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皆本第三中隊長から中島幸太郎氏への書信 1946年2月17日

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皆本第三中隊長から中島幸太郎氏への書信 1946年2月17日



 「集団自決」事件で名を知られる赤松部隊すなわち海上挺進第三戦隊に所属する第三中隊中島一郎少尉は、昭和20年3月26日の夜、沖縄全体の海上挺進特攻の司令官である第十一船舶団長大町大佐とその一行を、沖縄本島司令部まで護送する特攻艇の操縦手として選抜され、他の一艇と共に米軍上陸前夜の慶良間列島渡嘉敷島を脱出した。

 しかし島の周囲は夥しい米軍艦艇に取り巻かれている。脱出行の成功は期待できるものではなかった。一艇は出発直後に沈没しその乗務者は渡嘉敷等に泳ぎついた。大町大佐を乗せた中島艇は消息を絶ったままとなった。

 戦後、中島一郎の父幸太郎は、本土に復員した赤松部隊関係者に手紙を送ったり面会を求めたりして、息子一郎の死のいきさつを知ろうと奔走した。その経過を一郎の二周忌にあたり幸太郎が綴ったものが、「沖縄戦 殉国日記」である。 前半は息子から届いた手紙を中心にした「息子の日記」となり、後半は息子の死の謎を解く「父の日記」となっている。

 その中に赤松嘉次元部隊長や皆本義博元中隊長の手紙や証言があるが、未だ史料としての検討は加えられていないようだ。以下は、中島一郎中尉の二周忌を前にして届いた皆本氏からの書簡である。 《TEXT起こしをして下さった方、ありがとうございました。》

(翌月埼玉県の中島家を訪れた皆本氏は、更に詳しい説明を行っている。皆本義博直話 昭和21年3月

  • 当稿を引用する方へのお願い:書き起こし文には私の間違いが含まれていますので、其の点を充分にご承知の上引用してください。また引用する方は当ページのURLを、必ず引用文に添えてください。食物の安全を流通過程で保障するのと同じように、資料典拠のトレーサビリティーを確保するためです。原文を独自に解読し直された方はその限りにありません。

《p36 9L→》
(皆本義博印)
皆本中隊長殿よりの書信の全文
謹みて故陸軍中尉中島一郎殿の御英魂に対し奉り衷心より敬弔の意を捧げ茲に謹みて其の状況を奉告申上候

昭和十九年九月一日宇品に於て海上挺身(ママ)第三戦隊編成さるや君と同じ部隊に相まみえ其の第三中隊として出征仕り候
昭和二十年三月二十三日突然として我が基地に対する敵の砲爆撃開始以来沖縄本島に先立ちて戦闘開始に至り候
中島中尉は生来剛毅果敢思慮極めて緻密、且つ温厚篤実にして常に部下
《p37右》
を我が弟の如く思ひて指導せられ中隊の兵唯君の部下ならず一兵に至るも君に敬服せざる者無く、吾が兄の如く思慕し住民亦「中島少尉殿」と至る處にて君に多大なる尊敬を払ひ居り候、かつて住民の声を聞きしに「私達も中島さんの部下になりたい」と之真にいつはらざる声なりき 中隊に於ける君の真の武人としての徳操真に昔の偉大なる武人に接する如く君在りて中隊は真に明朗なりき

三月二十三日より攻撃を開始せる敵は二十四日に至るも尚之を止めず逐々其の熾烈の度を加へ来り候 町度三月二十一日より慶良間列島海上挺身(ママ)戦隊(海上特攻隊)の戦闘準備状況を視察中なりし軍船舶隊長大町大佐二十四日我が渡嘉敷島対岸阿嘉島に在りて状況を判断せられ海上挺身(ママ)第三船(ママ)隊は直ちに沖縄本島に転進 仝地に於て海上攻撃に参加すべきを決心し二十五日夜日没を待って橇艇により敵艦艇軍を突破我が渡嘉敷島に到着直ちに転進命令を下達す 然れども時刻既に二十二時を経過し当時部隊は戦隊(艇乗組員)は舟艇につき出撃準備中なれども勤務隊(整備泛水陸上に於ける諸基地勤務員)は敵の上陸に備へて海岸に配備しあり 命令受領后電文を飛ばし全員を集合せしめ艇の泛水にかかるも時刻の遅延と体力の疲労資材の焼失との為予定の如く進捗せず、業終りたるは三月二十六日午前四時頃にして之より二○浬の海面を那覇に向け敵中突破を行はんか、日出后に措(?)
《p37左》
ける我が損害の招来は火を見るよりも炳かにして之を大町大佐中止せんとせらる。赤松部隊長茲に於て獨団(ママ)全艇を以てする敵艦艇攻撃を決心せられたるも軍命令之無辺〓は沖縄海面に待期(ママ)中なる同種部隊の企図秘匿保全のため隠密にすべき旨の指示を受け日出迄に之が戦場秘匿をなさんとする 然れども日出漸く迫り敵の水上偵察機及艦艇出現する公算大いにして危く我が企図を暴露せんとするに及びて未曳揚舟艇の自沈を命ぜらる 之に於て各員は涙を呑んで自沈せしめたり

僅かに秘匿終りたるのは当中隊に唯二隻なりき、船舶団長大町大佐は転進の企図挫折するや速やかに沖縄本島に至り軍船舶隊長として軍船舶隊を作戦に運用すべきを痛感せられ三月二十六日の夜谷間に各隊長を集合せしめ自己の企図を披瀝せられ候 扨て大町大佐以下十名海面約二十二海里を突破するに決し厳なる人選をさされ候

前日の艇自沈の際当中隊僅か二艇のみを残したるに依り当中隊より操縦者将校一下仕一を差し出すべく命を受く かねて気象(ママ)徳操能力最も優秀なりとて茲に於て本重大任務遂行し得る者中島少尉を措きて他に無き旨、衆議一決、君は竹下伍長と共に本重大任務結構の任に当らるゝ事と相成候

当時に於ける乗組状況
第一番艇          第二番艇 
 軍船舶隊長 大町大佐  第五基地隊長 三池少佐
《p38右》
 獨三大隊長 鈴木少佐  獨三大隊附  新海中尉
 船舶隊副官 山口中尉  船舶隊附   木村少尉
 操縦     中島少尉   操縦      竹島伍長
 整備  土肥(技)伍長   整備  田中(技)上等兵

而して両艇は何れの艇の事故も互いに救助せずひたすら那覇港に向け前進すべしと云ふ悲壮なるものなりき

君が任務を受くるや勤務隊に泛水を命じ将校全員中隊洞窟に會し君の壮行を祝す

君は終始にこにことして平時に変わらず、剛毅果敢なる君は「一寸行って参ります明日の晩はまた皈って参ります 何かお土産を持って参りませう」と実に測るべからざる大悟道の状態なりき、中隊全員の送別を受け部隊長以下多数の見送りを受けつヽ出発せられたるは三月二十六日二十三時三十分なりき

異常なく出発せられたる君等の艇は別記要図の如く島を北に迂回那覇に変針し前進せらる第二番艇変針后連日の爆風のため船体に亀裂を発しありたるに進行中之が拡大し遂に浸水故障を生じ渡嘉敷島東岸に難破漂着す 三池少佐以下は茲に於て遊泳により到着す 第一番艇は事故なく前進、第二番艇故障の時は船尾波を立てて進行しつゝありて前島南方にありと 遺感(ママ)乍ら特攻艇は小型にして
《p38左》
(一人或は二人乗長さ五、五米突、巾一、八米突)無電の装置之無、爾后に於ける状況判明せざりき然るに陸上無電に依りて船舶団に連絡するに未だ到着せずと再三連絡するも判明せず海上而も完全なる危険海面にして全く状況を知るを得ず、終戦后沖縄本島に至り船舶団及船舶隊各部隊並びに三十二軍司令部につきて大町大佐以下の状況を尋ぬるに杳として判らず、或は全部生存にして南方洋上の離島に在りと、或は敵駆逐艦の攻撃に逢ひ全員壮烈なる戦死なりと言、漠々たる有様にして真〓状況を知るを得ず 先后の状況を判断するに戦死せられたるものならんと判断するに到らざるべからざる様にして内地帰還后復員局に於ては戦死確度〓〓定せられ候 小官直ちにご家族様方に報告申上ぐべきと判断仕候も戦死の状況確認者無く若しも然らざること有るものの如く思ひ数方に連絡中にして甚だ失礼乍ら延引仕候何卒御含み下さるべくお願ひ申上候

且つ或は戦死確定なるやも知れずと思ひ君の遺品なりともと思ひ候へ共君の軍隊行李は当番艇に全部積込みたるを以て之を御届け申す事かなはずせめてものと存じ君在りし日、君の起居せられたる宿舎の君の草花を作られたる附近の白石を御遺骨として御届け申すべく拙宅に安置致し居り候、近く御宅に御届けすべく心得候へ共確定なるや否や判らざりし為御遠慮致仕候
《p39右》
甚だ要を得ず乱筆を以て申上候段何卒御悔容下さるべく御願申上候

御家族様方には何卒御力落しなく御暮しなさるべく御祈り御願仕候、内地帰還后の勲功絶大なるものあり殊勲者として上申致され候間茲にお知らせ申上候

二月十七日   元球一六七七九部隊皆本隊長 皆本義博
中島幸太郎殿

(このあと渡嘉敷島から北周りで那覇に行く航路図が書かれている)



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