マツモトがいた。彼のもとに、大邱から来た17人が集まったのである。その中に東安省で慰安婦であった仲問が5人いた。彼女は7月10日釜山から出航した総勢は150人から200人ほどだったといい、703人とは食い違いを見せている。船も6000トンほどの貨物船だというが、7隻の船団を組んだという点は一致している。文玉珠ハルモニと東安省の仲間も慰安婦になるという説明は受けていなかったのだが、大邱組の他の娘たちはまったく知らされていなかったと述べている*4。文玉珠ハルモニの証言は、文書資料とほぼ合致しており、1942年7月10日釜山出航組の場合、業者が慰安婦の募集だと説明しないままである場合が多いことを裏付けている。

  太平洋戦争期の朝鮮、台湾からの慰安婦の調達は、朝鮮軍、台湾軍が主体となって、憲兵が業者を選定して、募集させ、軍用船で送り出したのである。

  1. :原注(6)吉見『従軍慰安婦』、65-66頁。吉見・林編、前掲書、22頁。
  2. :原注(6)吉見『従軍慰安婦』、65-66頁。吉見・林編、前掲書、22頁。
  3. :原注(7)この資料については、本論集の浅野豊美論文をみてほしい。
  4. :原注(8)文玉珠『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、45-57頁。なお朝鮮人慰安婦の送り出しについての業者の活動については、尹明淑「日中戦争期における朝鮮人軍隊慰安婦の形成」、『朝鮮史研究会論文集』32号、1994年10月、104-109頁をみてほしい。


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