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永井荷風が見た異国「ニッポン」昭和12年後半

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永井荷風が見た異国「ニッポン」昭和12年後半

  • 永井荷風の日記『断腸亭日乗』、昭和十二年七月以降を看て見ました。
  • 8月28日、9月初3日、9月初4日、11月16日、を追記します。(061127)


7月
6日   オットー・フラーケ「マルキ・ド・サド」、良俗に反するとして発禁。
7日   北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国国民党軍が衝突。(盧溝橋事件)
8日   中国共産党中央委員会、全民族抗戦声明を出す。
11日  日本軍特務機関長松井太久郎と中国天津市長張自忠との間で、盧溝橋事件に関する停戦協議が成立する。
      日本政府閣議で、陸軍3個師団の派兵が決定。
12日  中国国民政府、抗日決戦を決定し、中央軍に動員令を発する。
13日  バルビス「スターリン」発禁。


七月十七日

いわゆる時局柄の記事の最初は、七月十七日でした。


《銀座と浅草》
銀座で見た異国「ニッポン」の光景と、浅草に戻った夏の宵、時勢に溺れぬ人びととの、情景対比が鮮やかです。(アンダーラインは引用者)

七月十七日。快晴。暑気甚しからず。午後始て蝉の鳴くを聞く。されどわづかに一二疋の声なり。夜八時過銀座食堂に往き晩飯を喫す。白瓜の雷干味佳なり。不二地下室に立寄るに千香女史歌川氏等在り。街頭には男女の学生白布を持ち行人に請ふて赤糸にて日の丸を縫はしむ。燕京出征軍に贈るなりと云ふ。いづこの国の風習を学ぶにや滑稽と云ふべし。新橋より電車に乗り吾妻橋の公園に赴き見るに、夜は将に十二時に至らむとするに、人多く芝生の上に横臥す。果物の皮新聞紙等狼籍たり。馬道より砂利場に出で仲之町に至る。絵行燈を掛連ねたり。今宵は両国に花火ありてその帰りとおぼしき客多く、引手茶屋の二階はいつになく賑なり。浪花屋の前を歩み過ぐる時鄰の茶屋の腰掛より余を呼ぶものあれば、顧みるに妓小づちなり。今宵はつぶしに結ひて銀のタケ長を掛けたり。此妓の外に猶二三人招ぎて雑談する中夜は忽ほのぼのと白みかかりぬ。
  • (※)燕京とは北京の雅称
  • (※)馬道より砂利場に出で仲之町に至る、浅草から吉原へ
  • (※)鄰=隣=となり
  • (※)髪型髪飾りの、つぶし、タケ長は不明

17日  蒋介石、周恩来と会見。
      両者は、陝甘寧辺区政府を承認し「いかなる解決も中国の主権と領土を侵してはならない」と対日交渉の声明を発表。
      一方で、平和的解決を要求するとして、開戦状態承認を拒否。
17日  愛国政治同盟、国民協会、新日本国民同盟が統合し、日本革新党成立。
21日  文部省思想局を廃止し、文部省教学局を設置。
22日  日本基督教連盟、国策への協力を表明。
26日  北支駐屯軍、宗哲元に最後通牒を手交。
28日  日本軍華北通州を爆撃、誤って冀東防共自治政府保安隊兵舎を爆撃する。
29日  冀東防共自治政府保安隊、29軍と呼応して蜂起し、自治政府長官殷汝耕を捕らえ、通州の日本軍関連施設と民間居住地を襲撃する。
30日  日本軍通州を鎮圧。殷汝耕を救出するが、殷は長官職を辞任。
7月  国際劇場開館。
7月  湯川秀樹、アンダーソンらの発見した新粒子が中間子である可能性を指摘。
7月  満州中央銀行第3シリーズ紙幣を発行開始。

8月
6日  政教社「日本及日本人」8月号の宮中重大事件が不敬だとして削除。
9日  上海で海軍特別陸戦隊の大山中尉と斉藤一等兵が、偵察中に中国保安隊に殺害される。
10日  人造石油製造事業法、帝国燃料興業株式会社法公布。精機光学工業設立。
13日 上海で海軍特別陸戦隊と中国軍が交戦。第2次上海事変
14日 中国機による共同租界爆撃
15日 松井石根司令官の上海派遣軍(第3、11師団基幹)編組、
     近衛文麿「暴支膺懲声明」、
     午前、最後の南京日本大使館員と日本人居留民が南京を去る。
     午後3時、海軍機が南京渡洋爆撃開始。下旬、夜間空襲しきり。
19日 上海派遣軍司令官松井石根大将、東京駅発、征途に就く
23日 上海派遣軍、第3師団と第11師団呉淞上陸

八月廿四日

八月廿四日。晴また陰。午後曝書。夜浅草散歩。今半に夕飯を喫す。今宵も月よし。十時過活動館の前を過るに看客今正に出払ひたるところ、立並ぶ各館の戸口より冷房装置の空気道路に流出で冷なるを覚えしむ。花川戸の公園に至り見れば深更に近きにも係らず若き男女の相携へて歩めるもの多し。皆近鄰のものらしく見ゆ。余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり。
  • (※)軍国政治、一般に悪い言葉ではなかったようだ

24日 政府、国民精神総動員実施要綱を閣議決定。
26日 英国駐華大使ヒューゲッセン、日本海軍機の誤射で負傷。



八月廿六日

八月廿六日。晴。曝書。夜浅草散歩。
[欄外朱書]上海ニテ日本兵英国大使ヒーゲンソンを射て之を傷く

八月廿八日

八月廿八日 晴。裏鄰の魚屋よりまたもや魚類いぶし焼の悪臭流れ来り、窓を開くこと能はず。之がため曝書を中止す。近鄰の家を窺ひ見るにいづこも窓をあけ平気にて蓄音機を奏し居るなり。現代人の神経は物の匂ひまた燈火の光などに対しては殆ど働きをなさざるが如し。築地本願寺のあたりを電車にて通過する時は魚市場より発散する悪臭を感ず。数寄屋橋有楽橋を渡れば溝水の悪臭人の面を撲つ。然れども世人は平然として之を口にせず。三十間堀の汚水に貸ボートを泛べてよころぶ程なり。〔此間一行強抹消。以下行間補〕日本の国土に住するかぎり悪臭は忍ばざるべからざるもの是国民義務の第一なるべし、〔以上補〕夕刻家を出で牛込神楽坂田原屋に晩餐を喫す。先年見知りたる給仕人猶在り。銀座タイガアより来りしボーイも従前の如く働き居れり。出征の兵士を見送るもの彩旗提燈を手にし軍歌を唱ひて過ぐ。この夜ふけてより俄に涼しくなりぬ。


9月
1日 景気特報9月号、「戦争果たして好況の原因か」の記事が元で発禁。 グルー駐日米大使、南京及び無防備都市に対する空爆停止を要求。
2日 政府、北支事変を支那事変と改称。
4日 第72臨時帝国議会(~8日)で、臨時軍事費予算と戦時統制立法が可決。察南自治政府樹立。首都は張家口。
5日 海軍、全中国沿岸封鎖を宣言。
9日 台湾庁制公布。室伏高信・清決冽「戦争の知識」発禁。
10日 臨時軍事費特別会計法、「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」公布。
     輸出入品等臨時措置法、臨時資金調整法、臨時肥料配給統制法、臨時船舶管理法公布。
11日 日比谷公会堂で国民精神総動員大演説会が開かれ、総動員運動が始まる。
     上海派遣軍戦闘序列発令。第9師団(常備師団編成地:金沢、通称:武),13師団(常備師団編成地:仙台、通称:鏡),101師団(特設師団編成地:東京)を投入。
12日 国民政府、国際連盟に日本軍侵略を訴える。

九月三日

九月初三補記 午後に起出で二階に曝せし書籍の取片付を終れば日は忽晡ならむとす。空腹に堪へざれば直に銀座に赴きてタ飯を喫す。帰宅の途上氷を購ひ家に入るや直に写真現像をなす。〔以下三字下ゲニテ十行強抹消
その抹消文は、
{の度日華交戦の事について日本人は暴支膺懲の語を以て標榜となせり。余窃に思ふに、華人等其領土内の互市場より日本人を追放せむとするは曾て文久年間水戸の浪土が横浜開交場を襲撃せむとし又長藩の兵が馬関通過の英蘭商船を砲撃せし時の事情と毫も異る処なし。英仏聯合艦隊の長州攻撃するや特に膺懲といふが如き無意味なる主張をなさざりき。元来国と国との争奪にはいづれが是いづれが非なるや論究するに及ばず。又論究せむとするも得べからざるものなり。戦争の公平なる裁判は後の世の史家の任務たるのみ。
とほぼ判読できるそうだ。

九月四日

九月初四。屋後魚類燥製工場の物音に眠より覚む。夜は将に明放れんとする所なり。庭に出で落葉を帚ふ。朝飯つくりて後Andre Suares: Poete tragique をよむ。午後榻に臥し眠を貧つて薄暮に至る。尾張町不二あいすに飯し其支店の地下室に入るに、空庵大場歌川子等在り。一同自働車にて玉の井に至り狭斜の光景を写真に撮影してかへる。弁阜子書あり。池袋飲食店出征兵士送別会にて日夜多忙なりと云。返書を送る。(返書宛名11名略)


九月十二日

九月十二日。日曜日。晴れて日の光の強烈盛夏に劣らず。午後物買ひにと銀座に行き不二あいすに飯す。深夜郷家魚屋の臭気に襲はれ眠より癌む。再び眠らむとすれども得ず、門を出で近巷を歩む。市兵衛町より箪笥町の辺にも民家に兵士の宿泊する処多く、空地に天幕を張り憲兵の立番するを見たり。

九月十三日

九月十三日。晴。午後写真機を提げて芝山内を歩む。怠徳院廟の門前を過きむとする時、通行の僧余を呼留め増上寺境内に兵士宿泊するがため其周囲より山内一円写真を撮影することを禁じたり。憲兵に見咎められ写真機を没収せられぬやう用心したまふべし。と言ふ。余深くその忠告を謝し急ぎて大門を出づ。芝神明宮祭礼にて賑なり。家にかへり午睡一二時間。岩波書店編輯掛佐藤氏来り濹東綺鐔五千部印税金壱千四百七拾円小切手を渡さる。又旧作腕くらべ改板の校正摺を示す。夜銀座ふじあいすに夕餉を食す。安藤千香歌川酒泉の四氏に逢ふ。帰宅の後校正摺を一閲す。
  • 兵士宿泊、憲兵警戒は、特設師団(戦時臨時編成につき兵舎なし)101師団の召集によるものと思われる
  • 特設師団について

25日 内閣情報委員会、情報部に昇格。また内閣情報部は、国民歌として愛国行進曲の詞と曲を募集。
     工場事業者管理令、百貨店組合法公布。
26日 東京軍法会議、2・26事件関連で真崎大将に無罪。
27日 ニュージーランドのオークランド港で日本軍の中国侵攻に反発した港湾労働者が、停泊していた千福丸への屑鉄積み込みを拒否する事件が起こる。
28日 国際連盟、日本の中国都市爆撃の非難決議。

10月
1日 出征将兵の留守宅門前に印が付けられる。支那事変対処要綱閣議決定。
2日 朝鮮総督府、朝鮮人に対する「皇国臣民の誓詞」を制定する。
    日本経済研究第3輯、全般的に不穏として発禁。

十月四日

十月四日。陰又晴。写真焼附。昏黒浅草に〓(食へんに卞)す。
或人のはなしに、去ル頃熱海の或旅館に共産党々員数名宿泊し居たるを、刑事等大勢捕縛に向ひたり(8月中の由新聞には記載せられず)党人はピストルを放ちしが弾丸尽きて遂に捕へられたり。一人の刑事党人の一人に縄をかけむとする時、拳にて其顔を打ちしに、党人冷かに笑ひ、君は生命がけにて我等を捕へたり。されど政府より賞与を受くるものは君に非らず、賞与を得るものは我がピストルにて打たれ傷きしものなり。政府の行賞はいかなる時にも公平なりし例なし。君は他日必ず我が言の当れるを知るべしと言ひしが、果して基言の如く、賞与は無事なる刑事には下賜せられざりき。是に於て其刑事は深く感ずる所あり、刑事の職を辞し、松竹キネマ会社の雇人となりしと云ふ。又或人のはなしに、戦地に於て出征の兵卒中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語を発するものも尠からず。其等の者は秘密に銃殺し表向は急病にかかり死亡せしものとなすなり。

  • 共産党熱海事件1932.10.30のことか? いづれにしても、真実なればこそ大っぴらにはできない話だ。(熱海事件はまだ報道解禁されていないのか?)

5日  ルーズベルト米大統領、日本とドイツを侵略国家として非難声明。
6日  国際連盟、日本を9ヶ国条約と不戦条約に違反していると決議。
10日 アジア7号、発売頒布禁止出版物の広告を載せたとして発禁。
12日 国民精神総動員中央連盟発足。日本・インド通商条約延長交換公文調印。
    中国共産党紅軍遊撃隊、新編第4軍に編成される。
15日 大同に晋北自治政府成立。
17日 全日本労働総同盟全国大会開催。銃後3大運動を採択し、スト絶滅宣言。
25日 内閣企画庁と資源局が統合して、企画院が設置される。
26日 鈴木安蔵「現代憲政の諸問題」、暗に革命煽動の内容であるとして発禁。
28日 蒙古連盟自治政府が関東軍を背景に樹立。主席に雲王、副主席に徳王がつく。
31日 日本軍、蘇州河を渡河。
10月 この月、満洲・中国方面の投資などを担当した大蔵省理財局外事課が設置される。
10月 閣議で大陸での軍票使用が決定する。
10月 企画院は、主要原材料物資の陸海軍民間への配分を定める物資動員計画の策定を開始する。

十月二十日

十月二十日。朝十一時床より起きて着物きかへむとする時古本屋中村来る。去月信越方面に古本買出しに行きしにその地方にては徴集せらるる兵士甚多く、旅館はいづこも混雑してゐたりと云ふ。燈刺門を出るに空めづらしく晴れわたり明月咬々ζたり。十六七夜頃の月なるべし。今年は十五夜も十三夜も雨なりし故浅草雷門の牛肉屋に夕飯を喫し墨堤を歩む。白髭橋より玉の井に至りいつもの家に少憩し、銀座を過ぎてかへる。屋根の瓦を潤す露霜明月の光に照され銀色に輝きたり。かかる夜に聞かまほしきは初雁の声なるべし。

十月廿七日

十月廿七日。晴れてよき日なり。鄰家の柿樹その葉いまだ霜に染まざるに早く落つ。桐の葉頻に落つ。どうだん少しく黄ばむ。終日庭の草を抜く外為すことなし。燈刺夕餉を喫せむとて銀座に徃くに上海戦勝祝賀の提燈行列あり。喧騒甚しきを以て地下鉄道にて雷門に至る。町のさま平常に異らず。河霧薄く立ち迷ひて吾妻橋上の眺望静寂なり。東武電車にて玉の井に至る。ここはいつもより人出少し。九州亭に入りて茶漬飯を喫しいつもの家に少憩し来路を取りて家にかへる。燈下ミユツセの詩集をよみて暁に至る。

  • 銀座から逃げ帰る荷風。

11月
3日  本軍の中国侵攻をテーマとした9ヶ国条約国会議がブリュッセルで開催。
     国民歌(愛国行進曲)の応募締め切り、歌詞57578通、作曲9555通に達する。
5日  本第10軍、杭州湾北岸に上陸を開始。ドイツを仲介とする対国民党和平工作(トラウトマン工作)始まる。
     治外法権撤廃等の日本・満洲条約及付属協定調印。
6日  独防共協定にイタリアが参加する。
8日  井正一、新村猛、真下信一ら「世界文化」グループ検挙。
9日  原占領。
11日 大上海占領。群馬小串鉱山で、山津波が発生し163人が死亡。
12日 俳優林長二郎(後の長谷川一夫)、移籍問題でファンから剃刀で切りつけられる。
16日 国民政府、重慶遷都を宣言。リオン・フォイヒトワンガー「モスクワ1937」、ソ連賛美で発禁。
18日 戦時大本営条例廃止され、大本営令公布。皇居内に大本営が置かれる。
21日 国民政府のうち5院が重慶へ移る。
22日 蒙古連盟、察南、晋北自治政府が連合し、蒙疆連合委員会成立。委員長は徳王。
23日 駐華ジョンソン米国大使、漢口へ拠点を移す。島影盟「戦争と貞操」、自由主義であるとして発禁。
23日 蒙疆連合委員会、察南銀行を蒙疆銀行に改組することを決定。資本金1200万圓。
29日 要塞司令部令公布。イタリア、満洲帝国承認。政府、スペイン・フランコ政権承認。
11月     唯物論研究会京都グループ検挙される。
11月     企画院、物資動員計画立案を開始。
11月     日本産業本社、満洲に移転し満洲重工業となる。

十一月十六日

十一月十六日。今年梅雨のころ起稿せし小説冬扇記は筆すすまず。其後戦争起りて〔此間約一行抹消。以下行間補〕見ること聞くこと不愉快ならさるはなく〔以上補〕感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし。今日は朝八時頃に目ざめたれば久しく窓を閉したる二階の掃除に半日を費しぬ。空よく晴れて風しづかなり。日の没するや明月皎然窓を照す。銀座不二地下室に〓(食へんに卞)して後今宵もまた浅草に往きオペラ館の演技を看る。余浅草公園の興行物を看るは震災後昨夜が始めてなり。曲馬もこのオペラ館も十年前に比較すれば場内の設備をはじめ衣裳背景音楽等万事清潔になりたり。オペラ館の技芸は曾て高田舞踊団のおさらひを帝国劇場にて見たりし時の如くさして進歩せず。唱歌も帝国劇場に歌劇部ありし頃のものと大差なし。されど丸の内にて不快に思はるるものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。

十一月十七日

十一月十七日。天気牢晴。昨夜より向一週間禁燈の令あり。幸にして今宵も月明なれば道暗からず。晩食すまして後例の如く浅草に往き万歳小屋に入る。竹本駒若といふ娘義太夫語折から阿波の鳴門をかたりゐたり。案外上手なり。広小路にて佃煮其他食料品をあがなひて帰る。


十一月十九日

十一月十九日。快晴。堀口君その訳著オオドゥウの小説マリイを郵寄せらる。空午後にくもる。晡下浅草に行きオペラ館の新曲を聴く。この一座の演ずる一幕物社会劇は何人の作れるにや、簡明にして人を飽かしめず、往々人情の機微を穿つ。侮りがたき手腕あり。木戸口を出づるに今宵は曇りて月なければあたりは暗し。広小路松喜に〓(食へんに卞)し玉の井を歩む。ここも公園と同じく案外賑なり。帰途銀座不二地下室に入らむとするに、夜はまだ十時を打ちたるのみなるに、既に戸をとざしたり。枕上むく鳥通信をよみて眠る。
今秋より冬に至る女の風俗を見るに、髪はちぢらしたる断髪にリボンを結び、額際には少しく髪を下げたるもの多し。衣服は千代紙の模様をそのまま染めたるもの流行す。大形のものは染色けばけばしく着物ばかりが歩いてゐるやうに見ゆるなり。売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見るに新調の衣服(和洋とも)を身につくるもの多し。東京の生活はいまだ甚しく窮迫するに至らざるものと思はるるなり。戦争もお祭さわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものの如し。

十一月廿一日

十一月廿一日(日曜日)くもりて風甚寒し。執筆の興至らず快々として徒に時間を空費するのみ。忽にして窓暗く街上防火団の警笛をきく。燈火を点ずること能はざれば今宵も浅草公園に往き国際劇場に入り時間を空費す。安藤君所作の日高川其他のルヴユーを看る。品好くつくりたるものなれば興味少し。オペラ館の通俗卑俚却てよろこぶ可し。九時過芝口佃茂に夕飯を喫し料理番と雑談してかへる。深更雨ふる。
〔欄外朱書〕裏鄰の魚類燻製所近鄰ノ苦情甚シキ為昨日深川辺へ転居せり

12月
1日  東京帝国大学教授矢内原忠雄辞職。同日、大本営は南京攻略を命令。日本化学を改称して日産化学設立。
     満洲帝国領事裁判権撤廃。外務省警察官1300人は満洲に移籍する。
     矢内原忠雄「民族と平和」、秩序を乱すとして発禁。
4日  政池仁「基督教平和論」、戦争否認、軍備反対で発禁。
5日  春日庄次郎ら、共産党復活を画策して、日本共産主義者団を結成。
8日  日本・シャム通商航海条約調印。
10日  日本第10軍、南京城総攻撃を開始。
11日  日本通運株式会社設立。イタリア政府、国際連盟を脱退。
12日  日本海軍機、南京攻略戦中に米アジア艦隊警備艦パネー号を爆撃。(パネー号は沈没)
     日本第10軍砲兵部隊が英砲艦レディバード号を謝って砲撃。
     日本政府、誤爆と誤射を認め謝罪。
13日  南京城陥落。以降2ヶ月間の掃討戦で中国側軍民に大多数の死者を出す。国民政府漢口へ緊急遷都。
14日  華北に中華民国臨時政府樹立、行政委員長に王克敏。
15日  日本無産党、日本労働組合全国評議会、労農派の関係者一斉検挙される。いわゆる第一次人民戦線事件。検挙者は446人。
22日  日本無産党、日本労働組合評議会の結社を禁止。
24日  支那事変対処要綱閣議決定。この日、冀東防共政府の代理長官池宗墨、通州事件の賠償として120万円を出すことを通告する。
27日  日本産業、本社を満洲に移し、満洲重工業開発となる。
28日  ゲルマニカス「独逸の統制経済」、人民戦線的立場で独逸を批判しているとして発禁。
29日  鉄道省、遺骨移送列車に英霊のマークを付ける。
     文学界新年号、掲載した石川淳「マルスの歌」が反戦的であるとして発禁。
30日   プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)解散。
12月   フランス政府、軍艦を南沙諸島(新南群島)に派遣し、イツ・アバ島(長島)に移住者を降ろし、占有実効化を計る。
12月   国民政府、重慶へ遷都。

十二月廿九日

  • 荷風は世間の戦捷騒ぎから目を背けていたかのように、12月に入って戦争のことを書いていませんが、ついに憤慨やるかたなく・・・。

十二月廿九日。晴。午後杉野君来話。商品切手金参拾円を贈らる。夜銀座に〓(食へんに卞)し玉の井の知る家に少憩してかへる。この日夕刊紙上に全国ダンシングホール明春四月限閉止の令出づ。目下踊子全国にて弐千余人ありと云ふ。この次はカフヱー禁止そのまた次は小説禁止の令出づるなるべし。可恐可恐


(昭和12年の摘出おわり)
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