日清・日台戦争戦没者数



(1)『日本軍事史』

http://d.hatena.ne.jp/higeta/
日本軍の死者の数も9600人(うち病死7600人)と、下関条約締結までの戦没者8400人(うち病死7200人)を上回った戦闘であった(高橋典幸ほか『日本軍事史』吉川弘文館、2006、326頁)。


(2)靖国神社戦争別合祀者数

http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM
日 清 戦 争     13,619
台 湾 征 討     1,130
※この「台湾征討」が指すものは何か?

●1895.12.17 戦死者、戦傷死者を合祀する臨時大祭
●1898.9.30 戦病死者を合祀する臨時大祭


(3)日清・日露戦争死傷者数、直接戦費等

http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM
日清戦争(明治27年8月~28年4月) ※この「期間」は引用者の不注意と思われます
   (1) 人  員
     戦死・戦傷死    1,567名   
     病   死    12,081名   
     変   死     176名   
       計      13,824名


(4)wikipedia日清戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.8F.B0.E6.B9.BE.E5.BE.81.E6.9C.8D.E6.88.A6.E4.BA.89.28.E4.B9.99.E6.9C.AA.E6.88.A6.E4.BA.89.29
損害
戦死 1,417
病死 11,894人
負傷 3,973
(右蘭)

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-nissin3.html
戦死戦病死 1417名
病死 11894名
変死 177名
計 13488名


(5)台湾征服戦争(乙未戦争)


この平定戦での動員兵力5万のうち戦死者は日本軍164人であるが、マラリア等による病死者は近衛師団長北白川宮能久親王はじめ4642人にのぼり、中国側兵士、住民およそ1万4千人の死者を出して終了した。[19]        
19 ^ 原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書  ISBN 978-4-00-431044-0 隅谷三喜雄「大日本帝国の試練」中央文庫「日本の歴史」22 ISBN 4-12-200131-5



(6)「台湾の歴史 日台交渉の三百年」

殷 允芃, 丸山 勝 (翻訳) 藤原書店 p285

伊能嘉矩は、日本軍上陸から全島制圧までの五か月間に台湾総督府に報告された台湾人の犠牲者少なくとも一万人に対し、日本軍の死者はわずか二百七十八人であり、「日本兵一人に台湾人五十人ほどが殉葬させられたことになる」としている。



(7)藤村道生「日清戦争」


藤村道生「日清戦争」岩波新書183ページ

表『日清戦争における損害』
死亡者
  1894.7.25-95.5.30 1895.5.31-11.30 合計
戦死 736 396 1,132
傷死 228 57 285
病死 1,658 10,236 11,894
変死 23 152 177
合計 2,647 10,841 13,488

服役免除者
  合計
傷病 1,584
疾病 2,174
刑罰 36
合計 3,794

184ページ
日本の動員した全兵力は24万0616名でほかに軍夫15万4000名を使役した。海外に派遣した軍隊は17万4017名で、常備兵力の1.7倍であった。10年後の日露戦争時の動員兵力108万8996名ににくらべれば、日清戦争の動員兵力は約5分の1で、実際の戦闘には戦列隊があたり、未教育兵を招集する必要は無かった。講和直後の5月30日までの日本軍の損害は、2647名であり(「日本」1895年7月5日)、戦争の全期間(1894年7月25日~翌95年11月30日)の1万3488名の約2割にすぎなかった。

なお
図書館で調べてみましたら、岩波新書の藤村道生さんの『日清戦争』1973では、 陣没者数4,642人 とされています(p200)。それに対し原田敬一さんの『日清・日露戦争』2007(p101)では、「台湾征服戦争」における日本の戦死者が164人、 戦病死者4,642人 とされています。同じ数字の意味が、「陣没者」から「戦病死者」へと変わっています。「陣没者」とは、「戦争で死んだ人」の意であって「陣地で死んだ人」ではありません。

藤村『日清戦争』1973(p200)

原田『日清・日露戦争』2007(p101)

(8)参謀本部「明治二十七八年日清戦史」

国会図書館近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.htmlから検索

[第7冊]第8巻

減耗人員階級別一覧表


付録第120
減耗人員階級別一覧表
死亡 服役免除 合計
階級 戦死 傷死 病死 変死 計  傷痰  疾病  刑罰  計 
軍人 将官    1 4 5 5
上長官 3 1 23 1 28 1 1 2 30
士官 34 12 131 7 184 13 5 1 19 203
准士官 7 17 1 25 3 2 5 30
下士 119 25 655 17 816 128 111 5 244 1060
兵卒 953 246 10757 150 12106 1439 2056 29 3524 15630
1116 285 11587 176 13164 1584 2174 36 3794 16958
軍属 奏任文官 3 3 3
判任文官 15 1 16 16
雇員 16 98 114 114
傭人 191 191 191
16 307 1 324 324
總計 1132 285 11894 177 13488 1584 2174 36 3794 17282
一、本表の人員は本戦役に関し明治27年7月25日より翌28年11月18日(内地服務者は5月13日)までの間に於て死亡し又は服務免除と為りたる者及同期間内に於ける傷痰(しょうたん)疾病に原因し該期間後三個年即ち明治31年11月18日(内地服務者を除く)までに死亡し又は服務免除と為りたる者とす
○戦死、傷死中には戦闘中にあらざるも敵の為に殺害せられまたは負傷療養中死亡せし者等をも含有す又変死は自殺若くは汽車転覆等に因り非命に死したる者とす
○服役免除は将校は退役、下士兵卒は服役(常備後備とも)及永久兵役を免除したるものとす刑罰は将校は剥官、下士兵卒は重罪の刑に処せられたる者なり
○雇員は下士以上の要員に充てたる者傭人は看病人磨工とす
○本表人員の外に減耗せし者若干あるも材料不完全なるに依り之を除きたり
○生死未詳なるも戦死若くは病死と認定せるものは各々其項に合算せり

●原文はカタカナ。「傷痰」「磨工」は字形読み取り要確認。
●上表はおそらく「軍夫」を含まず


減耗人員師団別一覧表


付録第120
減耗人員階級別一覧表
死亡 服役免除 合計
      戦死 傷死 病死 変死 計  傷痰  疾病  刑罰  計 
近衛師団 198 35 2093 19 2345 106 193 1 300 2645
第一師団 174 69 834 4 1081 481 492 5 978 2059
第二師団 121 13 2670 19 2823 96 148 8 252 3075
第三師団 270 82 1043 34 1429 424 287 9 720 2149
第四師団 1469 11 1480 14 219 5 238 1718
第五師団 311 71 1612 66 2060 355 389 4 748 2808
第六師団 45 13 1317 12 1387 96 424 3 523 1910
臨時特設
部隊
11 2 717 10 739 12 21 1 34 774
常設部隊
及官衙
2 139 2 143 1 1 144
總計 1132 285 11894 177 13487 1584 2174 36 3794 17282
一、戦地派遣の憲兵科将校下士兵卒の減耗は其所属不明なるを以て憲兵司令部の区画に合算せり

  • (引用者注)
    ○ 朝鮮に最初に派兵された混成旅団の編成は、歩兵11連隊と歩兵21連隊。第1軍編成とともに歩兵第九旅団となり第五師団の隷下。 
    ○ 第1軍の編成は、第三師団と第五師団。 
    ○ 第2軍の編成は、第一師団、 第二師団、 混成第十二旅団(第六師団内)。威海衛攻略戦のとき残りの第六師団が参入。 
    ○ 近衛師団と第四師団は、4月講和条約調印直前の征清大総督府設立時に旅順へ派兵。 
    ○ 台湾征討には、最初近衛師団が上陸、後に遼東半島にいた第二師団より混成第四旅団を抽出増派、さらに後備歩兵第一旅団(第二師団残部か?)、第四師団の後備歩兵28個中隊、ほか臼砲隊、工兵隊、要塞砲兵隊、憲兵隊などの部隊も投入。

●損耗総数 17282人は、減耗人員階級別一覧表と一致
●おそらく「軍夫」は含まず


戦闘ごとの「死傷表」


参謀本部篇「明治二十七八年日清戦史」1~6巻の付録には、戦、闘詳報に基づくものでしょうか、弾薬兵器の損耗集計と併せて、各戦闘における「死傷表」が添えられています。

見落としがあるかと思いますが、以下です・






[第5冊]第6巻
第七篇 山東半島ノ作戦
第八篇 南清及直隷ニ対スル作戦
第九篇 平和克復
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351&VOL_NUM=00005&KOMA=250&ITYPE=0

これらの統計(A群とする)には、「戦病死者」も「戦傷死者」もありませんので、戦闘直後の報告に基づくものとおもわれます。それに対して前掲の第8巻付表120(B群)は、「戦病死者」「戦傷死者」「服役免除者」を3年後の明治31年11月18日をカウント規準としていますから、この統計は3年後に統計を取り直したものと解すべきです。したがって、単純にA群とB群に加減乗除をなすことは避けるべきかと思います。

2、ただし、A群からB群をどう導いたのか、数字の事後補正をどのように行ったのかの詳細がわかれば、それにしたがって両者の数字を対照することは可です。

3、ただしA群は、B群全体と対照するには反欠け状態です。「第8巻 第十篇 台湾ノ討伐」の付録には「死傷表」はありません(あるいは本文中にあるのかもしれませんが今のところ見つかりません)。