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台湾日日新報「日英博の生蕃館」

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台湾日日新報「日英博の生蕃館」



目次

1.『蕃公』という言葉


「記事」こそ歴史そのもの
2009年6月19日付けの永山英樹さんブログ
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-792.html
に資料として「台湾日日新報」記事画像(上)(下)が掲載されています。


永山さんは何も言及していませんが、この99年前の新聞記事には、とても不思議な言葉があります。『蕃公』という言葉です。

この『‥公』は、『エテ公』『ワン公』『ポリ公』『ズベ公』とかと同じ使い方でしょうか? それとも、『信長公』『秀吉公』『家康公』と同じ使い方でしょうか? 『蕃公』とは一体誰のことを指すのでしょうか?

この一文は、筆者である田原天南が、引率監督者である石川警部補あるいは板倉巡査から話を聞いて記したものでしょう。だとすれば、『蕃公』とは彼ら監督者(警察官や軍人)が日本人同士の会話では普段から使っていた言葉だったのではないかと思います。(「台湾日日新報」の他のいくつかの記事にも『蕃公』という言葉が使われています。)

蕃ころ餅
歩兵第8中隊松山小隊は最先発の隊なり 其のバゴン付近に前進するやバゴン社の蕃屋を焼棄し、此地一帯の察備に任じ、尚一小隊をして同地に駐屯せり、一日、残余の蕃屋を捜索して臼と杵を得、更らに蕃公の貯蔵せる粟を得たり、即ち之を以て粟餅を搗き隊中に饗ひ、号して蕃ころ餅という。
(台湾日日新報1910年7月13日「戦袍余塵」より)

隠語として中国人を「チャンころ」と呼んだように、台湾原住民を「バンころ」と呼んでいたという証言もあります。早乙女勝元さんは、小学校で教師から「蕃コロの蕃は野蛮の蛮と同じ」だとして、『蕃コロ』という言葉を教わったそうです。(「台湾からの手紙」より)

チャンネル桜が報じた元台北一中生徒の証言によれば、皇民化運動のころ、
一等国民は内地人、二等は琉球人、三等は台湾人、四等は朝鮮人、五等は高砂族、と言われていたそうです。(なお高砂族という言い方は1935年以降のものです)

というわけで、「台湾日日新報」記事は、1910年(明治43年)当時の台湾日本人の台湾原住民に対する「人種感覚」を映し出した、貴重な歴史資料ではないかと思った次第です。

永山氏掲載の画像では読めない文字が沢山有りましたので、図書館に日参し、明治43年(1910年)7~9月の「台湾日日新報」をマイクロフィルムでめくって見ました。新聞は日刊で6ページ建てです。「日英博の生蕃館」、記事全文を読むことにしました。



2.NHKによる最初の紹介


なお、この記事を資料として紹介した初出は、NHKの「説明」です。
シリーズJAPANデビュー 「アジアの“一等国”」に関しての説明
http://www.nhk.or.jp/japan/asia/index.html
日本政府の公式報告書「日英博覧会事務局事務報告」によれば、会場内でパイワンの人びとが暮した場所は「台湾土人村」と名付けられています。「台湾日日新報」には次のように記されています。「台湾村の配置は、『台湾生蕃監督事務所』を中心に、12の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前11時から午後10時20分まで、ずっと座っている。観客は6ペンスを払って、村を観覧することができる」。
それを読んだ永山さんが、記事の画像を収集したものと思われます。
おそらくNHKの番組ディレクターは、博覧会に出演したパイワン族遺族へのインタビューは、この資料を元に行なったのではないでしょうか。



3.台湾日日新報とは


神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ情報より
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/snlist/510l.html
明治31(1898)年5月、「台湾新聞」「台湾日報」の2紙を合併して、台北に創刊された。合併は台湾総督府の主導によるもので、以後は総督府の機関紙的存在となり、総督府の府報などを附録としていた。漢族系住民への広報のために中国文ページが設けられていた。台湾では最大の部数を持つ新聞であった。

昭和19(1944)年4月、島内の日刊紙が統合され「台湾新報」となった。終戦後は漢族系スタッフが発行を継続し、「台湾新生報」に継承された。

台湾日日新報とは台湾植民地史を調べる上では基本資料のようです。なお残念ながら上記アーカイブには。1910年のものはありません。



4.筆者と時代背景

この記事は、ロンドンで明治43年(1910年)の8月の終りか9月初めに書かれ、およそ1ヵ月後の9月の終わりに掲載されたものです。筆者の「田原生」とは、田原天南という人だと思われます。台湾日日新報の同年7月1日より「渡欧記」を連載しその一環としてこの記事を書いたものと思われます。また同紙には「天南生」としても数々寄稿しています。

  • (2010.6.2追記)田原天南をとてもよく知る方からメールを戴きました。田原天南は台湾日日新報への寄稿家ではなくて、台湾日日新報編集長だったそうです。
    また、この連載の(5)以降で、私が天南さんを「日南」と度々誤記していたことも御指摘いただきました。関係者の皆さん、読者の皆さんに深くお詫びするとともに、謹んで訂正させていただきます。

    なお、田原天南のbiographyとしては、子孫にあたる方のサイトがあります。徳富蘇峰にあてた自筆葉書など貴重な資料も紹介されています。
    ■明治~大正 国際ジャーナリストの先覚者
    気骨の言論人 天南こと田原禎次郎について
    http://homepage2.nifty.com/tahara~d-c/teijiro.html

田原天南は、おそらく引率監督者である石川警部補あるいは板倉巡査から話を聞いて、この一文を記したものと思われます。

明治43年その年の台湾日日新報を散見しましたら、基隆からパイワン族一行が船出した2月には駐日英国大使が台湾を訪れ、紙面は日英博覧会の前景気を盛り上げていました。

7月から9月にかけて紙面の多くを割いて報じていたものは「討蕃隊情報」です。台湾北部の宜蘭、新竹方面で、軍を大動員しての先住民を討伐するための戦争が起きていました。連日、特派員による前線報告、戦闘武勇伝、討蕃隊慰問、戦死者追悼、義捐金の募金、などが掲載されています。領台後15年たった1910年においても、台湾地元の新聞では「討蕃戦」が主要な話題だったことが分かります。また8月の終わりから9月の始めにかけては「日韓併合」の特集もあります。

そうした時期に日英博覧会は開かれました。台湾在住の日本人は「生蕃」の二面を見つめていたことになります。一面は、戦う相手としての鬼が島の鬼としての「生蕃」。そしてもう一面は、従順で模範的なロンドンに派遣された「生蕃」。憎っくき敵としての「蕃公」とお国の為に働く「蕃公」、この2つの「蕃公」に好奇のまなざしを送っていたというわけです。

田原天南は新聞読者の立場から、監督者から聞き出し、ロンドンにおけるパイワン族青年達のありさまを記事にまとめました。文章には、無事勤めを果たしつつある監督者の安堵の心持が反映されています。パイワン族青年達を過酷に扱うどころか腫れ物に触るような気遣いすら感じられます。

しかし、パイワン族青年達の英国博での役割は、植民地原住民の生活のありさまを見せる「人間の展示」であることに変りはありません。

田原天南の文章を読んで、「ほら、パイワン人を手厚く扱ってやったじゃないか」と、植民地宗主国目線で胸をそびやかす人たちには驚きます。もう99年も経っているのに。また、この文章が「人間動物園でなかった証拠」だというにいたっては、牽強付会だといわざるをえません。
wikipedia「人間動物園」参照)



5.日英博覧会とその準備


 日英博覧会(にちえいはくらんかい)はイギリスのロンドン市ホワイトシティ区※で、1910年5月14日から10月29日まで行われた大日本帝国と大英帝国共催の国際博覧会である。日本にとっては、日露戦争の勝利の結果、欧米の列強と肩を並べたと自負する植民地経営について誇り、また英国との通商の活性化を狙ったものである。開催期間の合計で835万人の観客が訪れ成功を収めた。(wikipedia「日英博覧会 (1910年)」)
※ホワイトシティ区という固有名詞なのか、ホワイトシティ地区という一般名称なのかは不明)

準備段階については、『日英博覧会事務局事務報告』参照のこと。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2056.html


6.日英博の生蕃館(上)

(筆者)田原生
台湾日日新報(明治43年9月29日)

6-1.▲衛生状態は佳良


(記事内容は、これ=永山氏掲載の画像では読めない文字が沢山有りましたので、図書館に日参し「台湾日日新報」マイクロフィルムから読み取ってきたものです。)

▲衛生状態は佳良  日英博の台湾生蕃館は日本喫茶店の隣で一種の異彩を放つて居るが男女計二十四名(男二十一名女三名)孰(いづ)れも阿緱庁下のパイワン族、頭目はチュヂュイ、カロワンとテボ、ガロンガイの二人で石川警部補板倉巡査の監督の下に温順(おとな)しくして居る 本年二月六日基隆発四月十五日倫敦著、航海は長く気候は変るから衛生状態はどうかと監督者も大いに痛心したが船中でマラリア続出、其中の一人の如きは重態にもなろうとしたが幸に快復して其後一人の病人もない 食物は粟と米と薩摩芋、酒類はウイスキーを夜間寝しなにやる酒量は適宜だが土曜と日曜には多く与える 朝は六時起床、湯を便(つか)はせる一時間遊戯をさせ八時に朝飯(ちょうはん)、十二時半は午飯(ごはん)、午後七時に夜食十時二十分銘々の小屋に帰り就寝である 近頃は健康の為にもと一日四回生蕃踊をやらして居るが台湾に居る時と同様に頑健で寧ろ体重が増加したとは結構である。

田原天南の文章は、曲がりくねってなくてとても解りやすいものです。パイワン族の男女二十四名が男二十一名女三名だったとは知りませんでした。NHKが番組で引用した写真には男子12名が写っていたので、女子も12名だと勝手に思い込んでいました。

船中でマラリア続出とはこれもまた驚きました。またパイワン族の生活には酒が必須だったというのも興味深いものです。

そして、この項で見逃せないポイントは、
「近頃は健康の為にもと一日四回生蕃踊をやらして居るが」
という記述です。パイワン族は民族舞踊を見せにロンドンに行ったのであって断じて「人間動物園」なんかではない、と強く主張する人が居ますが、どうやらそれは「人間動物園」を否定したいための、事実に基づかない想像の産物だったようです。生蕃踊は、日英博出演の目的としての当初からの演目ではなく、途中から付け加えられた演目だったようです。


6-2.▲もう台湾に帰りたい


▲もう台湾に帰りたい  台湾を連れ出すとき遠い英国へ行くのであるとは明示したさうだが彼らも斯んなに遠いとは想わなかったであらう何しろ二月十八日基隆発二十一日門司著四月十五日倫敦著で都合ニ個月掛かったから彼らも大いに退屈したのである 何程(いくら)遠くても一週間ぐらいと思って居たに余りだと監督者に屡(しばしば)愚痴を飜(こぼ)したさうである 又た著英以来もう四個月、たヾ生蕃小屋の中に篭城して山野を跋渉する事が出来ないから彼等はもう飽きが来て台湾の山が断然より善い早く帰りたいと度々監督官に迫る 監督官は真面目になって台湾の方へ電話を掛けたら折角行つて居ながら約束の半途で帰るなど意気地のない奴らだと話し 満期まで居て倫敦の土産を沢山持って来いという返事が来たからまだまだ帰っては否(い)けないと説諭して居るが 昨今は大いに冷気になって来たから蕃公も之には閉口して居るそうである

チャンネル桜による台湾インタビューの中に、「不平不満があったらとっくに台湾に帰っていただろう。途中で帰ってこなかったのは満足していた証拠だよ」といった内容が有りましたが、どうやらそれは、その人の憶測に過ぎなかったようです。

「早く帰りたいと度々監督官に迫る 監督官は真面目になって台湾の方へ電話を掛けたら折角行つて居ながら約束の半途で帰るなど意気地のない奴らだと話し・・・」
台湾まで電話をかけなければならないほど、大きな悶着があったというのが事実のようです。

引率監督者である警部補と巡査は大変な気遣いをしていたようですね。田原天南の文章にその苦労談が反映しています。

「昨今は大いに冷気になって来たから蕃公も之には閉口して居るそうである・・・」
同じことが6月に書かれた長谷川如是閑の「欧米遊覧記」にも記されています。如是閑は台湾とロンドンの気温の差を考慮しない住居の不備を指摘しています。


6-3.▲生蕃館内の有様



▲生蕃館内の有様  生蕃館内の面積は千坪もあろう一寸廣い四辺壁を以つて繞(めぐ)らし処々に小高い異様の蕃屋が突つ立てヽ居る。『台湾生蕃監督事務所』を中心に其の周囲に蕃屋が十二戸、蕃人自身が建てたのは二戸ある ニ十四名は二人宛(づつ)此中に配置され各々盛装を凝らして午前十一時から午後十時二十分迄定まった小屋に居る 一物が見えては不都合とあって男は猿股を穿き中々ハイかつてる 入場料は六片(ペンス)で(会場内の興行物は残らず六片である)。人種学に趣味を有つてる者や又好奇心に駆られた者は続々見に来る 生蕃は此等の者に自分の写真を刷った絵ハガキを売る 珍しがつて買うて帰る者もある 入場者中厄介な者は生蕃の生命より大切な鉄砲をひねくりまはすので蕃公大いに立腹する又どういう心でか弾薬を持って来てくれた者がゐる 又弾丸になるべき鉛棒抔(など)を与へる 監督者がやっと説諭して取り上げたさうである。

この項が、NHKが「説明」で紹介した個所です。「ハイかっている」というのは当時の流行語なのか「ハイカラぶっている」の短縮なのでしょうか(笑)。
「一物が見えては不都合とあって男は猿股を穿き中々ハイかつてる・・・」
この一文を読めば、披露は盛装をしての民族舞踊に過ぎないかのようにいう安倍晋三さんらの説 も、ご都合主義っだったといえましょう。

人種学に趣味を有つてる者や又好奇心に駆られた者は続々見に来る
まさにこれが「人間動物園」の趣旨そのものです。




6-4.▲蕃公の感じた事ども


▲蕃公の感じた事ども  洋行の蕃公観が中中面白い 印度のコロンボで黒奴(くろんぼ)が手づかみで食って居るのを見て我々よりも下等人間だと笑つたさうだ 著場して白聖市(ホワイトシティー)と称せらるヽ日英博の立派なのに吃驚(びつくり)した 又便所の水が紐を引くと上からごぼごぼと落ちるのに驚ろきどうして水が始終上の方にあるかと不審した 又西洋婦人が子供を携帯し来る者の少ないのに疑惑を生じた(此点は我々も同感 小児の携帯者稀れにて女子の入場者七八分なり)又西洋人が男女手を組んで歩行するのを見て不都合だと憤慨した

『蕃公』という言葉が使われています。「洋行の蕃公観」とは現代の言い方では「蕃公の洋行観」でしょう。どうやら、「○○のくせに気の利いたことをいう」という按配の、誉め言葉として『蕃公』という言葉を使ったようです。それはおそらく監督者の話の中にあって、それを聞いた田原天南がそのまま用いたのではないでしょうか?

『蕃公』という呼び方が、日本人同士の日本語における蔑称であることを、パイワン族の青年達が知っていたかどうかは不明です。


6-5.▲英語が上手、ハイカラ蕃公


▲英語が上手、ハイカラ蕃公  北海道のアイヌよりも生蕃は活発で物覚えが善い いつの間にか英語を覚えてサンキューとかモーニング何んとかやる 日本語より英語が覚え易いとは彼等の自慢である、追々ハイカラとなって裸足と裸体は恥かしい 西洋人には一人も裸足と裸体はないと感心して居るヂヤラン、タヂャカルと云ふは蕃婦中の美人であるが是は年齢十八歳で外国婦人の真似をしたがり靴下を買って呉れ靴を買って呉れと監督者に迫るさうである

これも、「『蕃公』のくせに『ハイカラ』」という趣旨のようです。2つの反対概念を結びつけて一つのキャッチコピーとするのは、大宅壮一さんが得意でした。100年前の文筆家もそうした手法を好んだのですね。


7.日英博の生蕃館(下)

(筆者)田原生
台湾日日新報(明治43年9月30日)

7-1.▲蕃公一代の光栄


▲蕃公一代の光栄  生蕃館は日英博余興中の呼物の一で毎日多くの外国人に接して居るが八月六日は彼等一代の面目を施した日である 即ち英国皇帝皇后の両陛下が御来観自働車二台に分乗せられ生蕃館脇にて停車 蕃婦三人を御前に召して十分間程色々と御観察あり 又生蕃一同を撮影せしめられた 我台湾の警部さんでさへ蕃社に来るときは多くの護衛抔(など)を連れて来るのに英国皇帝ともあろう高貴のお方が護衛なしにニ三の侍従のみを従えさせられ自働車で来られた質素には彼等も驚いて英国の天子様ではあるまい似而非(にせ)だろう抔(など)と語り合つたさうだ 

これも、『生蕃には似つかわぬ栄誉』という切り口です。パイワン族の三人の女性はおそらく英国の国王皇后がこの日から大好きになったでしょうね。田原天南はなぜ、当人の女性達にインタビューしなかったのでしょうか? これも伝聞型の文体です。


7-2.▲蕃公の戀物語


▲蕃公の戀物語  男女二十四人であるから万一淫猥なことでもあってはと監督者は船中でも著英後も大いに監督を厳(おごそか)にして居たが蕃婦中のルジガヂク、ルガヨと云ふ二十四歳の婦人が近頃不機嫌で足が腫れ出したから医者に見せるとどうも妊娠らしいといふので監督者が厳重に聞き質すと豈に図らんや一場の恋物語があって蕃婦が嬌恥を含んで白状に及んだ其の色男はチャピバイ、プッアベリと云ふ 是の不加減な蕃婦に対し人知れず懇(ねんご)ろに慰問したり汚れ物を始末したりして厚い情を掛けて居る蕃公で著英以来もまだほの暗い暁方に危うい恋の桟道を辿つたことまで明白となったので不義は蕃社の法度とあって厳重な処分に逢ふべきであるが猶ほ篤くと調べ 又彼等友人男女の友人抔(など)に聞いてみると此の二人は去る二月中蕃社で既に婚約成り結婚式を挙ぐる筈であつたが俄に渡英する事となり結婚中止となりしも婚約後一二回情を通じたので忽ち妊娠しもう九個月になったので別段密通野合したのでない立派なエンゲージである事が判然し監督者も一安心した。

これもまた、『生蕃には似つかわぬ一丁前の恋物語』という切り口です。しかし、その内容は新派の悲恋劇のように感動的です。ロンドン派遣が、本人達の婚約や結婚の予定を度外視して行なわれた一大事であった事がわかります。

7-3.▲倫敦で芽出度結婚式



▲倫敦で芽出度結婚式  さて婚約が出来て居たものにしても未だ結婚式を挙げないのであるから生蕃館で此の二人を同居させる訳には行かない 追々と身重になるに付き親身に世話する者がなくては困る 又他の生蕃が結婚式をやって馳走しろと迫るので傍々(かたがた)九月三日午後四時弥々(いよいよ)蕃社式によって結婚式を挙行する事とした 博覧会シンジケートよりは生豚と酒類とを寄附する筈で式後各生蕃盛装して博覧会内を一周するさうである 此前代未聞の生蕃結婚式が大なる呼物となって目下倫敦市中の評判取々である(尤もシンジケートから新聞に広告して居る) 当日は此の蕃公の結婚式を見んが為博覧会は定めて大入大繁昌であらう 僕は今(こん)一日から北英地方を旅行するので此の盛式を見ることが出来ないのは甚だ遺憾である 聞けば蕃婦の出産は本月三十日前後の筈で倫敦で生まれた蕃公こそ果報者である 

そういえば、チャンネル桜の華阿財さんインタビューの中に、「ロンドンでは結婚式もやった」という話がありましたが、大元の出典はおそらくこの文章だったのですね。しかし、二人の結婚式も集客に利用されたということまでは伝わってなかったようです。

参考
台湾人の結婚式 The Times, 5 Sep 1910.

7-4.▲見世物とされたは不感服


▲見世物とされたは不感服  此の日英博には「小日本」と云う日本の各種職業を網羅した一部落がある 又「宇治村」と云う農業者から成り立った一部落があって共に六片(ペンス)の入場料で見世物に成って居る生蕃館もアイヌ館も同様一(ひとつ)の見世物に過ぎない キラルヒーなる博覧会代表者の欲深い猶太(ユダヤ)人が此等のものを呼物として博覧会を繁昌させる手段に供せられたので我々はこの仕打ちに甚だ不感服であるが今更ら後悔しても取り返ヘしの付く話ではないから泣寝入の外はない 尤も「愛蘭(アイルランド)村」もあって愛蘭人も見世物になって居るではないかという人もゐるが此の愛蘭村は個人らの興行物に過ぎない寄席や芝居と性質を同じくして居る 苟(いやしく)も堂々たる官吏が監督者となって英国まで見世物にされて居るのは余り善い心持はしない 是も日英博覧会の性質を誤解した結果と思う 然し生蕃は一日二志(シルリング)(我が一円)宛(づつ)の日当で旅費食料はシンジケート持、外に絵葉書抔(など)の収入もあり倫敦(ロンドン)まで見物が出来るのであるから大きに仕合であろう

この項については、永山英樹さんは部分引用した上で次のようにいってます。
「そもそもこれら博覧会の見世物は英国側のシンジケートが企画したもの。それによってパイワン族だけではなく日本人も、見世物にされていたのだ。」
しかし永山さんはなぜ、
「甚だ不感服であるが今更ら後悔しても取り返ヘしの付く話ではないから泣寝入の外はない」
のか、説明をしないのでしょうか。

大高未貴女史ならこんなとき、
「おかしいですよねえ! なぜ泣き寝入りなんかしたんでしょうかね?」
と、つっこみを入れるはずです。

代わりに私が説明すれば、このシンジケートに「日本余興」の企画実施の全てを委託したのは日本政府だからです。当初、英国側から企画運営は日本が自ら行なうべきだと薦められたものの、博覧会の集客のノウハウの無さを理由にシンジケートに全面的に委ねたのです
(『日英博覧会事務局事務報告 第17章 日本余興』)。それゆえに「泣き寝入りの外なかった」のです。永山英樹さんは、そのことをスッポンポンにお忘れのようです。

「NHKは、『英国人は日本人とパイワン族を騙し人間動物園を開いた』と訂正放送を行うべきなのだ。」
などとは決していえないのです。『英国人と日本政府は、パイワン族を騙し人間動物園を開いた』というなら、間違いではありません。

田原天南が書いた「大きに仕合であろう」を日本人の恩寵の深さのように自我自賛するのも、みっともない日本人の島国根性といえましょう。一日二シリングづつの日当を支給したのは、日本政府ではなくて、永山氏が唾棄する英国人シンジケートだったのですから。非難するなら、そこんところも併せて非難しなくてはなりません。


なお、この項の原文の趣旨は、
日本人の「村」を、生蕃館やアイヌ館と同様に扱ってケシカラン、不感服だが泣き寝入りせざるを得ない、それに対して生蕃は未分不相応な大金を得て大きに仕合であろう
ということだと思います。

永山英樹さんは、「文献を読むとNHKとは逆のことが書いてある」という主旨を、チャンネル桜の番組で力説しています。しかし文献には、永山さんの解釈とは逆のことが書いてあります。永山さんとNHKのどちらの主張が正しいのでしょうね。


追記

2009年6月19日付けの永山英樹さんブログでは 

此の日英博には「小日本」と云う日本の各種職業を網羅した一部落がある。又「宇治村」と云う農業者から成り立った一部落があって、共に六片(※ペンス)の入場料で見世物に成って居る。生蕃館もアイヌ館も同様、一つの見世物に過ぎない。
このように記事を引用していますが、永山さんが勝手に「、」「。」を付けたために、誤読する人もいるでしょう。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-792.html

原文はこうです。
此の日英博には「小日本」と云う日本の各種職業を網羅した一部落がある又「宇治村」と云う農業者から成り立った一部落があって共に六片(ペンス)の入場料で見世物に成って居る生蕃館もアイヌ館も同様一つの見世物に過ぎない
文中の「一の見世物に過ぎない」(ひとつの見世物に過ぎない)の主語は、「生蕃館もアイヌ館も」ではありません。主語は「小日本」と「宇治村」です。

「生蕃館もアイヌ館も同様」とは、現代風に書けば「生蕃館ともアイヌ館とも同様に」という意味です。つまり、
「小日本」や「宇治村」は、生蕃館ともアイヌ館とも同様に一つの見世物に過ぎない。
と筆者は言ってるのです。

「生蕃館やアイヌ館と一緒くたにして日本人までも見世物にした」ことを不感服と表現したのであって、生蕃館やアイヌ館を見世物にしたことを非難した文章ではありません。(この記事の大半で、「生蕃館」という催しへの批判が一切ないことからも解ります。)


7/2訂正 「一志」→「二志」

8.パイワン族出場者の帰台


帰台は明治44年の1月と思われます。「日英博覧会事務局事務報告 第17章 日本余興」によれば、パイワン族出演者は閉幕日当日直ぐ出帆、帰国せしめた、とあります。

「閉会後余興従業者ノ後始末ニ付テハ従来ノ海外博覧会ニ於ケル弊ニ鑑ミ我事務局ハ日本余興者ノ全部ヲニ回ニ分チ第一回ハ製作実演職工ノ一部及アイヌ生蕃ノ全部ヲ閉会当日出帆ノ便船ニテ直ニ帰国セシメ残余ノ者ヲハ十一月十二日出帆ノ汽船ニテ帰国セシメタリ」

なお台湾を出て帰るまで1年半掛かったという説がありますが、ロンドンから台湾までの帰路が7ヶ月以上掛かったことになりますから、それは何かの間違いでしょう。

日本政府はその後、「人間動物園」的な博覧会展示を止めたでしょうか? 史実はそうではないようです。

国内での人間の展示は続き、1912年の東京上野での拓殖博覧会[26]では、「オロッコ、ギリヤック、樺太アイヌ、北海道アイヌ、台湾土人、台湾蕃人の諸種族男女長幼総数18人」が会期中に自分たちの伝統的住居をつくり、そこで寝泊まりした。 1914年の東京大正博覧会では、これまでの博覧会同様にアイヌや台湾人と同時に、南洋諸島や東南アジアのベンガリ人・クリン人・マレー人・ジャワ人・サカイ人を集めた南洋館が作られた。博覧会主催者が配った冊子によれば、これらの人々は食人種と紹介され、鰐や大蛇、象などの展示に混じって生活の展示をさせられたという。[27][28]

1916年の台湾勧業共進会では正規パビリオンの蕃俗館において、生人形や模型とともにツォウ族とタイヤル族の伝統的住居(蕃屋と称された)が作られ、また民間人がフィリピン人の農家を建てフィリピン人を住ませて生活の展示を行った。さらに1935年、台湾博覧会においても、会場内にタイヤル族の蕃屋が立てられ、男女が寝泊まりし日常生活を晒した。
wikipedia『人間動物園』 より)



解読お知恵拝借


  • お疲れさまです。 神戸大学のデジタルアーカイブに一部あるようですね。 現在は落ちていて利用できませんが、復旧したら当該の記事も読めるやもしれません -- (kulukulu) 2009-06-21 16:08:15
  • kulukuluさん情報ありがとうございました。 ようやくアクセスできました。 残念ながらアーカイブには1910年のものは無いようです。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/snlist/510l.html -- (ni0615) 2009-06-21 19:29:36



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