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占領下の原爆調査が意味するもの(下)

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市民科学 Citizens' Science
interview
『市民の科学をひらく』第5回

占領下の原爆調査が意味するもの(下)


笹本征男さん
(占領史研究家)
ささもと・ゆくお 1944年島根県生まれ。中央大学法学部卒。在韓被爆者問題市民会議会員。占領・戦後史研究会会員。著書に『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』(新幹社、1995)。訳書に『占領軍の科学技術基礎づくり(占領下日本1945~1952)』(ボーエン・C・ディーズ著、河出書房新社、2003)。ほか論文多数。

2005年9月12日、市民科学研究室にて
聞き手:上田昌文(当NPO代表)



6(米占領軍への原爆調査協力は本気でやった)

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笹本:戻りますが、日本側の原爆調査団はそうやって1945年の暮れまで動いて、調べ、報告書をどんどん書きます。マッカーサーはそれを黙って見ておいて、特別委員会は総会を3回も開いています。調査内容を持ち寄って、発表しているんです。占領下でそうした報告会を開くことも全部許されているんです。それから、「神話」としてみなさんが引っかかりやすいのが、米占領軍が報告書を一方的に持っていった、という話です。とんでもありません。日本側の調査団の手元には180本以上の日本語の原稿が残っているんです。マッカーサーが学術研究会会長の林春雄に出した命令書によると、報告書は公表されては困るけど、内容については内輪で話してもいいと言っているんですよ。ここが第2点。医者だったら現場に行って、患者さんとしての被害者に会ったらどうするかという話をお互いにしても当然ではありませんか。帝国大学のすごい人たちが行ってるわけですが、その医者たちは、もはや医者じゃないと思いますね。目の前に起きていることを自分たちで調べ、3回も総会を開いて発表しておきながら、医者や科学者たちは一度たりとも時の首相吉田茂に「これだけ被害がひどいんだから、被害者のためになんとかしてくれ」って要望書を出すことすらしなかった。きっと人間が人間ではなくなってるんだ、科学者である前に。そしてそこをごまかしたから、全部その後の歴史がおかしいんですよ。みな米軍の悪口しか言わない。その悪口もいい加減なことしか知らないで言っている。

 繰り返しになるけど、それまでの1945年8月までに大日本帝国が明治以降行ってきた侵略戦争の結果がこれです。米占領軍への原爆調査協力は本気でやった。いい加減じゃないです。本気でやったから、マッカーサーも本気で受けた。あるいは本気でやらなかったら、マッカーサーは本気でやれと命令したでしょうが、むしろマッカーサーが命令しなくていいくらい日本側は本気でやったんでしょうね。報告書の質についても、渡辺武男のお弟子筋の東京大学の教授に「渡辺さんの報告書の質はどうですか」と聞いたら、「きわめて高いのが出ている」と答えた。敵に渡して一番喜ぶ報告書を自分たちが作って、何の痛みもないのか。質が高い方がいいんですよ、米軍にとっては。もう一つ言いましょう。増山元三郎という統計学のプロがいますが、彼が作った原爆死傷者報告書はとても質が高いから、米軍の報告書に使われている。

上田:──彼は最近(2005年7月3日、92歳)亡くなりましたね。

 軍隊には、新兵器がどれだけ人間を殺すかという正確な統計が必要なわけですが、それを増山元三郎がやった。増山にとって、それが敵に渡って、どう使われるかということは眼中にないわけで、彼は今でもあの調査を誇っている。原爆というものはそこまで人を麻痺させるのか、という言い方をすると語弊があるかもしれませんが、そもそも原爆を使ったアメリカは最初から麻痺しているわけですね。米軍による調査記録も残っているが、その記録の意味というのは空恐ろしいです。倫理的な観点から見ると、米軍当局者は全然痛みを感じていない。記録のとり方といい、「被害者」に対する見方と実に見事に冷酷な視点は一貫していると言えます。


7(ABCCと日本側「原子爆弾影響研究所」)

──そうですね、それを典型的に現しているのがABCC(原爆傷害調査委員会)のような組織だと思うんです。

 そこにアメリカの度し難さがあるわけですが、それに輪をかけて日本がずっこけちゃったんです。ずっこけるって、正確な言葉じゃありませんが、繰り返しになるけど、なぜ日本側はアメリカにあそこまで協力したかという問題が残るわけです。

 もう一つ言うと、この本を出版する年の1995年8月に友人と韓国に行ったのですが、その友人の知り合いの若者で、一橋大学で朝鮮半島の南北分断の研究で博士号


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をとって帰国したばかりの韓国人歴史研究者に出会いまして、その人に僕の本の話をちょっとしたんです。そうしたらその人が驚いて、そんな話は聞いたことがない、と。で、その年の11月に、出来た本を彼に送ったらすぐにソウルから国際電話があって、この本を韓国語に翻訳したいと言ってくれた、あれは本当に嬉しかった。こんな本が韓国語で翻訳・出版されることは容易ではないとは承知しています。でもその若者は自分の国で紹介したいという作品として読んでくれた。彼の目から見たら、この問題は透けて見えるんですよ。マッカーサーに協力する日本政府の姿は、かつての日本軍を理解している人には、日本によって植民地支配を受けた韓国の若者には一発でわかる話でしょう、日本人の側からわからないだけです。そのことを知るべきですよ。アメリカという主語を入れずに原爆被害を語る、という問題もそういうことなんです。

 例えば韓国人たちから、この問題はどうなっているんだと広島市長が問われたとしたら、広島市長はどう応えるのでしょうか? 日本にいるから見えなかった。それからアメリカからも見えないんだね。先に話したように、アメリカにしたって本来恥ずかしい話のはずでしょう。というのも、これが従来の戦争ではなかったということ。つまり原爆というのは、敵も見方もどこかで融けさせてしまうんですよ。それで一番犠牲になるのは誰かというと一番弱い人ですよ、女性、子供、それにこれから生まれてくる人たち。これから先は、そういう話になります。

──ABCCの調査は、いわば今も続いている調査としてあるわけですけれど、原子爆弾という人類がその時初めて経験したものがどういう生物的効果を持っているかを、これだけの規模で継続的に行っているという事実。その出発時点の組織のされ方とか、日本がどう関わり、どう受け継いできたのかというそのあたりのお話を。

 まず原爆調査の初期調査というのがあります。それはデータを取るだけ。それは主に日本側のあの大調査団がやったわけですけど、その後、アメリカの方も状況が戦時体制から平時体制に移っていって、マンハッタン計画を1946年いっぱいで閉じます。そこで1947年1月1日からアメリカ原子力委員会(AEC)というのが作られました。これは1946年8月にできた「1946年原子力法Atomic Act」に基づきますが、そこから表向きは新しい体制になるけれども、本質は要するに、平時において原爆製造体制を維持するというものです。日本では占領軍による民主化などと言っておきながら、アメリカ本国では平時になったのに戦時体制の強化をしている。これは日本からなかなか見えないでしょうけど。

 その時のアメリカの戦後体制の徹底的な強化というのは、原子力委員会を作った、それから中央情報局(CIA)を作り、国家安全保障会議(NSC)を作り、さらに国防総省(DD)を作った、この4本立てです。この権力機構強化の意味はなにか、その中で原子力委員会を考えなきゃいけない。つまりこれは、対原爆戦争を想定しているわけです。その想定の中で、実際に自分たちが使った当時の原爆という兵器をどう考えるかという新しい問題が出てくる。

 そこで「効果調査」をすること..被害とは、やった側としては効果で、受けた側としては影響ですけど..人間に対する効果調査は二度とできないわけだから、ここに焦点絞ったんですね。そこで、それまで出来なかった「遺伝調査」が根本に据えられ、非常に長期の調査として設定される。このための組織が、アメリカ本国に作られた原子傷害調査委員会(Committee on Atomic Casualty、CAC)で、その日本現地機関として原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC) が設置された。日本側はどうしたかというと、今度は厚生省所轄として新しく作った国立予防衛生研究所の支所を、広島、長崎、呉に作ります。正式名称は原子爆弾影響研究所といいます。原子爆弾影響研究所のことは日本ではほとんど問題になっていませんけど、実は大事なんです。被害国が作った「原子爆弾影響研究所」ですからね。これは国立の機関で、アメリカのABCCの“対”の組織として存在するわけです。そこで長期調査として設定したもので一番問題なのは、遺伝計画(Genetic Program)です。そのために原子爆弾影響研究所とABCCが共同して調査します。日本政府は何回か原爆被害調査計画書をGHQに提出しています。


8(大掛かりな遺伝調査)

 その遺伝調査とは具体的に言えば、広島、長崎でアメリカが投下した原爆によって被害を受けた女性、特に妊娠していた女性から生まれてくる胎児を全部調べ上げたんです。そのために比較対照群を設定する必要が出て、都市レベルの比較対照群を設定するんです。広島市、長崎市の比較対照都市として..Control Cityって英語を使っているんですが..呉市を設定する。ある母親のグループを設定したら、それが被害者の設定であれば、それと対になる比較対照群(Control Group)を設定するという方法論を使うのが人体実験として重要なわけです。ということはこれは完全な人体実験なんですが、僕が英語の表現でびっくりしたのはそのControl City っていう言い方です。最初はControl Cityって英語の意味がわからなくてね、中山茂先生に「Control Cityってどういう意味でしょう」と尋ねたら「普通Control Cityって英語を使う場合は“管理都市”だ」と。「でも先生、こういう原爆調査における言葉です」と説明すると、先生も驚

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かれたぐらいに、一般化されていない表現ですよ。

──もともとは疫学用語のCase-control study(症例対照研究)という言葉がありますよね。

 それをControl Cityなんて言葉使っている例はないですから。それまでの初期調査では、コントロールグループも何も、データを集めるだけだったわけですが、この後は科学的方法に基づいていく。対象は人間であり、なおかつ妊娠している女性、そしてそこから生まれてくる胎児です。その実験を日本政府の協力を得てやれたわけです。具体的には、妊娠している女性をほぼ全部把握して、妊娠5ヶ月目に妊娠登録して母子手帳が発行される..妊娠5ヶ月目に申告すればみんなもらえる。これは児童福祉法に基づいた制度ですが、これには国籍条項がないのです。ですから外国人女性も対象になる。在日朝鮮人の女性で妊娠した人も入っている可能性があるのです。..それに登録した人をずっと追跡調査する。妊娠終結という言葉を使ったんだけど、出産すると、その段階で一人一人調査するわけですね。実際に担当するのは当時の助産婦さん、それから産婦人科医です。当時90数%は自宅出産ですから、当時の助産婦制度に基づいて把握すればいいのです。大体1947年から始まって、1951年くらいで一段落し、まとめの発表が出ていますが、それを見ると、妊娠登録が7万数千例です。ということは、おそらく全数調査だと思うんです。

 そして、広島、長崎、呉で、助産婦さんに対してアメリカの医師が、調査方法について講習会を何回もやっている。その記録もGHQのファイルにちゃんと残っているし、助産婦さんの人数は原爆被害によって相当程度減ったと思いますが、生き残った助産婦さんは何百人しかいないはずです。その何百人の人が7万数千例の妊娠登録を扱ったということは、計算するとわかりますが、一年に一人が数百件扱うでしょうね。そして日本政府の原子爆弾影響研究所の予算(原子爆弾影響研究費)では、妊娠登録の手続きをした人に対してボーナスを出していますね。一件登録した場合20円、ある特別な場合に登録した場合一件あたり50円。ということは7万数千例掛ける50円を掛けると何十万かになるんですよ、当時のお金で。それで実際にその金を厚生省は払っていますね。そういうことをずっとやって、現場の産婦人科医もずっと把握して全部報告させている。これも全部米占領軍のGHQの記録に残っているわけですけど、僕はこれを調べていて、本当に「ここまでやるか…」と思いました。

 妊娠登録するのはふつう妊娠5ヶ月です、5ヶ月以前に登録されていないものの流産する場合があるわけですが、その5ヶ月前の流産例まで全部洗い出している。具体的に言うと、産婦人科医をしらみつぶしにあたっていくわけで、ある年なんて1900例も洗い出しています。その上ご丁寧に、胎児まで解剖しているという記録まであるんです。つまり、ありとあらゆる出産を全部把握して、そして登録して、追跡調査して…。アメリカ、日本の為政者にとって、一番大事なのは実際の人間に放射線なり、原子爆弾の影響というのがどういう形で出るかということ。次の世代に影響がどう出るかを、まず一番にあからさまに調べていく。例えば、奇形の例を50例くらい挙げて、Aという女性の乳幼児はこういう事例であると調べていく。実は児童福祉法の母子手帳制度には奇形の登録というのがあって、それを使っているんだけど。その中の一つに、今で言う原爆小頭症という、頭が小さく生まれてくるために知能の発達が遅れる、というのがあります。そういう小頭症の例も早い時期に把握していますね。

 遺伝というのは何世代か渡った後に発現してわかるんだけど、彼らの言葉では、そういうことを調べるのに最初から妊産婦調査、乳幼児調査を「遺伝調査」だと言っているんですね。アメリカの原子障害調査委員会(CAC)と国家研究評議会(NRC)は、この遺伝調査計画を声明として、雑誌“Science”(1947年10月10日号)に公表しました。それから、僕に理解できない面ですが、今言ったような大量殺戮兵器を使った現場で行われている調査のことを、アメリカでは“Life”という家庭雑誌が1954年7月号で写真入りで紹介しているんです。アメリカ人の医師が日本人の助産婦に対して行った講習がありますが、その時の写真を見せる。他に赤ん坊が寝ている姿の写真など、今広島ではこういうことをやっていますということを、アメリカの家庭雑誌が紹介しているんです。これがアメリカの本質だと思わざるをえない。人体実験しておいて、その状況を家庭雑誌で出してしまう。日本もひどいことしましたよ。でも七三一部隊に関する現場調査の写真を日本の家庭雑誌に発表していますか? それをアメリカはやったんです。“Science”の記事だって、女性に対する徹底的に侮辱的な人権無視の調査計画を淡々と公表しているんですよ。そのことをあわせて考えないと、だめでしょう。だから繰り返しになるけど、原爆問題を語るときアメリカという主語抜きではいけない。

──その通りですね。

 雑誌“Life”の写真は一見の価値ありです。

──雑誌“Life”と同様の写真は、スーザン・リンディーM. Susan LindeeさんのSuffering Made Real: America Science

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and the Survivors at Hiroshima(University of Chicago Press, 1997)という本の中にも…。

 ありますよね。このようにはっきりとした形で残っているんです。アメリカの国家研究評議会(National Research Council、NRC)の図書館にファイルがあって、そこにも残っています。つまりモルモットにしている人たちを何の痛みもなく、公表しうるということがアメリカの戦後なんですよ。いかにも鈍感です。でも、ならば日本はどうなってるのか、ということになりますが、ヒロシマ・ナガサキの思想にはそれをオーバーラップさせる力がない。

9(なぜ日本は協力したか)

──そうですね。原爆被害者の批判の中には、ABCCという組織に対して「調査はするけど治療はしない」という言葉が何度も出てきますね。もちろんそうであったとしても、二つ問題がありまして、なぜそれが可能なのかという問いには行かない。それから、実は日本も協力しているんだというところにも行かない。そのことを私たちはどう考えていったらいいか、という問題があります。それを見るために押さえなければならないのは、このデータがアメリカでどう活かされたか、そして日本が協力したことが戦後の日米関係をどう決めたかということ。これは、資料を通じて歴史的に検証していくというところまで踏み込めない限界はあるとは思いますが、やはり仮説的にでも語っておく必要はあると思うんです。

 きびしい質問です。今も私は頭を悩ませている。つまり、今おっしゃったような問いがなぜ提示されなかったかが実は一番大きな問題であってね。疑問を疑問として出せなかったということが一番の根本の問題なんです。材料はたくさんあるわけです。でも、今でも現にそうですが、原爆被爆者の皆さんも、またいわゆる被爆者の子供(いわゆる被爆二世)のみなさんも、原爆被爆体験を語るときには、上田さんが言ったとおりのことしか言わない。ABCCは治療をしてくれないひどい機関だ、アメリカはひどい、これで終わり。被爆二世の人だって、実際に遺伝調査を受け続けているわけですが、いかに日本人が、日本政府が関わっているかということの問題点があまり出てこない。実態が見えていないと言わざるを得ないんです。つまり広島、長崎ではABCCというと「神話」が出来上がっている。

 ABCC体制についてみんな誤解しているのは、当時の1947年に作られた組織でいうと、調査体制の人員構成比は9:1で「9」が日本人職員なんですが、みんな逆に考えている。原爆被害者が亡くなった直後、「解剖のために死体をくれ」といって、広島市の比治山(ABCCがあるところ)の上から黒い自動車が来るという話は、僕は色々なところで聞いたり、本で読んだりしたことがあります。その自動車を運転していたのは誰でしょうか、ということです。運転手はアメリカ人ですか、違います。日本人で、厚生省に雇用された人たちです。調べればすぐわかります。ここが「神話」です。かつて僕はこれらのことを書きました(笹本征男「放射線影響研究所と原爆被爆者」中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編『通史日本の科学技術5-1〔国際期〕1980-1995』〈学陽書房、1999年〉)。しかし、日本側の組織名が厚生省の「原子爆弾影響研究所」であるということはまったくといっていいほど語られないのです。

 今の放射線影響研究所(放影研)──1974年に原爆傷害調査委員会(ABCC)と原子爆弾影響研究所が改組されて、放影研となった──の予算支出がわかっていまして、ほとんど人件費なんですが、1995年当時20億円ずつ、アメリカ政府と日本政府で出しているわけですよ。その使い道がほとんど人件費で、人員構成比は9:1でしょ。おかしいですよね。だって、アメリカ人研究者に対してアメリカで使っている20億円の人件費を計算すると、研究者10人とすると1人1億になる…ありえないですよね。そこで放影研の会計部門の人間に質問したら、そういう計算はしていません、と。どうしているかというと「日米折半でやっている」って。これが本質でしょ。こうやって、突っ込めばいくらでも出て来るんですよ。もしもアメリカ人研究者の予算が2000万だとしても、2億でしょ、あとの18億どうするんでしょう。それは日本側にいってるんじゃないの、という話に当然なりますね。でも、どこもこの話に突っ込まないんです。

 広島、長崎でも今もって、「神話」で固められているから、隣にABCCに勤めている人がいたって見ないんです。周りにたくさんいたはずですよ。でも「神話」によって見事に思考力が失われてしまって、そのことに気がつかない。だから、僕がこういう話をしてもおそらくぴんとこないんではないでしょうかね。

 今の予算の話に関連して言えば、原子爆弾影響研究所とABCCが行った、遺伝計画を含めた当時の1947年から1951年までの調査に日本側の使ったお金、原子爆弾影響研究費と言いますが、それがしめて3000万円以上とあって、厚生省は当時の1951年度の国立予防衛生研究所の年報に公表しています。3000万円といえば、巨額な金ですよ。ところが、その公表されている事実も、僕がこの本に書くまで誰も取り上げて問題化しなかった。この問題は大きいです。触れなかったことは、いろんなことを意味します。典型的には、広島市と長崎市が編集主体になって1975年に発行した『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店)でも、この点には一切触れていません。この本は1975年までの研究の集大成なのに。でも、その後も誰も触れていない。なぜ触れなかったかと

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いうことを、僕はこれから問題にしていこうと思う。その事実を明らかにしておかないと、結果的に広島市、長崎市はアメリカ政府の犯罪的な行為に協力している日本政府に加担していることになります。共犯関係になる。それがばらせないからABCCの神話が生まれるんです。というより、むしろよABCC神話が必要なんでしょう。なぜなら、国家予算の3000万円の金が広島県、長崎県、広島市、長崎市、呉市に流れているのであって、その補助金がどう使われるか、現場では百も承知なわけですよね。それを伏せるということです。で、一番大事なことを伏せるから後からいくらでも覆わなきゃいけないわけですよ、それがABCC神話です。知っていて踏み込まない、これを確信犯といい、共犯者なんです。確信的共犯者、刑法の用語では共同正犯といいます。そういう状況が続いている。だから広島市及び長崎市は地方自治体として、国の原爆調査との関係においてそれぞれの責任を明確にし、無限責任を取るようなことは言うべきではありません。市としてはここまでの責任しかない、ということをはっきりと言うべきです。

 これが日米関係にどう影響しているかを僕は一番調べたいんだけど、なかなか難しいのです。それは新しい政治学の、日本の戦後の歴史学の根幹なんですよ。だから新しい方法論がいる、新しい言葉がいる。僕は今ずっとその周辺を洗い出しているんですが。原子爆弾という大量殺戮兵器の被害あるいは効果をめぐって、原爆を使った加害国と被害国が共同正犯関係を結ぶ、そんな事例は歴史上そんなにないんです。そして、ABCC・原子爆弾影響研究所(現在の放影研)という研究組織の存在もこれまでの戦争の歴史上ないと思うんです。ないということを僕らは認識できない、ここが重要なことですね。あって当たり前だと思っていることを問うことです。


10(戦争に負けるという意味)

 僕はつい最近友人と「ヒトラー最後の11日間」という映画を見ました。ヒトラーが最後に自殺するまでの11日間が克明に描かれていますが、それを見て、やっぱりドイツという国は戦後あそこまで描かなければ生きてこられなかったのだ、と感じました。例えば映画では、ヒトラーは、絶対に自分の死体を敵国の相手に渡すなと言って、妻のエバともに自殺するわけです。そして、地下室から彼らの亡き骸が引き上げられ、側近が遺体にガソリンをかけて、焼く場面まで描かれている。火をつけ、炎がバーと上がった瞬間に、周囲で整列していた側近が「ハイルヒトッラー!」と右手を挙げて、あの挙手の礼をする。これを映像にするところ、これが戦後のドイツだとわかった。宣伝相のゲッペルス夫妻も同じように服毒自殺して、側近が遺体を焼くんです。同じ場所で。これが戦争に負けるということなんです。そして戦後ドイツがそういう映画を作れるというのは日本とちがう、逆に作らざるを得ないということでもあるでしょう。例えば東条英機は1945年9月11日にピストルで自殺しようとして失敗し、その後、東京裁判で死刑判決受けて、絞首刑になりますが、東条の絞首刑の現場をここまで描けるでしょうか。きっと描けませんよね、日本では。

 つまり、戦争に負けるという意味からいうと、この原爆調査のようなことありえないんです。だからナチスドイツは、ヒトラーが自殺したからドイツ政府はなくなってしまうわけですが、例えば彼らが行ったユダヤ人強制収容・大量殺戮の際に、ユダヤ人に対していろいろな医学実験も行いましたね。もしもヒトラーが生きていて、ドイツ政府が健在で、連合国軍がドイツに進駐したときに、ドイツ政府が「私たちはひどいことをしたんだけど、それと取引して、私たちが行った医学実験について一緒に研究しませんか」と連合国のアメリカやイギリスに提案したなら、ドイツにABCCと同じものができるでしょうか。でも決してそんなふうにはならないでしょう。同じように七三一部隊の大連研究所と同じものを、戦後中国政府が作ったとしたら、やっぱり異常なことでしょう。でも原爆ではそれが起きていて、大量虐殺の現場に60年間そういう組織があるわけです。そこまで僕は言葉にして書きますが、でもそこまで書いても伝わらないんですね、このことの意味は…。

 原爆をめぐるこの問題は、いわゆる日米安保体制下における日米の従属関係とか、従来言われているそんなことじゃないんです。1945年の敗戦・占領の時点から、日米は原爆問題をめぐってこういう関係になっていた。このことは一体どう表現したらよいのでしょうね。アメリカ政府だけでなく、日本政府もこれだけ被害者を侮辱し、屈辱を味合わせて、なおかつ自分たちが繁栄する体制を築いた。これをどういう言葉で表わしたらいいか、まだ見つからない。ただ一つ僕は「原爆加害国になった日本」という言葉を作りましたけど、それでも足りないから、結論をどうしようかと…。この「原爆加害国となった日本」の定義をどうしようか考えているわけです。

 それからもう一つ、日本の特色は、関係者の内部告発がないということです。これだけ屈辱的なことをやっておきながら、なんで恥ずかしいという一言も出てこないのか…ひどい話です。放影研の話になるとすぐに「日米共同研究」などという言い方になって、しかもかつての理事長の重松逸造は新聞で、「放影研は被爆者の福祉のためにやっている」という発言したことがあります。そもそもアメリカ政府が被爆者の福祉と健康のためにやっているということはない。でも、そんなことはありえない。なのにこの問題のプロ中のプロである人物がさらっとそう言ってしまう。それが日米関係でしょう。これは本当なら僕みたいな一人の人間の力だけではなくて、い

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ろんな学問分野の人たちが全部集まって、議論し直すべきものです。もちろん科学者を含めて。そして、何かとても考えにくいことが起きているな、ということを共通認識にして、新しい言葉を作って、新しい思想を作るということ、これしかないですね。

11(原子力体制の土台となった被爆データ)

──そこに行くためにも、どうしてももう一回見なければいけないことが、現在の原子力体制でしょうね。アメリカがこの原爆を落とした当時、あるいは原爆調査をやっていた期間、このデータをどこまで核開発と原子力開発につなげようという見通しを持っていたのか…。ご存知のように放射線のリスク管理はICRP(国際放射線防護委員会)が元締めになってやっていますけど、その根幹となる線量評価体系DS02で使われているのはヒロシマ・ナガサキのデータですよね。そのリスク評価を使いながら、原子力や放射線の利用を拡大し、巨大な産業にしてきた。今ではアメリカと日本、そしてさらにいろんな国を含めて、強力な原子力推進の体制ができています。今言った「原爆」と「原子力」をつなぐ部分は、やはり笹本さんがおっしゃるような、タブー視される、非常に触れて欲しくない問題としてあるのは、明白だと思います。ですからそこに切り込むには、本当に歴史家としてある種の勇気とが必要だと思うんです。そして、歴史研究というものが「現在」に深く絡まっている、その現在の絡みを自覚しつつ、その問題を解いていくというやり方が、今まさに本当に必要とされているんですね。

 それについては、僕がいつも還っていく言葉があります。「全ての歴史は現代史である。歴史とは現在と過去との対話である」という歴史家のE・H・カーの『歴史とは何か』の中の言葉です(正確な引用は次のとおりです。「すべての歴史は『現代史』である、とクローチェは宣言いたしました」「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」)。過去と現代の対話を常にしなければならない、そうすると、「今生きている人間としての自分は何か」ということが問われるわけです。ヒロシマ・ナガサキの被害状況というのは、考えれば考えるほど底知れないわけですが、だからこそそれを見る目と、語りが常に問われるわけですよ。「歴史は現代史である」という言葉の「現代史」です。「現代」(英語ではcontemporary )とは何かということなんですよ、60年経ってもね。その視点をもって見ないとだめなんですね。

 そういう姿勢で具体的に考えていくと、為政者が触れて欲しくないということは常識的にわかるわけですよ。アメリカがヒロシマ・ナガサキに投下した原爆で言えば、人間や生物に対して与えた原爆の影響、効果、これは絶対知りたいけど、いくら知ろうとしても知れないわけです、人間の力では。そういうことが根本的にある。だから原爆被爆者が絶えず言いますよね、「あの体験は人には伝わらない」と。どんな人間の能力をもってしても、根本的にはあの状況は伝えようがないんですね。だから為政者たちは、その中の一部分を自分たちの都合のいいように切り取るわけです。

 僕が一番に考えていることは、あれだけ国家が関わって、膨大な予算と研究者をつけた研究についてそれが何のためであるかということを、根本的に疑問を感じていくということです。だから、彼らがどういう枠組みでやったかということを本当に素直にもう一回見てみるべきですね。例えばこれまでに公開された資料の中では、日本側の科学者が出した報告書が英文にされて、全部GHQの科学技術課に送られています。そこのボーエン・C・ディースさんという人が、日本側が提出した報告書をまとめ、通し番号を振ってアメリカに送ります。番号はNo.1からNo.181まであります。これについては、ディースさんの本があります(ボーエン・C・ディース著、笹本征男訳『占領軍の科学技術基礎づくり〔占領下日本1945~1952〕』(河出書房新社、2003年))。その送り先は統合参謀部(JCS)という米陸海軍を統合する部署です。で、統合参謀部に送られたら当然アメリカ内部で方々に報告書が配られるはずなんですね。でもその先で唯一わかっているのは陸軍の病理学研究所に送られたという例だけです。でも実際にはそんな程度ではないはずです。日本の七三一部隊の例でも、日本側の資料が米軍の中で研究されているわけですが、僕たちが知り得る情報は、ほんのわずかです。それからアメリカ側で日本から提出された報告書がどのように利用されたのかという点については、ほとんどわかっていません。

 それともう一つ、日本に来た米占領軍では米陸軍と米海軍が合同で調査するというので合同委員会を作るんですが、それをJoint Commissionと言いますが、その報告書(『日本における原子爆弾の医学的効果』)が1957年にアメリカの有名な出版社のマックグローヒル社から出ています。その中には日本側代表として都築正男が入っていて、その下に約20人の東京帝大の医者の名前が、調査協力者として挙げられています。この米陸海軍合同委員会の調査報告書を見て、面白いことに気付くのです。合同委員会の調査者名簿が、本の巻末にあるのですが、日本側の調査協力者名は、先に触れた都築以下の人間たちだけです。しかし日本側には、学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会という巨大プロジェクトがあって、それが米軍の原爆調査への協力機関なわけです。特別委員会の9分科会の中の医学科会の科会長は都築正男です。つまり、合同委員会の名簿で日本政府代表が都築

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というのは、おかしいのです。米軍からしてみれば、日本政府そのものが、自分たちの原爆調査への協力組織であるという事実を公にしたくないということなのだと僕は思います。戦争の勝者、占領者としての正当性が問われるからです。

 先にも述べた、アメリカにおいて日本側が提出した報告書がどのように利用されたのかという点について、合同委員会の本で調べましたが、残念ながら、わかりませんでした。つまり、この本では典拠文献を出していないので日本側の報告書がどのように利用されているかが具体的に確認できないのです。でも、米陸海軍合同委員会の調査報告書が、あれだけ多くの日本人科学者、医学者による報告書に依拠していないはずがありません。今後は、この点も研究していくべきだと思います。

──最後に、笹本さんが今後研究をどういうところに展開したいかという将来の構想、それと最近若い人の中で日米間の資料を掘り返して、新しい光を当てようと仕事を始めている人もいますね。そういう方を少し紹介していただいて、これからの展望を語っていただけたらと思うのですが。

 ひとつは、低線量被曝PJの勉強会をずっとやっていきたい。その場合ヒロシマ・ナガサキの問題が根本ですから、それをどうやって、過去と現在の対話の中に入れて考えるかということになりますね。具体的に言いますと、1947年にアメリカが作ったABCC、日本側の協力研究機関は原子爆弾影響研究所、さらにそれが1974年に改組されて今の放射線影響研究所の組織になり、それらの60年近い歴史の中でこれら各機関が公表した報告書..テクニカルレポート(「業績報告書」)といいますが..それが1974年までに3000本くらい、さらにそれから30年経ち、合わせて6000本くらいあるはずなんです。それを概観して、僕なりの感触をつかみたい。それが僕が日本でできることです。壮大な試みのように見えますが、まず単純にタイトルはわかるし、現物も大体すぐ手にはいりますから、どういう研究者がいたとか、数量的に洗い出す手もあるし、内容的にも洗い出せるので、やっておきたいですね。

 若い研究者について言えば、広島市立大学平和研究所の高橋博子さんがアメリカの原爆に関する医学情報などの研究で同志社大学で博士号を取得し、ずっと勉強していまして、ABCCの問題もこれから勉強したいと言っています。アメリカに行く機会も多いようなので、アメリカのことは彼女にやって欲しいと。僕はアメリカに行く機会がほとんどないので、日本でできることをやっていきたい。高橋さんもだんだんわかってくると思うけど、まず研究の歴史がほとんどないし、やればやるほど自分たち日本人に跳ね返ってくる。でも、若い人に本気で、しゃかりきになってやって欲しい。今まで日本でほとんど行われなかった研究ですが、アメリカに行けば膨大な資料がありますからね。それをどんどん紹介してもらって、どんどん研究してほしい。

 それから、もう一つは非常に具体的な問題ですけど、被爆者の子供たちに対して行われている遺伝研究の60年後が何を意味するのか、ということを、低線量被曝の勉強会に関わるから、考えていきたいと思っています。

 歴史に興味を持っている人間としては、最終的には歴史の中でこれをどう位置づけたらいいか、皆さんにわかるように簡潔に描けるか、というのが最終的な目標です。それができれば非常に嬉しい。だからこうしてインタビュー受けながら、雑誌に書きながら僕なりに..まだまだわからないことがあるし、表現できないことたくさんあるんですよ..それを必死になって表現しようと思っています。わかりにくいところは当然あるだろうし、そういう意味で高木仁三郎さんのように、一般の人に対して語るときの彼の簡潔な表現はひとつの目標です。そのつもりで今日のインタビューを受けました。

 そして日本政府の責任を追及して、なおかつそれを貫いてアメリカ政府の責任の問題にしたい。そして最終的には、アメリカ市民に気づいて欲しい、単純な意味で。そうしたら少しは状況が変わるかもしれない。不思議なことに原爆調査の問題ではアメリカ市民がまったく出てこないんです。例えば、いまアメリカ政府が放影研に出しているお金は現在確か年間16億円でしたか。それはアメリカ合衆国の予算からすれば微々たるものでしょう。でも、内容、質から言うと、被爆者をモルモットにしてやっている研究に自分たちの払った税金を出していいのか、とアメリカ市民は問題にしていいはずです。アメリカ市民の誰一人として、そのことに気づいていないのではないかと思います。「原爆の被害は本当に酷いんです、見てください」と言ったって、それは向こうは拒否しますよ。でも、そうじゃない説得の仕方があると思っていますし、それをしていきたい。これはおそらく普遍性があるでしょう。やるべきことは多いですね…。

──本当に大きな課題を在野の研究者として問題提起され、緻密な資料分析をされて、笹本さんには心から敬服します。私たちもこの問題を手放さないことが大事だと思います。おっしゃるように、アメリカ市民を動かすまで続けていかねばなりませんね。そのためには、私たちが取り上げている放射線リスクの問題を入口に、なぜこういうことが成り立っているのかを解く視点を持ち続けたいと思います。私たちのような組織が、その問題について発信していかねばと強く思いました。本日は長い時間、本当にありがとうございました。



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