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山下俊一教授と日本財団

あるいは
笹川良一とアーマンド・ハマー&
重松逸造とロバート・ゲール
=裏IAEAのフィクサーたち


笹川良一 :1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)
アーマンド・ハマー :1898年5月21日 - 1990年12月10日
重松逸造 :1917年(大正6年)11月25日 -
ロバート・ゲール :Robert P. Gale(65)



梗概

チェルノブイリ原発事故を持て余したゴルバチョフは、
ソ連政府の過小被害発表を追認してくれる健康影響調査をIAEAに依頼し、
その一方で、被災住民をなだめるための医療援助を、巨億を自由に動かせるハマーや笹川に依頼した。

そして重松逸造は、IAEAプロジェクトと笹川プロジェクト、
両方のトップ・リーダーとなった。
いわば、重松プロジェクトAと、Bとが、同時並行で動くことになった。

重松AのIAEAプロジェクトは、わずか700人を母数※とする『疫学調査』をさっさと済ませ、
1991年に結論を出してソ連政府の発表にお墨付きを与えた。
重松Bの笹川プロジェクトはその「結論」を踏まえて、5年間の医療援助が遂行された。
…10台のホールボディカウンタと甲状腺エコーを手土産にして。
派遣専門家のリーダーは山下俊一であった。
(※)http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3123.html#id_0169b699

重松の「疫学専門家」としての実力は、
日本国内で次々と行われた公害訴訟で、「因果関係なし」の証言を行い、
国と企業を擁護したことで良く知られていた。

しかし、チェルノブイリの人々はそれを知らない。
「ヒロシマ・ナガサキ」が最大限利用された。
ハマーやゲールの名が先頭に立ってCIA臭が匂い立つよりは、
「唯一の被爆国」からやって来たといった方が、
被災者には、むろん「人道的」に映る。

げんざい、福島県内で繰り広げられている、
日本財団を後ろ盾とした山下俊一プロジェクトは、
チェルノブイリで遂行されたプロモーションの、
完全な焼き直しremakeといってよい。

山下俊一 (1952生れ)は
重松逸造 (1917生れ)・ 長瀧重信 (1932生れ)の秘蔵っ子
『被曝2世』は大きな勲章として威力を発揮した。


笹川良一と日本船舶振興会(現・日本財団)

吟味はしてませんが取りあえず、wikipedia笹川良一を参照してください。

なお、公営ギャンブルのテラ銭による社会奉仕活動援助は、テラ銭が特別認可の半公共財であることから、どこに援助するかは管轄官庁の承認が必要で、役人が名目上差配するのである。すなわち、国家予算の枠外にある、予算決算審議を伴わない政府補助金ともいえる。「笹川記念保健協力財団」は、いくつもある日本財団中の組織の一つで、厚生労働省管轄下の活動を担当している。

テラ銭漬けの現実:例えば消費者教育の教材ビデオなどは、公営ギャンブルのテラ銭による補助金なしには制作することができない。多くのボランティア事業が、公営ギャンブルのテラ銭によって支えられているのが現状である。世間から注目をあつめる社会事業ほど公営ギャンブル団体から声がかかる。こうして依存構造はより強固になる。


笹川チェルノブイリ医療協力


検診車贈呈式(モスクワ・赤の広場)

(公式発表) 「事故から4年後の1990年に、当時のソ連ゴルバチョフ大統領の強い要請を受け、日本財団は理事長の笹川陽平を団長とし、広島、長崎の放射線被爆者医療の専門家をチェルノブイリ事故周辺に派遣したことから、支援活動が始まった。」http://www.nippon-foundation.or.jp/inter/topics_dtl/2001484/20014841.html
  • (実際) 以下の「重松逸造談」にあるように、1986年の事故直後から計画は進められていた。
(公式発表) 約20万人の児童が検診と治療を受けた。
  • (実際) 山下俊一のデータでは12万人
(公式発表) 10年間、38億円を支援
  • (実際) 検証不能


関係年表(未完)

月日 (出来事)
1985 11月 就任したてのソ連共産党書記長ゴルバチョフ、スイス・ジュネーヴにて、レーガン米大統領と会談
1986 4月 米ソ文化交流美術展開催、フィクサーはオクシデンタル石油会長のアーマンド・ハマー(重松逸造談1)
1986 4月26日 チェルノブイリ原子炉4号炉で事故発生
1986 5月上 ハマー、UCLA医療センターのロバート・ゲール博士をソ連に派遣する。13人に骨髄移植(11人死亡) (重松逸造談1)
1986 7月 放影研理事長重松逸造、ハマーの招請(電話を掛けてきたのはゲール)でロスへ、重松渡米を日本政府も後押し公務扱い。ハマーが重松に、協力してチェルノブイリ支援をやろう!財政は日本の友人笹川良一さんが面倒みてくれるはずである、と語る (重松逸造談2)
1986 8月 ソ連政府がIAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出
事故に関する情報は機密扱い。重松はそれをグラスノスチ(情報公開)と評価 (重松逸造談3)
1989 2月 初めて詳細な汚染地図が公表
1989 10月 ソ連政府、IAEAに対して、汚染地域住民の健康影響と汚染対策の妥当性についての調査を要請。 IAEAは国際諮問委員会(IAC:委員長は重松逸造放影研理事長)を組織し、1990年5月より国際チェルノブイリプロジェクトIACの実地調査が始まった
1990 8月 笹川良一の三男良平を団長とする「チェルノブイリ笹川プロジェクト」代表団が現地視察
1990 「調査だけでは住民を説得できないので困っている」というソ連大統領ゴルバチョフの医療支援要請を、日本船舶振興会(のち日本財団)会長笹川良一が受ける (重松逸造談4) 。「チェルノブイリ笹川プロジェクト委員会の」の委員長は重松逸造。⇒協力委員会と専門家委員会の名簿
1991 5月 国際プロジェクトIAC(委員長重松逸造)の報告会が開かれ、汚染地住民には放射線被曝に起因する健康影響は認められない、汚染対策はもっと緩やかでもよいが、社会的現状を考えると妥当なものである、という結論が報告された。これに対し、ベラルーシやウクライナの代表は、甲状腺疾患の増加など深刻な健康影響が出ていると抗議したが、結局無視された。
1991 同5月 「チェルノブイリ笹川プロジェクト」5年計画の甲状腺に特化した健康調査開始。⇒事業概要、⇒医療支援概要、派遣団の主任は山下俊一。
1989 11月 ベルリンの壁崩壊
1991 12月 ソ連原子力産業安全監視委員会特別委員会の報告「事故の原因は、原子炉の欠陥とそれを知る立場にありながらしかるべき対策をとらなかった責任当局にある」
1991 ソ連が崩壊
1992   子供を含め多数の急性放射線障害の報告のあったことを示すソ連共産党政治局秘密文書が暴露された
1996 4月 IAEAなどが主催して開かれた「事故10年総括会議」。甲状腺ガンの増加を除き、事故による被曝影響は認められないと結論。
1996   「笹川プロジェクト」終了。ベラルーシのゴメリ州のみ5年延長
1996 ベラルーシ科学アカデミーの報告. 汚染地域では、内分泌系や血液・造血系疾患といった慢性疾患や新生児の先天性疾患の発生率が、共和国平均を上回っている
1998   チェルノブイリ甲状腺組織バンク(Chernobyl Tissue Bank CTB)設立
2001 3月 「チェルノブイリ笹川プロジェクト」ゴメリ州でも終了


重松談

重松逸造談1
チェルノブイリ医療協力事業を振り返って(PDF)
http://www.smhf.or.jp/outline/pdf/chernobyl.pdf
http://www.smhf.or.jp/data01/chernobyl.pdfより

重松逸造談2

重松逸造談3

重松逸造談4


参考

■チェルノブイリ原発事故とは
http://wa-f.com/kako/cher01.html
■今中哲二 <第8回環境放射能研究会(2007年3月)proceedings原稿>
「チェルノブイリ原発周辺30km圏避難住民の被曝量の再検討」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/kek07-2.pdf
「チェルノブイリ原発事故:何が起きたのか」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/kek07-1.pdf
■IPPNW「チェルノブイリ健康被害」新報告と、首相官邸資料「チェルノブイリ事故との比較」との驚くべき相違
http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/04/blog-post_17.html
■7/8東大緊急討論会におけるレジュメ:島薗進「放射能の影響と戦後日本の医学」
■twitterより:島薗進氏による中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)の紹介
■ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】
http://forkn.jp/book/1198/ 残念ながら絶版の模様(2014.7.24現在)


【日本財団・山下俊一側資料】