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防空演習

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防空演習

「空襲だ!水だ!マスクだ!スウヰッチだ!」

1928(昭和二)年7月5日から三日間、大阪市で日本初の都市防空演習が実施された。市内各所で、防毒、消防、救護、灯火管制の訓練が行われた。翌一九二九年には、名古屋で同様の訓練が行われた。1930年代に入ると、軍港や軍事施設のある都市を中心に、防空演習が盛んに行われるようになる。しかし、当時は、空襲のリアリティは希薄で、市民の関心はいま一つ盛り上がらなかったようである。この頃の防空演習は、焼夷弾よりもむしろ毒ガス攻撃に対する防毒訓練のほうが重視されていた。一般的な消火・避難訓練よりも、国民の危機感をあおり、緊張を強めて地域社会・市民の「下から」の動員をはかり、管理・統制する上で効果的と判断されたからだろうか。
防毒マスクが似合う街水島朝穂 ~『三省堂ぶっくれっと』No.116 July, 1995 より)

『わが家の防空』は、当時流行の誌面デザインと凝った写真を贅沢に駆使し、毒ガスの恐怖を訴えている。

『わが家の防空』には毒ガス攻撃を想定した演出写真が随所に掲載されているが、これはよく見ると駅での写真である。乗客もラッチに立つ駅員も防毒マスクをしている。一番右の腕章の人物は憲兵。

防空法制定直前に出された東部防衛司令部編纂『わが家の防空』(軍事会館出版部発行、1936年)の裏表紙には、次のようなスローガンが掲げられている。「空襲だ!水だ!マスクだ!スウヰッチだ!」、「一に灯管〔灯火管制〕・二に防火・三に防毒・四に笑顔」、「防火防毒洩らすな灯火・断じて守れ国の空」。この時期、関西方面でも全く同じスローガンが掲げられていた(第四師団司令部編『家庭防空』神戸・防衛思想普及会発行、1936年)。これらの資料には、毒ガス対策が、焼夷弾よりも大きなスペースを割いて紹介されている。
( 同上防毒マスクが似合う街


誰も非難しなかった陸軍の大演習

きょうは『萬晩報』の発刊記念日である。丸2年よく続いていると我ながら感心している。(中略) 記念すべきこの日は尊敬する新聞人である桐生悠々について書きたい。

●誰も非難しなかった陸軍の大演習

桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」というコラムを書いて信濃毎日新聞の主筆の座を追われた。1934年のことである。時代は満州事変を経て日本が国際連盟を脱退するまで追い込まれていた。「関東に敵機をを迎え撃つということは敗北そのものである」と当たり前のことを書いただけで陸軍の憲兵ににらまれた。

戦後になって抵抗の新聞人としてその反骨精神を評価された。当時マスコミがこぞって、そんな防空演習のばかばかしさを書きたてれば時代は変わったかもしれない。だが、朝日新聞も毎日新聞もばかばかしいと書かなかった。桐生悠々だけが「嗤う」と書いた。

その後、桐生悠々は媒体(メディア)を失った。名古屋で「他山の石」という個人雑誌を発行して糊口をしのぐことになる。1934年6月から第二次大戦直前の41年8月まで、書くべきメディアを失っても書かなければならないことは書こうという姿勢を貫いた。

発行は月に2回、全176冊。はじめは「名古屋読書会報告」という名で発行され、翌年から「他山の石」に改名した。1冊のボリュームは平均32ページほどのパンフレットだった。ほぼ月に2回、300から500の会員に毎回郵送した。当時インターネットなどという媒体はない。
桐生悠々と個人雑誌「他山の石」

「関東防空大演習を嗤う」とあえて、〝嗤う″の見出し

関東防空大演習は一九三三(昭和八)年八月九、十、十一日の三日間にわたり、人口五百万人の帝都・東京を中心に一府四県にわたって実施された。演習地域は帝都を中心に直径三百キロに及び攻撃方は陸海軍の航空部隊や航空母艦の艦上機がこれに当り、防衛方には陸軍の戦闘機三個中隊が回った。史上空前の大規模な演習であった。
(中略)
問題となった桐生の社説は、演習二日目の模様を報ずる第一面左横に掲載された。「関東防空大演習を嗤う」(八月十一日)と、特に〝嗤う″という挑戦的な見出しがついていたが、内容は冷静、科学的に防空演習の目的、狙いを分析して批判、提言しており、決して反軍的というものではなかった。
(中略)
「この名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空において行われ、これに参加した航空機の数も非常に多く、実に大規模のものであった。若しこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言断に絶したことを予想し、痛感したであろう。というよりもこうした実践が将来決してあってはならないこと、又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうということを想像するものである。

将来若し敵機を帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求めるべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。
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